weekly

NO.682                Ryo Onishi              6/7/2009  

 weekly

 

LAの観光スポット ホームページ バックナンバー
 .
雑貨屋のひとり言

今日は尼崎市の市会議員選挙の投票日でした。どの候補も名前を連呼しているだけのつまらない選挙運動に見えました。この人たちは本当にこの町を良くしてくれるだろうかと思いながら聴いていました。そんな中、たまたま買い物で通りかかったときのある候補の街頭演説を聴いて、まともな話を熱くしていたのを聴き、思わず拍手をしました。地味な選挙活動でしたが応援したくなりました。≪R.O≫

構成吟、菅原道真(3)

以下は、今年(2009年)夏の「南カリフォルニア詩吟連盟(南加詩吟連盟)」主催の吟詠大会で使用する構成吟「菅原道真」の台本での続きです。
 **********************
☆構成吟『菅 原 道 真』(3)

道真、四十三才の時、二十一才、新進気鋭の宇多天皇が即位します。「私は自分で政治をしたい。藤原氏のかいらいにはなるまいぞ」 宇多天皇が何かと相談するのは、あえて藤原氏を避け、菅原の道真です。道真公は文を書かせれば当代随一、歌も詩も即座に気のきいたものを作るから宴会や接待には欠かせない。それでいて人柄は温厚で謙虚、帝のご寵愛日々に増してトントン拍子の出世、ついには正三位の右大将となる。

さあ、藤原氏は道真に権力を奪われるのではないかと危機感が増してくる。学者たちにしても、道真ばかりが重用されるのはおもしろくないから、反道真ということで藤原氏と利害が一致する。
道真公、こんな空気を毎日ヒリヒリと感じていますが、おべっかを使える人ではありませんから、どうにもしょうがありません。

時は移り、三十才になった宇多天皇は十三才の皇子を六十代醍醐天皇とし、自分は上皇となります。しかし、三十才でリタイアしてしまったんですから・・・ ヒマはたっぷり、体は元気・・・ 色好みでも名を馳せましたが旅行も大好き、譲位の翌年、百人からの供を連れての鷹狩り、もちろん道真もお供です。

片野で鷹狩りをし、大和の宮滝を見て河内の竜田山をこえ、摂津の住吉に詣でて京都に帰ってくるという二週間のコース、楽しそうですねぇ十月の末です。山々は赤に黄に鮮やかな紅葉におおわれております。

      和歌(わか)一首(いっしゅ)
          菅原(すがわら)道真(みちざね)作
      このたびは ぬさもとりあえず たむけ山(やま) 紅葉(もみじ)の
      錦(にしき) 神(かみ)のまにまに
  
      醍醐天皇のもとで、五十五才、道真は右大臣に任ぜられました。
      翌年、道真は自作の漢詩をまとめた「菅家文草」十二巻と父、是善の
      「菅相公集」十巻、祖父、清公の「菅家集」とを添えて新帝、醍醐天皇に
      献じました。この献上に対して天皇は「菅家文草ができてからは
      白氏文集を読まなくなった」と、御製の詩でほめたたえて下さったのです。

      醍醐(だいご)天皇(てんのう)御製 
        右丞相(うじょうしょう)の家集(かしゅう)を献(けん)ずるを見(み)る

      門風(もんぷう)は古(いにしえ)より これ儒林(じゅりん)
      今日(こんにち)の文華(ぶんか) みな尽(ことごと)く金(きん)
      ただ一聯(いちれん)を詠(えい)じて気味(きび)を知(し)る
      況(いわ)んや三代(さんだい)を連(つら)ねて清吟(せいぎん)に飽(あ)くをや
      琢磨(たくま)せる寒玉(かんぎょく)は 声声(ひびき)麗(うるわ)し
      裁(さい)制(せい)せる余霞(よか)は 句句(くく)侵(おか)す
      更(さら)に菅家(かんけ)の白(はく)様(よう)に勝(まさ)れる有(あ)り
      茲(これ)より抛却(ほうきゃく)して 匣塵(こうじん)深(ふか)からむ

     同じ年の九月九日、重陽(ちょうよう)の節句、醍醐天皇の御前で詩筵が
     催され、天皇がいろいろな題を出されては皆が詩をつくる。
     宴は翌朝まで続き、天皇は「秋思」という題をお出しになる。

     九日(くにち)の後(のち) 朝(ちょう)して同(とも)に秋思(しゅうし)を
     賦(ふ)して制(せい)に應(おう)ず   菅原(すがわら)道真(みちざね)作

     丞相(じょうしょう)年(とし)を度(わた)りて幾(いく)たびか
     楽(たの)しび思(おも)へる
     今宵(こよい)は物(もの)に触(ふ)れて自然(おのずか)らに悲(かな)しむ
     声(こえ) 寒(さ)ゆる絡緯(らくい)は風(かぜ)の吹(ふ)く処(ところ)
     葉(は)の落(お)つる梧桐(ごとう)は雨(あめ)の打(う)つ時(とき)
     君(きみ)は春秋(しゅんじゅう)に富(と)み 
          臣(しん)は漸(ようや)くに老(お)いにたり
     恩(うつくしび)は涯岸(がいがん)無(な)くして報(むく)いむことは
     なほし遅(おそ)し
     知(し)らず この意(こころ)何(いづ)れにか安慰(あんい)せむ
     酒(さけ)を飲(の)み琴(こと)を聴(き)き また詩(し)を詠(えい)ぜむ

     この詩を聞いた天皇は感激のあまり御衣(おんぞ)をぬいで道真に
     賜ったということです。
            ―――― 続く ―――― 
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「」

今週はおやすみです。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

目に青葉 初夏を飲んでる大ジョッキ

故郷の山 口笛も久しぶり

ドングリのまま再会の酒の味

人肌の燗で故郷の夜が更ける

自然保護トトロの森は守り抜く

( ニュースやぶにらみ )

「さてどっち」
政権後退 −自民党、民主党

「自民、世襲制限見送り」
何jをいまさら −金正日

「マスク着用」
えっ 防毒マスク? −修学旅行

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

 

森田さんから

   祈り      
森田のりえ
「オペラの券が一枚あるから、ワーグナーに造詣の深い方に差し上げたいとT氏がおっしゃっているけれど、のりえさん、誰か知らない?」
 T氏の手伝いをしている友人から電話があった。
「そうねぇ」
といって、ひとまず考えるふりをした。そして、人一倍好奇心の強い私の頭がめまぐるしく動きはじめた。適任者を探すためではない。この私が観たいがため。興味はあるがよくは解らない。でも、なんとかならないものか、と思った瞬間、リヒャルト・ワーグナーのことを書いた「バイロイトの長い坂道」という娘が持っていた本を二十数年前に読んだことを思い出した。
「たしか『トリスタンとイゾルテ』や『ローエングリーン』『タイホイザー』それに何とかの指輪という作品があったと思うけど・・・」
 うろ覚えの知識を並べ立てると、
「あら、すごいじゃない!」
「すごくはないけれど・・・」
実は、私が観たいのだと告げると、電話の向こうでT氏と話していた友人がいった。
「演目は『ニーベルングの指輪』の序夜『ラインの黄金』。ドイツ語オペラだけれども、英語の字幕が出るそうよ。粗筋はT氏が教えてあげますということだけど・・・」
 T氏に昼食を招待されるというおまけまでついた話が決まった。
 公演は五月はじめ、午後二時から。
 ところが、である。当日の十日前に風邪を引いてしまった。熱もなく、身体もだるくないから、騒がれている新型インフルエンザではなさそうだ。だが、咳き込み、蛙がトラックに轢かれたような声になってしまった。困った。どうしょう! 体調のすぐれないT氏に風邪をうつしてはいけない。取りあえず昼食の招待はお断りして電話でオペラの粗筋を伺った。書棚に眠っていたワーグナーの本も読み返した。
一八七四年、ワーグナーが二十六年もの歳月をついやし、全生命を捧げた四部作「ニーベルングの指輪」が完成。この作品の初演のために莫大な費用をかけて建設したドイツのバイロイトにある祝祭劇場。これまでの歌だけが重要視されたオペラとちがって、音楽と劇とが対等に扱われたオペラ。大掛かりな舞台装置。なにもかも画期的な試みによるワーグナーの生涯の大事業であったこと。
読んでいくうちに、しだいに期待が大きくふくらんでいった。 
粗筋はこうである。
 ライン河の深い底に乙女たちに守られて黄金が眠っていた。小人のアルベリヒは黄金をもぎとり地下の国ニーベルハイムへ持ち去り、数々の宝に作り変える。そのひとつに魔法の指輪があった。この指輪をはめる者は世界を支配する能力が備わる。その代り、愛のよろこびをあきらめねばならない。指輪をめぐって神々や巨人族、小人たちが姦計をめぐらして、争うというものである。
 必死の努力の甲斐があったのか、咳は収まった。T氏から、早めに行ってテラスで食事をとるようにというアドバイスまで頂いたが、大家族で育った私は一人行動が苦手である。昼食は済ませて出かけた。
 劇場に到着すると、すでに会場の二階でオペラの講義が始まっていた。
 座席は三階の前から二列目。正面に字幕が見え、舞台が俯瞰できる最高の席である。
 照明が消えた。いよいよである。
 一幕、地の底から沸き起こるように舞台下のオーケストラが奏でる音が流れはじめた。ラインの川底をイメージした照明に三人の乙女と小人のアルベリヒ。字幕を読み終わらないうちに消え、次ぎが出る。しかし、粗筋を聞いていた私は充分楽しめた。
 二幕、舞台中央に地球をイメージしたような楕円形があり、天井からプロペラ機がぶら下がる。左側に神々の長ヴォータンの包帯を巻いた一つ目小僧のような顔、一方の右には腕の長い后のフリッカ。中世の優雅な衣装を想像していた私は、超現実派でマンガティクな舞台にキモをつぶした。
 一口に言って、面白かった。
オペラを観ながらT氏のことに思いを馳せ、
「どうか、一日も早く健康を取り戻されるよう、そして、この席で再び音楽を鑑賞できる日がきますように」
と、私は祈らずにはおられなかった。
すばらしいオペラだったとT氏にお礼の電話をいれると、こんな返事がきた。
「リタイヤ後はピアニストだった妻と音楽三昧の暮らしをする予定だったのですよ。それがこんな身体になってしまって残念です。でも、希望を捨てた訳ではありません。元気になったらバイロイトへ行ってみたいと思っております」
私の方が勇気づけられるようだった。
T氏の奥さんは腎臓移植が失敗して亡くなった。その一年後に、T氏は手の痺れを治すために頚椎の辺りを手術した。日帰り手術の予定が、入院三ヶ月になり、退院はできたが車椅子の生活になってしまった。幸いコップはかろうじて持てるが、箸は使えない。今では、介護人が二十四時間付き添う状態である。
              おわり              

