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NO.696                Ryo Onishi              9/13/2009  

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雑貨屋のひとり言

今月の連休はカナダで知り合った南ご夫妻、松本ご夫妻に会いに出雲に行く予定です。5年前に白川郷で10年ぶりの再会をし、片山津温泉で楽しいひと時を過ごしました。10年ごとに会う約束だったのですが少し歳をとってきたので5年ごとに しました。その5年があっという間に過ぎ、再会の日が近づいてきました。松本ご夫妻は千葉から、南ご夫妻は静岡からです。私たちは比較的近いので車で行こうと思います。例のETC割引を活用させていただいて。
≪R.O≫

ルート66覚え書き(7)

  ――― 前号からの続き ―――
第7章:インターステート・ハイウエイはアメリカを変えた

(1)1950年、朝鮮動乱が起き、国連軍の一員として朝鮮半島に派兵したアメリカは、トルーマン大統領が「金も人手もない」と言う考えから、ハイウエイ計画は一時萎縮した。

(2)1953年、第34代大統領になったドワイト・アイゼンハウアー(アイク)は過去の軍人としての経験から、道路に関する関心が高く、頓挫していたインターステイト・ハイウエイの工事を再開する決意をする。ただ朝鮮動乱後の経済停滞を恐れる議会の説得に手間取ったが、「車が増え、道路が良くなることは、国家と国民がより良い生活水準に達すると言うことである」と信じるアイクは、ついにこれまでどんな大統領も考えなかった先鋭的なプランを生み出した。
   “500億ドルをかけて40,000マイルのスーパー・ハイウエイを作る。”

  当時、アメリカ連邦政府の全予算が710億ドル時代であり、マーシャル・プラン(欧州復興計画予算ですら170億ドルだったので、アイクの計画がどれほど壮大なものであったかわかる。
  <注>:インターステート・ハイウエイの規格は次の通り。
・少なくとも12フィート幅の4車線対向道路。
・22フィートの中央分離帯と10フィートの路肩。

(3)次の選択は、この巨大プロジェクトの費用をどうするか ―― ガソリン税か有料道路か ―― であった。

(4)アイクは当初は有料道路派だったか、軍人出身の彼は道路問題を国防問題と位置付け、1956年、建設費のほゞ90%を連邦予算、残りを州政府予算の分担とし、名称も「全国高速道路網(National Express Way Network)」から、「州間及び国防ハイウエイ全国網(National System of Interstate And Defense Highway)」と変え、立法化した。

(5)だが現実には工事は思うようにははかどらず、当初の予想以上に時間と予算がかかり、議会は早期完成を目的とした資金調達のため、ガソリン税の2%値上げ他も実施された。

(6)インターステート・ハイウエイの出現はアメリカ人の生き方を大きく変えた。
    ・大規模店舗が営業可能になった。
    ・小規模店舗の集合体であるショッピングセンター(モール)ガ生まれた。
    ・市街地の「ドーナッツ現象」が起こり、住民が町の中心から郊外へ。
    ・ダウンタウンの廃墟化が進んだ。

(7)インターステート・ハイウエイの出現はアメリカの自動車文化をより一層興隆させた。     
――― 次号へ続く ――― 

  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「」

今週はおやすみです。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

新ボスにドングリ山が騒がしい

前列のその真ん中にブルータス

敵よりも怖い味方の裏の顔

理念とは別の笑顔でする握手

Yes We Can 総論が勇ましい

( ニュースやぶにらみ )

「連立の本音」
社民と国民新の「民」とだけ −民主党

「自民との協力関係」
白紙です −公明党再生紙

「打ち上げ成功」
日本の宇宙技術 −H2B初号機

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

 

