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NO.666                Ryo Onishi              2/15/2009  

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雑貨屋のひとり言

2月中旬といえばまだまだ寒いのが普通ですが、昨日はまるで春が来たような陽気でした。娘の結婚式がそんなラッキーな日になりました。昨年の息子の場合はハワイの教会で家族だけの結婚式でしたが、それとは対照的にたくさんの人に出席者していただき、大変にぎやかな結婚式となりました。教会のバージンロードを娘といっしょにウェディングステップで入場するときはドレスを踏まないように緊張しながら歩きました。ちょっと涙が出る演出もありました。無事に結婚式を終えてほっとしました。
夜は萩から来られたご両親、親戚のみなさんといっしょに、「大阪なんば」で食事会をしました。萩ではみなさん自動車での生活なのでJR、地下鉄を利用しての移動は、なかなか好評でした。私の企画した食事も大好評でみなさんと大いに交流を深めることができました。≪R.O≫

F.D.R メモ(3)

――― 前号よりの続き。以下の覚え(メモ)はすべて下記からの引用(または参照)であり、私自身がフランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、以後の記述では「F.D.R.」とします)を知るためのメモであることをお断りしておきます。

「ルーズベルト、ニューディールと第二次世界大戦」(新川健三郎著、清水新書)
「パクス・アメリカーナの光と影」(上杉 忍著、講談社現代新書)
「ルート66、アメリカ・マザーロードの歴史と旅」(東 理夫著、丸善ライブラリー)
「フランクリン・ルーズベルト」(T.V.番組、知ってるつもり)、その他、インターネットからの情報

〔V〕F. D. R.の誕生と生い立ち
 1882年1月31日、F. D. R.はニューヨーク、ハドソン河に沿う、美しい自然に包まれたハイドパークの名家に生まれた。

【父方の家系】:彼の祖先はアメリカがまだ、イギリスの植民地であった17世紀半ばに、オランダからニューヨーク(当時は、まだニューアムステルダムと呼ばれていた)に移住してきた商人であった。

貿易取引などでめざましい成功を収めたルーズベルト家は、ニューヨークの上流階級にはいった。
 アメリカの独立革命の際は、多くの金持ち商人がイギリス側についたにも拘わらず、ルーズベルト家はアメリカ独立を支持して、独立革命派の中に社会的地歩を築いた。その結果、アメリカ独立後は、ニューヨーク政界の有力者として州憲法の起草に参画したのみならず、その一家から上院議員もだした。ある系図研究家によれば、ルーズベルト一族は少なくとも11人のアメリカ大統領と血筋のつながりを持っているという。(先祖新大陸移住前も含めて)

 なお、第26代大統領の セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt、任期1901-1909)とは、
彼(F. D. R.)の6代前の父親が同じであり、また、彼の妻のエレノア・ルーズベルトはセオドアの姪(セオドアの弟の娘)にあたる。

【母方の家系】:母方のデラノ家もフランダース出の由緒のある名家であり、祖先は 1621年ニューイングランドに渡った清教徒であった。かれらも海運業で財をなし、その地方で資産家としての地位を保っていた。

母親セイラは意思の強い人で、26歳の若さで、当時夫人に死別していた 52歳のジェームスと結婚した。F. D. R.が生まれた時、父ジェームスは既に高齢で、健康も優れなかったので、日常生活は母セイラがきりまわしており、そのためF. D. R.も家庭では、父よりこの気丈な母から強い影響を受けている。

 彼は、教育も当時、地方の富裕な家庭によくあるように、小学校にははいらず、両親や家庭教師から受け、友人も同じ上流階級から選ばれた。したがって一般の民衆の生活とは接触がなく、庶民性に欠ける面があった。その反面、青年期に入る前に8度もヨーロッパ旅行をし、早くから自然に国際感覚を養われていた。
 
☆14歳:良家の子弟だけを集めるボストンのグロトン校に入学。この種の学校は上流階級の徳性を養うことに重点がおかれ、かれらの特権意識や優越感が自然のうちにはぐくまれた。
F. D. R.は弁舌の点で優れた才能を示し、彼の巧みな論法と雄弁な演説は学内でかなりの名声を得たという。
☆1900年(18歳):グロトン校の卒業生との多くと同様、F. D. R.は、これまた上流社会の私立学校であるハーバード大学に入学。ハーバードでの4年間も、学業成績は必ずしも優れたものではなかったが、彼の政治家としての才能は諸々の学内活動を通して早くもその片鱗を示していた。彼は常に学生組織のリーダーになろうと運動した。例えば、クラス委員長の選挙に際しては非常に不利な状況から種々の工作をして当選。歌が上手いわけでもないが、みずから合唱隊を組織して、幹事となる。運動神経や技量が優れていたわけではないが、フットボールやボート・クラブのキャプテンになる。大学新聞「クリムズン」紙で記者活動をし、最後には編集長に就任。
  ただし、これらの学内活動も、結局のところ貴族的なサークル活動の域を越えるものではなく、社会問題に対する関心も、特権階級が一般市民の問題について抱く使命感から大きく越えるものにはいたらなかった。
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「主婦の喜び・・・達人の感触」

「1月は行ってしまい、2月は逃げてしまい、3月は去ってしまう」とはよく言ったもので、気がついたら暦はもう2月の半ばをさしている。何かをしてもしなくても、日めくりだけがめくられて行く毎日に、自己嫌悪と焦りを感じることもあるのだが、反面、同じ“行ってしまう”流れの中でも、気がつくと“行ってしまった”結果、生活達人の感触を得た気分になることもある。だから、やはり主婦生活は素晴らしい。実は最近、病みつきになっているのが“100円ショップ”・・・遅咲き(と思っている)さくらが、やっと知った主婦の喜び、さぁ始まり始まりぃ〜。

初めて“100ショップ”へ行ったのは、今から数年前。忘れもしない、愛知県の片田舎でのこと。仕事でプロジェクトをご一緒していたクライアント(顧客)が、必要なプロジェクト用品を購入するために連れて行ってくれた。いやいやびっくり。その品数の豊富さと、100円という価格構成に大きな衝撃を受け、同時に感激したことを克明に覚えている。子どものように驚きはしゃぐそんな私を見て、同行したプロジェクトメンバーは、ケラケラと笑ったり呆れたり・・・無論、“100円ョップ”の存在そのものは知ってはいたが、それは単なる経済情報・知識のひとつであって、生活に活かされた知恵には程遠いものだった。そしてその体験から更に数年が経ち、今度は千葉県の片田舎で訪れた“100ショップ”、主人が連れて行ってくれた。独り暮らし期間に会得した主人(主夫)の知恵。用途や目的に合わせて“100ショップ”の商品を活用するその技、生活達人に感心したものだ。そして今、何を隠そうこの私、週に1〜2度は通っているのだ、“100円ショップ”に!

ところで、“100円ショップ”・“百円均一”といえば、通称“ダイソー”(株式会社 ザ・ダイソー)、正式名称は株式会社大創産業だが、その経営の歴史や方針は興味深い。同社が創立した頃、均一販売といえばスーパーの店頭や公民館等だった時代、創業者の矢野社長は“会社はまだまだ小さいが社名だけは大きな物にしよう”ということで、“大きく創る=大創”と命名したそうだ。後の店舗展開の拡大を機に、お客に親しんでもらえるようにという願いから、カタカナで“株式会社 ザ・ダイソー”という表示に変わった、と同社のHPに書かれている。先日、ある番組で、ダイソーの商品の中には採算割れの物もあるのが、矢野社長の経営理念と方針により、100円均一販売の維持及び品質アップにかなりの力をいれていると紹介されていた。つい昨年までビジネス界で食(は)んでいたさくら、小売業にはあまりいいイメージは持っていなかったのだが、小売業として異色のビジネスモデルを確立しチャレンジし続けているその会社には、すっかり惚れてしまった。そしてまた、その“100円ショップ”を活かしているプロの主夫・主婦たちのやりくりテクニックに、活きている達人の面白味を感じる今日この頃である。

さて、こうした“100円ショップ”に再会した私、利口な節約のための強い味方をみ〜つけたと喜んでいるが、正直に白状すると、残念なことに時には後悔することもある。必要度の低いもの、もしくは品質や使用価値が低いものを、「100円だから、まぁいいっか」というノリで勢いよく購入してしまった時だ。「どうしてこんなモノ買ったんだっけ」とか、「どうしてこんなにいっぱい買ったんだろう」とか、「これ、全然使えない!」とか。しかし最近は、コストパフォーマンスを幾つかのポイントでチェック・判断してから購入、更に、エコライフ面での基準も頭に置く努力をも欠かさない。これこそ、失敗は成功の鍵とも言うべきだろう。“100円ショップ”経営者も消費者も生活達人の大先輩、大好きだ。いやいや、専業主婦1年生の私にとって、今や“100ショップ”には足を向けては寝れないのよ・・・っと、つぶやく、さくらの独り言。

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

 ケセラセラ軽い財布がよく笑う

夫婦喧嘩 タマのっそりと部屋を出る

こんないい話年金身構える

我が道を頑固な父の七五調

百歳を歩く気でいる万歩計

( ニュースやぶにらみ )

「不景気実感」
義理チョコの数が減った −おじさん

「怒りの小泉発言」
それを言っちゃあおしまいよ −自民党

「拘置所のメシ」
まさか事故米? −三笠フーズ社長

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺ぶらり散歩(13)
-★ 観潮楼 @
団子坂上交差点の少し手前右側に森鴎外の旧居「観潮楼」跡があり、現在は区立本郷図書館鴎外記念室として、鴎外ゆかりの品々が展示されています。
観潮楼命名の由来は、2階の書斎から東京湾が遥かに見えたのでというのが通説ですが、文京区のホームページには、潮は江戸湾ではなく、団子坂を別名潮見坂といったのをヒントに名付けたとあります。また鴎外の次女 小堀杏奴は『晩年の父』の中で『結婚して間もなく父は母を連れてこの二階に登り、「おい、海が見えないか」と聞いたそうだ。母は長い間見ていたが、「どうしても私には見えません」といったら父は笑いながら、「お前は正直だ。俺がそういうと、ああなるほど見えます見えますなんていう人がいるが、どんな人にだって見えるはずはないんだよ」といったそうである。』と綴っています。 明治25年1月千朶山房と称した借家(この家は後に夏目漱石も住まいし猫の家≠ニ言われるようになる)からここ観潮楼に転居し、大正11年7月9日に61歳で没するまで住まいし、『青年』『山椒太夫』『高瀬舟』『雁』詩集『沙羅の木』等の作品を書いています。 建物は昭和12年の失火と20年の戦災で焼失しましたが、記念室の裏庭に、観潮楼の玄関の門柱の礎石と敷石、庭石(三人冗語の石)、銀杏の樹(戦災で焼けた後に生き返りました)が残っており、鴎外の愛した沙羅の木(現在二代目ですが)と共に往時を偲ばせてくれています。
 団子坂上り下りや鴎外忌   高浜虚子

森田さんから

今回はお休みです。
                                                                                                            

龍翁余話

龍翁余話(68)「靖国神社 故・南部宮司の神社葬」

靖国神社第9代宮司・南部利昭氏が亡くなられたのは1月7日、「昭和天皇崩御20周年」の式典行事を終え、宮司室に戻った直後に虚血性心不全で急逝されたという。満73歳、何とも早すぎる帰幽である。故・南部宮司の神社葬が去る10日、東京・九段会館の大ホールで厳かに執り行われた。政・財界、スポーツ界、芸術・芸能界、靖国神社崇敬者ら1200人を超える会葬者の数は、まさに南部氏の人徳の大きさを物語る。

10日午後1時からの神社葬は、当然のことながら神道の公式次第に拠る。三井勝生権宮司(宮司代理)の修祓の儀に始まり、斎主一拝、献饌の儀、祭詞奏上(三井権宮司)の後、靖国神社崇敬者総代・小田村四郎氏(元拓殖大学総長)、社団法人霞会館理事長・北白川道久氏(旧皇族、元伊勢神宮大宮司)、日本遺族会会長・古賀 誠氏(衆議院議員)(代理)の弔辞。続く弔電奉読では政財界のほか映画俳優・津川雅彦さんの名も読み上げられた。喪主(南部氏御令室・節子さん)挨拶、神社職員代表(山口建史権宮司)挨拶の後、会葬者全員の玉串拝礼、最上階(3階)に座っていた翁が階段を降りて壇上で榊をいただき拝礼する頃は、すでに3時半を回っていた。

南部氏は、旧華族(伯爵)盛岡藩・南部家の第45代当主。昭和33年に学習院大学を卒業後、大手広告代理店(電通)に入社、25年間のサラリーマン生活の後、南部家の家督を継いで“岩手の殿様”になった。大学時代は、天皇陛下の弟宮・常陸宮殿下とはご学友の間柄で宮家や旧皇族、旧華族の方々とのお付き合いも古い。靖国神社の前宮司・湯澤 貞氏の後任として南部氏に白羽の矢が立った時、「神職の経験もなく、二の足を踏んだが、平成16年の正月、霞会館(旧皇族・旧華族などによる社会福祉活動、日本固有の伝統的精神文化を後世に伝える活動団体)の午餐会で天皇皇后両陛下から“靖国神社を頼む”とのお声を頂戴し、重責を担う覚悟を決めた」という。平成16年9月に靖国神社第9代宮司に就任した時の“度徳量力(たくとくりょうりき=自分の力量や徳を確かめながら物事に対処する)”の挨拶が印象的だった、と神社職員は語っている。

翁が南部氏と最初にお会いしたのは、平成18年、翁が製作した短編記録映画『日露戦争かく戦へり』の試写会だった。その時は「いいね」のひと言だったが、平成19年2月10日、翁“米沢・上杉雪灯篭まつり”に行った時、南部氏も当日、上杉神社境内で行なわれた戦没者慰霊祭に出席、慰霊の詞を奉じた。その模様を翁、エッセーにまとめ後日、神社の応接室で南部氏にお渡しした。氏と親しく歓談したのはその日が初めてであり最後であった。「盛岡藩は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加わり、官軍と一戦を交え“朝敵”の汚名を着せられたが、第42代当主・南部利祥(としなが)が日露戦争で戦死、靖国神社に祀られたことによって“賊軍”の汚名が晴らされ、靖国神社とのご縁が出来て、今こうして宮司という重責を担っている」と物静かに語った泰然とした姿が思い出される。<合掌>

南部宮司の4年4ヶ月の足跡の中で、翁が特に注目したいのは平成17年6月『パール博士顕彰碑』の建立である。ラダ・ビノード・パール博士(1886年〜1967年)はインドの法学博士、国際連合国際法委員会委員長を務めた人。1946年の極東国際軍事裁判(東京裁判)で「この裁判は、最初から日本を侵略国と決め付けている」と不快感を示し「この裁判の本質は連合国側の政治目的を達成するために行なわれたに過ぎず、日本の敗戦を被告たちの侵略行為によるものと裁くことによって、日本大衆を心理的に支配しようとしている」と批判した。更に「検察側の掲げる侵略行為の傍証は歴史の偽造である」と断言「かつて欧米諸国がアジア諸国に対して行なった行為こそが侵略そのものである」として日本人戦犯の全員無罪を主張した。
その後、博士は1950年(昭和25年)に再来日、その時、博士はこう言った「日本の独立は半独立に過ぎない。いまだにアメリカから与えられた憲法のもとで日米安保条約に依存し、東京裁判で歪められた自虐的歴史観や、アメリカナイズされた考え方や、ものの見方が少しも直っていない。日本人よ、早く日本にかえれ!」

その後、日本は目覚しい高度成長によってアメリカに継ぐ世界第2位の経済大国となり、
アジア諸国をはじめ世界各国に、それ相応(あるいは相応以上)の経済支援を行なうようになった。その幕開けは1975年11月の主要先進国首脳会議(通称ランブイエ・サミット)。フランスのランブイエに、日本、アメリカ、イギリス、旧西ドイツ、イタリア、フランスの6カ国の首相・大統領が集まり、第1次石油ショック後の混乱した世界経済の再建を話し合った。時の日本の首相は三木武夫。この頂上会議は、それまで欧米によって席巻されていた世界経済の一角に初めて日本が加わり、日本が先進国として名実ともに認知された歴史的出来事であった。

日本は、確かに“先進国”としての地位を確立したが、パール博士が心配した「アメリカに与えられた憲法」、「日米安保条約に依存」、「東京裁判で歪められた自虐的歴史観」などの後遺症は、いまだ払拭されていない。加えて“政治の未熟”、“平和で安全な国・日本の揺らぎ”、公徳心や人命の尊さを見失いつつある“国民の精神文化の歪み”など、“国家・国民の品格”はどこへ?・・・靖国神社の故・南部宮司が『パール博士顕彰碑』を建立したことに賛否両論があることは承知しているが、翁は唯一つ、博士の言葉「日本人よ、日本にかえれ!」に今更ながら新鮮な響きを感じ、その短い10文字の奥に秘められた日本民族への今日的警鐘を見逃すことは出来ない。故・南部宮司も同じ思いではなかっただろうか、っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。+
 

ジャズ&ポップ−今週のお奨 めアルバム

今回も女性シンガーソングライターをご紹介しましょう。
1972年生まれ、東京都出身の古内東子(ふるうち とうこ)です。
WEBで試聴していいなあと思った一人です。
古内東子 winter star
1 45分(album mix)
2 Sun and Moon
3 ピアス
4 ウソだとしても
5 星の数ほど(album mix)
6 オンナらしく、オトコらしく
7 冬の日
8 Red sign
9 意外と簡単に
10 返事(album mix)

試聴はこちらでできます。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/174224

Around 40"アラフォー"のアルバムにも"誰よりも好きなのに"が収録されています。

<R.O.>

編集後記

悪いやつがいっぱいいますね。呆れてしまいます。日本はいつからこうなってしまったのか?昔は、お天道さまが見ているので、悪いことをしちゃだめだと教えられたものです。それが日本人の倫理観だったとおもうのですが・・
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.666

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com