龍翁余話

龍翁余話(84)「北朝鮮」<その2>

前号に続く“龍翁の北朝鮮取材メモ”・・・時は1992年10月。小型ビデオカメラ撮影による2週間の取材日程。最初の2〜3日は、翁を“護衛”してくれる日本語の達者な年配のRと英語の堪能な若者K(いずれも中央政府の官吏)に監視されて撮りたい所が撮れない。平壌市(北朝鮮の首都、人口約356万人)の観光スポットばかり連れて行かれた。例えば
金日成広場(テレビで見かける軍事パレードや祝典を行なう場所)、人民大学習堂、万景台(金日成の生家)、万寿台芸術劇場(歌や踊り、オーケストラなど一級の芸術を公演する劇場)当日は一流歌手数人の歌を聴く。翁、そのレベルの高さに驚嘆した。歴史博物館では抗日戦争映画(金日成率いるゲリラ部隊バルチザンによって日本軍が惨敗する映画)を見せられ、翁、かなり気分を害す。北朝鮮最高級の第一百貨店には日本の家電製品がズラリ。但し、客は中国人観光客数人だけ。翁、観光で来たわけではないが、それなりに平壌市の断片を知ることが出来た。そんな中で翁を喜ばせたのは高句麗古墳群(2004年に世界遺産登録)。高句麗は、紀元前37年に中国東北部に建国、427年に平壌に遷都、668年に唐・新羅連合軍に滅ぼされた、と資料にある。

更に興味を引いたのは、核シェルター(非常時の避難場所)として造られた、地下100mの地下鉄。改札口で駅員(実は警備隊)に撮影を阻止されようとしたが、Rが手帳(身分証明証)を示し、ひと言その駅員に耳打ちしたら、彼、すんなりOKした。プラットホームのあちこちに煌びやかな壁画。翁の想像だが、その壁の向こうに数千人、もしくは数万人が収容できる空間があり、そこには食糧、水、医薬品などの生活物資が備蓄され、軍事施設や武器弾薬庫、医療施設が整っているのでは?「これだけのシェルターなら原子爆弾にも耐えられるよね」と水を向けたが、Rは無言。いくら親しくなったとはいえ、答えないのは当然だろう、戦略上、重要な秘密基地であるのだから・・・

