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NO.738               Ryo Onishi              7/3/2010  

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雑貨屋のひとり言

すごい雨で土砂崩れなどの被害がでています。被害に遭われた方は災難だと思っているでしょうし、遭わずに済んだ人はラッキーだと思っているかもしれません。でもこれって地球温暖化の影響で異常な雨が降っているのですから、人災といえるかもしれません。しかしまだまだ地球上のほとんどの人が、私を含めて深刻に考えて行動していないと思います。何からはじめたらいいのか、そろそろまじめに考えてみたいと思います。≪R.O≫

アメリカの弁護士(2)

 ――― 前号から続く ―――
私がはじめて日本企業から派遣されたアメリカ駐在員として当地ロサンゼルスへ赴任してすぐ、我々の会社の米人顧問弁護士(彼のオフィスはニューヨークにあった)がたまたま彼個人の所用でロサンゼルスを訪れました。プライベートな所用で来たとはいえ、我々の会社の顧問弁護士であるので、ロサンゼルス側としても一応彼に誠意を示そうということになり、着任早々の私が自己紹介と挨拶をかねてこの米人弁護士先生を昼食に招待しました。

彼を滞在先のホテルへ出迎えに行き、私の車でしかるべきレストランへ案内しました。初対面の顧問弁護士先生は終始ご機嫌よく私のブロークンな英語にも耳を傾けてくれ、話をあわせてくれました。そして私は無事、お役目をはたしたのでした。その時の食事代は当然のことながら招待した私(実際は我々の会社の経費)の負担でした。

さて、その月の末、この顧問弁護士先生から私のところに封書が届いたので開封してみたら何と請求書だったのです。「○月○日、ミスター河合に対する業務コンサルタント料、××時間、金△△$也」と記載されていたのです。それは私が彼を昼食に接待したときのもの(ホテルとレストラン往復時間も含む)なのです。

「なんでダ!! 私(当社)は善意と敬意から昼食にご招待申し上げ、彼を接待しただけだ。その上、こちらの依頼で当地に来てもらったわけでもなし、何でコンサルタント料を請求されねばならないんだ!」私は大いに困惑しました。早速、その請求書を握り締め、私のボス(社長)のところへ訴えに行きました。

私のボスは私と同じく日本から派遣された日本人でしたが、彼は私の訴えを聞くやこういいました。「ホウ、それで君はミスター☆☆(弁護士先生の名前)を昼食に連れ出したとき、“今日はお互い仕事ではなく、あくまでプライベートな食事としての時間です”とちゃんと相手に伝えただろうね。また、食事中いっさい会社の仕事について話題にしなかっただろうね」

わがボスにそこまで言われてみると、私は“プライベートな食事会”と念を押していなかったし、初対面の乏しい話題を補う意味で会社の業務について少しは話題にもしたことは否定できません。でもそれは相手がライバル関係者でなく、我々側の弁護士だったからで、私個人としてはコンサルタント料を請求されるような相談は断じてしませんでした。

私の説明と弁明に対し、わがボスいわく、「河合くん、そりゃあ君のほうが悪い。相手はうちの顧問弁護士だ。顧問弁護士がうちのマネジメントの一員たる君と時間を割いて話をしてくれたのだ。彼の拘束時間相当の費用は請求されてもこちらとして支払い拒否は出来ないよ。アメリカとはそういうところなのさ。我々日本人はこの種のプロフェッショナル費用を軽く見がちだが、こちらではそうはいかない。今度このようなことがあったら“業務でなくプライベートな食事会ですよ”と明確に念をおしてからにするんだな。また、仕事に関する話と誤解されかねない紛らわしい話題も慎むこと。今回のことはアメリカを知るための月謝と思って、会社の経費で支出してよろしい。」――― 着任早々のボスからの胸と心にしみる忠告でした。
        ――― 次号へ続く ―――
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「終(つい)の住まい」その2

氷山の一角”という言葉は、政治や社会の腐敗した状況・問題やその様子に使われることが多く、新聞・雑誌やテレビなどではそれが連鎖的にとりざたされる時がある。特に医療や介護の分野の事件・事故などがそうだ。しかし、その問題が、本当に氷山の一角なのか、いやむしろ日本の社会生活全体の問題なのかということを、認識・自覚している人は案外と少ないかもしれない。何をかくそう、私本人が全く意識していなかったから。決して社会問題や経済に疎かったわけでも、無関心、無感動、無力だったわけでもない。だが、今や敢えて言えば、無知と無経験という大きな失点が、身近に起こり得る事件への備えがなかったという結果になる。「終の住まいそのA」では、医療問題の入り口について数回にわたり呟いてみる。

