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NO.681                Ryo Onishi              5/31/2009  

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雑貨屋のひとり言

新型インフルエンザでごたごたしているうちに5月も終わろうとしています。
さすがに神戸でもマスクをしている人が減ってきて普通の日々に戻りつつあります。
そんなことも影響していますが最近、散歩をしておらず運動不足になっています。
その理由のひとつにワイフの右足小指にヒビがいってしまったことがあります。
ちっぽけなことですがそれでも身体全体に影響を与えます。
怪我もなく病気もなく健康に生きられることがどんなに幸せなことか、考えさせられます。≪R.O≫

構成吟、菅原道真(2)

 ――― 前号からの続き ―――
以下は、今年(2009年)夏の「南カリフォルニア詩吟連盟(南加詩吟連盟)」主催の吟詠大会で使用する構成吟「菅原道真」の台本での続きです。
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☆構成吟『菅 原 道 真』(2)

この時、道真の家庭教師は都良香(みやこのよしか)という、当時、第一流の学者でしたが、この詩をみて驚いた。「このような天才少年はわが浅学をもって教うべきにあらず」と、先生役をおりてしまい、以来、友としての交わりをしたということです。
十四才で作った「臘月獨興(ろうげつどっきょう)」という七言律詩はもはや少年の詩とは思えぬ堂々たる作品で、のちに和漢朗詠集、冬の部に採録されたほどです。
   
  臘月(ろうげつ)独興(どくきょう)  菅原(すがわら)道真(みちざね)作
   
  玄冬(げんとう) 律(りつ)迫(せ)めて 正(まさ)に嗟(なげ)くに堪(た)えたり
  還(かえ)って喜(よろこ)ぶ 春(はる)に向(むか)ひ敢(あえ)て?(はるか)ならざるを
  尽(つ)きんと欲(ほっ)する寒光(かんこう) 幾(いづ)れの処(ところ)にか休(きゅう)する
  来(き)たらんとする暖氣(だんき) 誰(た)が家(いえ)にか宿(やど)る
  氷(こおり)は水面(すいめん)を封(ふう)じて 聞(き)くに浪(なみ)なく
  雪(ゆき)は林頭(りんとう)に点(てん)じて 見(み)るに花有(はなあ)り
  恨(うら)むべし 未(いま)だ学業(がくぎょう)に励(はげ)むことを知(し)らずして
  書齊窓下(しょさいそうか) 年華(ねんか)を過(すご)すを
 
学問の名門菅原家でありますが、ここにひときわ輝く天分ありと、世に評判がきこえてまいります。律令制の当時、官吏になるには、まず文章生(もんじょうせい)になる為の国家試験に合格しなければなりません。毎年二十名ほどしか受からない狭き門です。これに道真は最年少の十八才で合格、しかも二十名のうち、トップ二(ツー)に入るという快挙でした。そりゃあ環境は良かったけれど、それだけでは受からない、大変な努力をした人です。大人になってから受験時代を思い出して作った詩があります。

  日長(ひなが)きに苦(くる)しむ  菅原(すがわら)道真(みちざね)作

  少(わか)き日(ひ) 秀才(しゅうさい)たりしとき
  光陰(こういん) 常(つね)に給(きゅう)せず
  朋(とも)との交(まじわ)りに言笑(げんしょう)を絶(た)ち
  妻子(さいし)にも親(した)しみ習(なら)ふことを廃(はい)せり

まじめな人です。一心不乱にひたすら勉強しました。ともあれ、道真、トントン拍子の出世につぐ出世。三十三歳で文章博士(もんじょうはかせ)。これは文章を司るお役目としては最高のポジションです。菅原家の誉れ、希望の星、まぎれもなくエリートコースまっしぐらでありました。
しかし、いいことばかりでもありません。幼い愛児二人を病で失ったのです。

  阿満(あまん)を夢(ゆめ)む  菅原(すがわら)道真(みちざね)作

  阿満亡(あまんぼう)じて 来(このかた)夜(よる)も眠(ねむ)らず
  偶々(たまたま)眠(ねむ)れば 夢(ゆめ)に遭(あ)ひて涕(なみだ)漣々(れんれん)たり
  身長(しんちょう) 去夏(きょか)は三尺(さんじゃく)に余(あま)り
  歯(よはい)立ち(た)て 今春(こんしゅん)は七年(ねん)なるべし
  事(こと)に従(したが)ひて人(ひと)の子(こ)の道(みち)を知(し)らんことを請(こ)ひ
  書(しょ)を読(よ)みて帝京(ていけい)篇(へん)を暗誦(あんしょう)したり
  庭(にわ)には駐(とど)む 戯(たわむれ)れに栽(う)えし花(はな)の旧種(きゅうしゅ)
  壁(かべ)には残(のこ)す 学(まな)んで点(てん)ぜし字(じ)の傍辺(ぼうへん)
  言笑(げんしょう)を思(おも)ふ毎(ごと)に在(あ)るがごとしと雖(いえ)ども
  起居(ききょ)を見ん(み)と希(ねが)へば惣(すべ)て惘然(ぼうぜん)たり
  到(いた)る処(ところ) 須弥(しゅみ) 百億(ひゃくおく)に迷(まよ)はむ
  生(うま)るる時(とき)の世界(せかい) 三千(さんぜん)暗(くら)からむ
  南無(なむ)観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ)
  吾児(わがこ)を擁護(ようご)して大蓮(だいれん)に坐(ざ)せしめよ 

  ―――― 続く ―――― 
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「」

今週はおやすみです。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

文明の進化にウイルスの新種

円高でダイヤ ワインが下がっても

九条の理想をど突く北の核

建前の羅列で票を取りに来る

敵の非を探す政治が貧しすぎ

( ニュースやぶにらみ )

「放浪記」
一筋の道を −森光子

「消費者庁」
無駄遣いをしなければいいが −社会保険庁

「世界の非難」
北の耳に念仏 −馬

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

 

森田さんから

今週はお休みです。              

龍翁余話

龍翁余話(83)「北朝鮮」<その1>

4月5日の(人工衛星打ち上げと称する)長距離弾道ミサイル発射、5月25日の核実験、翌26日の日本海向け短距離地対艦ミサイル発射など、相次ぐ北朝鮮の“暴挙”に対して、
数人の読者から「龍翁さんは吼えないんですか?」とのメールを頂戴した。吼えたいのは山々、腸(はらわた)が煮えくり返るほど怒っている。麻生首相は26日の記者会見で、自民党内から自衛隊が敵基地攻撃能力を持つ必要があるとの意見が出ていることについて、「一定の枠組みを決めた上で法理上は(敵基地攻撃は)できる」と、法的には可能との見解を示した。翁、本来、侵略戦争はもとより他国に対して武力行為を行なうことは反対だと主張してきた。今でもその基本的な考え方は変わらない。だが、日本が他国(敵)の脅威にさらされ、日本の国土と国民の安全を脅かされる事態が現実のものとなりつつある現在、そういう議論(敵基地攻撃能力を持つ必要性)が出てくるのも仕方がないのでないか、そんな風に思うようになっている。但し、議論だけで終わることを祈るが・・・

翁は、彼の国を“詭弁国家”と呼んでいる。間違っていることを正しいと思わせる理論づくり、自国(国民)や他国を欺くため故意に事を構えたり起こしたり、それを正当化する論法、その愚行愚言に対する国際社会からの非難を逆手にとって、己れの次なる反社会的・反国際的(挑発)行為を相手のせいにしてしまう理屈づけ・・・いやはや始末に負えない国だ。こんな為政者の下で生きる一般国民が可哀想。国の正式名称は『朝鮮民主主義人民共和国』というのに、どこが民主主義で、どこが人民のための共和の国なのか――民意・世論を一切認めない独裁国家なのである。

度重なる“脅し”に対する日本国としての対応や客観的論評は、政治家やマスコミに任せるとして、翁は、この機会に改めて17年前の“訪朝体験”を思い起こしてみる。
古い話で恐縮だが、翁が、北朝鮮を取材したのは1992年10月のこと。渡航に至る経緯は紙面の都合で割愛するが、新潟港から北朝鮮籍の貨客船・万景峰号に乗り日本海を北上、ウラジオストック(ロシア)方面を廻って南下し、約28時間もかかって、ようやく元山港(北朝鮮の日本海側の最大の軍港)に到着、“近くて遠い国”を実感する。元山港では日本語が達者な年配者Rと英語の堪能な若者K(いずれも中央政府の官吏)が翁を出迎えた。「先生(翁)がご滞在中(14日間)、我々2人が先生の護衛をします」何が護衛だ、監視ではないか、と思ったが「よろしく」と握手した。そしてRが慇懃に「パスポートをお預かりします。お帰りになる時、お返し致します」翁、黙ってそれに従った。

元山から平壌を結ぶ高速道路(190km)を時速100キロで走る。途中、垣間見る軍需工場や軍基地を(持参の小型ビデオカメラで)撮りたかったが、どうせ拒否されると思ったので、カメラを取り出すのを控えた。会話(彼らの質問)はもっぱら“日本での共和国(北朝鮮)の評判”。「日本のマスコミが誤解をしている部分もあるだろうから、私は事実を知るためにやって来た。取材(撮影)の協力をお願いしたい」「可能な限りご協力致します」想像はしていたが、その“可能な限り”がいかに少なく、“制止”がいかに多いか、数日はウンザリの連続だった。翁は2人に言った「どこの国でも光と影がある。影を影として認める勇気、光に変える努力こそが肝要だ。影を覆い隠し繕うことは、逆に恥ずかしいことだ」・・・随分、思い切ったことを言ったものだ。これで追い帰されるかも、と懸念したが、日が経つにつれRとKは、翁への警戒を緩めるようになった。特に若いKは、
西側諸国の情報収集を担当しているせいか、特別に翁に理解を示すようになり、自発的に翁の助手(荷物持ち)をしてくれるようになった。ある日、K1人の護衛で、金日成広場の地下にある市民市場(本来は外国人は立ち入れない場所)で撮影をしていたら、突然、Kが「逃げよう!」と言って走り出した。かなり走った。安全な場所に辿り着いた時、Kは、逃げた理由を説明した「市場所属の警備隊が、我々を逮捕する構えを見せたので・・・」「だって君は中央政府の役人だろう?彼らより君の方が権力はあるはずだが」Kは笑って「取材禁止場所で撮影を認めた私も同罪です」と首をすぼめた。「危ないところだったね」「以後、もっとしっかり護衛します。ご安心下さい」翁、嬉しかった。飛躍し過ぎるが、こんな若者が将来、北朝鮮のリーダーになったら、本当の“民主主義人民共和国”になるだろうに、と思ったものだ。

実を言うと、当時から翁の周辺では、すでに“拉致問題”は囁かれていた。当然、政府内でも密かに調査は進められていた。社会党(当時)だけが強行に否定した。それもそのはず、歴代社会党委員長の訪朝は恒例であった。成田(1974年)、飛鳥田(1977年)、石橋(1984年)、田辺(1985年、1989年)、土井(1987年)、そればかりではない、1990年には自民党・金丸幹事長と社会党・田辺委員長(いずれも当時)らが“拉致”の首謀者・金日成を表敬訪問した。馬鹿と言おうか、滑稽と言おうか、その猿芝居は金日成没(1994年7月)後も続いた。1995年、自・社・さきがけ連立政権が、そして1997年には当時の自民党・森総務会長(後の首相)までが金正日(金日成の後継者)のご機嫌伺いに出かけた。この時点で“拉致問題”は今世紀に入るまで完全に封印させられた。日本領土を侵犯し、日本国民を拉致して、その家族を悲劇のどん底に陥れた以上の国益がどこにあるというのか?・・・国家の品位と誇りを忘れて犯罪国家を崇めたせいで北朝鮮は日本を完全に見下し始めた。愚考愚行の政治家たちよ、その責任の重さを知れ。

さて、取材中の翁、“拉致問題”を口にしたら即刻、国外退去、最悪は拘束ということになりかねない。が、何か“探り”の方策はないか、と考えた末、「田宮高麿に会いたい」と申し出た。田宮とは、1970年に日航機『よど号』をハイジャックして北朝鮮に亡命した赤軍派のリーダー(1995年に平壌で死亡)。さあ、RとKが困った。その顛末とその他の取材メモ、その折々の印象は次号で・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

友人から借りたCDアルバムです。いったいどれだけ持っているのだろうと思うほど、次から次と出てきて感心させらます。
最近お借りしたプリンセッサのアルバムはいかがでしょう?
ジャケットも魅力的ですが歌もなかなかいいです。ただただ聴くばかりです。

Princessa

1.Calling You
2.Anyone But You
3.Try To Say I'm Sorry
4.Like A Nun
5.Summer Of Love
6.Seven Days A week
7.Baila Al Ritmo
8.I Do What You Want Me To Do
9.The Night
10.He's On The Phone
11.Do You Wanna Be Loved
12.Again & Again
13.Rompete
14.Vivo
15.Me Duelen Tus Mentiras
16.Desnudare
17.Dukrme Junto A Mr
18.Calor De Amor
19.Try To Say I'M Sorry(Innergarage Mix)

《R.O.》

編集後記

義理の父が残してくれたたくさんの切手を毎日眺めています。ものすごい数の切手や初日カバーがあります。感心しているだけでは能がないので雑貨屋ブログで紹介することにしました。驚いたことにこれまでいろいろ工夫して書いてもアクセス数が増えなかったのですが、これを紹介したら一気にアクセス数が増えました。
やっぱり連続性のものがいいのでしょうか?
雑貨屋のブログ→ http://zakkayanews.jugem.jp/
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Zakkaya Weekly No.681

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com