――― 前号からの続き ―――
第3章:ルート66の誕生
(1)、「ルート66の生みの親」と言われたサイラス・アヴェリー<注1>は、アメリカ大陸南西部を走る独自のルートを、USハイウエーの中に組み込みたいという意欲にかられ、中西部の大都市シカゴを起点に、太平洋岸の未開発の、だが将来性豊かで土壌の肥えたゴールデン・ステート、カリフォルニアへと通じる道を計画した。
<注1>サイラス・アヴェリー:1871年、ペンシルヴァニア州で生まれ、14才の時オクラホマに移住、後、石油業に携わり資産を築いた。1921年、彼は全国の42のハイウエイの連合体である、全米統合ハイウエイ連盟(Associated
Highways of America
Association)の会長となり、1923年にはオクラホマ州の州ハイウエイ委員会の初代委員長に任命された。
(2)、1925年、インターステート合同委員会に持ち込まれ、ルートが確定した。
(3)、当初ロード・ナンバーは“60”にすることが考えられたが、その道が大陸横断道路でなく、また既に別の道路に“60”という番号が振り当てられる計画になっていたので、再検討され、“シクスティ・シックス”という語呂の弾むような感じの“66”にすることになった。(1926年)
(4)、1926年道路が正式に“ルート66”と名付けられた時、全長2,448マイルのうち、舗装済みはわずか1/3(800マイル)で、残りは無舗装の泥道や砂利道、アスファルトを流し入れたレンガ道、それにごくわずかの板敷きの道であった。
(5)、1927年、“ルート66”の舗装化推進と沿線住民に対するハイウエイの周知を目的とする「US66ハイウエイ全国連盟(National
US66 Highway Association)」が結成され、第1回会合で、このハイウエイに“Main Street of
America”というニックネームを付けることに決まった。そして初代会長にウッドラフトが決まり、彼はやがて「ルート66の父」と呼ばれた。
(6)、1938年、“ルート66”全線の舗装が完了。この道路で行われた工事技術が標準化され、1車線9フィート幅の2車線対向の舗装道路がアメリカ中にひろまった。
この時代、アメリカ政府は、失業者解消の問題と道路建設という2つの難問を一挙に解決することが出来た。道路を建設することによって、景気を浮上させ、同時にアメリカの夢の実現も 可能にした。
(7)、例えばオクラホマを例にとればわかりやすい。まず多くの貧困農民がこの道を使ってオクラホマの荒れた土地を出て、カリフォルニアに逃げ出して行けた。同時に残された人々をして、この地に留まる事を可能にした。さらにこれまでの道路では考えられなかった類の仕事を人々に提供した。それは“ルート66”を通って行く人たちを相手にした土産物店、カフェ、モーテル、ガソリンスタンドといった沿道での商売だった。
――― 次号へ続く ―――
河合将介(skawai@earthlink.net) |