2009年12月24日、携帯電話のバイブレーションが、いつもより激しく感じたのはその時だった。夕食の準備も済み、仕事で帰宅が遅れるという夫を待っていた私の携帯への、義父からの電話だった。既にその時刻は、義両親の普段の就寝時刻を過ぎていた。電話に出た私に、88歳になる父が最初に発した言葉は、「さくらさん!頭が真っ白だ。どうしていいかな、助けてくれ。教えてくれ」だった。その時の父によると、93歳の母は、実はこの2日間、41度を超す熱が続き、この数日近く食も水も口にしていなく、自分(義父)がmouth to mouth で水を飲ませたが、母の意識は半分もうろうとしているという。自律・自活していた両親が自慢の私たちに、激震が走る瞬間だった。両親の住む家から1時間の距離に居た私は、社に居る主人と直ぐに連絡をとり、私が駆けつけるより救急車でどこかの病院へまずいってもらうのが、リスク的にいいと判断し、父には救急車を手配してもらい、私たちが駆けつける間をお願した。

ところが、父の携帯電話からの連絡は、かなり早かった。もう病院へ着いたのかと思い、そのあまりの速さに、喜びと驚きで勢いよく電話に出ると、「救急車にのったけど、あれからもう随分時間がたっているんだけど、まだ病院を探してもらっているんだ。」という。よく、事情を聴いてみると、18年間通った行きつけの千葉西総合病院へ行きたいと言った両親の申し出を受け、“しいのき台救急隊”の方が病院へ連絡してくれたが、緊急患者対応のため受け入れできないと千葉西総合病院に拒否され、近隣の病院をもとめて数多く連絡を取ってくれているという。救急隊の方も私に話している父の携帯電話にかわって、詳細を丁寧に説明をしてくれたことが、何よりも救いだった。幾つもの病院に断られた末、結局、おおたかの森病院へと母は搬送された。私たちが到着した頃には、血液検査や心電図といった一般的な検査に加え、レントゲン、CT等の検査も終了、検査結果が出そろう頃だった。次々と運ばれてくる救急車の対応に追われる医師が、その合間をぬって説明に病室に来てくれた時、時計の針は既に12時を回っていた。検査を通じて分かったことは、過去の病気の痕跡だけで、高熱の原因となるものは不確定だといい、このまま帰宅させられる状況ではないので、数日入院して様子をみようということになった。この発熱の原因が解明されるまでに、1週間以上を要し、そして母がおおたかの森病院を退院できたのは、11日後の翌年1月3日だった。原因が明らかになり、今後の対応も方向がみえていたので、安心できる退院となった。解明された原因は次回に述べるとして、千葉西総合病院に受け入れを拒否された家族としては、病院の姿勢や対応について、大きな疑問と不信と怒りを抱かずにはいられなかった。そして何よりも、おおたかの森病院の入院中から退院までの毎日、18年間通院した千葉西総合病院から受け入れ拒否をされたことに、深い疑問を持ち続け、大変残念がった母が可哀そうでたまらなかった。

新聞・テレビなどで、救急施設病院として登録されているにも関わらず、受け入れ拒否により惜しくも命を失った産婦や高齢者の話を知らされる。しかし、聞くところによると、高齢者の不明熱の場合などの受け入れ拒否は日常茶飯事だといい、病院では患者を選択しているかのようでもある。納得できなかった私は、翌日、受け入れ拒否した千葉西総合病院へ電話し、説明を求めた。何度も質問の内容を確認され、周りに聞こえるような大きな声で話を復唱され、何度も保留され(誰かに指示をあおいでいる様子)、その挙句に言われたことは、「うちの病院は救急病院としての指定を受けている病院なので、受け入れを拒否はしません。また、昨晩は緊急処置が大変でお断りしたようなこともない」との一点張り。循環器系ではかなり一流だと聞いてはいたが、患者への対応は三流以下だと理解した。ただ、千葉西総合病院に今後も義両親がお世話になるのだと考えると、家族としてはそれ以上の言動は慎むべきだと思われ、渋々電話を切った。母の命に別条はなかったとしても、難病でなくても受け入れ拒否というのが、当たり前のように存在することを苦く悔しく知ったことになる。大きな事件・事故になってから報道にとりあげられる受け入れ拒否、それは本当に氷山の一角なのだと叫んでみたい・・・と、呟く、さくらの独り言。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

