――― 前号からの続き ―――
第5章:スーパーハイウエイへの胎動
(1)、1924年、ヨーロッパのドイツでは野心的な若き指導者ヒトラーの命令により、“アウトバーン”着工。
(2)、1934年、第32代大統領のフランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)が「大陸横断スーパーハイウエイ」構想の検討を始めるが、結果的には不況、資金難などのため国家レベルでは実現出来なかった。但し、このFDR構想は州レベルでは一部実現した。
そのひとつが1940年、カリフォルニアで“アロヨ・セコ・パークウエイ”で、この4レーン・ハイウエイは、後の“L.A.フリーウエイ”の前身となっている。
(3)、1941年、ルーズベルト大統領と彼の補佐官たちは、道路を戦争のために使用する準備を始める。国防ハイウエイ条例(Defense
Highway Act)を通過させ、連邦政府の国防用道路建設分担率を50%から75%へとした。
(4)、1941年、ルーズベルト大統領は、7人の委員からなる戦後の道路建設を計画する「地域間ハイウエイ委員会(Inter
Regional Highway Committee)を設置。
(5)、1944年、戦後ハイウエイ計画の最終プランがまとまる。同年、ルーズベルト大統領が連邦助成ハイウエイ条例(Federal Aid
Highway Act)にサイン。
・ 連邦のガソリン税と補助予算から、@幹線道路、A農場〜市場道路、B市街地道路、を作る。
・ 州間(Interstate)道路は連邦の道路予算から支出する。
(6)、各都市で、それぞれにハイウエイ網を検討し始め、また着々と州と州をまたぐ州間高速道路の骨格や予算取りがつめられていった。
(7)、1950年、戦後も5年を過ぎると、乗用車やトラックも新製品が登場し、購買意欲をあおり、乗用車の登録台数は一挙に伸びた。
(1945年、2,500万台 → 1950年、4,000万台へ)
(8)、この頃は、雑誌には、毎月魅力的な車の広告が掲載され、まさにアメリカン・モーターカーが花開く時代の幕開けであり、これは確実に新しい道路の建設の必要性を示していた。
(9)、1950年、朝鮮動乱に伴い朝鮮への派兵命令を出した直後、第33代大統領のハリー・トルーマンは国内のハイウエイ予算を凍結した。理由は、防衛上、資材と人員を必要とするから、と言うものだった。そしてインターステート・ハイウエイ計画は一時頓挫した。
――― 次号へ続く ―――
河合将介(skawai@earthlink.net) |