龍翁余話(116)「若き日の龍馬を偲ぶ〜品川・立会川」
NHK大河ドラマ『龍馬伝』の放送が始まってすでに1ヶ月が過ぎた。46年前の司馬遼太郎著『竜馬がゆく』以来、はまりにはまって龍馬関連の本を読み漁り、己れの生きざまと重ね合わせたりするほどの龍馬ファンになった翁、大河ドラマが、龍馬と龍馬を取り巻く人物像をどう描くか、そして物語をどう展開させるか、大いに期待していたのだが、正直、(5回までは)面白くない。脚本そのものが、翁の知る幕末史(龍馬・岩崎弥太郎、及び彼らを取り巻く人物像)から大きくズレているので、翁自身が戸惑っているのかもしれない。
この『龍馬伝』、「いつも自分より先を行く同郷の天才・龍馬に憧れ、龍馬を憎み、龍馬を愛した男・岩崎弥太郎の視線で描く龍馬」というのが脚本家やプロデューサーの意図だそうだが、どだい、そのコンセプトの設定自体に無理があるように思える。何故なら、二人の本格的交流は慶応1年(1965年)に龍馬(31歳)が長崎で亀山社中(商社)を興し、更に慶応3年(1867年)海援隊を結成、弥太郎が土佐商会(土佐藩の出先機関で海援隊に資金提供を行なう)主任として長崎に赴任した時から始まる。短期間ではあったが弥太郎は龍馬の世界観や人間的魅力に圧倒され、大いに影響を受ける。龍馬、倒幕後の新政府構想“船中八策”を作成して大政奉還を目指す薩摩藩・土佐藩の盟約を締結させ、遂に徳川15 代将軍・慶喜による大政奉還を見届け、その直後、龍馬は同志・中岡慎太郎と共に京都・近江屋にて暗殺される(慶応3年11月15日、龍馬33歳の誕生日。暗殺者については諸説あり)。弥太郎は維新後(明治6年)に“三菱商会”を設立、三菱財閥の祖となるのだが、「世界の海援隊を創る」という龍馬の大志は弥太郎に引き継がれたことになる。したがって弥太郎は龍馬に対して憧れと尊敬こそあれ“龍馬を憎む”道理が(翁には)分からない。三菱グループに関係する視聴者は、香川照之演じる“自惚れの強い、嫉妬深い弥太郎”に少なからず違和感を覚えているのでは、と余計な心配をする。
視聴率を調べてみたら第1回〜第5回の平均が22.92%。これは『篤姫』の第1回〜第5回の21.18%よりはいいが、昨年の『天地人』(第1回〜第5回)の24.62%より悪い。もっとも『天地人』は主人公(直江兼続)役の妻夫木聡がミス・キャスト、それ以上に(翁、断言するが)脚本・演出が未熟で、次第に中だるみが生じ、結局、年間平均視聴率は21.18%に落ち込んだ。『篤姫』はベテランの脇役陣に助けられて尻上がりによくなり、年間平均視聴率は24.44%まで上がった。さて『龍馬伝』、これから先がどうなるか、翁も出来るだけ“今風の龍馬伝”に馴染むように努力してみるが・・・
ところで、ごく最近、翁が住む品川区に“龍馬会”があることを知り、早速、会長にインタビューを申し込んだ。東急大井線大井町駅を降りて右側の商店街を少し下った所にある靴屋さんが『品川龍馬会』の事務局であり、社長の浦山嗣雄さんが会長。浦山さんは品川区商店街連合会の会長でもある。実に温厚な御仁。“根っからの龍馬好き”の翁を歓迎してくれた。お話や資料によると「幕末、品川立会川沖に黒船が停泊、幕府に開国を迫る。この地にあった土佐藩下屋敷では立会川河口堰に砲台を建設、江戸で修行中の龍馬もその警備に当たった。龍馬が、海外に思いを馳せる雄大な思想を創り出す原点となったのが“立会川浜川砲台”と言われている。青春時代の龍馬が品川で生き、大きく羽ばたいて行ったことはこの地域の誇りであり、これらの史実を社会に伝え後世に語り継ぐとともに龍馬を街づくりのシンボルとして地域社会の発展に資することを目的に『品川龍馬会』を設立した(2009年10月17日)」とある。(浜川=立会川駅周辺の旧地名)
浦山さんのお店のショーウインドーに展示されている、龍馬が愛用した茶碗(本物)、龍馬が履いたブーツと持ち歩いた拳銃のレプリカを撮らせていただいたあと、タクシーで京浜急行・立会川駅へ。駅前の北浜川児童公園(旧東海道沿い)に建つ高さ3mの『龍馬の像』はすぐに分かったが、目的の『浜川砲台跡』への行き方を訊ねようと、像の脇の八百屋のご主人に声をかけた。ところが――こんなことってあるもんだ、何と、そのご主人・織戸義雄さんは『品川龍馬会』の副会長。「先刻、浦山会長にお会いした」旨を告げると、織戸さんもまた翁を歓迎し“龍馬と立会川の歴史”を語ってくれた。立会川駅の反対側、国道15号沿いに、かつて16,800坪の広大な敷地を誇った土佐藩下屋敷は、今は浜川中学校校庭の片隅に説明板だけが当時の様子を伝えているだけだが、剣術修行のため江戸に来ていた龍馬は、この敷地内の宿舎に住み、北辰一刀流の千葉定吉道場(小千葉道場=現在の東京駅南口・八重洲ブックセンター辺り?)に通うかたわら、藩命で『浜川砲台』の警備に当たっていたと伝えられている。ならば、今、翁が散策しているこの街も、約155年前、19歳の青年龍馬も歩いた街であることに違いない。立会川駅の隣、鮫洲駅近く(立会川小学校脇)の土佐藩第15代藩主・山内豊信(容堂)の墓所にお参りして翁、「若き日の龍馬を偲ぶ品川・立会川」の散策を終える。
昨年10月に発足した『品川龍馬会』は全国で132番目。国内ばかりではない、アメリカ(カリフォルニア)に3つ、フランス(パリ)、ドイツ、インドネシアにも1団体ずつあるそうだ。龍馬没後143年も経つ今日なお、国内外に龍馬への敬慕の輪が広がっている現実の背景はいったい何だろうか。このたびの短時間の散策だけでは答えは出ない。せっかく出会った『品川龍馬会』の正副会長の指導をいただき、これからも立会川を再三訪ねて龍馬の息遣いを感じながら彼の人間性・志向性・行動性を再学習してみたい・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |