龍翁余話(136)「会津の旅・白虎隊」
『会津の旅』それは、今は亡き友人との約束であり、翁の長年の願いだった。約20年前、同業(映像プロデューサー)だったHさん(福島県二本松市出身)と交わした約束「
“二本松少年隊”と“会津白虎隊“の史実を通して、愛国とは?忠義とは?家族愛とは?友情とは?そして命とは何かを、世に(特に若い世代に)問いかけましょう」・・・結局、翁の怠慢で、未だテレビ(ドキュメンタリー)番組化は実現していないが、大変遅ればせながら故・Hさんとの約束の一端を果たそうと去る日、会津若松に出かけた。
『会津の旅』の目的の中で、実は“白虎隊”のほかに、翁がどうしても足跡を辿りたい人物が2人いた。1人は“おけい”――会津戦争で敗れた会津藩士たち40人(人数には諸説あり)は、遥か遠いアメリカ大陸に新天地を夢見て(1869年に)横浜港を発った。その中に17歳の少女がいた。彼女の名を“おけい”と言う。早乙女 貢著『おけい』、五明 洋著『幻のカリフォルニア若松領・初移民おけいの物語』の主人公“おけい”の生い立ちを訪ねたかった。もう1人は“西郷四郎”――冨田常雄著『姿三四郎』のモデル。17歳で上京し講道館の創始者・嘉納治五郎の弟子となって近代柔道の確立に尽力した実在の人物・・・
“おけい”も“西郷四郎”も17歳で行動を起こす。そして何と“白虎隊”のリーダーたちも17歳。そんな偶然の不思議を感じながら会津の街を走り回る。いずれ『おけい』、『西郷四郎』を書きたいが、今回は“白虎隊”に絞り込むことにする。絞り込んでも書き尽せないのが“白虎隊悲話”。まずは名城『鶴ヶ城』へ。戊辰戦争の際の会津戦争で会津軍は篭城戦を展開、城と藩主(松平容保)を死守、板垣退助(土佐藩・後の自由民権運動主導者)率いる新政府軍の猛攻に耐え抜いて遂に落城することなく終戦を迎えた。来年の春まで、修繕工事のため城は天幕に覆われて見る影もない。石垣や堀に往年を偲びながら早々に城を離れ、市の中心部から少し東側に位置する標高314mの小高い山、白虎隊自刃の地・飯盛山(いいもりやま)へ行く。年間200万人の参詣者、香煙の絶える日はないと言う。
麓にある数軒の土産店、交差点際の店に車を預け山に向かう。正面に急な石段。翁にとってはこの石段は“地獄への階段”だ。250円払って(右側)エスカレータに乗る。中腹には江戸時代後期の特異な建築様式(木造で2重らせん構造)の仏堂『栄螺堂(さざえどう)』
(国の重要文化財)がある。堂内は回廊、三十三観音、百観音が配置され堂内を進むだけで巡礼が叶う構造になっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて右回りに3回めぐって参拝出来ることから正式名称は『「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)と言うそうだ。そこから少し上がった所に『白虎隊19士の墓』がある。
“白虎隊”――映画やテレビドラマなどでよく知られているから詳しい説明は省いて概要だけを追うことにする。
会津戦争(新政府軍との戦い)に備えて会津藩は玄武隊(50歳以上)、青龍隊(36歳〜49歳)、朱雀隊(18歳〜35歳)、白虎隊(15歳〜17歳)を組織した。朱雀隊が実践主力隊、青龍隊は国境守備隊、玄武隊と白虎隊は予備軍として配されたものの、新政府軍の圧倒的な物量と兵力(14万人)に会津軍(2万人)の抵抗は空しく、早晩、老いも若きも砲口の先頭に立たされることになる。身分ごとに編成された白虎隊は、士中1番隊・2番隊、寄合1番隊・2番隊、足軽隊の5隊総勢300人。そして“悲話“の主人公となるのが士中2番隊(37人編成)の20人。
2番隊は、猪苗代湖(写真左)の近くの“戸の口原の戦い”(写真中)で新政府軍に打ちのめされた。さもあろう、相手は戦争のプロ、こちらは実戦経験のない子ども、今の満年齢なら13歳〜15歳の少年たちである。
次々に斃れる少年たち、やっと生き残った20人は鶴ヶ城へ退却すべく崖をよじ登り谷間を下って“戸の口堰洞穴”(写真右=この写真は飯盛山出口)に逃げ込む。この洞穴は、猪苗代湖から会津地方へ水を引くため、元和年間(1615〜1623)から元禄年間(1688〜1703)を経て天保年間(1830〜1843)に至る延べ220年、延べ5万5千人をかけて掘った長さ150mの堰(せき)。少年の背丈であっても立っては歩けない。傷ついた同士をいたわりながら体を水に沈めて飯盛山を目指す。
初めて体験した凄まじい戦闘の恐怖、敗走、空腹と睡眠不足の少年たちは、やっと辿り着いた飯盛山から鶴ヶ城を望む。何と、我ら会津藩の象徴、会津藩士の心の拠り所、藩主・松平容保公がおわすお城が燃えているではないか!火の海と化した城下からは絶え間なく砲声と銃声が轟いている。ああ、我ら会津の命運もこれまでか・・・少年たちは敵の手にかかるのを拒み、最後まで“会津の武士の誇り”を保とうと、燃え盛る鶴ヶ城に向かって正座、一礼して次々に自刃。『白虎隊記念館』に展示されている“白虎隊自刃の図”(写真左)に、翁、熱いものがこみ上げてくる。自刃の地に立ち(写真中)、墓前で合掌する市内の小学生や中学生(写真右)の胸中やいかに・・・
彼らが自刃した時は、実は鶴ヶ城はまだ燃えていなかった。周辺の武家屋敷から上がる火の手や煙が天守閣を包み、それを見た少年たちが“落城”と錯覚した。後年、その事実を明らかにしたのが20人の中ただ1人、一命を取り留めた飯沼定吉の証言によるもの(だから墓標には『白虎隊19士の墓』とある)。飯沼定吉はその後、電信技師として生き抜き、日清戦争にも参加、昭和9年(1931年)に没した(享年79)。白虎隊(士中2番隊)の戦闘の模様や飯盛山の出来事について貞吉が重い口を開いたのは彼の晩年だったと言う。
そこから“白虎隊の最期“が伝えられるようになったそうだ。
いつの世も、夭折する若者の姿は痛ましい。(数え年)15歳〜17歳という年齢を考える時、どうしても今の時代、今の日本と対比してしまう。勿論、封建思想の大部分は否定されなければならないが、それにしても日本の教育は今のままでいいのだろうか?我々は、何か、とてつもなく大事なものを忘れ捨て去っているのではないだろうか?―――20年前、翁と熱く語り合った今は亡きHさんの“憂国の声”が、飯盛山でも聞こえて来たように思えてならない。とまれ、Hさんとの約束はまだ残っている。会津白虎隊と同じく忠義に生き死んで行った『二本松少年隊』(12歳〜17歳)の真実、いずれ二本松市を訪れ“少年たちの純粋な心”に出会いたい。そしてHさんの墓前に報告と、約束履行の遅れをお詫びしたいと考えている・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |