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NO.688                Ryo Onishi              7/19/2009  

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雑貨屋のひとり言

三日連休はうれしいですが、日中は暑いのでつらいです。我が家は西陽がきつく夕方まで暑くて困ります。ですから涼みがてらバーゲンセールに行ったりしています。見るだけです・・。陽が当たるということは紫外線もたくさん浴びることになるので、紫外線カットのフィルタを窓に貼りました。もちろん個人ではできないのでプロに頼みました。大きな窓にたっぷりと太陽を浴びるので太陽光発電でもしようかなと考えているところです。どなたかやっている方がおられたら情報をください。
≪R.O≫

ルート66覚え書き(1)

 私たち仲間内の勉強会のひとつに、『シニア・ボケボー会』というのがあります。『ボケボー』とは『ボケ防止』の省略語なのです。シニア年齢に達した者たちが月に一度集まり、持ち回りで決められた担当者が、特定のテーマについてまとめた内容を発表することにより、少しでも頭を使い、ボケを防止(少なくともボケの進行を遅くしよう)というわけです。取り上げる内容については都度担当者が自分の興味あるテーマを選べばよいことになっています。

私にもこれまで何度か発表する機会が巡ってきました。私には仲間たちに講義できるほどの専門知識はありませんが、好奇心だけは旺盛ですので、私も既にいくつかのテーマについてこの会で語ってきました。例えば、「ペリー来航と日米関係のスタート」、「横浜開港150年」、「L.A.周辺に存在する日系人ゆかりのスポット紹介」などでした。

 仲間内とはいえ、人前で語るとなれば、ある程度は事前に資料を集め、調べ、そして原稿メモを用意しなければなりません。と、いっても殆どはただ単に参考書や資料集を引用するだけのものですが・・・

 さて、今月また私の順番が巡ってきました。そこで、今度は“The Mother Road of America” とも “America’s Main Street” ともいわれ、いまだに多くのアメリカ人の心に「郷愁の道路」として残っている“USハイウエイ・ルート66”を取り上げることにしました。このテーマについては以前作成した資料があります。資料をベースに、雑貨屋ウイークリー(#158から5回)に書きました。

 以下はその資料(覚え書き)です。 これらの覚え書きは既に発刊されている「ルート66」(東 理夫著、丸善ライブラリー)、その他インターネット掲載資料から多くを引用していることを申し添えます。
  *************************

★ルート66、及びアメリカ・ハイウエーの歴史
第1章:Good Roadを求めて
(1)、川や海岸沿いが主役の交通路、または川沿いの歩行路
 *先住民族の踏み慣らした<インデアン・トレイル>
*インデアンとの交易を目的とした<交易道路(Trading Passway)>
*入植地と開拓前線を結ぶ<開拓者道(Pioneer Road)>

(2)、1780年代の半ば駅馬車が一般に使われるようになり、天候に左右されない「良い道」という概念が発生した。
    但し、まだ若い政府には余力がなく、政府認可の「有料道路会社(Turnpike Company)」が道を作って運営した。
    
    *西部への開拓移住者たちの道へ。
*オレゴン・トレイル(ミズーリ州セントジョセフ 〜 オレゴン州オレゴン・シティ)
*カリフォルニア・トレイル( 同上 〜 カリフォルニア)
*モルモン・トレイル( 同上 〜 ユタ州ソルトレイク)
*1857年、駅馬車による大陸横断郵便会社の道(セントルイス 〜 サンフランシスコ)

(3)、大陸横断鉄道の開通による「良い道」を求める機運の衰退
    1869年5月、ネブラスカ州オマハで、太平洋側からのユニオン・パシフィック鉄道と、大西洋側のセントラル・パシフィック鉄道の線路が繋ぎ合わされ、大陸横断鉄道が開通。→
    鉄道の出現で道の役目が減少し、良い道を模索する気概は薄れ、やがて道は、都市部のみ
で重要視されるようになる。

(4)、再び「良い道」熱望の気運の台頭
*農業関係者が農産物や農機具、肥料等の運搬。
*1893年、農家に直接郵便物を届ける法案が可決。(郵便馬車の通れる道の整備)
*1896年、メイル・オーダー・システム(カタログ販売システム)の開始。

(5)、自動車の出現
*1889年、ドイツのダイムラーとメイバッハにより世界初のガソリン・エンジンによる近代的自動車が作られる。
*1893年、アメリカ初のガソリン車がチャールズとJ・フランク・デュアリエの兄弟によってマサチューセッツ州スプリングフィールドの道路で発表される
*同年、アメリカ連邦政府は、農産物の運搬システムの調査と道路建設の最良の方法を研究するため、道路調査局(Office of Road Inquiry)を設置。
*1899年頃にはアメリカの自動車生産台数は年2,500台に達する勢いになった。
*1901年、アメリカ全土でナンバープレートによる登録制度が取り入れられる。(郡境や州境を超えるたびに新しいナンバープレートを付け替えなければならなかったり、馬との接触事故が多発した。)

*同年、自動車愛好家によって全国グッド・ロード協会(National Good Road Association)が結成される。→ アメリカ自動車協会(AAA)へ。
*1903年、アメリカの自動車の年間販売台数は35,000台となる。
*1908年、フォードが大衆車T型フォード1号車発売。国民の「良い道」を求める気運に拍車がかかる。
*1910年、アメリカの自動車所有台数は50万台を超え、1915年には200万台に達する。

(6)、道路舗装材料の進化
*道路の表層材としてのアスファルトとセメントが、20世紀への変わり目に実用化されて以来、多くの所で、レンガや石敷、またアスファルトやコンクリート敷きの道が作られ始める。とは言うものの、舗装道路は、アメリカ全体ではまだ延べ500マイル程度だった。
*1909年、道路舗装用に開発されたポートランド・セメント・コンクリートが世に出る。

(7)、ハイウエー建設構想のスタート
*1912年、カール・グレアム・フィッシャー(カーバイト・ヘッドライト製造会社の社主 
で“インデアナポリス500スピードウエイ”の創始者)がアメリカ横断道路構想を発表する。(資金の大半は寄付により、集められた。)
*1915年、ルート決定(ニューヨーク〜サンフランシスコ、3,150マイル)。名前も「リンカーン・ハイウエイ」と決まり着工したが、途中資金不足のため中断、結局は合衆国公共道路局(Bureau of Public Road)がルートを修正し、1923年に完成させた。

*「リンカーン・ハイウエイ」に刺激され、「良い道」を求めることは国民のごく一般的な権利であって、決して贅沢なことではないとの認識がアメリカ中に浸透していった。アメリカ自動車協会(AAA)他の団体は舗装・標識・排水といったハイウエイの設備を改善することを目的とした「良い道推進運動(Good Road Movement)」の新しい担い手になっていった。

*アメリカ連邦政府も、これまで道路建設は州政府の管轄であるとしていたのを一部改め、ハイウエイ建設にかかる費用を税収の中に位置付けるようになった。
        ――― 次号へ続く ――― 

  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「」

今週はおやすみです。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

それ言っちゃおしまいだよが堰を切り

真相はこう今更の裏話

聞き流す耳に善処を約す口

責任を薄め合ってる判の数

金太郎飴にも顔の出来不出来

( ニュースやぶにらみ )

「反比例」
平均寿命と首相の任期 −日本国

「8月30日総選挙」
台風シーズンだな −政界スズメ

「闇専従問題」
土壌の改良が出来なくて −農水省

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺ぶらり散歩(27)
*夏目漱石旧居跡 ―郁文館中・高校
落雲館と称する私立の中学校――八百の君子をいやが上に君子に養成する為に毎月弐円の月謝を徴集する学校である。名前が落雲館だから風流な君子ばかりかと思うと、それがそもそもの間違になる。「吾輩は猫〜」の中でこの中学のモデルになったのは、旧居跡の裏にある現在の郁文館中・高校です。当時の郁文館中学は中学野球チームの草分けで、都内でも強豪チームでした。野球殿堂入りを果たした押川清も明治34年同校の卒業です。当時ノイローゼ気味だった漱石のイライラを語る様に、その郁文館中学の生徒としばしば喧嘩をしています。落雲館に群がる敵軍は近日に至って一種のダムダム弾を発明して、十分の休暇、もしくは放課後に至って熾に北側の空地に向って砲火を浴びせかける。このダムダム弾は通称をボールと称えて、擂粉木の大きな奴をもって任意これを敵中に発射する仕掛である。漱石邸に飛び込んでくるボールを拾いに、生垣を越えて入り込んでくる生徒を捕まえてはカッカし、ついには下女に命じて先生を呼びにやります。小使でも引張って来はせんかと心配していると、あに計らんや例の倫理の先生が表門から乗り込んで来た。
もし漱石がこの場所より500メートルほど北の駒込学園の裏にでも住まいをしたとしたら、駒込学園がこの小説に登場したのではないかと惜しい気がします。駒込学園(漱石は何という名前をつけるでしょう)の団扇なんて渾名の先生が苦沙弥先生に呼びつけられて、小言を言われる場面が登場したかもしれませんね。(注:団扇さんは駒込学園の名物体育教師で、毎月当学園で行われている川柳研究社の句会の会員でもあります)

森田さんから

今週はお休みです。

龍翁余話

龍翁余話(90)「根岸界隈ぶらり旅」<その2>

やはり、ぶらり旅はいい。新しい発見がある。感動にも出逢う。根岸界隈をぶらつくにあたって、同行のKさんが日暮里駅や(途中で立ち寄った)2,3の店から仕入れてくれた“散歩マップ”を眺めていたら『夕焼け小焼けの碑』(第二、第三日暮里小学校)が目にとまった。翁、驚いた。つい先日、作詩者・中村雨紅の生誕地・八王子市上恩方の『夕焼け小焼けの里』を訪ねたばかりだ(龍翁余話(87)「古きを訪ねて」<その2>)。
何という巡り合わせだろう。それにしても、何故、この地に碑が?・・・もう一度、雨紅(1897年―1972年)の資料を読み直した。1916年に東京府ゆうやけこやけの碑立青山師範学校(後の東京学芸大学)を卒業して、その年に第二日暮里小学校へ奉職、その後、第三日暮里小学校へ転勤、とある。それで納得。せめて写真だけでもと思い、尾竹橋通りを歩いて第二日暮里小学校へ。近年、部外者は勝手に学校内には入れない。あらかじめ許可を得ようと学校に電話した。副校長先生が応対してくれた。「碑は正門の横にありますから、道路からご自由に撮れます」そしてこうも言った「雨紅先生のご遺徳を顕彰するために、生徒と一緒に守り続けています」と。確かにその碑は、きれいに磨かれていた。雨紅の生誕の地・宮尾神社の境内に、文字も見えないまま放置されている碑とは大違い。 学校や生徒たちの中村雨紅先生に寄せる熱い思いが感じられて嬉しかった。思いがけなくもKさんのおかげで『夕焼け小焼け』に再会することが出来た。感謝である。

尾竹橋通りを戻って言問通りに出る。鶯谷駅の近くに、天照大神の兄神・大山祇命(おおやまづみのみこと)を祀る元三島神社がある。700年以上も前に創建された由緒ある鎮守様なので是非、参拝したいとやって来たのだが、拝殿は小山の頂上。(目算で)50段の石段を登らなければならない。かなり歩き廻ったあとなので足が重い。Kさんと顔を見合わせ、暗黙の合意で鳥居から拝むことにした。石段の下、境内(小山のおなか)をえぐった洞窟状の店舗(飲み屋など)が数3,4軒、奇妙な様相だ。戦時中の名残りだろうか?

