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NO.701                Ryo Onishi              10/18/2009  

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雑貨屋のひとり言

我が家のすぐ前(雨にぬれずに行くことができる距離)に大きなショッピングモールが完成しました。グランドオープンは10月20日なのですが、プレオープンと称して14日から営業しています。阪神百貨店、平和堂、シネマコンプレックス、その他150の店舗が入ったモールです。強力な磁石に吸い寄せられているように連日大勢の人で賑わっています。近くのショッピング街、レストランは閑古鳥が鳴いています。この地域には大きなショッピングセンターがたくさんでき、はげしい競争が続いています。また同じ敷地内に、フィットネスクラブがオープンし、こちらも大盛況です。私たちも会員になり、楽しみが増えまた。しばらくはワイフと探索の日々が続きます。≪R.O≫

雑貨屋ウイークリー700号

当「雑貨屋ウイークリー」が前回で700号に到達しました。しかもこの700号はただの一度も休むことなく連続700週(創刊予告号も含めれば、連続701週)であり、発行者である大西店主に対し、ただ感嘆・尊敬あるのみです。

大西さんは前号で『毎週、雑貨屋ウィークリーを発行していたら、とうとう700号まで来ました・・』と、さりげなく表現していましたが、700週前の1996年5月からほゞ14年、よく続けられたものです。今では日本の首相までが国民に向けて「メルマガ」を発行していますが、当「雑貨屋ウイークリー」はこれら「メルマガ」の創生期を飾るものではないでしょうか。

14年前、当時の私にとって、ウェブがどうの、ドット・コムがどうの、などと口にしていた大西さんは“エイリアン(異星人)”以外の何ものでもありませんでした。そしてその大西さんがウエブ・ニュースレターを『創刊予告号』、『創刊号』としてスタートし、以来タイトル名は「News Letter from Ryo Onishi」 → 「雑貨屋 News Letter」 → 「Zakkaya Weekly」と変りながらも、遂に700号まで到達したのです。

 14年前といえば、そのころの私は企業定年による引退を1年後に控え、おくればせながらようやくデジタル革命の大きさに気付き、慌ててパソコン入門クラスに顔を突っ込んだばかりでした。そんな私も意外と早く“エイリアン”の仲間入りを果たすことになり、ナント「News Letter from Ryo Onishi、第16号」に初投稿し、次が第19号、そして次の第20号から“あまり知られていないL.A.観光スポット”シリーズをスタートさせ、大西さんのご好意で「雑貨屋」の常連に加えていただきました。

 以後、私もサラリーマン(駐在員)、定年退職と環境は大きく変ったものの、“雑貨屋”への投稿を続け、気がついたらこの原稿で672回(うち“観光スポット案内”214回)の投稿になりました。私の“観光スポット案内”への問い合わせのおかげで、日本とアメリカの見ず知らずの多くの人々とも知り合いになることも出来、また、実際にツアーを計画してご一緒させてもらったこともあり、楽しい思いもさせてもらっています。

発刊当初は「たかがメルマガ」だったものが継続して発行されれば反響も含めて対外的な影響力まで発揮しています。私の「L.A.観光スポット案内」も含め、これまでに受信した問い合わせや反応も多数あり、その殆どが私とは面識のない人々からのものです。

数年前のこと、日本の見知らぬ女性からE-メールが入り、「雑貨屋であなたのことを知りました。実はロサンゼルスのガラスの教会で結婚式を挙げたいと思っています。式場の手配は日本のエージェントで出来ましたが、海の見えるレストランで披露宴をしたいのですが・・」と、相談のメールを受け、その人の希望にそったところを紹介してあげ、たいへん感謝されたこともありました。

また、ある時は、日本の大手有名企業から「当社の風力発電事業のホームページに貴殿のPalm Springs Wind Farm(風力発電所)の原稿と写真を使わせていただきたい」とのメールを受けました。私の観光スポット案内記事はこの他、当地の日刊紙やタウン誌にも多数提供しています。

仲間内の友人だけでなく、意外な人からも「雑貨屋ウイークリーを拝読しています」といわれたりするたびに「継続は力」という言葉をかみしめています。祝、700号!

  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言ぬかよろこび

1980年代(昭和55年〜)に『ぬかよろこび』という“糠(ぬか)漬けの素”(森永製菓製造・販売)があった。密閉容器に粉末を入れ水に溶かし、大根、人参等の野菜を漬け込み冷蔵庫で保管、すると、はい、出来上がり!糠床の面倒な管理の手間や、あの独特の匂いを気にすることもなく、本格的な美味しい糠漬けを食べることが出来た。都会生活者や独身者、海外在住日本人たちに人気を博したという。かく言うさくらも、米国在住中、異なる文化の中で探し当てた逸品だと、生来、糠漬け好きの私を喜ばせ、長く愛用したものだった。ところが、日本に帰ってきて、どの街のどの店で探しても、この商品は見つからない。企業の製造・販売戦略なのかもしれないが、いまやあの喜びは、その商品名とともに『ぬかよろこび』になってしまった。っが、そのままで終わらないのが、これまたさくらの“ぬかよろこび”・・・

「エプロンの似合うお嫁さんになりたい」とは、長年の私の希望だった。本人のこの真剣な希望を“遥か遠くの夢物語”と周りの人は笑っていた。その”夢“が、2年前に実現した。エプロンが似合かどうかは主人に訊いてみないと分からないが、古き時代の主婦のイメージにある幾つかの真似ごとを楽しんではいる。そのひとつに、糠漬け作りがある。これも私の長年の希望の一つで、最近、主人の母親から貰った糠床を自分なりに工夫・管理したりすることが何とも楽しい。まだまだ修行中の”真似ごと主婦“だが、さくらの喜びは、毎食、食卓の片隅に添える糠漬けの味具合について夫から感想をもらえること。ほんの些細な、それこそ糠(ちっぽけな、細かい、はかない、頼りないという意味)の様なことだと笑われるかもしれないが、私にとっては大きな喜び、生活のアクセント、見えないエプロンが似合うという価値なのだ。糠床作りの色々様々な工夫や努力は、企業や行政を揺るがす大事というほどのものではないが、人を生かすか殺すか、糠を生かすか殺すか、という点で、人材つくりも糠床つくりも、どこか似たようなファクターをもっているような気がする。ちょっと大げさかもしれないが、チャレンジ精神、愛、勇気ある決断(勘)を必要とするのだ。そしてそれは、まさに”エプロンプロ予備軍“としての、さくらの生活に張りをもたせる営みなのである。

ところで、その家々や地方によって伝わる慣わしやしきたりに付随して“伝わる味”というものがある。冠婚葬祭や年次・季節行事、その他の祝い事の料理(調理)方法と味付け、普段でも、ダシ、味噌、醤油、漬物などにそれぞれの特徴がある。地方によって、また、それぞれの家庭によって形や味は違うけど、引き継がれる想い、願い、愛など、事実や真実はみな同じである。“想い・願い・愛”があるところに人は育ち、人は結ばれ、絆も深まり、独自の文化が継承される。しかし、それなりの努力を怠ると物も人も伝統も腐ってしまう。繰り返し言うが、糠床も企業も行政(政治)も“想い・願い・愛”がなければ成り立たない。それは、いずれも生きているもの、だから。

思えば、私は「野菜類のお漬物・沢庵」にはわりと凝ってきた方かもしれない。それは、私の両祖母の影響が強い。私の母の母である祖母は、白菜の季節になると、自分が漬けた白菜漬けを7人のこどもに、均等に1樽ずつ送った。毎年のことだった。一方、父の母である祖母は、毎年2樽の奈良漬けを作り、10人近い子どもたちがそれをもらいに集まった。2人の祖母の味は、同じ材料や調味料を使って私たちが再現しようと試みても、とうてい到達できない幻の味となってしまった。今や恋しい味である。その幻の味に少しでも近づこうと、今日もまた糠漬け作りに励む私、そして夫との“糠漬け談義”に喜ぶ私。文字通りの“糠(ぬか)よろこび”、されど私にとっては大きな喜びでなのよ・・・っと、呟く、さくらの独り言。
 

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

財外相 妻が兼務で恙ない

恐い顔してもダルマと親しまれ

長老の知恵パソコンが借りに来る

これからは長寿をライバルと競う

日々生きる 泣く葦笑う葦でいて

( ニュースやぶにらみ )

「首相、国債増発容認を示唆」
そして次は? −消費税

「3兆円財源確保」
個人献金をしてでも −鳩山首相

「コボちゃんママ妊娠」
早速効果が −こども手当

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺ぶらり散歩(30)
*林芙美子 ―南天堂書房
句会場を出て右へ徒歩5分ほど、白山通りの手前右側に、前回少し触れた南天堂書房があります。大正から昭和初期にかけては、1階は本屋でしたが2階はカフェレストランでアナーキスト、ダダイスト、国家社会主義者、新感覚派とあらゆる立場の思想家、芸術家のたまり場で、大杉栄や伊藤野枝まで出入りしていました。 林芙美子「放浪記第三部」より今日も南天堂はよいどれでいっぱい。辻潤の禿頭に口紅がついている。浅草のオペラ館で、木村時子につけて貰った紅だと御自慢 平林たい子「林芙美子」より 南天堂グループの思想の沸り立つ激越な刺戟は芙美子さんを忽ち開花させた。彼女は、思想としてのアナーキズムは嫌っていたが、にもかかわらず、そこで、萩原恭次郎や小野十三郎、壷井繁治、野村善哉、相川俊孝、岡本潤、R、辻潤その他の人々と知合いになったことが、生涯を決める動機となった。彼女はここで、自分が半生の間、他人と連帯性なく孤独の胸に抱いていた反抗心に共鳴する協和音をききつけた。川本三郎「林芙美子の昭和」より 「よく集まって、喧嘩なんかしてました。今東光なんかも喧嘩してたんです」(略)このサロンは男女の関係もアナーキーだった(略)林芙美子は田辺若男と同棲していたのにすぐに別れて野村善哉と一緒になり、また岡本潤に岡惚れするというように。この間東洋大生Kとも同棲。   森光子主演の舞台「放浪記」では、南天堂で「どうとでもしてくれ」ってテーブルの上に引っ繰り返って足を広げる場面があるそうですが、ご覧になった方はいますか。  昭和5年10月「女人芸術」に「放浪記」を連載。同7年、「放浪記」を刊行。大ベストセラーになるのですが、その出版記念会も南天堂で行われました。

森田さんから

今週はお休みです。

龍翁余話

龍翁余話(101)「汽笛一声 新橋を」

久しぶりに、旧友のMさんと会った。彼は元・大手広告代理店D社の幹部だった。彼が定年退職して以来、3年ぶりの再会。場所は汐留(新橋)にあるD社ビル内のコーヒーショップ。Mさんと翁は、毎週のようにこの場所でコーヒーを数杯飲みながら、いろいろな企画アイデアで議論を交わしたものだ。店のマスターも2人の顔を覚えていて歓迎してくれた。
思い出話が終わる頃、彼が突然、言った「龍翁さん、今日(10月14日)は何の日か知っていますか?」返事に窮していると「鉄道の日です。このビル近くにある『旧新橋停車場』に行って見ませんか、資料室がありますよ」・・・そう言えば、初期の新橋駅は、今のJR新橋駅とは違って、ここ汐留にあった。しょっちゅうD社に来ていたのに、まだ1度も、その場所に行ったことがない。たまたま『鉄道の日』にMさんと会い、彼から資料室参観を誘われた、これも何かの因縁だと思って早速、行って見ることにした。

1872年(明治5年)10月14日、新橋〜横浜(桜木町)間に、日本初の鉄道が開通した。
歩くと、ほぼ1日かかった新橋〜横浜間を時速34キロ、約55分で走ったのだから、当時の人の驚き様はどんなものだったか。1日9往復、線路脇は毎日、黒山のような見物人で溢れた、と資料にある。乗客といえば、外国人のほか、いずれも上流階級や金持ち商人たち。庶民には高嶺の花、それもそのはず、汽車賃がべらぼうに高かった。調べてみたら、上等(1等)料金は1円12銭5厘、(中等はなく)下等で37銭5厘。当時、米30キロ(現在単位)が1円(現 約12,000円)の時代だったから、上等の乗客は片道、米30キロ強の運賃を払ったことになる。 

『旧新橋停車場』跡には、当時の駅舎とプラットホームが再現され(写真:左)、その脇に、これまた当時のレールがそのまま保存されている(写真:中)。そのレールの上を最初に走った機関車は、イギリスから輸入した蒸気機関車150形(1号機関車=平成9年に国の重要文化財に指定された。さいたま市大宮の『鉄道博物館』に展示=写真:右)。

鉄道歴史資料館(室)のスペースは狭く、たいした展示物はない。だが、鉄道開業の歴史的な経緯や往時の新橋停車場と、汐留の活気ある様子などを伝える映像(プラズマディスプレイ)は楽しかった。その映像で得た学習結果を披露すると・・・明治新政府は当初、東京と大阪、敦賀などを結ぶ鉄道建設を考えていたが、資金難などの事情により計画は暗礁に乗り上げた。そこで政府は計画を大幅に縮小し、伊藤博文(初代内閣総理大臣)、井上勝(高級官僚、日本の鉄道の父)、大隈重信(第8代、第17代内閣総理大臣、早稲田大学創立者)らによって、まず新橋―横浜間を開業させた。当初の計画からすれば暫定的ともいえる鉄道開業は、当時、徳川幕府に代わる新しい政治体制への移行の過程で数々の混乱も起きる中、明治政府の強大な力を誇示し、新政府によって何かが「変わった」具体的な姿を見せる必要があったという側面も大きく、多分に政治色を含んだデモンストレーション的な意味あいが強かったようだ、と、映像は語っている。おや?何だか、新政権の民主党が「自民党時代とは変わる」とばかり、マニフェストのごり押しをしている様(さま)に似ているような気がするが・・・違うのは、日本の鉄道は国の発展に欠かせない基幹産業として着実に発展の一途を辿り、また最も身近な公共交通機関として、高速化・定時化・大量化・安全化に取り組み、経済・文化活動の要(かなめ)、国民生活の足として、確かな基盤を築いてきたことだ。民主党が果たして国家百年の計を立てられるかどうか・・・

別のプログラム(映像)を視る。1914年(大正3年)、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、新たに出来た烏森(からすもり)駅が“新橋駅”の名称を引き継ぎ、旧駅は“汐留駅”と改称、貨物専用駅となって物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えた。しかし“汐留駅”は1986年(昭和61年)にその使命を終え、周辺はD社やテレビ局、ホテルなどの高層ビルが建ち並び、ニュー・フロンティアに変貌した。

♪汽笛一声 新橋を・・・ 明治32年(1899)に発表された『鉄道唱歌』。Mさんの話によると、この唱歌、歌詞が320番以上もあり、東海道・山陽・九州・奥羽・北陸・関西・北海道など日本中を巡る“地理教育の歌”だったそうだ。作詩者は大和田建樹(おおわだ
たけき)東京高等師範学校(現 筑波大学)教授、作曲者は数人いたが、多 梅稚(おおの うめわか)大阪師範学校(現 大阪教育大学)教授と、上 眞行(うえ さねみち)東京音楽学校(現 東京芸術大学)講師が代表格、一般的に歌われているメロディは、多梅稚の曲、と資料にある。ともあれ、♪汽笛一声 新橋を・・・『龍翁余話』の新たな旅立ち(101号)に相応しい鉄道歴史資料室の参観であったと思う。Mさんに感謝!

“汽車“が大好きな4歳くらいの男の子がいた。その男の子は、時々、小さな駅の改札口を潜り抜け、プラットホームの先端に座り込んで怪物を待つ。やがて、モクモクと煙を噴き上げながら黒光りの怪物が迫って来る。男の子はドキドキしながら、負けるものか、と、歯を食いしばって巨大な怪物と対峙する。数少ない乗降客を見届けてから、怪物は、いきがっている男の子を無視して「ポー」の一声を発し、ひときわ大きな煙と蒸気を吐きながら、ゆっくりとホームを離れる。その時、男の子は、怪物を追い払った、という勝利感と同時に、何故か、離れがたい寂しさを覚えたものだ”――翁の幼い頃の思い出が蘇る・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

 

音楽ソフトをこれまで使っていたソニーのSonicStageからX‐アプリに変えました。
おもしろい機能がたくさんあり楽しめます。
PCが壊れて失った10000曲以上のファイルを少しずつ入れなおしています。
このソフトの"おまかせチャンネル"は、聴きたいときの気分や季節、時間帯で曲を選んでくれるので新しい発見があります。秋に合うアルバムということで探したらSir Roland Hanna Trioの曲が入っていたので今日はこれを選びました。

Milano, Paris, New York: Finding John Lewis  
Sir Roland Hanna Trio

1 Django
2 Skating In Central Park
3 Afternoon In Paris
4 Milano
5 Bag’S Groove
6 New York 19
7 Portrait Of John Lewis
8 The Clarion Bells Of Zurich
9 Perugia


雑貨屋ウィークリー537号から紹介をはじめたジャズのアルバムをリストにしました。
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

PCのCPUをPentium4からCore2 Quad Q8400にグレードアップしました。
マザーボードはP5Qハードディスクは500GBを内蔵し、500GBの外付けでバックアップすることにしました。電源も静かなものに代え、電力消費も抑えました。

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.701

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com