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NO.737               Ryo Onishi              6/27/2010  

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雑貨屋のひとり言

FIFAワールドサッカーは日本がデンマークに勝ち、決勝進出を決めました。大会前の予想とは違って日本のいいところが目立ち、いい勝ち方でした。今回は強豪のフランスや前回優勝のイタリアが予選敗退するという番狂わせも起こっているわけですから何が起こってもおかしくないですからね。またひとつ楽しみが増えました。≪R.O≫

アメリカの弁護士(1)

日米の弁護士について語るとき、両者の特徴的な差として弁護士資格保持者の人数の大きな格差、業務内容の違いがまず話題になります。

 日本の弁護士数は、日弁連(日本弁護士連合会)のホームページによると、2009年度で約2万7千人、それでも1950年当時は6千人弱だったのでかなり増加はしているようです。しかし、アメリカの場合、弁護士と名乗ることができる人は今や百万人をこえ、さらに年々5万人の割合で増加しているといわれています。アメリカでは弁護士という職種は軍人170万人に次いで、全米で2番目に多い職種といわれます。

しかし、アメリカの場合、弁護士といっても日本のそれにくらべ、仕事の内容が異なるので一概に日米比較は出来ません。日本には弁護士という職種の他、行政書士、司法書士、税理士、弁理士、社会保険労務士などの職種がありますが、アメリカは基本的には弁護士と会計士の2つだけあり、その業務範囲は日本より遙かに広いものです。弁護士資格は法律家としての入門的ライセンスであり、その中で専門に分かれているのです。(例えば移民法専門弁護士といったように)

 それでも日本にくらべ弁護士数ははるかに多く、『石を投げたら弁護士にあたる』といわれるくらいです。しかし、多民族、移民国家であり、“常識の通用しない” 複雑な社会を形成している国の性格からして弁護士に頼る文化はある程度やむを得ないことかと思われます。もう十数年前になりますが、私がロサンゼルス市内で交通事故を起こしたことがありました。と、言ってもどちらかといえば私はほゞ100パーセント被害者だったのですが、私の車が中央分離帯のある道路を進行中、対抗車線からオートバイが運転を誤り、中央分離帯を乗り越え私の車に真正面からぶつかってきたのです。バイクの運転者だった青年は衝撃で数メートル吹き飛びました。でも幸いにも目立った怪我はなくすぐに立ち上がりました。

私は一瞬、なにが起こったのかさえわからないほど混乱したと思いますが、すぐにきしむ自分の車のドアをこじ開けて飛び出しました。バイクの青年が服の土を払いながら立ち上がったことに、若干ほっとしたことを覚えています。事故の起きた道路は片側二車線の一般道路でしたが、後続の車両はストップし、十数台がつながったと記憶します。そのときストップした後続車の一両から白人紳士が降りて私に近づき、彼は名詞を私に差し出し言いました。「私は、弁護士だ。いま、君の事故を目撃した。この事故に関して裁判の際は私が目撃者として君のために弁護をしてあげよう。いつでも私のオフィスへ連絡してください」――― 事故の現場に弁護士がちゃんといたのです。偶然とはいえ、まさに『石を投げたら弁護士にあたる』そのものでした。私のばあい、事故現場に弁護士がいたのは偶然だったのですが、アメリカには「救急車追跡者(Ambulance Chaser)」という言葉が現に存在し、それは救急車が走るとその後をつけて被害者などにいちはやく名刺を渡して自分を売り込む職業のことであり、その中に弁護士も含まれるのです。中には意識不明の被害者のポケットに名詞をねじ込んだりさえするのだそうです。真偽のほどはともかく、そんな話に“さもありなん”と納得できます。
私の事故の場合、その弁護士に続いて事故現場に到着したのは、警察の白バイ・パトカーが真っ先でさすがでした。誰かが911(日本でいう119番)に通報してくれたのでしょう。その次が通常のパトカー、消防自動車(当地ではこの種の事故があると消防車が駆けつけます)、そして次が牽引サービス車(Towing Service Car)でした。ここまで10分とかからない時間でした。このとき駆けつけてきた牽引サービス車こそ「救急車追跡者」であったに違いありません。このサービス車は、別に警察の指定業者ではなく、私の事故のときも白バイの警官が「お前が呼んだのか?」と聞くので「No」と答えたら追い返してくれ、改めて公認の牽引車を手配してくれました。こちらは30分以上待たされました。アメリカの弁護士数の多さについて書き出して、私の交通事故にまで話がそれてしまいました。

私がまだ日本企業の駐在員だったころ、会社の組織図の重要な位置に“Legal Department(法務部)”というのがありました。そしてここには数名の会社法専門の弁護士が数名在籍し、ほぼ社長直属で第一線の仕事をこなしていました。日本の親会社にも“法務部”という組織はありましたが、会社内の位置付けはアメリカのほうがはるかに重みのある位置付けでした。Legal Departmentのお墨付きなくして営業ひとつも出来ない仕組みになっていました。
        ――― 次号へ続く ―――
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「終(つい)の住まい」その1

いったい何から書けばいいかな・・・と、昨年12月から遭遇した数々の出来事を手繰っている。そうこうしている間、雑貨屋寄稿のお休みをお願いして、あっと言う間に数カ月が過ぎてしまった。愛読者の一人でもある愛知県の友人からは、「気が緩んでいるんじゃないの」と叱咤されたりして悔しい思いもした。しかし、実際には気の緩む余裕もなかったかなと、振り返る。さて、今回から数回にわたり、色々な角度から「終(つい)の住まい」について呟いてみたい。

「高齢化社会の日本」と言われて久しい。私が初めてこの言葉に触れたのは、今から30年前の、私が成人式を迎えた頃だったと記憶する。丁度日本における65歳以上の人口比率が7%に達したあたりだった。しかし、覚(さと)りの遅い私にとって、新聞・雑誌やテレビに取沙汰される「高齢化社会の日本」の事実は、太陽系の違う星の出来事のように思え、老年人口比率の高さなどピンとこなかった。今朝(6月27日)の日経ビジネスオンラインの記事にもあるように「このほど厚生労働省が発表した簡易生命表によると、日本人の平均寿命は男性79.29歳、女性86.05歳で24年連続世界一。高齢化率(65歳以上の方が総人口に占める割合)でも、2位イタリアの20%を大きく上回る22.8%(2009年調べ)とダントツの数値の高齢化社会となっている」のだ。そして今や世界の国々が、高齢化社会の日本に未来をみようとしているとさえ言われるようになった。今、私はこれまでの30年間を振り返る――自分が日本国内外での生活で、日本人としてどのような考えや意思で、日本の政治や経済を見、そしてそれを支持してきたのだろうかと、忸怩(じくじ)たる思いが胸を衝く。今からでも遅くはない、何かに取り組みたいという思いが強まる。

ところで、私の夫の両親は健在であるが、義母が93歳、義父が88歳と、まさに高齢夫婦である。一軒家に住み、息子や孫の手を借りず、これまで二人で自立した生活を営んできた。それが夫の自慢でもあった。義父は、数年前に交通事故で右足が不自由になり杖をつきながらの歩行であるが、季節折々に庭の野菜や果物、草花を育て、畑仕事と収穫物を使かう料理を楽しんでいた。義母は、補聴器の助けを借りたり、白内障の手術を受けたりもしたが、裁縫や刺繍、編み物などを楽しんでいた。私たちが訪ねて行くと、二人は満面に笑みを浮かべて、義父は自慢の中華料理を、義母は庭でとれたお野菜を使っての手料理をして私たち夫婦をもてなしてくれた。二人にとって、私たちの来訪は何よりも楽しみだったろうし、趣味の成果物のおすそ分けは生活の励みでもあり、喜びでと力であったに違いない。と、このように、全て過去形で書いているのは、今も健在ではある両親が、長年住みなれた家を出て、5月17日から施設に移り住んだから。実は、昨年12月に義母が入院しお正月を病院で迎え、家族全員そろって新しい年を迎えられなかった。義母が退院したら、次は3月と5月に父が入退院を繰り返した。その時が義父の、強い決断の機会となり、「終の住まい」選びの一歩となった。

さて、このようなことは、多かれ少なかれ、どこの家庭・家族でも起こり得る、ごく普通の出来事のひとつであろう。昨年の12月から今まで、4つの病院、内科、整形外科、循環器科、泌尿器科の5科の医師8名と数多い看護師、そして2名の治療相談員に私は会った。老人ホームの相談員、看護師、介護士、ヘルパーさんや運搬人(運転手)にも会った。いいこともそうでないこともあった。感謝することもそうでないこともあった。それらの体験が読者各位に参考になるか否かは分からないが、私たち夫婦と義父義母の、これからも変わることのない絆の足跡を少しずつ綴っていきたい・・・っと呟く、さくらの独り言

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

速成栽培半熟のマニュフェスト

マニフェスト八色の虹描いてみせ

ライバルの無策で支持率が上がる

一票にどの候補者も気に入らず

背に隙を見せ必勝を言うたすき


( ニュースやぶにらみ )

「ガンバレの声援」
サッカーだった −各党党首

「藍、世界一に」
青のユニホームも −サッカーフアン

「力士へ」
カケていいのは、ふりかけだけ −永谷園

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

森田さんから

今週は休みです。

龍翁余話

龍翁余話(136)「会津の旅・白虎隊」

『会津の旅』それは、今は亡き友人との約束であり、翁の長年の願いだった。約20年前、同業(映像プロデューサー)だったHさん(福島県二本松市出身)と交わした約束「 “二本松少年隊”と“会津白虎隊“の史実を通して、愛国とは?忠義とは?家族愛とは?友情とは?そして命とは何かを、世に(特に若い世代に)問いかけましょう」・・・結局、翁の怠慢で、未だテレビ(ドキュメンタリー)番組化は実現していないが、大変遅ればせながら故・Hさんとの約束の一端を果たそうと去る日、会津若松に出かけた。

『会津の旅』の目的の中で、実は“白虎隊”のほかに、翁がどうしても足跡を辿りたい人物が2人いた。1人は“おけい”――会津戦争で敗れた会津藩士たち40人(人数には諸説あり)は、遥か遠いアメリカ大陸に新天地を夢見て(1869年に)横浜港を発った。その中に17歳の少女がいた。彼女の名を“おけい”と言う。早乙女 貢著『おけい』、五明 洋著『幻のカリフォルニア若松領・初移民おけいの物語』の主人公“おけい”の生い立ちを訪ねたかった。もう1人は“西郷四郎”――冨田常雄著『姿三四郎』のモデル。17歳で上京し講道館の創始者・嘉納治五郎の弟子となって近代柔道の確立に尽力した実在の人物・・・
“おけい”も“西郷四郎”も17歳で行動を起こす。そして何と“白虎隊”のリーダーたちも17歳。そんな偶然の不思議を感じながら会津の街を走り回る。いずれ『おけい』、『西郷四郎』を書きたいが、今回は“白虎隊”に絞り込むことにする。絞り込んでも書き尽せないのが“白虎隊悲話”。まずは名城『鶴ヶ城』へ。戊辰戦争の際の会津戦争で会津軍は篭城戦を展開、城と藩主(松平容保)を死守、板垣退助(土佐藩・後の自由民権運動主導者)率いる新政府軍の猛攻に耐え抜いて遂に落城することなく終戦を迎えた。来年の春まで、修繕工事のため城は天幕に覆われて見る影もない。石垣や堀に往年を偲びながら早々に城を離れ、市の中心部から少し東側に位置する標高314mの小高い山、白虎隊自刃の地・飯盛山(いいもりやま)へ行く。年間200万人の参詣者、香煙の絶える日はないと言う。

麓にある数軒の土産店、交差点際の店に車を預け山に向かう。正面に急な石段。翁にとってはこの石段は“地獄への階段”だ。250円払って(右側)エスカレータに乗る。中腹には江戸時代後期の特異な建築様式(木造で2重らせん構造)の仏堂『栄螺堂(さざえどう)』
(国の重要文化財)がある。堂内は回廊、三十三観音、百観音が配置され堂内を進むだけで巡礼が叶う構造になっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて右回りに3回めぐって参拝出来ることから正式名称は『「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)と言うそうだ。そこから少し上がった所に『白虎隊19士の墓』がある。
“白虎隊”――映画やテレビドラマなどでよく知られているから詳しい説明は省いて概要だけを追うことにする。

会津戦争(新政府軍との戦い)に備えて会津藩は玄武隊(50歳以上)、青龍隊(36歳〜49歳)、朱雀隊(18歳〜35歳)、白虎隊(15歳〜17歳)を組織した。朱雀隊が実践主力隊、青龍隊は国境守備隊、玄武隊と白虎隊は予備軍として配されたものの、新政府軍の圧倒的な物量と兵力(14万人)に会津軍(2万人)の抵抗は空しく、早晩、老いも若きも砲口の先頭に立たされることになる。身分ごとに編成された白虎隊は、士中1番隊・2番隊、寄合1番隊・2番隊、足軽隊の5隊総勢300人。そして“悲話“の主人公となるのが士中2番隊(37人編成)の20人。
2番隊は、猪苗代湖(写真左)の近くの“戸の口原の戦い”(写真中)で新政府軍に打ちのめされた。さもあろう、相手は戦争のプロ、こちらは実戦経験のない子ども、今の満年齢なら13歳〜15歳の少年たちである。