拾われて捨て犬やっといい眠り

イヌネコも味方につけた妻に負け

趣味の絵のそれネコですかトラですか

数万の目に鼻の差というドラマ

人間が忙しすぎる牛の視野


( ニュースやぶにらみ )

「対戦相手」
8野党、とDHの小沢 −菅トウシュ

「選挙戦」
2番じゃだめなんです −1人区候補

「なんとか開催」
のこったのこった −名古屋場所

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

森田さんから

今週は休みです。

龍翁余話

龍翁余話(137)「ミリンと一茶と新撰組」

大きな旅、小さな旅――旅はいい。人間、幾つになっても知らない場所や知らない事柄を知る、それはこの上もなく楽しいし嬉しいことだ。「え?こんな所があったのか」、「え?こんな歴史があったのか」に出会う度に、(この歳になるまで)知らなかったことの恥ずかしさや悔しさを伴うこともあるが、感動・感激がそれを超える。更に、聞きかじり、読みかじりの上っ面の知識が“観たり聴いたり試したり”で修正・確認された時、初めて自分の(本物の)知識になったような気分になれる。“尋ねる、は、一時(いっとき)の恥、知らぬは、生涯の損、故に、知るに時はなし”が翁の身上、(体力・気力が衰えぬ間は)友人知人の親切を借りて、これからも『龍翁余話』の貪欲な旅(取材)を続けたい。

「東京から、こんなに近い所に、こんなにいい街があったんだ」を思い知らされたのが、つい、先日のこと。千葉県流山市在住の翁の親友・熊坂さんご夫妻から「醤油の街・野田を散策しませんか?」のお誘いがあって、天に与えられた貴重な梅雨の晴れ間(少々、オーバー表現かな?でも、そう言いたくなるほど、梅雨時にしては珍しい湿度の低い、晴天に恵まれた日だった)、熊坂さんに教えられた通り東京・秋葉原駅から初めて“つくばエクスプレス”に乗り、約20分で南流山駅に到着。彼のお宅は流山市の中心地にあるのだが、翁の老体をいたわってくれて、南流山駅まで車で迎えに来てくれた。

流山市は千葉県北西部に位置し、東京都心からわずか25km、1950年代以降の住宅開発で現在16万人の県内10番目の住宅都市だが、かつては江戸川や利根運河を利用した水運業や宿場、酒や味醂(ミリン)で栄えた商業の町。南流山駅周辺は新興住宅街だが、根郷(ねごう=旧市内)に近づくにつれ、街並みに古めかしさ、つまり、歴史が感じられる雰囲気に変わる。いきなり、黒塀の大きな工場が目に飛び込む。かの有名な『万上(まんじょう)ミリン』(現・キッコーマン流山工場)だ。「20年くらい前までは、この一帯は“ミリンの香る街”でした」(熊坂さん談)。ここで“ミリンの歴史”を一節・・・  

話は前後するが、熊坂夫人(牧子さん)から、当日、青木更吉(流山市史編纂審議会委員)著『みりんの香る街・流山』という本を頂戴した。その本の中に「流山のミリンは堀切家(万上ミリン)と秋元家(天晴ミリン)によって興された」と記されている。年代はいずれも文化年間(1804〜1817)。明治6年(1873年)のウイーン万国博で両者ともに褒賞を受けたことで流山のミリンは全国的に有名になったが、翁が注目したのは、その前に――秋元家(5代目・秋元三左衛門、俳号・双樹)が小林一茶(江戸時代の俳諧師)と親交を重ねたこと(写真は一茶・双樹記念館)、また幕末、新撰組の近藤勇が流山に来て(会津へ向かうため?)陣を張ったこと。その場所は司馬遼太郎著『燃えよ剣』によると“長岡屋酒蔵”となっているが、もう1説“秋元醸造蔵”がある。どちらでもいいが翁、秋元家の末裔が、忠義の士・近藤勇を助けたと思いたい。
なお、近藤は陣屋を構えたが、官軍の圧倒的な勢力に押され、あっという間に降伏、自首した。「流山住民に迷惑をかけたくない」という美談が残されているが、事実は少し違う。しかし近藤ファンの翁、美談を信じることにする。そして、この陣屋が朋友・土方歳三との永遠の別れの場となる。

熊坂邸で小休止。熊坂さんのことは、これまでに何回か『龍翁余話』にご登場いただいたので、読者各位にはご記憶がおありだと思うが、お二人は共にオーストリア国立ウイーン芸術大学で学んだプロの音楽家。良雄さん(バリトン歌手)と翁はもう35年のお付き合いだし、夫人(牧子さん=ソプラノ歌手)とも親しくさせていただいている。 
常与寺 イメージ1

熊坂邸の裏手に『常与寺』という鎌倉時代(1326年)創建の古刹がある(写真左)。その境内に明治5年(1872年)設立の教育者養成機関(千葉大学文学部=旧・千葉師範学校)発祥の地の碑(写真中)が建っている。そう言えば、牧子さんのご両親も教育者だった。父上は国語教師、母上は音楽教師。父上はこの千葉師範学校のご卒業だそうだ。そして境内の隣には閻魔堂があり、そこに(流山出身の義賊)金子市之丞と遊女・三千歳の墓がある(写真右)が、翁、その義賊の話は知らない。

さて、3人は流山街道に出る。流山街道は松戸市から江戸川に沿って流山市を経て野田市に至る県道で、この一帯は流山の広小路地区。左右の古い家々が往時の繁栄を偲ばせる。突然、土蔵造り2階建て、黒漆喰(くろしっくい)造りの呉服屋『新川屋』が翁の目に止まる。牧子さんが早速、店内へ案内してくれる。主人(秋谷光昭さん)が顧客を応対していたが、牧子さんを見て直ぐにこちらの相手をしてくれた。時代と共に歴史的建造物は次第に姿を消して行く。ここは120年前(明治23年)の建築。平成16年に国登録有形登録文化財に指定された。千葉県内では58番目、流山市では第1号だそうだ。「先祖が残してくれた貴重な建物、大切に管理保存しなければ」と秋谷さんは語る。

 その新川屋から少し先に、大正6年創業の割烹『柳家』がある。うなぎの幟が食欲を誘う。シックな構え、磨かれた玄関(上がり口)や廊下、涼を呼ぶ中庭の池、和室の木と畳の香りが懐かしい。牧子さんの親友・若女将(4代目)の青柳愁子さんが挨拶に来る。和服が良く似合う美人。勿論、うな重も美味かった。

食事の後、車で目的の野田市に向かったのだが、熊坂さんのお宅の周辺に、これだけの歴史が残されているのだから、それを見逃す手はない。したがって『醤油の郷・野田』(仮題)は次号で。ところで、これから先、不思議な因縁が生まれそう。まず、『みりんの香る街・流山』の作者、青木更吉(こうきち)さんに後日、教えを乞う時が来るかもしれない。何故なら、彼の著書に『物語・二本松少年隊』がある。『龍翁余話』(136)「会津の旅 白虎隊」で二本松少年隊の取材を約束した、だから・・・そしてもう1つ、7月18日に長野県信濃町で牧子さん構成・演出・出演の『被爆ピアノコンサート』が開催される。その取材に行くのだが、何と信濃町は小林一茶の生誕の地なのだ。一茶をもっと知る機会としたい。
「東京から、こんなに近い所に、こんなにいい街があったんだ」を思い知らされた流山の小さな旅だった。旅はいい。知らない場所や知らない事柄を知る、それがこの上もなく楽しい、を噛み締めながら・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

 

梅雨ですから雨が降るのは当たり前で、仕方ありません。雨の日は、家で音楽でも聴きませんか。ビートルズナンバーをアレンジしたピアノジャズをご紹介しましょう。
聴きなれたビートルズのナンバーがまったく違った曲のように聞こえてきます。
ピアノジャズですが、ベースもドラムスもとてもいいバランスのとれたジャズトリオだと思います。

"Across The Universe 〜Beatles Song Book〜"  Walter Lang Trio
1. Nowhere Man
2. Fool On The Hill
3. You've Got To Hide Your Love Away
4. Yesterday
5. Michelle
6. Here, There And Everywhere
7. Because
8. Little White Chapel
9. Julia
10. I Will
11. Across The Universe
Walter Lang, piano
Nicolas Thys, bass
Rick Hollander, drums

雑貨屋ウィークリー537号から紹介をはじめたジャズのアルバムをリストにしました。
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

FIFAワールドサッカー、日本チームは大健闘でしたが残念ながらパラグアイに負けてしまいました。あれほど前評判の悪かった岡田ジャパンは今や国民的英雄です。ちょっとマスコミに振り回されすぎのような気がしているのは私だけでしょうか?もうすぐセミの声が聞こえてきそうです。さあ今年の夏はどう過ごしましょうか?

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
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http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.738

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com