森田さんから

モハビ砂漠を行く(1)
 知ると知らないでは

                               森田のりえ
 六月十日朝七時、濃霧のため次から次に車が追突する事故が起きた。道路は七時間にわたり通行止めになる大惨事となった。場所はサンバルナルディーノを過ぎたフリーウェイ十五号線のカホン峠である。
 運がいいとしか言いようのない話だが、当日、私は友だちと早朝に出発してカホン峠を通り、モハビ砂漠へ行くつもりでいた。ところが前日になって急用が出来、予定を一日ずらしたのである。事故の起きた翌朝「間一髪で惨事に遇うところだったね」と話しながらカホン峠に入った。事故の形跡はどこにもない。やがて民家を離れ、茶褐色の荒涼とした大地が拡がる車窓風景になった。私は渡米した当時のことを卒然と思い出していた。
「すごいでしょ、これがモハビ砂漠よ」
ラスベガスへ行く車中で従姉妹がこういったが、私の思い描いていた砂漠は、見渡すかぎり風紋の砂丘がうねりながら続いていると思っていたから「これが?」と、訝った。
あれから四十年近く経つ。この話を同行の友だちにすると、
「あら、わたしも同じよ。『月の砂漠』の歌詞から砂丘をイメージしていたから、荒野を砂漠といわれても納得できなかったわ」
すると、政府の仕事をしていた友人は、丁寧な言葉遣いで、
「砂漠とは、雨の少ない乾燥気候のため、植物がほとんど育たず、岩石や砂礫でおおわれている荒野も砂漠といいます」
と、辞書にあるような答え方をした。
最近は見かけなくなったが、以前はよく砂漠のド真ん中に「For sale」と書かれた広告が立っていた記憶がある。なんの役にも立ちそうにもない不毛の大地は売り買いする価値があるのかと友人に尋ねると、砂漠には鉱物資源が眠っている場合が多々あり、砂利も鉱物資源とみなされたというのだ。
「ほら、あそこをごらんなさい」
指差された方角を見ると、砂利を採取している場所が車窓を流れた。
そして、友人はこんな話をしてくれた。
「十九世紀中頃、カリフォルニヤで金鉱がみつかり、山師たちが山地をうろつきはじめました。ゴールド・ラッシュです。これを契機に一八七二年に鉱山法が制定されました」
鉱山法では誰でも自由に国有地に入って鉱石を採取できる。それには先ず「この土地は私の鉱区です」と、郡に登録する。また、鉱区権の売買も自由。自分の登録した鉱区を私有地にしたければ、政府に売ってくださいと申請する。開発して採算が取れると判断すれば国有地は民間に払い下げられる。
「鉱山法では一エーカー、五ドルまたは二ドル五十セントと決められ、それはいまも変っていません」
「えっ! そんなに安く?」
「鉱山法が制定された当時の物価と現在は違いますから・・・」
「そんな値段だったら、いまなら誰でも買えますよね。もしかしたら、自分の鉱区を持っていらっしゃるのでは?」
失礼な質問を矢継ぎ早にした。
「政府の役人とその家族は買えません」
しかしですね、と友人は続けた。 
「複雑な問題があり、いまは登録を受け付けていません。据え置きです」
そんな講釈を聞いていると行く予定にしていた『キャリコ』への道を間違えてしまった。行き交う車もない。引き返すため舗装道路から砂利道に入った。いきなりガタガタッと車が分解するほど揺れた。
キャリコ銀鉱は、一八八一年に銀が発見され最盛期には千二百人の住民がいたが銀の値段が下がり二六年後には完全にゴスート・タウンとなった。現在は最盛期時代の鉱山区を再現し公園として郡が運営している。
一攫千金を夢見た兄弟が坑道内に寝泊りしながら奥深く掘り進んだが銀脈を見つけることが出来ず断念した坑道。少年が廃坑に入って銀脈を見つけ大金持ちになったとか。鉱区を見学できるトロッコ案内。岩肌に小石を積み重ねただけの粗末な住居跡、最盛期には学校やサロンに赤線地帯もあり、西部の男たちの荒々しい息遣いが聞えてきそうであった。
見学を終えて外へ出た。休む木陰もない。お椀をひっくり返したような縦ずれ断層を目の前にして、炎天下のベンチでおにぎりの昼食をとった。ここを訪れるのは、今回で二度目である。最初は日本から姉がきた三十年前だが、どんな様子だったか全くといっていいほど覚えていない。が、今回は違う。地質学には詳しい友人が一緒だ。おまけに解説付きである。知ると知らないでは大違い。無味乾燥だと思っていたモハビ砂漠が活きてきた。
こりゃ、おもしろい旅になりそうだ。
                                  つづく             