次々に斃れる少年たち、やっと生き残った20人は鶴ヶ城へ退却すべく崖をよじ登り谷間を下って“戸の口堰洞穴”(写真右=この写真は飯盛山出口)に逃げ込む。この洞穴は、猪苗代湖から会津地方へ水を引くため、元和年間(1615〜1623)から元禄年間(1688〜1703)を経て天保年間(1830〜1843)に至る延べ220年、延べ5万5千人をかけて掘った長さ150mの堰(せき)。少年の背丈であっても立っては歩けない。傷ついた同士をいたわりながら体を水に沈めて飯盛山を目指す。
自刃の想像図。奥に黒煙がが上がり城下が燃えている。手前には茫然と立ち尽くす白虎隊士や、切腹したり、お互いのノドを刀で付き合って自刃している。

初めて体験した凄まじい戦闘の恐怖、敗走、空腹と睡眠不足の少年たちは、やっと辿り着いた飯盛山から鶴ヶ城を望む。何と、我ら会津藩の象徴、会津藩士の心の拠り所、藩主・松平容保公がおわすお城が燃えているではないか!火の海と化した城下からは絶え間なく砲声と銃声が轟いている。ああ、我ら会津の命運もこれまでか・・・少年たちは敵の手にかかるのを拒み、最後まで“会津の武士の誇り”を保とうと、燃え盛る鶴ヶ城に向かって正座、一礼して次々に自刃。『白虎隊記念館』に展示されている“白虎隊自刃の図”(写真左)に、翁、熱いものがこみ上げてくる。自刃の地に立ち(写真中)、墓前で合掌する市内の小学生や中学生(写真右)の胸中やいかに・・・
  
彼らが自刃した時は、実は鶴ヶ城はまだ燃えていなかった。周辺の武家屋敷から上がる火の手や煙が天守閣を包み、それを見た少年たちが“落城”と錯覚した。後年、その事実を明らかにしたのが20人の中ただ1人、一命を取り留めた飯沼定吉の証言によるもの(だから墓標には『白虎隊19士の墓』とある)。飯沼定吉はその後、電信技師として生き抜き、日清戦争にも参加、昭和9年(1931年)に没した(享年79)。白虎隊(士中2番隊)の戦闘の模様や飯盛山の出来事について貞吉が重い口を開いたのは彼の晩年だったと言う。
そこから“白虎隊の最期“が伝えられるようになったそうだ。

いつの世も、夭折する若者の姿は痛ましい。(数え年)15歳〜17歳という年齢を考える時、どうしても今の時代、今の日本と対比してしまう。勿論、封建思想の大部分は否定されなければならないが、それにしても日本の教育は今のままでいいのだろうか?我々は、何か、とてつもなく大事なものを忘れ捨て去っているのではないだろうか?―――20年前、翁と熱く語り合った今は亡きHさんの“憂国の声”が、飯盛山でも聞こえて来たように思えてならない。とまれ、Hさんとの約束はまだ残っている。会津白虎隊と同じく忠義に生き死んで行った『二本松少年隊』(12歳〜17歳)の真実、いずれ二本松市を訪れ“少年たちの純粋な心”に出会いたい。そしてHさんの墓前に報告と、約束履行の遅れをお詫びしたいと考えている・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

 

ソニークラーク(1931/7/21-1963/1/13)は、アメリカ、ペンシルベニア州出身のジャズピアニストですが不運なアーティストといわれています。ピアノが地味でバンドの伴奏としてしか見られていない時代にプレイしていたことです。ピアノジャズが脚光を浴びだすのは1960年代からでそのころに彼は、31歳の若さでこの世を去ってしまいます。
1958年にブルーノートから発売されたこのアルバムですが、ソニークラークのピアノは控えめで、アートファーマーのトランペットや、ジャッキーマクレーンのサックス、ポールチェンバーのベース、フィリージョーンズのドラムスの引き立て役になっているような感じがします。しかし彼のピアノは心を和ませてくれます。

"Cool Struttin'"     Sonny Clark

1. Cool Struttin'
2. Blue Minor
3. Sippin' at Bells
4. Deep Night
5. Royal Flush [*]
6. Lover [*]

Art Farmer(tp), Jackie McLean(as), Sonny Clark(p), Paul Chambers(b), Philly Joe Jones(ds).

雑貨屋ウィークリー537号から紹介をはじめたジャズのアルバムをリストにしました。
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

先週は石川遼のことしか書かなかったのですが、宮里藍が4度目の優勝を果たし、女子ゴルフ世界ランク1位になりましたね。2006年から導入されて日本人として初めての快挙です。素晴らしいですね。
サッカーとあわせて日本を少し明るくしてくれました。ありがとう!

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.737

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com