weekly

NO.717                Ryo Onishi              2/7/2010  

 weekly
LAの観光スポット ホームページ バックナンバー
 
雑貨屋のひとり言

全国的に寒い日が続きましたが、いかがお過ごしでしょうか?
もうしばらくすれば春がやってきます。しかし同時に私には花粉症の季節ということになります。テレビのCMで花粉症対策の薬がいろいろ紹介されているので、自分にあったものを見つけてなんとか対処したいと思っています。≪R.O≫

森羅万象すべて必然

前々回のこの欄で、世の中は『一寸先は闇』であり、先々のことは誰にもわからない、神のみぞ知る、と書きました。と、いうことは『一寸先は闇』は私たち人間にとってであって、『神』は先のことも知っているという意味でもあります。

私は世間一般でいう『神』の存在は信じない人間ですが、人智の及ばぬ『この世の筋書き』のようなものは確実に存在すると信じています。『運命』または『宿命』のようなものです。これを『神』というならば、神は確実に存在すると信じます。要するにこの世の存在と過去・現在・未来はすべて神のもとで『必然』であり、『偶然』の出来事などありえないと思っています。森羅万象これ必然なのです。私たちの身のまわりだけでなく、宇宙のすべてがあらかじめ決まっている筋書きがあって、その筋書き通りに経過しているのです。

別の言いかたをすれば、この世のすべては録画済みのビデオテープかDVDを再生しているようなもので、その筋書きは初めから決まっており、だから偶然の出来事など入る余地は全くない「すべて必然」の世界なのです。しかもこのビデオテープかDVDは始まりも終わりもないエンドレス(というより、一巡するとまた、始まりから繰り返し再生される)の仕組みになっているのではないかと想像しています。

例えば今、私がこの駄文を書いている行為も初めから、そうすべく決まっている筋書きであり、明日どうなるか、そして明後日どうなるか、私の一生はすべて決まっている筋書き通りなのです。ただ私が知らないだけなのです。

この世の森羅万象はすべて必然の結果であり、初めから筋書きの決まっているドラマに過ぎないとしたらどういうことになるのでしょう。例えば私が生まれてから死ぬまでのすべての行動と出来事が自分の意志ではどうにもならない力(神・運命・宿命)に支配され、しかもその筋書きがはじめから全部決まっているとしたら、私が あくせく努力することも 新しい目的に向かってチャレンジすることもすべて無駄な抵抗だといえるかもしれません。だから何もしないで時の流れに身を任せれば、という生き方が考えられます。もしそういう生き方を選んで実行すれば、私の人生の筋書きがそうなっていた、ということなのでしょう。

でも思うに私の人生の筋書きは 「時の流れに身を任せ」 とはちょっと違うと自分では信じています。きっと私の筋書きは「いつも新しい何かに興味を示し、好奇心と前向き発想」 を信条とした生き方をするようなシナリオになっているんだと勝手に決めています。

これから先の私の生きざまは、確定していても自分で知りえないならば、ネガティブ(後ろ向き)な未来を予測するより ポジティブ(前向き)発想の方が良いと思います。そこで自分の生涯はポジティブな筋書きになっていると信じれば、ポジティブに生きられるのではないでしょうか。私は『人事を尽して天命を待つ』という言葉を常に座右の銘とすることにしています。

人生とは複雑・無情なものであり、幸福の女神より不幸の悪魔に出会う機会の方がはるかに多いのが実際です。そんな悪魔(望まぬ運命)も決まっていた筋書きだったらやむを得ないことです。この世のすべては必然の結果であり、筋書きが全部決まっているドラマに過ぎないのだとするならば、何かの行為の結果が期待に反したとしても、それは始めから決まっていたことであり、避け得ない流れだったとあきらめがつき、納得できます。

目的に対して最大限力を尽しさえすれば、結果が期待に反してもそれはそう言う筋書きだったと理解すれば良い訳です。だから「後悔」 なんて無意義なことです。だって結果は初めから決まっている筋書き通りなのですから。

「人事を尽す」のが自分の運命の筋書きであると信じ、そして「天命を待った」 結果がどんなであっても これまた同じ筋書きだと思えば納得出来ます。人事さえ尽せば後はその結果がどんなになるのか楽しみに待つ心境にもなれるのではないでしょうか。