龍翁余話

龍翁余話(96)「8年目の9.11(米国同時多発テロ)」

2001年9月11日の夜、9時からのNHKニュース(たしか台風関連のニュースだったか?)をソファーに横たわって視ているうちに、いつの間にか寝入ってしまったところへ突然の電話ベル。時計を見る、23時前(だったと記憶する)。「誰だ、今頃」とブツブツ言いながら起き上がって電話機の傍へ行き「誰だ?」と不機嫌に電話に出た。ニューヨークの友人グレッグ(アメリカABC放送ニューヨーク支局の記者)が荒い息遣いで「テレビを視ているか?急いでテレビを視ろ!」と叫ぶ。つけっ放しだったNHKの画面に目をやる。どこかの高層ビルが燃えている。「これ、映画か?」と訊いたら彼「ライブ(ナマの映像)だ!」と怒鳴る。あ、これはニューヨークの世界貿易センタービルではないか!翁、ようやく正気に戻った。「いったい、何が起きたんだ?」「分からないが旅客機が激突した。あっ、また1機が、あっ、危ない!」その通りの映像がNHKの画面に大写しになる。もう1つのノッポビルの中腹に突っ込んだ。グレッグがまた叫んだ「これは大変だ!テロだ!」と言って電話を切った。この惨事のテレビ放映は日付が変わっても延々と続く・・・

実は、今号に「9.11」を取り上げることを躊躇した。今更という思いがあって、あまり気乗りがしなかったのだが、たまたま翁、手術のあとの自宅療養中、9月10日の午後のテレビで『ユナイテッド93』(テレビ東京系)、11日夜の『ワールド・トレード・センター』(日本テレビ系)(いずれもアメリカ映画)を観て腹を決めた。あの惨劇は、単にアメリカを狙っただけではなく日本を含む自由(資本主義)社会への挑戦とも言うべきテロ事件であり、日本もまたいつの日か標的にされかねない危険を孕んでいることから、絶対に風化させてはいけないという思いがつのった。時は政権交代で、民主党がこれからの日本の命運を握ろうとしている。しかし、民主党のマニフェストには具体的に“国家危機管理”が謳われていない。危なくて仕方ない。翁、新政権の国家危機管理意識とその在り方を問いただしたい、という思いを強くして筆を進めることにした。

「9.11」を振り返ってみよう。(いずれも現地時間)2001年9月11日、ボストン(ローガン国際空港)発ロサンゼルス行きのアメリカン航空11便(乗客乗員92名)は7:54に出発、8:14ごろハイジャックされ、8:46にニューヨーク世界貿易センタービル(ツインタワー110階)北棟に突入。
同じくボストン(ローガン国際空港)発ロサンゼルス行きのユナイテッド航空175便(乗員乗客65名)は8:14に出発、管制部とアメリカン航空11便のハイジャックに関する交信を交わしたにもかかわらず8:43ごろハイジャックされ、9:03に世界貿易センタービル(ツインタワー)南棟に突入炎上。
ワシントンDC(ダレス国際空港)発ロサンゼルス行きアメリカン航空77便(乗員乗客64名)は8:20に出発、8:50ごろハイジャックされ、バージニア州アーリントンにあるアメリカ国防省(ペンタゴン)の建物の一部に突っ込んだ。
ニュージャージー州ニューアーク国際空港発サンフランシスコ行きユナイテッド93便(乗員乗客44名)は8:42に出発、9:27にハイジャックされた。機内電話や携帯電話での外部との連絡で、テログループによるホワイトハウスを狙った自爆テロであることを確認した乗客たちは、勇敢にも機の奪還を図る。翁が視た映画『ユナイテッド93』だ。その事実は管制部との交信記録で明らかにされている。しかし、結果的には奪還ならず、機はワシントンDCの北西240キロのペンシルベニア州シャンクスヴィル付近で墜落炎上、全員が死亡、その中に1人の日本人大学生もいた。乗客たちがテロリストたちに反撃した際、「Let’ Roll(さあ、やろうぜ)」を合図にしたと言われる。「9.11」以後、アメリカがアフガニスタンへの報復戦争に踏み切ったが、その際、軍用機の胴体に「Let’ Roll」の文字を描くなど、しばらくは、この言葉をテロと戦うスローガンにしたそうだ。

「9.11」の3週間後、翁、ニューヨークに飛んだ。友人グレッグが用意してくれたゲスト・プレスカード(招待記者証)と彼のサポートがなければ、ケネディ国際空港で追い返されたかもしれない。武装した州兵たちが血眼で乗客一人ひとりをチェックする、それほどの厳戒態勢がしかれていた。世界貿易センタービル(被災現場)には近づけなかったが、まるで戦禍の跡だ。厳戒、異臭、異様(異常)、緊張は、マンハッタン全島を覆っていた。
4年後の2005年5月、翁、再び世界貿易センタービルの跡地(グラウンド・ゼロ)に立った。広大な穴(爆心地)の周囲は金網が張られ、随所には献花の山と祈る人々、翁も持っていたペットボトル(水)を一角に捧げ、犠牲者(約3000人)のご冥福を祈った。グレッグが提供してくれた「9.11」の生々しい惨状記録写真約50枚は、今でも翁のパソコンに大切に保存している。

あれから8年が経った。その間、ロンドンやバリ島などでテロ事件が起きた。幸いに日本国内及び外国に駐在する日本施設への攻撃はない。が、将来、テロ攻撃を受けないという保障はどこにもない。いや、アメリカとの同盟関係がある限り、標的となり得る可能性は大である。ましてや日本は(アメリカの要請で)アフガン侵攻、イラク戦争に後方支援として自衛隊を送った。現在もなお給油活動を行なっている。次期政権(民主党・民社党)は、これらの自衛隊派遣にことごとく反対してきた。マスコミは、一部の左翼系学識者や評論家を使ってアメリカ非難の世論を形成しようとする。「平和憲法」も大切、「同盟国としてアメリカにモノ申す」ことも必要だろう。だが、そんな耳障りのいいことばかりでコトが収まるだろうか?否、マスコミが“靖国神社叩き”をすることによって中国や韓国を喜ばせるように、テロ集団もまた、日本のマスコミの“甘ったるい隙間だらけの論評”を歓迎するだろう。北朝鮮の脅威を含め、国家危機管理の具体的な戦略の構築を新政権に期待することは無理だろうか?内政の安定は当然だが、外敵から領土と国民を守れない政府は、いずれ国を滅ぼすことを肝に銘じて貰いたい・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

 

The Tatum Group Masterpieces, Vol. 6
Art Tatum

1. Just One Of Those Things
2. More Than You Know
3. Some Other Spring
4. If
5. Blue Lou
6. Love For Sale
7. Isn't It Romantic
8. I'll Never Be The Same
9. I Guess I'll Have To Change My Plans
10. Trio Blues

歯切れのいいピアノでアップテンポな曲が多いアルバムです。とてもいいジャズだと思います。秋の夜長に聴く、いいですね。
Art Tatumは1910年オハイヨ州生まれ、生まれつき眼に異常があって盲目に近い状態だったそうですが、すばらしい作品を残しています。
The Tatum Group MasterpiecesシリーズでたくさんCDが出ています。


雑貨屋ウィークリー537号から紹介をはじめたジャズのアルバムをリストにしました。
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

昼間の日差しはまだきついですが、朝夕は涼しくなって半袖ではちょっと肌寒いくらいです。こういう時期はいろんな服装が混在して面白いですね。
次号は出雲に行くので発行が帰ってから(月曜日)になります。なんとその後すぐに息子夫婦といっしょにバリ島に行くことになっています。今月は楽しみがいっぱいです。

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.696

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com