さて、市内観光に厭きた翁、“護衛”のRとKに「よど号ハイジャックの主犯・田宮高麿に会いたい」と申し出た。Rは一瞬、困惑したようだったが、直ぐに上層部に申請、翌日、翁は某所(殺風景なオフィスの1室)に連れて行かれた。そこには、見るからに保安当局者と思える男たち3人が翁を待ち受けていた。彼らと翁、無言で会釈を交わしただけ。Rが電話をかけ、受話器を翁に渡した「田宮さんが出ています」翁、名乗ってインタビュー撮影を申し入れた。田宮は丁寧な応対だったが「撮影にも録音にも応じられない、電話だけならいいが」と言った。映像屋の翁にとって撮影が出来なければ意味が無い。もうひと押ししようと思ったが、田宮の傍に誰か(見張り?)が居る気配を感じたので諦めた。最後にひと言「田宮さん、日本に帰りたくないですか?」田宮は無言だった。「お元気で」と言って翁は受話器を置いた。田宮の無言に隠された“日本への郷愁”を察知し、やるせなかった。無愛想な3人の男の1人が、ニヤニヤしながら確かな日本語で「残念でしたね」翁、ムカついてその男を睨みつけた。何のことはない、最初から彼らが描いたシナリオ(筋書き)に、翁がまんまと乗せられた一幕だったのだ。(田宮、1995年に平壌にて死亡)

翁の宿泊ホテルは平壌駅の直ぐ傍に建つ超高級ホテル『平壌高麗ホテル』。西側のマスコミ関係者は、たいてい、このホテルに泊められる。若いKが、毎朝7時に翁を迎えに来る。4日目あたりから、彼は翁に親しく接するようになった。“監視役”を離れ、時にはアシスタントの役もかってくれた。某日、翁が希望していた“朝鮮人民の聖地・白頭山”行きが実現。朝食後、Kと一緒に平壌空港へ。Kは英語で「空港は軍事施設で警戒が厳しいからカメラバッグは私が持ちます」年配のRは空港で待っていた。なるほど、空港スタッフか警備隊か分からないような連中(いずれも小銃をぶら下げている)の目が翁を射る。10年後に日本の首相(小泉)がここに降り立つなんてことは想像もしなかった。翁が乗せられた飛行機は空軍の輸送機。兵士たち20人程が前方座席に乗っている。異様な空気だ。翁とR,Kの3人は最後部座席に。輸送機は滑走路へとゆっくり動き出す。翁、ビデオカメラの先を機の小窓にくっつけ、回し始める。横座席のRとKは目を閉じて見ぬ振り。外国人がこの軍事基地(空港)を360度撮影したのは翁だけだろう。肉眼では分からないが、樹木間の処々に覆い隠されている物体(戦闘機)がカメラに収まっていた。

空港(三池淵)から車で白頭山(標高約2700m)へ。この山は10月中旬から6月までは雪に覆われるそうだが、この日は好天に恵まれた。頂上の『天池』(カルデラ湖)の神秘に息を飲む。翁、それまでに(国内外で)幾つかの湖を見て来たが、これほど感動で身震いさせられた湖は初めて、まさに“神秘”以外に形容の言葉が見つからない。頂上の展望台から西北を見下ろすと、そこはもう中国領。北朝鮮と中国の国境の川である鴨緑江・豆満江は、この山が源流だ。北朝鮮が白頭山を“聖地”と崇める理由は2つある。1つは、この山の麓の密営で金日成が抗日ゲリラ部隊(バルチザン)を結成、“日本軍を撃破した革命の地”(北朝鮮の言い分)、もう1つは、息子・金正日生誕の地(実際は、ロシア極東地方の生まれ、の説あり)として、現在もなお、この密営に巡礼することを国民の義務としている。翁もこの場所で“敬礼”を求められたが丁重に拒否、署名だけに応じた。

