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NO.671                Ryo Onishi              3/22/2009  

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雑貨屋のひとり言

土曜日は朝からすばらしい天気でどこかに出かけたくなり、最近リニューアルされたマリンピア神戸に行くことにしました。マイカーではなくJRを利用しました。JR垂水駅から徒歩数分で着きます。数年前に初めて行って以来でした。 神戸淡路鳴門自動車道の料金が週末1000円ということもあって四国のナンバープレートの車をたくさん見かけました。神戸方面からも四国にたくさんの人が訪れているだろうなあと思いました。アウトレットと言われているので期待したのですがそんなに安いという感覚はありませんでした。明石海峡大橋やヨットハーバーがすぐ近くなので、景色もよく気晴らしに来るのにいいところです。≪R.O≫

F.D.R メモ(6)

――― 前号よりの続き。以下の覚え(メモ)はすべて下記からの引用(または参照)であり、私自身がフランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、以後の記述では「F.D.R.」とします)を知るためのメモであることをお断りしておきます。―――

「ルーズベルト、ニューディールと第二次世界大戦」(新川健三郎著、清水新書)
「パクス・アメリカーナの光と影」(上杉 忍著、講談社現代新書)
「ルート66、アメリカ・マザーロードの歴史と旅」(東 理夫著、丸善ライブラリー)
「フランクリン・ルーズベルト」(T.V.番組、知ってるつもり)、その他、インターネットからの情報

〔Y〕大恐慌と大統領選出馬
大恐慌の勃発 
 1929年10月24日(木)、ニューヨーク株式取引所は突如として株価の大暴落を記録した。しばらく前から投機熱のあおりをうけて、株価は異常な値上がりをみせ、この高値がいつまで続くか一抹の不安が持たれていたが、現実の株式暴落はきわめて急激で、その波紋は直ちに広がった。

 フーバー大統領や財界指導者は、景気がまもなく回復するだろうと再三にわたって楽観的な見解を表明したが、不況は悪化の一途をたどり、さらに事態はアメリカ資本に大きく依存していたヨーロッパ経済にまで波及して、世界恐慌の様相を帯びてきた。そして不況が長期化し、企業が生産活動の縮小にとりかかると、失業者数は急速に増え、賃金の引き下げも始まった。民衆は銀行預金の取り付けに押し寄せ、社会不安がアメリカ全土を覆った。

 フーバー大統領下の経済政策の基本は、あくまでも「産業の自治」が原則であり、ビジネスの合理化を促進する活動も各企業の自主性に委ねられていたため、大恐慌のような事態になり、企業の経営条件が悪化すると、活動自体が破綻せざるをえなかった。こうした状況に直面してフーバー政府もついに失業救済活動の必要を認め、国家権力の介入による経済統制機構の樹立など、本格的な恐慌対策を迫られた。

 フーバー大統領は大恐慌に対しては決して無策でいたわけではなく、失業者の救済事業を未曾有の規模に拡大し、特に 1939年1月には、巨額の政府資金で復興金融公社を設立し、銀行と鉄道を中心に、大がかりな国家資本の活用で民間経済の立て直しを図ろうとする画期的な政策に着手している。しかしフーバー大統領は、彼の哲学・政治信念として、経済の再建はあくまで民間企業家の自主性に基づいて行われるべきであり、政府の全面的な経済統制は全体主義に道を開く危険性があると固く信じていた。そのため、政府の機能の拡大も、おのずから限界が生じ、必要に応じてプラグマティックに政策を立案する柔軟性を欠いていた。

(2)ニューヨーク州の恐慌対策 
 フーバー大統領の後手後手の恐慌対策に対し、ニューヨーク州では、F.D.R.の指導の下に敏速に恐慌対策が検討され、後に“小型ニューデール”と呼ばれたような種々の画期的な社会政策が打ち出された。F.D.R.はフーバーと異なり、強固な経済哲学を持たず、それだけに理論的拘束も受けないので、現実の必要に応じて速やかに行動が起こせたといえる。

 ニューヨーク州は全国で初めて失業救済基金を設定し、養老年金制度も創設された。さらに赤字財政も気にかけずに、失業救済を目的とする大胆な公共事業計画が着手された。

 世論操作の面でも、F.D.R.はラジオ放送を通じて州民に直接語りかけたり、州内を巡回して不況の状況を自ら視察するなど、意欲的なところをみせ、また新聞記者との会見を効果的に活用する技術も習得した。さらに、こうしたニューヨークにおける改革政策の「実験場」において、F.D.R.は後に合衆国大統領になってからの本番で立役者となる多くの人材も得ることが出来た。

 そして彼は州知事の中では新顔であるにもかかわらず、自らイニシアチブをとって、失業とその救済問題を協議するために東部産業諸州の知事会議を招集するなど、社会政策の先頭に立つ革新的知事としての地歩を築き上げたのである。

 1930年に再びニューヨーク州知事選挙に立候補したF.D.R.は、当然のことながら対立候補を問題とせずに再選された。そして彼は今や強固な基盤を持つ有力な政治家として浮かび上がり、一躍民主党の次期大統領候補と目されるまでになったのである。

(3)大統領選への出馬
 1932年、大統領選挙の年を迎えても、アメリカ経済は依然として恐慌のどん底にあえいでおり、この状況は民主党にとってきわめて有利な情勢となっていた。

 そして革新的知事として名声を上げていたF.D.R.は民主党大統領候補の指名を勝ち取った。そして、指名受諾演説を行い、そこで国民に対し「ニューディール」の実施を約束したのである。

 11月8日の投票の結果、予想通りルーズベルトは 2,280万票を得、フーバーを 700万票も引き離し、また、選挙人獲得では 472人対59人という大差で勝利した。
――― 以下次号に続く ―――
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「」

今週はお休みです。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

 ホップ ステップ自惚れがジャンプする

パフォーマンス ラッパも今が絶頂期

内部告発 圧力鍋の蓋が飛ぶ

強弁の舌と明日が見えない目

風向きに両刃の剣が疼きだす

( ニュースやぶにらみ )

「埼玉県民栄誉賞」
おくられびととは嬉しいですー −本木雅弘

「疑似体験」
無重力 −首相の椅子

「進退をかける相手」
自民党でなくて検察だった −小沢代表

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺ぶらり散歩(18)
-★ 佐藤春夫
明治43年上京し団子坂上の観潮楼の向かい側に下宿し、後47年間二回ほど区外に出た外は文京区に居住。文京区歌の作詞家で、広く愛唱されている。と文京区のホームページにあります。明治43年は、鴎外がスバルに「青年」を掲載していた年ですので、慶応予科の学生だった春夫は、鴎外を憧れの目で見ていたのではないでしょうか。後年作家として詩人として文化勲章を受章した、そのスタートがこの下宿でした。 
詩人生田春月「驚くべき早熟の男」より丁度佐藤君が森鴎外さんの向ふの下宿にゐた時だ。(中略)或日其処へ遊びに行くと、同郷の奥栄一君、下田悦雄君などもゐて、佐藤君は例の如く窓の敷居に乗つかゝつて、盛んに気焔をあげ、警句を吐き〜。
 俗に門弟三千人と称されたその一方で、紀州人の罪のないけれども辛辣な憎まれ口は、文人との仲たがいも多かったようです。その気性を語るるエピソードの一つ、檀一雄『列車を怒鳴る』より。「その裏庭の一画を横切つて鉄道が敷設されたことは、先生にとつても随分にがにがしいことであつたに相違なく、座敷にゴロリと横になつて談笑しておられても、列車の轟音が近よつてくると、「バカヤロー」 その響きが立去るまで、大声をあげて、列車を怒鳴りつけられるのである。しかし、そのあとは、愉快そうに、私を顧みて、大笑されるだけであつた。」 昭和39年「1週 間自叙伝」というラジオ番組を自宅で録音中、「私は幸いにして…」という言葉を発した直後心筋梗塞を起こし、そのまま亡くなりました。享年72歳。
 

森田さんから

今週はお休みです。

龍翁余話

龍翁余話(73)「ああ、忘れまじ硫黄島」

この時期になると「太平洋戦争の激戦地・硫黄島」のことが思い出されてならない。翁、過去2回渡島した。1度目は1999年、硫黄島協会(生還者、遺族、旧島民らによって昭和28年設立、毎年遺骨収集、慰霊活動などを行なっている団体)主催の『戦没者慰霊の旅』への同行カメラ取材、2度目は2000年『日米硫黄島戦没者合同慰霊祭』の撮影だった。それまでには硫黄島に関する幾つかの本は読んでいたのだが、実際に現地に入ると、半世紀を超えているのに未だ生々しい惨状の跡が翁の目を焼き、胸を衝いた。『硫黄島の戦い』――「戦史上、かくも悲惨極まりない戦いがあっただろうか、それは、まさに地獄絵図そのものであった」(『硫黄島 勝利なき死闘』(ビルD.ロス著、湊 和夫訳より)

硫黄島は、東京から南へ約1,250キロ、東京都小笠原諸島に属する火山島。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物に覆われているところから、この名がつけられたという。総面積22平方キロ、ほぼ品川区の広さである。この小さな島が、日米にとっていかに重要な島であったか・・・米軍は、長距離爆撃(日本本土攻撃)、緊急着陸基地の確保などで硫黄島の占拠を必要とした。当然、日本はそれらを阻止するため(本土防衛の防波堤として)硫黄島の戦略的重要性を認識し、栗林忠道中将率いる小笠原兵団第109師団、陸・海軍将兵・軍属・特年兵(少年兵)を含む22,923名を置き、長期戦に備えた。その中には在島民1,100名のうち、130人が軍属として徴用された。(あとの島民は本土に疎開させられた)

対する米軍は800隻の艦船、4000機の航空機、総数25万の兵力で硫黄島奪取にかかる。
1945年(昭和20年)2月16日、硫黄島周囲の海を埋め尽くした米軍艦船隊の中から戦艦や重巡洋艦が一斉に火を噴いた。空爆も加えられた。島の形が変わるほどの熾烈な爆弾の雨、それが連日続く。そして19日朝、6時40分から2時間かけてB29爆撃機の大編隊による空爆と沖からの艦砲射撃が全島を襲い、その間、120機の艦載機が上陸地点へ執拗な爆撃。そして海兵隊約9000名(夕方までに4万名)が戦車200輌と共に南海岸へ上陸。そこから日本軍の反撃(迎撃戦)が始まる。

栗林中将は持久戦にそなえ、島内に全長18キロにも及ぶ地下壕を作り、随所に点在する自然の洞窟を利用してこの戦いに備えた。しかし日本軍は、飛行機は勿論、武器弾薬、食糧、飲料水、医薬品などが乏しい上に、50度を超える蒸し風呂のような地下壕や洞窟に立て篭もっての迎撃戦を強いられ、将兵たちの体力消耗は日増しに激しく、熱病、栄養失調で倒れる兵も続出、おまけに中盤以降は殆んど弾薬が底をつき、日本軍は精神力だけで白兵戦(刀剣などの接近戦闘)や自爆戦に転じたという。その悲惨な戦闘状況を、翁の拙筆で再現することは英霊たちに申し訳ないので割愛するが、当初、米軍側の「あんな島は5日で陥落させる」の予想に反し日本軍は、栗林忠道兵団長(陸軍中将)指揮のもと、市丸利之助第27航空戦隊司令官(海軍少将)、千田貞季混成第2旅団長(陸軍少将)らが共同して見事な持久戦を展開し、圧倒的な兵力・兵器を有する米軍上陸部隊に多大な損害を与えた。しかし米軍上陸後約1ヵ月足らずで日本軍は大多数の将兵を失い、栗林兵団長は遂に3月17日、大本営に訣別の電文を送った。
“戦局遂に最期の関頭に直面せり。小官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と安泰を念願しつつ全員壮烈なる攻撃を敢行する。我が将兵の勇戦は真に鬼神をもなかしむるものあり。しかれども今や弾丸尽き水枯れ、戦い残る者全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするにあたり、ここに永久のお別れを申し上げる(要旨)“
17日夜半から将兵たちは、文字通り決死の白兵戦を展開するもあえなく斃れ、3月26日、栗林兵団長以下300余名の将兵は北部(天山)を出発して最後の総攻撃を敢行、全員玉砕。これをもって日本軍の組織的戦闘は終わった。日本軍の戦死者21,900名、戦傷者1,020名(計22,920名)、米軍の戦死者6,821名、戦傷者21,865名(計28,686名)。日本軍生還者は1023名。(数字は資料によって多少異なるが、厚生労働省資料を採用した)

翁が初めて訪島したのは1999年3月、硫黄島協会“慰霊の旅”参加者100名と共に航空自衛隊入間(いるま=埼玉)飛行基地から大型輸送機で硫黄島へ。同島に駐屯する海上自衛隊の車数台に分乗して激戦の跡を訪ねる。全島を一望できる擂鉢山(標高169m)に登る途中に幾つかのトーチカ跡や破壊された大砲、弾丸跡がここかしこ。頂上には米軍占領記念(星条旗を掲げる海兵隊)レリーフ、各県の石で造られた戦没者慰霊碑、壮絶な空中戦を展開したゼロ戦(第1、第2御盾)攻撃隊の顕彰碑・・・旅人たちは黙々と(思い思いに)水や花、酒、お菓子などを供える。

翁たちの車は東海岸へ。ここには昭和7年のロス五輪(馬術障害)ゴールド・メダリスト“バロン(男爵)西”こと西 竹一大佐(戦車連隊長)戦死の碑が建てられている。話は前後するが、翁が何故、この“慰霊の旅”の同行取材を思い立ったか、実は、翁の友人で西大佐のご子息・西 泰徳氏(硫黄島協会副会長)のお誘いがあったからだ。父君の碑に献花し合掌する泰徳氏の目に涙・・・
五輪メダリストと言えば、同じロス大会に出場し、水泳の100m自由形で銀メダルを獲得した河石達吾選手(広島県出身=陸軍大尉)がいる。奇しくも西大佐と時を同じくして硫黄島で戦死。翁、その人の名も決して忘れない。
それにしてもこの東海岸一帯は強烈な硫黄の臭いが鼻をつく。西大佐ら戦車連隊は、こんな場所で死闘を展開したのだ。熱砂の浜に点在する小岩群が将兵たちの英姿に映る。翁、撮影を終え目礼して、早々に北部・天山に向かう。

