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NO.670                Ryo Onishi              3/15/2009  

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雑貨屋のひとり言

サクラの話題が聞こえ始めました。今年は2月が暖かかったので去年より早く咲くらしいですね。今日、近くの公園の桜の木を観ましたがまだまだでした。桜の咲く時期がだんだん早くなってきているようで、入学式のころは葉桜になってしまうのではないかと心配されている方も多いようです。≪R.O≫

F.D.R メモ(5)

――― 前号よりの続き。以下の覚え(メモ)はすべて下記からの引用(または参照)であり、私自身がフランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、以後の記述では「F.D.R.」とします)を知るためのメモであることをお断りしておきます。―――

「ルーズベルト、ニューディールと第二次世界大戦」(新川健三郎著、清水新書)
「パクス・アメリカーナの光と影」(上杉 忍著、講談社現代新書)
「ルート66、アメリカ・マザーロードの歴史と旅」(東 理夫著、丸善ライブラリー)
「フランクリン・ルーズベルト」(T.V.番組、知ってるつもり)、その他、インターネットからの情報

〔X〕小児麻痺との闘い、政界への復帰
(1) 小児麻痺(ポリオ)との闘い
 1920年の選挙戦に破れたF.D.R.は、公職から身を引き、ふたたび弁護士としての生活に戻った。しかし、間もなく思いがけない病魔に襲われた。1921年の夏、彼は家族とメイン州のカンポペレー島の別荘で、水泳のあと、突然激しい寒気に襲われ、下半身の筋肉を動かすことが出来なくなった。小児麻痺(ポリオ)にかかったのであった。

  長い闘病生活は精神的にも肉体的にも苦痛の連続であった。このような逆境の中にあっても、彼 が再起を果たせたのは、良い医師に恵まれたこと以外に、(a) 彼自身の勇気と決断力、野心の強さ、(b) 強靭な意思を持つエレノア夫人の献身的な看病 があげられる。そして、数年で立ち上がり歩けるまでに回復した。

 この小児麻痺との闘いは、これまで名門の家に生まれ、特権階級的な高慢な態度が目だったF.D.R.が、闘病後は傲慢なところがなくなり、民衆の困っている問題にも耳を傾ける温かい人間に変ったという。したがって、彼の闘病生活は長期的にみて、彼の政治生活にとって大きなプラスとなったようだ。

(2) 政界への復帰
 1928年アメリカは永遠に続くかと思われた好景気の中で、大統領選挙を迎えた。民主党では、ニューヨーク州知事のスミスが出馬の決意を固め、その際、F.D.R.に自分の後を継いで州知事に立候補するよう要請した。F.D.R.は政界復帰をまだ時期尚早とみて、辞退したが、スミスは強引に彼を引き出す策をとり、同意を得ないままに党大会でF.D.R.を州知事候補に指名してしまった。結果的には、スミスは共和党候補のフーバーに敗れ、F.D.R.は接戦のあげく、みごと当選を果たした。

 そして彼がニューヨーク州知事に就任してから 8ヶ月も立たないうちに、アメリカと世界をゆるがす大恐慌が勃発したのであった。
――― 以下次号に続く ―――
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「」

今週はお休みです。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

 お化け煙突 僕の昭和が立っている

あの人も白髪 少年期の女神

力石 昔話が持ち上げる

捨てて出た故郷の唄が酔うと出る

封印の歴史 昭和がまだ疼く

( ニュースやぶにらみ )

「時代」
さようなら   −ブルートレイン
行ってきます −自衛艦

「WBCチャンピオン」
今度は野球の番だ −長谷川選手、栗生選手

「金総書記に賛成100%」
いいなあ支持率10%台の首相がいて −北朝鮮国民

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺ぶらり散歩(17)
* 観潮楼跡―沙羅の木
本郷図書館歐外記念室の裏庭に、当時から残っている大銀杏、三人冗語の石、玄関の門柱の礎石と敷石があり、それとと共に、現在は二代目ですが鴎外が好んだ沙羅の木があります。 昭和29年鴎外の33回忌に当り長男於菟と弟妹がはかって建てた「沙羅の木」(永井荷風書)の碑も外壁に埋め込まれています。
  褐色の根府川石に  白き花はたと落ちたり
  ありとしも青葉がくれに  見えざりしさらの木の花

