――― 前号よりの続き。以下の覚え(メモ)はすべて下記からの引用(または参照)であり、私自身がフランクリン・ルーズベルト(Franklin
Delano Roosevelt、以後の記述では「F.D.R.」とします)を知るためのメモであることをお断りしておきます。
「ルーズベルト、ニューディールと第二次世界大戦」(新川健三郎著、清水新書)
「パクス・アメリカーナの光と影」(上杉 忍著、講談社現代新書)
「ルート66、アメリカ・マザーロードの歴史と旅」(東 理夫著、丸善ライブラリー)
「フランクリン・ルーズベルト」(T.V.番組、知ってるつもり)、その他、インターネットからの情報 |
〔V〕F. D. R.の誕生と生い立ち
1882年1月31日、F. D. R.はニューヨーク、ハドソン河に沿う、美しい自然に包まれたハイドパークの名家に生まれた。
【父方の家系】:彼の祖先はアメリカがまだ、イギリスの植民地であった17世紀半ばに、オランダからニューヨーク(当時は、まだニューアムステルダムと呼ばれていた)に移住してきた商人であった。
貿易取引などでめざましい成功を収めたルーズベルト家は、ニューヨークの上流階級にはいった。
アメリカの独立革命の際は、多くの金持ち商人がイギリス側についたにも拘わらず、ルーズベルト家はアメリカ独立を支持して、独立革命派の中に社会的地歩を築いた。その結果、アメリカ独立後は、ニューヨーク政界の有力者として州憲法の起草に参画したのみならず、その一家から上院議員もだした。ある系図研究家によれば、ルーズベルト一族は少なくとも11人のアメリカ大統領と血筋のつながりを持っているという。(先祖新大陸移住前も含めて)
なお、第26代大統領の セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt、任期1901-1909)とは、
彼(F. D. R.)の6代前の父親が同じであり、また、彼の妻のエレノア・ルーズベルトはセオドアの姪(セオドアの弟の娘)にあたる。
【母方の家系】:母方のデラノ家もフランダース出の由緒のある名家であり、祖先は
1621年ニューイングランドに渡った清教徒であった。かれらも海運業で財をなし、その地方で資産家としての地位を保っていた。
母親セイラは意思の強い人で、26歳の若さで、当時夫人に死別していた 52歳のジェームスと結婚した。F. D.
R.が生まれた時、父ジェームスは既に高齢で、健康も優れなかったので、日常生活は母セイラがきりまわしており、そのためF. D.
R.も家庭では、父よりこの気丈な母から強い影響を受けている。
彼は、教育も当時、地方の富裕な家庭によくあるように、小学校にははいらず、両親や家庭教師から受け、友人も同じ上流階級から選ばれた。したがって一般の民衆の生活とは接触がなく、庶民性に欠ける面があった。その反面、青年期に入る前に8度もヨーロッパ旅行をし、早くから自然に国際感覚を養われていた。
☆14歳:良家の子弟だけを集めるボストンのグロトン校に入学。この種の学校は上流階級の徳性を養うことに重点がおかれ、かれらの特権意識や優越感が自然のうちにはぐくまれた。
F. D. R.は弁舌の点で優れた才能を示し、彼の巧みな論法と雄弁な演説は学内でかなりの名声を得たという。
☆1900年(18歳):グロトン校の卒業生との多くと同様、F. D.
R.は、これまた上流社会の私立学校であるハーバード大学に入学。ハーバードでの4年間も、学業成績は必ずしも優れたものではなかったが、彼の政治家としての才能は諸々の学内活動を通して早くもその片鱗を示していた。彼は常に学生組織のリーダーになろうと運動した。例えば、クラス委員長の選挙に際しては非常に不利な状況から種々の工作をして当選。歌が上手いわけでもないが、みずから合唱隊を組織して、幹事となる。運動神経や技量が優れていたわけではないが、フットボールやボート・クラブのキャプテンになる。大学新聞「クリムズン」紙で記者活動をし、最後には編集長に就任。
ただし、これらの学内活動も、結局のところ貴族的なサークル活動の域を越えるものではなく、社会問題に対する関心も、特権階級が一般市民の問題について抱く使命感から大きく越えるものにはいたらなかった。
河合将介(skawai@earthlink.net) |