徳川9代将軍家重、10代将軍家治の時代(田沼時代)、大田南畝(おおたなんぼ)と言う狂歌師がいた。蜀山人(しょくさんじん)とも言う。狂歌とは、世相風刺、皮肉、滑稽などを5・7・5・7・7の短歌(和歌)構成でパロディ化したもの。南畝の狂歌に“恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺”というのがある。“恐れ入谷”は多分“恐れ入る”の地口(駄洒落の言葉遊び)だろう。それで有名になった(か、どうか定かではないが)鬼子母神(日蓮宗真源寺=1659年創建)に参拝した。門札の解説には“鬼子母神はインド仏教上の女神の一人。性質凶暴で、子供を奪い取っては食べてしまう悪神であった。釈迦はこの鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させて改心させたという。以後、小児の神、児女を守る善神、安産の守護神として信仰されるようになった。入谷鬼子母神では、子育ての善神になったという由来から、ツノのない『鬼』の字を使っている”と書かれている。  (註:翁のパソコンには、その字が無いので”鬼子母神“と表記した。)

Kさんと翁が参詣した後に、恒例の夏の風物詩・朝顔祭りが催された。7月6、7、8の3日間、鬼子母神前の通りには100を超える露店が見事な朝顔の鉢を並べたそうだ。そして、ここにも正岡子規がいる。境内に歌碑がある。
『入谷から 出る朝顔の 車かな』・・・

ご記憶だろうか?『龍翁余話』(86)「古きを訪ねて」<その1>で小金井公園の“江戸東京建物園”を紹介した中に、1856年(安政3年)創業の江戸居酒屋文化の真髄・鍵屋(大正元年築)”のことを1行だけ書いた。その“居酒屋の今“を知りたくて「根岸界隈ぶらり旅」の終着駅を居酒屋・鍵屋と決めていた。暖簾をくぐるには、まだ早すぎるので、もう少し周辺の下町情緒を味わうことにした。鬼子母神から言問通りを、鶯谷駅方面へ戻る途中の反対側に“うぐいす通り商店街”がある。明治・大正・昭和初期の建物や老舗がレトロな雰囲気を醸し出している。入り組んだ路地は迷い道、だが、そこにも新鮮な発見があったりして楽しい。ふと、お化け屋敷のような古い洋館に出くわした。見回したが標札は見当たらない。手持ちのマップによると“陸奥宗光(明治25年、第2次伊藤内閣の外務大臣)居住跡、明治38年頃の建築”とある。ならば当然、文化財としての価値はある、と思って東京都有形文化財一覧を調べたが指定されていなかった。

さて、居酒屋・鍵屋入り口の置灯篭に灯りがともった。店内は、古びたポスターや道具類など、小金井で見た大正・昭和初期の雰囲気と同じ。すでに馴染み客が数人。下戸の翁はウーロン茶、いける口のKさんは、主人(6代目・清水さん=写真)お薦めの日本酒(翁、銘柄を知らない)。鰻の串焼き、焼き鳥、煮奴(湯豆腐)などをパクつきながら、主人・清水さんの話を聞く。「6歳の頃、お会いした永井荷風や谷崎潤一郎をはじめ、多くの作家先生が来られたことが自慢です」。

古くは江戸時代から多くの文人墨客、粋人に愛された街・根岸。とりわけ正岡子規、及び子規との交流が深かった文豪、俳人、書画家たちのゆかりの場所が諸処に見られて楽しかった。思えば、音楽家・Kさんに上野の美術館に誘われて、の流れで「根岸界隈ぶらり旅」が実現した。この界隈、まだ見たい所は沢山ある。「いつかまた2人で“下町ぶらり旅”を」のKさんのお申し出に感謝して・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

 

このコーナーでご紹介したジャズのリストをページにしました。 どんどん過去に遡って行くのですがキリがないくらいたくさんあります。これだけ紹介すればだんだんやりにくくなるかなと思いました。整理がすみましたら、また紹介を始めたいと思います。ページは下記URLにリンクしていますので見てやってください。
http://www.zakkayanews.com/jazzlist.htm
《R.O.》

編集後記

明日も休みだからとのんびりしていたら雑貨屋の発行日だということを忘れていました。
雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.688

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com