森於菟著「父親としての?外」庭の沙羅は初夏に白い花が咲くが、気を附けていないと見すごすほど淋しい花であった。(略)この時より二年前、私が東武線市川駅の近くに隠棲して居られる永井荷風さんを訪ねて執筆をお願いしたところ、世俗をきらうというので名高い荷風氏は一言の下に快諾され(略)出来上った見事な詩壁には、武石弘三郎作の大理石「森?外」胸像を配し、折柄白いほのかな花をつけた沙羅の木を植え、その前には根府川石も(略)昔のままに温和の相貌ながら翁さびて見える佐佐木信綱さんも心から喜んで碑前に和歌をたむけられた」
森茉莉著「父の帽子」より「私がほっとして腰を下ろした時除幕の式が始まっていた。哲太郎とりよとの手で幕が落ち、父の白い石像が、眼に入った。さうして美奈子と万里男との手で「沙羅の木」の文字が現れた。瞬間私の心に、像の冷たい石を通して父と私の間の遠い愛情の影が現れた、静かな「沙羅の木」の歌の声の中で、私ははじめて今日の感動を、覚えた」
 

森田さんから

銀幕のスターは今
              森田のりえ
知人宅で開かれるサロンのゲスト・スピーカーに「杉葉子」さんが招かれた。
テーマは『映像が伝える日本の心』
会は、まず自己紹介からはじまるのが慣例である。私が自分の名前をいうと、
「あら、何度かお会いしましたね。家もお近くでしたわね」
といわれた。もし、渡米などせず広島の田舎で暮らしていたなら、往年のスターと身近に知り合う機会はなかったに違いない。ちょっぴり誇らしい気持ちになり、日本の友人に電話をかけた。
「そんな人、知らないわ」
「ほら、『青い山脈』で映画デビューして有名になった女優さん、一世を風靡した方よ。日本人離れしたすらりと背が高くて、池辺良と共演したでしょ?」
咎めるようにいうと、受話器を握った向こうの友人は、首を横に振るのが分るような口調で「そんな映画、観てないもん。いったいいつ頃?」と訊き返した。一九四九年に作られた映画だと答えると、
「じゃ、知っているはずないわ。わたしの生まれる前だもの」
といわれてしまった。
しかし、よく考えてみると『青い山脈』の主題歌は譜面なしで歌えるが、映画を観た記憶が私にはないのである。
杉葉子さんは一九四七年に第二期東宝ニューフェイスとして映画界入り、約七十本の映画に出演したそうである。
そもそも私が初めて映像と呼べる類のものに出会ったのは、幼い頃である。お寺の本堂に白幕を張り、たしか無声映画であった。沿道の群衆の中を象に乗った王様のきらびやかな行列が続いていた。すると、一頭の象が群衆の中にいた一人の少年を鼻で抱き込むようにして鼻先に載せた。覚えているのはこのシーンだけである。
もうひとつ脳裏に焼きついているシーンがある。小学生のころ、夜、座布団を抱えて家族や隣近所の人たちと小学校の講堂へ映画を観に行った。山根寿子――なぜかはっきり覚えている――という女優さんが男性と抱き合いながら土手を転げ落ちたところでフィルムが切れた。映写技師が一生懸命に直すが繋げることができず映画会は終わりになった。先日、この話を映画通の友人にいうと、なんとか「エレジー」という題だといった。子どもの癖に私はおませだったのである。小学生の頃は母物映画が大流行で、感涙をしぼったものだ。映写場はいつも小学校の講堂と決まっていた。
あれは六年生の夏だった。成績が少し上がったのでご褒美に歳の離れた兄が広島市内の映画館へ連れて行ってくれたことがある。娯楽のないころだから、満員である。立見で、しかも戦争映画だ。疲れるわ、面白くないわ、で一言もしゃべらず帰りにカレー・ライスをご馳走になり、パチンコをする兄の傍でムッとしながらじっと立っていた。
中学の頃は父兄同伴が条件だった。ある夏の夜、家族で町の映画館へ行くというのに、翌日はテストがあるのを理由にやせ我慢をはり、一人家で勉強をしたことがあった。私は融通の効かない点取り虫だったのである。 
映画全盛時代は二本立て、三本立てが当たり前。休憩時間もない。途中で入って、見たところまでくると途中で出たから何がなんだか分らないという、まことに情けない状態だった。そんな風だったから、杉葉子さんが出演された映画を観ているはずなのに、印象にない。なんとも貧弱な私の映画観賞歴である。
 話を元に戻す。
 日本の友人が後日、ネットで検索したら「原節子」と共演した人ですねといってきた。わたしのレベルでは当時の俳優さんは知らないけれど、父が酔っ払うと自慢げに「若い頃、原節子にそっくりな女に言い寄られて困った」と、二十一歳のわたしを相手に、自分の若いころの話をしていた。
「いまにして思えば、父にとって束の間の娘との楽しい語らいの時ではなかったのかと、亡父を懐かしく思い出しました」
 といってきた。
 知人宅でのサロンで忘れられない杉葉子さんの言葉がある。
「妹が『お姉さま、原節子さんはある時期から人前にお出になることを止められたのに、お姉さまのようにいつまでも老いをさらけ出すのはどうかしら?』というけれど、わたしは人が大好きだから、ずっと人と関わって生きていきたいと思っています」
 時として、煩わしさをも伴う人間関係であるはずなのに元銀幕のスターは、現在、講演会文化活動などを行い、日米文化交流に貢献されている。
           おわり
                                                                                                            

