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NO.714                Ryo Onishi              1/17/2010  

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雑貨屋のひとり言

ハイチで大地震が発生し、甚大な被害が出ています。犠牲になられた方々のご冥福と、一日も早い復興をお祈りしたいと思います。地震国である日本は他人事ではありません。
東南海地震の発生が予想されていますが、日本は高度な文明社会になっているがゆえに、大きな被害が予想されます。地球上は10数枚のプレートで覆われていますが、そのうち日本は4枚のプレートの衝突部にあるわけですから地震から逃れられません。自信があろうがなかろうがうまく地震と付き合っていく必要がありそうですね。≪R.O≫

一 寸 先 は 闇

 年が改まると新聞、テレビ、週刊誌などがこぞって新しい年がどうなるか、どんなことが起きるか、といった記事を特集しています。経済の見通しについてもその道の専門家や評論家を動員し、ある程度説得力も感じられるもっともらしい予想を展開しています。しかし、私はこれまで、経済や為替といったたぐいの予測が的中し、感動したという経験をしたことがありません。人の欲望まで含め、さまざまな条件によって制約される経済活動は複雑怪奇であり、どんな大型コンピューターを駆使しても、また、過去の統計、経験則を積み上げても明確には割り切れず、予測しがたいものでしょう。

 今から15年前の1995年4月、為替レートが急速な円高(ドル安)が進行し、4月19日には東京市場で瞬間値1ドル=79円75銭という史上最高値を記録したことがありました。

バブル景気に陰りが見え始めた当時は、海外投資や輸入が収縮する一方で輸出は依然強く、円高が進行していました。前年の1994年6月には1ドル=100円を突破し、その年末もほぼ100円でした。それから4ヵ月後に上記最高値(79円75銭)を記録したのでしたが、私のスクラップ・ブック(新聞切り抜き資料)によると、その最高値到達ほぼ1ヶ月前の3月6日付の日本経済新聞掲載『緊急為替・金利予測(95年3月−5月)』に回答している専門家(主要銀行)5氏の予測平均は96.0円であり、結果とは16円以上もかけ離れていました。たった1ヶ月前ですらこの程度の予測だったわけで、専門家といえどもいかにこの種の為替予測が当たらないかを示しています。

皮肉なわが友人曰く、『為替や株値は要素が複雑であり、誰が予測しても外れるのがあたりまえなのだ。では予測者が優秀であるか否かの判定は、外れた予測に対し、なぜ外れたのか納得力ある説明ができるかどうかによって決まるのだ』

先のことがわからないのは経済だけに限りません。あらゆるものが『一寸先は闇』といえるのが世の中です。でも改めて考えてみるに、先のことは神のみぞ知るのがこの世のならいであるからこそ世の中は面白く生きる価値があるのであり、先行きが“想定外”であるから逆に希望もわいてくるのではないでしょうか。今年はどんな出来事が待ちうけているのか興味津々です。ただ、出来うるならば明るくうれしい“想定外”であることを願うばかりです。      
   河合 将介( skawai@earthlink.net )   河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「」

今週はお休みです。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

二合まで粋なカルテが言ってくれ

肉好きがカルテに負けた野菜食

ギャル曽根のもったいないを知らぬ箸

バイキング胃酸持参でやって来る

談笑のケーキ本音は伏せておく


( ニュースやぶにらみ )