栗林兵団長以下将兵300余名が最後の総攻撃に出発した地・天山の慰霊塔前で厳かに慰霊祭が行なわれ、その後、またグループごとにそれぞれの車に分乗して戦跡を訪ねる。翁は『医務科壕』(医療活動をした洞窟)へ。未だ壕の土の下には数え切れない将兵の遺骨が埋もれたままになっているという。翁一人、入り口で黙祷して壕に入りカメラを回す。霊気が背中をよぎる。涙でレンズが曇る。翁、心の中で英霊たちに語りかける「祖国防衛のために戦ってくれた皆さん、本当にありがとう!皆さん、私のカメラの中に入ってください。私があなた方を“母国”に連れて帰ります」・・・

昭和26年から始められた硫黄島戦没者の遺骨収集活動は、これまでに60数回。収集された遺骨は8,611柱(平成19年度現在)。未だ12,000余名の遺骨が熱砂の下に埋もれ、密林や洞窟の中に放置されたままになっている。遺骨収集問題は硫黄島に限ったことではない。
フィリピンや南の島々でも多くの戦没者の遺骨がそのままになっている。戦後64年の経過の中で現地の地形は変わり、情報も少なくなってきた。つまり、遺骨収集活動は年々困難さを増している。そして問題は、旧戦地に取り残された遺骨に対する“思い”が薄らいでいることである。国のために尊い命を捧げた人たちの遺骨を祖国に帰してあげるのが国家の責任であるはずなのだが、その意識と論議は、だんだんと遠のいて行く。それでいいのだろうか・・・

さて、翁たちを乗せた車は西海岸へと向かう。生還者Kさんの案内でジャングルにも入る。「ここはまだ、あの時のままだ。水がないので木の葉の汁をすすった」・・・当時の惨状と亡き戦友を思い出しているのか、Kさんの(生い茂った樹木を見上げる)表情が険しい。
『平和記念墓地公園』(旧島民墓地。その中には戦闘に参加した130名のうち82名の犠牲者も含まれる)で慰霊の鐘を鳴らす。平成6年には天皇皇后両陛下が巡幸されている。
翁たちの車は中央部に戻る。『鎮魂の丘』を巡り、最後は『硫黄島戦史資料館』―― 焼け爛れた軍服、錆びた銃剣、小銃、軽機関銃、ガラス瓶で作られた手榴弾、手製の草履、撃ち抜かれたヘルメット、朽ちた飯盒、ボロボロになった“武運長久”の千人針、変色した故郷からの手紙などが涙をそそる。(それらの一部が靖国神社・遊就館に展示されている)

硫黄島の英霊に捧げる鎮魂歌『あなたは今、何処に』
♪あなたは今 何処にいますか? 水もない 食べ物もない熱砂の中で
 語り合う友もいないジャングルの中で あなたは今もじっと耐えているのでしょうか?
 過ぎし日 あなたは戦った 祖国のために戦った 辛かったろう 苦しかったろう・・・
 地獄の絵図を忘れません あなたのことを忘れません 本当に 本当にありがとう!
 だから もう帰りましょう 愛する故郷へ 帰りましょう (抜粋)

靖国神社の桜が咲き始めた。花見に興じるもよし。されど、この花びら一枚も見られない硫黄島や南の島々に残る英霊たちを忘れるなかれ。感謝と慰霊の心を忘れるなかれ・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。
 

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

Michelle Tumes
この歌手のアルバムも友人から借りてはじめて聴きました。声はEnyaに似ていてとても聴きやすい歌声です。オーストラリアの歌姫といわれているようです。曲はポップ、軽いロック調といったところでしょうか。
Center of My Universe
1 Deep Love (04:04)
2 Heaven's Heart (03:19)
3 Lovely (03:59)
4 Do Ya (02:37)
5 Immortal (03:55)
6 Missing You (03:48)
7 With the Angels (04:32)
8 Chant (02:36)
9 Christe Eleison (03:09)
10 I Wish for Peace (03:18)
下記で試聴できます。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/505396/ref/337919

<R.O.>

編集後記

先週は暖かい日が何日かあり、もう春を感じさせてくれます。日中の気温と、朝夕の気温がずいぶん違うので服装にちょっと困ったりします。さくらももうすぐですね。
WBCはいよいよ大詰めにきました。韓国がベネズエラに勝ったので、明日、日本がアメリカに勝てばまたまた韓国との因縁の試合になります。
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Zakkaya Weekly No.671

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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