思う通りの結果が出なくともそれが運命ならば悔やむことも怨む必要もありません。極端なことを言えば 自分が何か犯罪に巻き込まれ被害者になった時、これもはじめから決まっていた「人生の筋書き」通りなのだからやむを得ないことであり、むしろ自分が加害者と言う「筋書き」でなかったことに感謝さえ出来るはずです。(実際はなかなかそこ迄 悟りきるのは至難の技ですが)

   河合 将介( skawai@earthlink.net )   河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「」

今週はお休みです。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

愛嬌が売りだとアンパンの出臍

校則をミニスカートがひょいと越え

身のほどがカボチャの馬車を諦める

じゃじゃ馬が今日才媛の披露宴

母子手帳しっかり子の名私の名


( ニュースやぶにらみ )

「トヨタ社長謝罪」
お坊ちゃん頑張って −鳩山首相

「不起訴に」
立春 −小沢幹事長

「募集」
秘書 −朝青龍

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

 

森田さんから

砂漠のオペラハウス
               森田のりえ
 公演開始は七時だから、後二時間ある。一時間で夕食を済まし会場には三十分もあれば着く。胸算用をしてデスバレー国立公園の中心地ファーニスクリークにあるレストランへ開店と同時に入った。ところが、意外に手間取り注文をした食事がなかなか出てこない。結局、夕食を終えたのは六時半。一九〇号線を一路、東に向かって走った。外は隅を塗ったように真っ黒。行き交う車もない。
 デスバレー・ジャンクションにある『アマルゴサ・オペラハウス』に着いたのは、開演直前だった。
「切符は?」
 入り口にいたジャバー姿の男が訊く。
「インターネットで申し込んだのですが」
「ここはインターネットでの受付はしていません。向こうの角のレストランで切符を買ってきてください。開演を待っていますから」
 入場料は一人十五ドルである。
 劇場に入ると、五、六十人の観客がいた。三方の壁を見渡すと十六世紀ごろの服装をした貴族、闘牛士、修道女やジブシーなどさまざまな人物が、馬蹄形劇場のバルコニーから、舞台を見詰めているように描かれていた。天井にも鳥や裸体画が描かれている。
 これだったのか、同行のKさんが話していた風変わりな劇場というのは・・・。オペラハウスの持ち主であるマータ・ベケットが壁画に四年、天井画に二年かけて仕上げたという絵を眺めていると、入り口にいたジャンパー姿の男が前に出て、開演の合図をした。
今夜の演目は『もし、壁が話しだしたとしたら(If these walls could talk)』である。
まず舞台中央に映像が映し出された。マータと今夜演技をするサンディ・シュラーの会話から始まった。今年八五歳になるマータは自分が全てを打ち込んで育てたオペラハウスのことを話す。「これが私の子供です」と。
 もともとこの建物は、デスバレーでボーラックスという鉱石を採掘していた会社の事務所や宿舎として使われていたが、別の場所から良質の鉱石資源が大量に発見され、会社は一九四〇年ごろに生産を打ち切り放棄した。
 ブロードウェイやラジオシティ・ミージックホールでダンサーとして活躍していたマータは夫と共に一九六七年のイースター休暇にデスバレーへトレーラーを引っ張ってきた。運悪くトレーラーのタイヤがフラットタイヤになり、修理するためにデスバレー・ジャンクションへ持ってきて直していた。その時、マータは荒れ放題の建物の中を覗くとステージ付きホールがあった。詩人で画家、作曲に演出家でダンサーでもあるマータは閃いた。
「ここで自分の満足する演出をしてみたい」
さっそく持ち主を探して月四十五ドルで賃貸契約を結び、マータは夫と共に人口十人にも満たないこの町に移り住んだ。廃屋同然の建物を修理して「アマルゴサ・オペラハウス」と命名し、翌年の二月から公演をはじめたのである。以後、十月から四月にかけての週末には休むことなく四十数年来公演を続けている。最初のころ、観客は数名から数十名。観客のいない時でもマルタは踊った。自分で観客の絵を壁に描き、イメージを膨らせて踊りつづけたというのだ。
同行のKさんは以前、鉱山の地質調査のためにオペラハウスに併設されたホテルに泊っている時、マータと会っている。
「採算を度外視して夢を追い続けることは、凡人には出来ませんねぇ」
 すると、Kさんは声を立てて笑った。
砂漠の辺鄙なところに劇場をつくり、一人芝居を続けてきたマータは、いつしか世界中に知られるようになった。ナショナル・ジェァグラフィックやライフなどの雑誌、主要新聞、TVでも取り上げられた。映画「Amargosa」は二〇〇三年ドキュメンタリー部門でエミー賞を獲得。多くの人たちがマータのたぐい稀な才能に魅せられて来るようになった。
マータは近年、椅子に座ってお喋りをしたり歌ったりする演技が多くなった。その上、昨年の十月に転んで腰を痛めた。ちょうどそのころ長年の友人サンディは、オペラハウスでビデオ撮影を終えたところだった。彼女も芸能界で活躍してきた人だ。早速、今夜の出し物を創作し、友情出演をすることになった。
 サンディの一人芝居は、壁に描かれた幾人かの人物になりきり、踊りながら客席を回り、我々に語りかけるような仕草で舞台と観客を一体化させた見事なパントタイムであった。
最後にサンディは舞台から訴えた。
「私たちは非営利団体でやっております。どうか、友人知人に『アマルゴサ・オペラハウス』のことを伝えてください。皆さまのご支援なくしては続けることはできません」
 余韻がとても心地よかった。
                 おわり       

龍翁余話

龍翁余話(116)「若き日の龍馬を偲ぶ〜品川・立会川」

NHK大河ドラマ『龍馬伝』の放送が始まってすでに1ヶ月が過ぎた。46年前の司馬遼太郎著『竜馬がゆく』以来、はまりにはまって龍馬関連の本を読み漁り、己れの生きざまと重ね合わせたりするほどの龍馬ファンになった翁、大河ドラマが、龍馬と龍馬を取り巻く人物像をどう描くか、そして物語をどう展開させるか、大いに期待していたのだが、正直、(5回までは)面白くない。脚本そのものが、翁の知る幕末史(龍馬・岩崎弥太郎、及び彼らを取り巻く人物像)から大きくズレているので、翁自身が戸惑っているのかもしれない。

この『龍馬伝』、「いつも自分より先を行く同郷の天才・龍馬に憧れ、龍馬を憎み、龍馬を愛した男・岩崎弥太郎の視線で描く龍馬」というのが脚本家やプロデューサーの意図だそうだが、どだい、そのコンセプトの設定自体に無理があるように思える。何故なら、二人の本格的交流は慶応1年(1965年)に龍馬(31歳)が長崎で亀山社中(商社)を興し、更に慶応3年(1867年)海援隊を結成、弥太郎が土佐商会(土佐藩の出先機関で海援隊に資金提供を行なう)主任として長崎に赴任した時から始まる。短期間ではあったが弥太郎は龍馬の世界観や人間的魅力に圧倒され、大いに影響を受ける。龍馬、倒幕後の新政府構想“船中八策”を作成して大政奉還を目指す薩摩藩・土佐藩の盟約を締結させ、遂に徳川15 代将軍・慶喜による大政奉還を見届け、その直後、龍馬は同志・中岡慎太郎と共に京都・近江屋にて暗殺される(慶応3年11月15日、龍馬33歳の誕生日。暗殺者については諸説あり)。弥太郎は維新後(明治6年)に“三菱商会”を設立、三菱財閥の祖となるのだが、「世界の海援隊を創る」という龍馬の大志は弥太郎に引き継がれたことになる。したがって弥太郎は龍馬に対して憧れと尊敬こそあれ“龍馬を憎む”道理が(翁には)分からない。三菱グループに関係する視聴者は、香川照之演じる“自惚れの強い、嫉妬深い弥太郎”に少なからず違和感を覚えているのでは、と余計な心配をする。

視聴率を調べてみたら第1回〜第5回の平均が22.92%。これは『篤姫』の第1回〜第5回の21.18%よりはいいが、昨年の『天地人』(第1回〜第5回)の24.62%より悪い。もっとも『天地人』は主人公(直江兼続)役の妻夫木聡がミス・キャスト、それ以上に(翁、断言するが)脚本・演出が未熟で、次第に中だるみが生じ、結局、年間平均視聴率は21.18%に落ち込んだ。『篤姫』はベテランの脇役陣に助けられて尻上がりによくなり、年間平均視聴率は24.44%まで上がった。さて『龍馬伝』、これから先がどうなるか、翁も出来るだけ“今風の龍馬伝”に馴染むように努力してみるが・・・

ところで、ごく最近、翁が住む品川区に“龍馬会”があることを知り、早速、会長にインタビューを申し込んだ。東急大井線大井町駅を降りて右側の商店街を少し下った所にある靴屋さんが『品川龍馬会』の事務局であり、社長の浦山嗣雄さんが会長。浦山さんは品川区商店街連合会の会長でもある。実に温厚な御仁。“根っからの龍馬好き”の翁を歓迎してくれた。お話や資料によると「幕末、品川立会川沖に黒船が停泊、幕府に開国を迫る。この地にあった土佐藩下屋敷では立会川河口堰に砲台を建設、江戸で修行中の龍馬もその警備に当たった。龍馬が、海外に思いを馳せる雄大な思想を創り出す原点となったのが“立会川浜川砲台”と言われている。青春時代の龍馬が品川で生き、大きく羽ばたいて行ったことはこの地域の誇りであり、これらの史実を社会に伝え後世に語り継ぐとともに龍馬を街づくりのシンボルとして地域社会の発展に資することを目的に『品川龍馬会』を設立した(2009年10月17日)」とある。(浜川=立会川駅周辺の旧地名)
     
浦山さんのお店のショーウインドーに展示されている、龍馬が愛用した茶碗(本物)、龍馬が履いたブーツと持ち歩いた拳銃のレプリカを撮らせていただいたあと、タクシーで京浜急行・立会川駅へ。駅前の北浜川児童公園(旧東海道沿い)に建つ高さ3mの『龍馬の像』はすぐに分かったが、目的の『浜川砲台跡』への行き方を訊ねようと、像の脇の八百屋のご主人に声をかけた。ところが――こんなことってあるもんだ、何と、そのご主人・織戸義雄さんは『品川龍馬会』の副会長。「先刻、浦山会長にお会いした」旨を告げると、織戸さんもまた翁を歓迎し“龍馬と立会川の歴史”を語ってくれた。立会川駅の反対側、国道15号沿いに、かつて16,800坪の広大な敷地を誇った土佐藩下屋敷は、今は浜川中学校校庭の片隅に説明板だけが当時の様子を伝えているだけだが、剣術修行のため江戸に来ていた龍馬は、この敷地内の宿舎に住み、北辰一刀流の千葉定吉道場(小千葉道場=現在の東京駅南口・八重洲ブックセンター辺り?)に通うかたわら、藩命で『浜川砲台』の警備に当たっていたと伝えられている。ならば、今、翁が散策しているこの街も、約155年前、19歳の青年龍馬も歩いた街であることに違いない。立会川駅の隣、鮫洲駅近く(立会川小学校脇)の土佐藩第15代藩主・山内豊信(容堂)の墓所にお参りして翁、「若き日の龍馬を偲ぶ品川・立会川」の散策を終える。

昨年10月に発足した『品川龍馬会』は全国で132番目。国内ばかりではない、アメリカ(カリフォルニア)に3つ、フランス(パリ)、ドイツ、インドネシアにも1団体ずつあるそうだ。龍馬没後143年も経つ今日なお、国内外に龍馬への敬慕の輪が広がっている現実の背景はいったい何だろうか。このたびの短時間の散策だけでは答えは出ない。せっかく出会った『品川龍馬会』の正副会長の指導をいただき、これからも立会川を再三訪ねて龍馬の息遣いを感じながら彼の人間性・志向性・行動性を再学習してみたい・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

 

寒いので暖かく楽しそうなイメージのジャズがいいなと思いました。
木住野佳子のBossa Nostalgiaはいかがでしょう。
聴きやすい軽快なピアノが心をうきうきさせてくれます。

"Bossa Nostalgia"   木住野佳子

1 夏への扉
2 ボッサ・リーブラ
3 ダブル・レインボー
4 紫陽花
5 Ukiuki
6 ノスタルジア
7 ボッサ・デ・ファンク
8 パッサリン
9 お散歩
10 おいしい水
11 ワン・ノート・サンバ
12 スー・アン


雑貨屋ウィークリー537号から紹介をはじめたジャズのアルバムをリストにしました。
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

うっかりコーヒーを左手にかけてしまいました。すぐに水で冷やし、氷でも冷やしましたが、大きな水ぶくれができてしまいました。皮膚科の医者に診てもらったら1センチ以上の水ぶくれは早くつぶしたほうがいいということでした。水に濡らせないのでいろいろ不便ですが、この程度で済んでよかったと思っています。

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.717

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com