「説明責任」
沈黙は金 −小沢幹事長
沈黙は禁 −国民

「水質汚染」
濁りがひどいわけだ −胆沢ダム

「日航機」
紙飛行機だったとは −株券

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺ぶらり散歩(33)
*木下順二 −周辺散歩
順二がこの周辺をよく歩いていた様子が、著書『本郷』に書かれています。「私は東京の中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。」と荷風が『日和下駄』に書いた5・6年後とありますから、1920年頃の藪下の道です。動坂の叔父さんの家を辞去した母と私が、この道を根津権現のほうへ向かって歩いたことになる。舗装なんてむろんしてあるわけがない。雨が降ればぐちゃぐちゃとぬかるみにまっていたものだ。昼なお暗いというような印象だけが残っている。  そして1960年頃です。ここが(注:観潮楼跡)こう整えられる前の焼け跡風景を私はよく覚えていないが、覚えているのは鴎外三男の類さんがここに千朶書房という新本の書店を開いていられて、立ち寄るといつも、お得意先への本の売り込み競争がいかに大変か、この商売がいかに自分に向いていないかという話を、おっとりとした調子で語られたことだ。記念図書館の落成は一九六三年のことで、その時は私も応分の寄付をしたが、類さんはお店を閉めねばならなくなり、自分の土地から店立てを食っているんですよと苦笑されていたのを思い出す。千朶書房というのは斎藤茂吉さんの命名だということを類さんが『鴎外の子供たち』の中に書いてある。 以下は1980年代の様子ですので、今でもこのへんを歩くと、文章に近い町の様子に出合えます。一度句会の披講の間の時間にでも歩いてみて下さい。わが家を出て東の方面へ、一番の近道を三、四分も歩くともう藪下通りに直角に突き当たる。藪下通りの途中のいろんなところへ出る道が、近道をのけてもたぶん四つぐらいある。たぶん、ぐらい、というには、長年このへんをうろついている者として頼りない言い方だが、それほどいろんな細い道や変な道が、わが家と藪下通りの間に横たわる森閑たるお屋敷町のなかに組み合わさって存在している。もう行き止まりかと思える古い門構えに突き当たると、そのすぐ右脇に塀の角からずうっと古い不揃いな石段が向こうへ流れ下っており〜

森田さんから

今週はお休みです。       

龍翁余話

龍翁余話(113)「キング牧師記念日」

1月の第3月曜日(今年は18日)は『キング牧師記念日』(Dr. Martin Luther King. Jr. Day)。
かつて“米国黒人社会の歴史と文化”を追いかけた翁にとっても、この記念日には格別の想いがある。若い人は、どれだけキング牧師のことを知っているだろうか、と心配したが、キング牧師の名演説『I have a dream(私には夢がある)』が(未確認だが)中学や高校の英語教材に使われているそうだから、当然、キング牧師の人となりや業績のあらましは知っているはずだ。(『I have a dream』 については、後で詳しく述べる。)

翁はこれまでに4回、アトランタにある『キング牧師の生家』や『マーティン・ルーサ・キング・ジュニア・ビジターズセンター(記念館)』を訪ねた(いずれも取材)。最初は1986年の夏、キング牧師夫人・コレッタさんにもお会いした。実に温かみのある、優しい女性だったが、インタビューの合間に見せる静かな闘志は、さすが、あの夫(キング牧師)にして、この妻あり、を感じさせた。それもそのはず、キング牧師亡き後、彼の遺志を継いで無暴力運動、人種差別撤廃、貧困層救済、黒人社会の地位向上などの運動を指導した活動家だったのだ。だいぶ以前の話なので(保存してある)当時の取材ノートや台本を引っ張り出して筆を進めることにする。(夫人は2006年1月31日に死去、78歳。)

ご承知のように、キング牧師は父親(同じ名前のマーティン・ルーサー・キング)の跡を継いだプロテスタント(バプテスト派)の牧師であるが、何と言っても“アフリカ系アメリカ人(黒人)公民権運動の指導者(活動家)としての方が有名だ。”アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動“が評価され、1964年度にノーベル平和賞が授与された。その年キングは35歳、史上最年少の受賞であった。

1968年4月4日、遊説中のテネシー州メンフィス市で、白人男性に撃たれ、全米は勿論のこと全世界に衝撃が走った。39歳という若さに、世界中がその死を悼んだ。アメリカでは彼の栄誉を称え、米国第40代大統領ロナルド・レーガン政権下の1986年より、キング牧師の誕生日(1920年)1月15日に近い毎年1月第3月曜日を『マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・デー』として祝日に制定した。偶然にも翁が初めて『キングの生家』、『ビジターズ・センター』、『コレッタ夫人』を訪問した年である。

