以下は、今年(2009年)夏の「南カリフォルニア詩吟連盟(南加詩吟連盟)」主催の吟詠大会で使用する構成吟「菅原道真」の台本での続きです。
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☆構成吟『菅 原 道 真』(3)
道真、四十三才の時、二十一才、新進気鋭の宇多天皇が即位します。「私は自分で政治をしたい。藤原氏のかいらいにはなるまいぞ」 宇多天皇が何かと相談するのは、あえて藤原氏を避け、菅原の道真です。道真公は文を書かせれば当代随一、歌も詩も即座に気のきいたものを作るから宴会や接待には欠かせない。それでいて人柄は温厚で謙虚、帝のご寵愛日々に増してトントン拍子の出世、ついには正三位の右大将となる。
さあ、藤原氏は道真に権力を奪われるのではないかと危機感が増してくる。学者たちにしても、道真ばかりが重用されるのはおもしろくないから、反道真ということで藤原氏と利害が一致する。
道真公、こんな空気を毎日ヒリヒリと感じていますが、おべっかを使える人ではありませんから、どうにもしょうがありません。
時は移り、三十才になった宇多天皇は十三才の皇子を六十代醍醐天皇とし、自分は上皇となります。しかし、三十才でリタイアしてしまったんですから・・・ ヒマはたっぷり、体は元気・・・ 色好みでも名を馳せましたが旅行も大好き、譲位の翌年、百人からの供を連れての鷹狩り、もちろん道真もお供です。
片野で鷹狩りをし、大和の宮滝を見て河内の竜田山をこえ、摂津の住吉に詣でて京都に帰ってくるという二週間のコース、楽しそうですねぇ十月の末です。山々は赤に黄に鮮やかな紅葉におおわれております。
和歌(わか)一首(いっしゅ)
菅原(すがわら)道真(みちざね)作
このたびは ぬさもとりあえず たむけ山(やま) 紅葉(もみじ)の
錦(にしき) 神(かみ)のまにまに
醍醐天皇のもとで、五十五才、道真は右大臣に任ぜられました。
翌年、道真は自作の漢詩をまとめた「菅家文草」十二巻と父、是善の
「菅相公集」十巻、祖父、清公の「菅家集」とを添えて新帝、醍醐天皇に
献じました。この献上に対して天皇は「菅家文草ができてからは
白氏文集を読まなくなった」と、御製の詩でほめたたえて下さったのです。
醍醐(だいご)天皇(てんのう)御製
右丞相(うじょうしょう)の家集(かしゅう)を献(けん)ずるを見(み)る
門風(もんぷう)は古(いにしえ)より これ儒林(じゅりん)
今日(こんにち)の文華(ぶんか) みな尽(ことごと)く金(きん)
ただ一聯(いちれん)を詠(えい)じて気味(きび)を知(し)る
況(いわ)んや三代(さんだい)を連(つら)ねて清吟(せいぎん)に飽(あ)くをや
琢磨(たくま)せる寒玉(かんぎょく)は 声声(ひびき)麗(うるわ)し
裁(さい)制(せい)せる余霞(よか)は 句句(くく)侵(おか)す
更(さら)に菅家(かんけ)の白(はく)様(よう)に勝(まさ)れる有(あ)り
茲(これ)より抛却(ほうきゃく)して 匣塵(こうじん)深(ふか)からむ
同じ年の九月九日、重陽(ちょうよう)の節句、醍醐天皇の御前で詩筵が
催され、天皇がいろいろな題を出されては皆が詩をつくる。
宴は翌朝まで続き、天皇は「秋思」という題をお出しになる。
九日(くにち)の後(のち) 朝(ちょう)して同(とも)に秋思(しゅうし)を
賦(ふ)して制(せい)に應(おう)ず 菅原(すがわら)道真(みちざね)作
丞相(じょうしょう)年(とし)を度(わた)りて幾(いく)たびか
楽(たの)しび思(おも)へる
今宵(こよい)は物(もの)に触(ふ)れて自然(おのずか)らに悲(かな)しむ
声(こえ) 寒(さ)ゆる絡緯(らくい)は風(かぜ)の吹(ふ)く処(ところ)
葉(は)の落(お)つる梧桐(ごとう)は雨(あめ)の打(う)つ時(とき)
君(きみ)は春秋(しゅんじゅう)に富(と)み
臣(しん)は漸(ようや)くに老(お)いにたり
恩(うつくしび)は涯岸(がいがん)無(な)くして報(むく)いむことは
なほし遅(おそ)し
知(し)らず この意(こころ)何(いづ)れにか安慰(あんい)せむ
酒(さけ)を飲(の)み琴(こと)を聴(き)き また詩(し)を詠(えい)ぜむ
この詩を聞いた天皇は感激のあまり御衣(おんぞ)をぬいで道真に
賜ったということです。
―――― 続く ―――― 河合将介(skawai@earthlink.net) |