某日、夜行(特急)列車で南北国境の町・開城市に行く。ここは高麗時代(918〜935)に王都として栄えた古都。市の東側は軍事境界線(38度線)で市街地から板門店までは僅か8km、典型的な城郭都市だ。市内で撮影していたら、1人の老男性が突然、翁に向かって日本語で「日本人は来るな、帰れ!」とくってかかった。少し離れていた“護衛”のRとKが慌てて走り寄ったが、それより一瞬早く、1人の老婦人が翁をかばった。朝鮮語で男をたしなめたのだろう、男はブツブツ言いながら、その場を離れた。老婦人が深々と頭を下げながら「失礼なことをしました、ごめんなさい」と流暢な日本語で翁に詫びた。「いや、いいんですよ、ありがとう!」と翁も頭を下げた。「お気をつけて」婦人は優しげな笑みを残して去った。驚いた、日本語がしゃべれる年配者が沢山いるということ、更に日本への恨みが根強く残っているこの国で、日本人(翁)をかばってくれた女性がいたということ・・・Rが言った「男性優先のわが国で、あのような勇気ある女性は珍しいです」すかさず翁、Rに尋ねた「もしかして彼女は日本人妻では?」「いいえ、典型的な朝鮮人民です」翁は言った「日本への憎しみは仕方ないが、怨念を引きずっていては真の日朝交流は望めない。あの勇気ある女性のように、国のリーダーたちも勇気をもって日本との和平を図って貰いたい」日本語が分からない若いKにRが通訳した。Kは黙ったままだった。

38度線(軍事境界線)を挟んで南北2キロずつに非武装中立地帯がある。それぞれの高台には望遠鏡や音量いっぱいのスピーカーが設置され、互いに“宣伝合戦”を行なっている。非武装中立地帯とはいえ、一帯は何重にも鉄条網や高圧電流で囲い、多くの地雷を埋設している。有事に備え数百人の兵士が兵舎に常駐、まるで“野戦場”を思わせる。許可なく兵士及び軍施設を撮影することは厳禁、見つかったら即座に逮捕されるのだが、翁、構わずカメラを回した。さぞかしRとKをハラハラさせたことだろう。

板門店――1953年に北朝鮮(朝鮮人民軍)と韓国(国連軍)が停戦条約を行なった場所。
小銃を持った多数の兵士が往来する、まさに“戦場”の雰囲気。気が付けば、翁、懲りずにカメラを回している。会談場は南北均等のスペース割で中央のテーブルには南北の(小さな)国旗がクロスされている。外の境界線は僅か50センチほどの白線で仕切られているだけ。北側の兵士は直立不動の姿勢で(1時間交替で)立っているが、南側の兵士(国連軍=韓国兵とアメリカ兵)はブラブラ動き回っている。ここには緊張感はなかった。

話は前後するが、平壌市民のSさん宅を取材した時のこと、“田宮電話”の時と同じように日本語の分かる政府の役人が3人立ち会った。3DKの家の中にはピアノあり、テレビあり、日本のタバコ(セブンスター)まで。テーブル上はご馳走の山。市民がいかに裕福に暮らしているかを見せる演出であることは一目瞭然。実はSさん家族は、彼が子どもの頃“豊かで輝ける夢の祖国”の呼びかけに騙されて(?)1950年代から始まった在日朝鮮人帰還事業で帰国した一家だった。たどたどしいがSさんは日本語を忘れていなかった。彼は「将軍様のお蔭です」を連発した。そのたびに役人たちはニンマリした。無意味な取材だったが、帰り際、Sさんは役人たちの目を盗んで翁の耳元で囁いた「また日本に行きたいです」“日本に行きたい”は、”日本に戻りたい“ではないのか、と思った。

翁、このエッセイを書くに際して“取材ノート”に記録された暗い部分は意識的に省いた。彼の国の恥部をさらけ出す気はない。でも、全般的に庶民の暮らしは貧困を極めている。その実態映像を金正日に見せてやりたい。それでもなお莫大な金を投じて核遊びをするのか?独善・独裁の首領をもつ国民こそ哀れ!・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

今週も友人に借りたアルバムを紹介します。
Natalie Imbrugliaのアルバムです。 
Glorious the Singles 97-07
1 Glorious
2 Counting Down The Days
3 Torn
4 Wrong Impression
5 Smoke
6 Shiver
7 Wishing I Was There
8 That Day
9 Big Mistake
10 Beauty On The Fire
11 Be With You
12 Amelia
13 Against The Wall
14 Stuck On The Moon
 

《R.O.》

編集後記

ものすごい量の切手に囲まれて暮らしています。でもそんななかにおもしろい切手もいっぱいあります。どれをブログで紹介しようかと毎日考えています。たまにブログにお立ち寄りください。ブログで雑貨屋ウィークリーも紹介することにしました。相乗効果があるといいなあと考えています。

雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.682

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com