キング牧師が提唱した運動の最大の特徴は、徹底した“非暴力主義”である。これは、インド独立の父・ガンジーに影響されたと言われる。『ビジターズ・センター』には、非暴力抵抗運動で勝ち取った公民権の解説や運動時の写真パネル、ノーベル平和賞の賞状やメダル、その他、各種の受賞トロフィー、キング牧師の私生活に関する展示物が所狭しと並んでいるが、その中に、彼がいかにガンジーを崇拝したかを物語る資料も多く含まれている。
しかし、何と言っても『ビジターズ・センター』でのメイン・テーマは『I have a dream』
であろう。建物に入った途端にスピーチの録音テープが聞こえてくる。1963年8月28日にワシントンD.C.のリンカーン記念堂の前で演説した『I have a dream』は、人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体と平易な言葉で訴え、多くの人に感動を与えた。1961年1月20日に就任したジョン・F・ケネディの大統領就任演説(わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。わが同胞の世界の市民よ、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、われわれと共に人類の自由のために何ができるかを問おうではないか=一部抜粋)と並び、20世紀のアメリカを代表する名演説として有名である。

では、その『I have a dream』の一部を紹介しよう。
「私には夢がある。いつの日か、かつての奴隷(黒人)の子供たちと、かつての奴隷を使っていた人(白人)の子供たちが、兄弟愛というテーブルに一緒に座れるようになるという夢を」。
「私には夢がある。いつの日か、この国が、私の4人の子供たちが肌の色で、ではなく、
その人なりで評価されるようになるという夢を」。
キング牧師が遺した名言の中には、ほかに“Now is the time(今こそその時だ)”、“Let freedom ring(自由の鐘を鳴らそう)”などがある。

そしてキングの死から40年後に、ケニア人とアメリカ人のハーフ、バラク・オバマ大統領が誕生した。ミッシェル夫人は黒人奴隷の子孫である。黒人初の大統領とファースト・レディ誕生にアフリカ系アメリカ人は狂喜した。オバマ大統領就任式にキング牧師の息子マーティン・ルーサー・キング3世(祖父・父と同姓同名)も招待された。キング牧師・コレッタ夫妻がこの光景を見ることが出来たなら、どんな感慨を覚えただろうか・・・

『ビジターズ・センター』の入り口に設けられた小池の中央に、キング牧師の墓標がある。そこには彼の『I have a dream』の最後のフレーズ”Free at last, free at last, thank God Almighty, I'm free at last.”(遂に自由を得た。全能の神に感謝、私は遂に自由になった)が刻まれている。翁、1986年の夏に、その墓石の前でコレッタ夫人をインタビューした。その夫人も今は夫・キング牧師と同じこの墓石の中にいるそうだ。「公民権と自由は得た。だが、人種差別の壁はまだまだ厚い。夫・キングの夢“肌の色ではなく、その人なりで評価される日”は、まだ遠い」と翁に語ったコレッタ夫人であったが、その日から24年後、そして彼女の死(2006年)から3年後に初の黒人大統領が誕生した。奇しくも『キング牧師記念日』に――キング牧師夫妻の悲願はようやく成就したのでは、と、翁の感慨もひとしお・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

 

今週はブラジルのジャズ・ピアニスト、Eliane EliasのAround The Cityです。
643号でSomething For Youのアルバムをご紹介しています。
今回ご紹介するAround The CityはElianeの歌声が主なので、ピアノは控えめになっています。耳障りのいい彼女の歌声と軽快なブラジリアンミュージックがとてもいいバランスのアルバムだと思います。

1. Running
2. Oye Como Va
3. Around the City
4. Jammin'
5. Segredos (Secrets)
6. We're So Good
7. Tropicalia
8. Slide Show
9. Vizinha Do Lado (The Next Door Neighboor)
10. Save Your Love for Me
11. Chiclete Com Banana
12. Another Day
13. Segredos (Secrets), Pt. 2

以下のURLで試聴できます。
http://mora.jp/package/80311905/828768022825/

雑貨屋ウィークリー537号から紹介をはじめたジャズのアルバムをリストにしました。
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

今週はワイフと伊勢への小旅行です。
ワクワクしています。

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.714

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com