龍翁余話

龍翁余話(72)「プロンプター」

「テレビのアナウンサーは、よほど記憶力がいいのか、原稿を見ないでカメラに向いたまましゃべっている。暗記するのも大変だろう」・・・テレビ・ニュースを視るのを楽しみにしていた亡き母が、生存中、さかんに感心していたことを(時々、可笑しく)思い出す。翁、母に何回かプロンプターの説明をしてあげたのだが、どうやら、よく解らないまま逝ってしまったようだ。

もう、ご存知の読者も多いと思うが、プロンプターとは“原稿表示装置”のこと。アナウンサー、キャスター用の机の上(手元のそば)に縁取りがある。そこに原稿を置くと天井に設置された小さなカメラがその原稿を撮影する。撮影された原稿が、テレビカメラのレンズの前にあるモニターに映し出される。手書きの原稿ばかりでなく、パソコンから直接モニターに映し出すことが出来る。だから原稿の間違い(誤字など)は即座に修正することが可能だ。アナウンサーやキャスターは、カメラ(レンズ)の前に映ったモニター原稿を読むので目線はカメラ(レンズ)、すなわち視聴者を見ていることになる。これらの装置は視聴者には見えないから、母のように「原稿を見ないでカメラに向いたまましゃべっている。暗記するのも大変だ」ということになる。このような(テレビ放送用の)プロンプターを『カメラプロンプター』というが、実は、プロンプターにはもう一つ『スピーチプロンプター』というのがある。

もともとプロンプターというのは演劇用語で、観客に見えない場所で舞台上の役者にセリフや動きのきっかけを教える係りのことを言う。歌舞伎では黒衣(くろご)をつけた人が舞台装置の陰や舞台の袖に隠れてプロンプターの役を務める。しかし、最近は演劇でも歌舞伎でも役者たちは、しっかりセリフを覚えるので、プロンプターをあまり必要としないそうだ。それにひきかえ『スピーチプロンプター』の活用が注目されている。『スピーチプロンプター』は、その名の通り、スピーカー(演説者)のために使われるシステム。演説の場合、通常、正面、10時方向、2時方向の3箇所に設置される。

今号に何故「プロンプター」を取り上げたかと言うと、先日、『米大統領のプロンプター依存にメディアが批判』という新聞記事を読んだからだ。記事によると「オバマ米大統領は、公的発言には、たとえ短い演説でも必ずプロンプターを使う。米国歴代大統領もプロンプターを使ってきたが、オバマ大統領ほどこの装置への依存度の高い前例はない」と言う。さらに新聞は「オバマ氏は大統領選挙の時から他の政治家(正副大統領立候補者)に比べプロンプター使用の頻度が高かった。大統領になってからもそのやり方は変わらない。(中略)プロンプターは演説者と聴き手の障壁になるばかりでなく、演説が不自然で人工的になり過ぎる。ブッシュ前大統領は主要演説以外ではまず使わず、簡単な声明や地方遊説ではせいぜい小さなノートを使用する程度で、他の大統領も使用の頻度はずっと低かった」と報じている。この新聞批判に対してホワイトハウスは「大統領が国民に訴えることはその内容が最重要であり、伝達の方法は問題ではない」と反論しているそうだ。

たとえ米国の歴代大統領がプロンプターを使っていた(いる)としても、演説は実に上手い。彼らはプロンプター・ライター(陰の執筆者)が書いた文章を棒読みするのではなく、文字の1語1句を己れの言葉にして表現する。それは、内容(文章)に対する絶対的信念と責任感が伴ってのこと。加えて、エロキューション(発声)、イントネーション(抑揚・語調)、チェンジ・オブ・ペース(緩急)、ポーズ(間の取り方)、モーション(動作・身ぶり)、エキスプレッション(表情)、オーディエンス・ウオッチ(観客、聴衆観察)などの演技力が(天性か訓練によってか判らないが)身についているから、総合的表現力となって聞き手を魅了するのだ。残念ながら日本の歴代首相は、田中角栄以後、国民の心を捉えるような演説上手は一人もいない。演技力が無いばかりか、原稿を棒読みしながら耳障りな「アー」、「エー」を頻発させる、時には読み間違いもする。もう一度、小学校から日本語を勉強し直しせ、と言いたくなる政治家が多過ぎる。断っておくが“上手な演説”とは単に薄っぺらな言葉の巧みさを言うのではなく、聴衆のハートに響く内容、つまり“信念と責任”が伴うスピーチであることは言うまでもない。

“心に響く演説”で思い出すのが、旧民主社会党(第3代委員長)の春日一幸という政治家。翁がマスコミの世界に入って間もない頃、初めて政治家をインタビューしたのが春日氏だった。氏はもともと社会党右派(河上丈太郎派)だった。1960年に民主社会党結成に加わり国会対策委員長に就任、翁が氏に会ったのは、その頃だったと記憶する。彼の演説はほとんど原稿を持たない、しかも浪曲調の流れるような“春日節”が特徴だった。彼が国会で演説中、誰一人として下品なヤジを飛ばす議員はいなかった。皆、聞き惚れたのだ。
インタビューの中での氏の言葉「わしは頭でモノは言わん。腹で唸る(演説をする)。わしの腹の中には常に国家・国民が棲みついている」が鮮烈に記憶に残る。これは勝 海舟が好んで使った言葉『赤心』、つまり“嘘偽りのない、ありのままの心(真心)を以て人に尽くす”に通じる。日本国をリードする政財界人、教育者、マスコミ人たちよ、今再び春日節や『赤心』に思いを馳せよ。

話し手は、話せば相手に通じる、と思い込んではいけない。聞き手に通じなければ話したことにはならない。政治家の下手くそなスピーチは、それだけで信頼感が薄まる。与野党党首よ、「アー、エー」の連発は聞きづらい。今はテレビ時代、国民向けのスピーチはプロンプターを使いなさい。但し、国民に判りやすい、正しい日本語の文章で、勿論、信念、責任(実行)の伴う言葉で、だ。それにしても、いつになったら“国家・国民が棲む腹“を持つ政治家が現われるのだろうか・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。
 

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

"Jennifer Love Hewitt"のアルバムを友人に借りてはじめて聴きました。とても聴きやすい歌声です。先週ご紹介した”Lisa Stansfield”も大変気に入っているのですが、この歌手もすばらしいですね。最近はブログでも音楽を紹介しています。
Jennifer Love Hewitt

1 Cool With You (03:15)
2 No Ordinary Love (04:05)
3 (Our Love) Don't Throw It All Away (03:58)
4 Never a Day Goes By (04:12)
5 Don't Push the River (03:37)
6 Greatest Word (04:15)
7 I Want a Love I Can See (03:50)
8 I Always Was Your Girl (04:32)
9 Last Night (04:17)
10 I Believe In (04:33)
11 Never a Day Goes By [Acoustic Version] (04:13)
12 It's Good to Know I'm Alive (03:02)

<R.O.>

編集後記

ブログを書くのは楽しいです。好きなときに好きなことを書くという気楽さ、これがたくさんの人に受け入れられているのだと思います。携帯から簡単に投稿できるというのはとても気に入っています。アクセスログも観 られるので毎日楽しみにしています。
http://zakkayanews.jugem.jp/
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Zakkaya Weekly No.670

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com