龍翁余話(102)「吉田松陰没後150年」
翁が、『吉田松陰』や『松下村塾』に出会ったのは、中学3年生の時だった。翁が(大分県の田舎町から)神戸に遊学する年の春休みに、学友たち3人で維新の町・萩市(山口県)を旅した。翁に歴史、特に幕末史に興味を持たせてくれたのが、その萩旅行だった。松蔭生誕の家、松下村塾、松蔭幽閉時代の旧宅・松蔭歴史館などが松蔭神社の境内および周辺
にかたまっていたように記憶する。記憶、と言えば(それは多分、松蔭歴史館で見た松蔭略年表だったと思うが)「松蔭15歳の時(1844年・弘化元年)、藩主(毛利元周公)の前で『孫子虚実篇』を講義した」が目に止まって、翁は大きな衝撃を受けた。中学3年生の翁、『孫子』の名くらいは知っていたと思うが『孫子虚実篇』なんて知る由も無い。(後年、知り得た『孫子虚実篇』というのは、”孫子の兵法“の中の1扁であり、”敵の虚実を探り、敵を虚にし、味方を実にする、即ち実の敵を避け、虚の敵を撃つ“というのが大要)僅か15歳の少年が、こともあろうに(当時、雲上人であったであろう)藩主の前で『孫子』を論じた――これは同年輩の龍少年にとって完全に打ちのめされるほどの驚き(ショック)だった。が、同時に”歴史を学び、歴史に学ぶ“ことの大切さを痛感させられた。龍少年に大きな指標を与えてくれた松陰、今年(10月27日)は没後150年目にあたる。
『吉田松陰』30年の生涯を語るには、翁、未だその力及ばず、ただ『親思ふ こころにまさる親ごころ けふの音づれ 何ときくらん』(親を想う心の大切さ)『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂』(日本精神の有りよう)の松蔭遺詠が、翁のこれまでの人生に大きな影響を与えた、その感謝の一念で、松蔭没150年の節目に際し、彼が眠る小塚原回向院(東京・南千住)に墓参した。ここは、鈴が森刑場(大田区大井)、板橋刑場(板橋区板橋)と並んで江戸3大刑場の1つ小塚原(こづかっぱら)刑場の跡。
大老・井伊直弼による“安政の大獄”で処刑された松蔭(写真:左)、橋本左内(福井藩士)(写真:中左)、頼三樹三郎(儒学者、頼山陽の3男)(写真:中右)ら多数の憂国の志士たちがここに眠っている。いや、志士ばかりでなく、斬首の刑に処せられた犯罪者も多い。例えば怪盗・鼠小僧次郎吉、明治の毒婦・高橋お伝、その他、行き倒れになった無縁仏、地震や大火の犠牲者も埋葬されている。なお、この地は、江戸時代の蘭学医・杉田玄白が『解体新書』を完成させた場所としても有名である。
ところで読者各位は、『雲井龍雄』という名をご存知だろうか?戊辰の役(慶応4年〜明治2年、王政復古で成立した明治新政府が薩長土肥の軍事力を用いて親徳川幕府勢力を一掃した内戦)の時期、上杉藩政の中枢にいた雲井は“討薩檄”(官軍の主隊・薩摩軍を討つ檄文)を起草し、奥羽越(現在の東北6県と新潟)列藩同盟の奮起を促すが敗れて郷里・米沢にて禁固、維新で一時、集議院(明治初期の行政諮問機関)議員に登用されたが、新政府の方針に反発、旧幕臣救済の道を与えよと新政府に迫る。新政府はこれを“政府転覆罪”と見做し問答無用で小塚原刑場にて斬首の刑に処す(明治3年2月15日、享年27)。
翁が『雲井龍雄』を知ったのは5年前の米沢市訪問の時。翁の雅号が“龍雲”、その2文字の名を持つ彼に親しみを覚え、以後“雲井龍雄研究”を行なっているのだが、その成果は、いずれかの機会に披露するとして、回向院で彼の墓(写真:右端)を見つけた時は感激であった。でも、何故ここに『雲井龍雄の墓』が?――翁の想像だが、橋本左内の墓の套堂(さやどう=墓の囲い)を造った伊藤忠太(明治〜昭和期の建築家米沢出身)が同郷の志士を顕彰するために建立したのでは?――それにしても、彼の墓が鼠小僧や高橋お伝と並んで建てられていることに翁、大いに不満。但し、ちゃんとした墓は米沢市の常安寺にあり、雲井龍雄を愛する“雲井会”によって命日に合わせ墓前で雲井祭を催し遺徳を偲んでいると聞く。
さて「吉田松陰没後150年」を記念して、東京・世田谷の松陰神社では今月24、25の2日間「第18回幕末維新祭り」を開催。それにさきがけ(23日)、翁、同神社に参詣、松陰先生坐像、松陰ほか烈士墓所を参拝した後、神職に話を聴いた。小塚原回向院の墓には松陰の毛髪、萩の松陰神社には松陰が終生愛用した赤間硯と父兄に宛てた手紙が納められ、唯一、松陰の遺骨収納は、ここ世田谷の松陰神社だけ、ということだそうだ。拝殿横に建てられた『松下村塾』(レプリカ)(写真)の中から、松陰門下生・久坂玄瑞(攘夷倒幕活動家、禁門の変で自刃、享年25)、高杉晋作(倒幕活動家、奇兵隊創設者、慶応3年病死、享年29)、桂小五郎(木戸孝允、尊皇攘夷派の中心人物、坂本龍馬の計らいで薩摩の西郷隆盛と薩長連合を成し遂げた、明治新政府の重鎮、明治10年没、享年44)、品川弥二郎(新政府の内務大臣、信用組合法案起草者、日本の産業経済の礎を築く。明治33年没、享年58)、伊東博文(初代内閣総理大臣、明治42年ハハルピン駅にて暗殺される。享年69)、山縣有朋(松蔭最後の弟子、第3代、第9代内閣総理大臣、大正11年没、享年85)らの“日本国家百年の計”を激論し合う情熱の息吹が漂ってきそう。
語り尽くせないが終わりに、政治家諸君に松蔭遺訓を贈りたい。『自非軽一己労 寧得致兆民安』(自分の苦労をいとうような者に、どうして民の安らかな生活を築くことが出来ようか、けっして出来はしない)・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |