――― 前号からの続き ―――
第7章:インターステート・ハイウエイはアメリカを変えた
(1)1950年、朝鮮動乱が起き、国連軍の一員として朝鮮半島に派兵したアメリカは、トルーマン大統領が「金も人手もない」と言う考えから、ハイウエイ計画は一時萎縮した。
(2)1953年、第34代大統領になったドワイト・アイゼンハウアー(アイク)は過去の軍人としての経験から、道路に関する関心が高く、頓挫していたインターステイト・ハイウエイの工事を再開する決意をする。ただ朝鮮動乱後の経済停滞を恐れる議会の説得に手間取ったが、「車が増え、道路が良くなることは、国家と国民がより良い生活水準に達すると言うことである」と信じるアイクは、ついにこれまでどんな大統領も考えなかった先鋭的なプランを生み出した。
“500億ドルをかけて40,000マイルのスーパー・ハイウエイを作る。”
当時、アメリカ連邦政府の全予算が710億ドル時代であり、マーシャル・プラン(欧州復興計画予算ですら170億ドルだったので、アイクの計画がどれほど壮大なものであったかわかる。
<注>:インターステート・ハイウエイの規格は次の通り。
・少なくとも12フィート幅の4車線対向道路。
・22フィートの中央分離帯と10フィートの路肩。
(3)次の選択は、この巨大プロジェクトの費用をどうするか ―― ガソリン税か有料道路か ―― であった。
(4)アイクは当初は有料道路派だったか、軍人出身の彼は道路問題を国防問題と位置付け、1956年、建設費のほゞ90%を連邦予算、残りを州政府予算の分担とし、名称も「全国高速道路網(National
Express Way Network)」から、「州間及び国防ハイウエイ全国網(National System of
Interstate And Defense Highway)」と変え、立法化した。
(5)だが現実には工事は思うようにははかどらず、当初の予想以上に時間と予算がかかり、議会は早期完成を目的とした資金調達のため、ガソリン税の2%値上げ他も実施された。
(6)インターステート・ハイウエイの出現はアメリカ人の生き方を大きく変えた。
・大規模店舗が営業可能になった。
・小規模店舗の集合体であるショッピングセンター(モール)ガ生まれた。
・市街地の「ドーナッツ現象」が起こり、住民が町の中心から郊外へ。
・ダウンタウンの廃墟化が進んだ。
(7)インターステート・ハイウエイの出現はアメリカの自動車文化をより一層興隆させた。
――― 次号へ続く ―――
河合将介(skawai@earthlink.net) |