龍翁余話(101)「汽笛一声 新橋を」
久しぶりに、旧友のMさんと会った。彼は元・大手広告代理店D社の幹部だった。彼が定年退職して以来、3年ぶりの再会。場所は汐留(新橋)にあるD社ビル内のコーヒーショップ。Mさんと翁は、毎週のようにこの場所でコーヒーを数杯飲みながら、いろいろな企画アイデアで議論を交わしたものだ。店のマスターも2人の顔を覚えていて歓迎してくれた。
思い出話が終わる頃、彼が突然、言った「龍翁さん、今日(10月14日)は何の日か知っていますか?」返事に窮していると「鉄道の日です。このビル近くにある『旧新橋停車場』に行って見ませんか、資料室がありますよ」・・・そう言えば、初期の新橋駅は、今のJR新橋駅とは違って、ここ汐留にあった。しょっちゅうD社に来ていたのに、まだ1度も、その場所に行ったことがない。たまたま『鉄道の日』にMさんと会い、彼から資料室参観を誘われた、これも何かの因縁だと思って早速、行って見ることにした。
1872年(明治5年)10月14日、新橋〜横浜(桜木町)間に、日本初の鉄道が開通した。
歩くと、ほぼ1日かかった新橋〜横浜間を時速34キロ、約55分で走ったのだから、当時の人の驚き様はどんなものだったか。1日9往復、線路脇は毎日、黒山のような見物人で溢れた、と資料にある。乗客といえば、外国人のほか、いずれも上流階級や金持ち商人たち。庶民には高嶺の花、それもそのはず、汽車賃がべらぼうに高かった。調べてみたら、上等(1等)料金は1円12銭5厘、(中等はなく)下等で37銭5厘。当時、米30キロ(現在単位)が1円(現 約12,000円)の時代だったから、上等の乗客は片道、米30キロ強の運賃を払ったことになる。
『旧新橋停車場』跡には、当時の駅舎とプラットホームが再現され(写真:左)、その脇に、これまた当時のレールがそのまま保存されている(写真:中)。そのレールの上を最初に走った機関車は、イギリスから輸入した蒸気機関車150形(1号機関車=平成9年に国の重要文化財に指定された。さいたま市大宮の『鉄道博物館』に展示=写真:右)。
鉄道歴史資料館(室)のスペースは狭く、たいした展示物はない。だが、鉄道開業の歴史的な経緯や往時の新橋停車場と、汐留の活気ある様子などを伝える映像(プラズマディスプレイ)は楽しかった。その映像で得た学習結果を披露すると・・・明治新政府は当初、東京と大阪、敦賀などを結ぶ鉄道建設を考えていたが、資金難などの事情により計画は暗礁に乗り上げた。そこで政府は計画を大幅に縮小し、伊藤博文(初代内閣総理大臣)、井上勝(高級官僚、日本の鉄道の父)、大隈重信(第8代、第17代内閣総理大臣、早稲田大学創立者)らによって、まず新橋―横浜間を開業させた。当初の計画からすれば暫定的ともいえる鉄道開業は、当時、徳川幕府に代わる新しい政治体制への移行の過程で数々の混乱も起きる中、明治政府の強大な力を誇示し、新政府によって何かが「変わった」具体的な姿を見せる必要があったという側面も大きく、多分に政治色を含んだデモンストレーション的な意味あいが強かったようだ、と、映像は語っている。おや?何だか、新政権の民主党が「自民党時代とは変わる」とばかり、マニフェストのごり押しをしている様(さま)に似ているような気がするが・・・違うのは、日本の鉄道は国の発展に欠かせない基幹産業として着実に発展の一途を辿り、また最も身近な公共交通機関として、高速化・定時化・大量化・安全化に取り組み、経済・文化活動の要(かなめ)、国民生活の足として、確かな基盤を築いてきたことだ。民主党が果たして国家百年の計を立てられるかどうか・・・
別のプログラム(映像)を視る。1914年(大正3年)、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、新たに出来た烏森(からすもり)駅が“新橋駅”の名称を引き継ぎ、旧駅は“汐留駅”と改称、貨物専用駅となって物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えた。しかし“汐留駅”は1986年(昭和61年)にその使命を終え、周辺はD社やテレビ局、ホテルなどの高層ビルが建ち並び、ニュー・フロンティアに変貌した。
♪汽笛一声 新橋を・・・ 明治32年(1899)に発表された『鉄道唱歌』。Mさんの話によると、この唱歌、歌詞が320番以上もあり、東海道・山陽・九州・奥羽・北陸・関西・北海道など日本中を巡る“地理教育の歌”だったそうだ。作詩者は大和田建樹(おおわだ
たけき)東京高等師範学校(現 筑波大学)教授、作曲者は数人いたが、多 梅稚(おおの うめわか)大阪師範学校(現 大阪教育大学)教授と、上 眞行(うえ さねみち)東京音楽学校(現 東京芸術大学)講師が代表格、一般的に歌われているメロディは、多梅稚の曲、と資料にある。ともあれ、♪汽笛一声 新橋を・・・『龍翁余話』の新たな旅立ち(101号)に相応しい鉄道歴史資料室の参観であったと思う。Mさんに感謝!
“汽車“が大好きな4歳くらいの男の子がいた。その男の子は、時々、小さな駅の改札口を潜り抜け、プラットホームの先端に座り込んで怪物を待つ。やがて、モクモクと煙を噴き上げながら黒光りの怪物が迫って来る。男の子はドキドキしながら、負けるものか、と、歯を食いしばって巨大な怪物と対峙する。数少ない乗降客を見届けてから、怪物は、いきがっている男の子を無視して「ポー」の一声を発し、ひときわ大きな煙と蒸気を吐きながら、ゆっくりとホームを離れる。その時、男の子は、怪物を追い払った、という勝利感と同時に、何故か、離れがたい寂しさを覚えたものだ”――翁の幼い頃の思い出が蘇る・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 |