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NO.656                Ryo Onishi              12/7/2008  

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雑貨屋のひとり言

石川遼選手の出現は女子プロゴルフに人気を奪われていた男子プロゴルフを蘇らせました。他の選手への良い刺激になったのではないでしょうか?世界を相手に活躍してくれることを期待したいですね。
≪R.O≫

積極的受け身は攻撃の一部

「攻撃は最良の防御なり」 という格言があります。相手の攻撃から我が身を守るためには、防御の体制も重要であるが、それよりも積極的にこちらから攻撃を仕掛け、相手を追いつめたほうが はるかに効果的であり、最終的に味方を勝利に導くものなのだ、という意味だと思います。確かにそれも間違いではないと思うし、いつも前向き・前進発想を旨とする私としては大いに賛同するところです。

ただし、物事は状況と程度の問題で、どんな状況においても積極果敢だけが最良だとは限らないのも当然でしょう。

例えば 今の日米関係において 日本の立場は お互いの国際社会での立場、力関係、歴史の位置付けなどを勘案すると、残念ながらまったく対等ではないのが現状・実態です。独立国家の理念として、いかなる国もすべてに対等であるべきですが、現実の世の中はそれほど甘くありません。主張すべきことは堂々と主張し、要求すべきことは堂々と主張する、しかし折れたり妥協せざるを得ないことも多くあります。

いかなる交渉であれ、相手の要求を受け入れ妥協する時(受け身の時)が一番こちらの真価が問われる時です。しっかりしたビジョン、戦略の下で相手の言い分を聞くのか(積極的受け身)、それとも一時しのぎなのか(消極的受け身)、同じ受け身でも意義はまったく異なるでしょう。

景気・経済が冷え切ってしまった昨今の状況を勘案したとき、何もしないという積極的受け身が時として長い目で見て効果的な攻撃になりうるのだと言うことを心に留めておくのも必要ではないでしょうか。
  河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言

 

川柳(東京・成近)


 


( 川 柳 )

 震度5にいきなり朝を起こされる

後継ぎのない豆腐屋の寒い朝

眠い目をこじ開けにくる予定表

目覚ましに叱られている二日酔い

初霜も気付かず急ぐ駅の道

( ニュースやぶにらみ )

「急遽合併」
油を売っている暇はない −新日石・新日鉱

「流行語大賞‘グー’」
こちらは‘パー’ −金融危機

「高校の寮に喫煙所」
大麻でなければいいよ −大学

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://homepage3.nifty.com/itukabouzu/

句会場(千駄木)周辺ぶらり散歩(3)
団子坂A ―夏目漱石「三四郎」
 前回の「浮雲」に続いて、夏目漱石の「三四郎」(明治41年)にみる
団子坂の菊人形です。  

 「坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切っ先のようである。幅は
むろん狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分さえぎっている。
そのうしろにはまた高い幟(のぼり)が何本となく立ててある。人は急に
谷底へ落ち込むように思われる。その落ち込むものが、はい上がるものと
入り乱れて、道いっぱいにふさがっているから、谷の底にあたる所は幅を
つくして異様に動く。見ていると目が疲れるほど不規則にうごめいている。
―略― 右にも左にも、大きな葭簀掛けの小屋を、狭い両側から高く構えたので、空さえ存外窮屈にみえる。往来は暗くなるまで込み合っている。
そのなかで木戸番ができるだけ大きな声を出す。『人間から出る声じゃない。
菊人形から出る声だ』と広田先生が評した。それほど彼らの声は尋常を離れ
ている。―略―一行は左の小屋へはいった。曾我(そが)の討入(うちいり)がある。五郎も十郎も頼朝(よりとも)もみな平等に菊の着物を着ている。ただし顔や手足はことごとく木彫りである。」 

この明治40年頃の菊人形も大変な賑わいだったようですが、丁度この頃に両国に電気を使った大仕掛けの菊人形が登場し、以後団子坂の菊人形は急速に衰退しました。
 

森田さんから

  代作
              森田のりえ
 夫がいたころは、どこへ行くのにも一緒だった。はた目には「おしどり夫婦」のように見えたかもしれないが、あたしは少々うっとうしく感じた。たまには一人で行動をしたいというと「不思議だ、不思議だ。オレには理解できない。夫婦はいつも一緒にいて人生を楽しんでこそよきパートナーだ。な、そうだろう?」と夫は自分の持論を押しつけた。
そんなふうだったから八年前の春、淋しがり屋の夫が逝ったとき、あたしには親友はおろか、友人と呼べる人がいなかった。ウィドウになったあたしは、これからは講演会や催し物などがあれば積極的に行こうと決めたのである。その努力の甲斐あってか、いまでは「飛んでいる蝿を捕まえるよりも難しい」と言われるほど出歩いている。あちこちの集まりに顔を出していると、失敗もある。
ある大學の先生が主宰する月一度の読書会に誘われた。身の程を省みず、二つ返事で参加することにしたのはいいが、この読書会、けっこう難解な本を取り上げる。輪番で決められた担当者があらかじめ本を読んで要約し、会員全員に送付し、担当の日に発表してみんなで討議するという形式がきまりである。新米のあたしにも、当然、担当の本がふりわけられた。
 関岡英之著「拒否できない日本」という新書版で、国際関係のなかに日本が置かれている現状について書かれている本である。
 あたしは拒否したい気持ちでいっぱいだったが、断り切れず引き受けてしまった。どうせあたしの番は八ヶ月も先だ。これだけの期間があればなんとか出来るだろうとタカをくくっていた。出来なければ恥だ、がんばるしかないと自分を鼓舞し続けていたのだが・・・。
 一般的にいって女性は身の回りに起きたことについては観察の目をもっているものだし、日常の滑った、転んだの類ならなんとか書ける。だが、政治経済とか国際社会となるとあたしにはなんとも難しい。
 ともかく要約を書き始めた。読み返すと、どうも身辺雑記のような書き方になっている。これではダメだ。日時は刻々とに迫ってくる。しだいに安請け合いしたことを後悔し始めた。しかし、やらねばならない。脳の隅に何かが引っかかっている感じである。これをストレスというのだろう。精神衛生上悪いと思ったあたしは一世一代の知恵をしぼって、協力者を探すことにした。窮すれば名案が浮かぶものである。
新聞にコラムを書いている「ヒマ老人」を自称するオトコ友だちを思い出した。
この人は政治経済や国際社会などの分野では一家言をもっていることをあたしは知っていた。自分でもブログを持ち、読んだ本の書評を発表すると同時に、書いてあることをネタに関連した社会批判までやらかしてしまう稀有な能力の持ち主なのである。モノは試しと、あたしは飛び上がり五尺の身体を七重八重に折って「代作」の相談を持ちかけてみた。すると「そうか、そうか、お安いご用」とばかりやってくれることになった。
自分が原稿の筋書きを書くから、あんたはそれに加筆訂正して自分の原稿に仕上げて出せばいい、というのである。あたしはなりふり構わずその話に飛びついた。問題の新書を「ヒマ老人」に渡すと、ほっとした。
その人は瞬く間に書き上げ、原稿をEメールで送ってきた。ひととおり読んだ。男性の文章ははやり理屈っぽいな、これでは代作がばれてしまう。書き換えようとしたが上手く出来ない。ま、いいかと、そのまま原稿を読書会のメンバーに回付し、先生にも送稿した。発表の段階で自分の言葉でしゃべればいいのだと、うしろめたい気持ちに折り合いをつけた。その後である。発表当日の日に母の三回忌をすると日本の弟から連絡がきたので、急遽、訪日せざるをえなくなった。
「お母さんの法事なら、仕方ありません。私があなたの代わりに発表しましょう」
 先生の言葉に内心、助かったと思い胸を撫で下ろした。
 ところが、母の法事を終えて帰ってみると、先生からメールが入っていた。
「すばらしい原稿でした。読書会のブログに載せたいという話が出ました」
 あたしは真っ青になった。
「実は、あの原稿は私の片腕が書いたものです。片腕といっても手も握ったこともない赤の他人です。どうぞ勘弁してください」
 即、返信をした。
 気がとがめた。干からびたメンタイコが頭蓋骨にくっついているような脳ミソのあたしが、身の程を考えずいい格好をしようとした罰である。
「この原稿も代作かって?」
「さぁ・・・」
              おわり                                                                                              

龍翁余話

龍翁余話(60)「明日の神話」

時は1964年(昭和39年、東京オリンピックの年)、所は東京・青山の岡本太郎画伯の住居兼アトリエ(現在、岡本太郎記念館)。取材に訪れた一人の青年が岡本画伯に「先生は、日本のピカソですね」と言った途端、画伯は、あの大きな目を剥いて「バカ言うんじゃない、俺は岡本太郎以外の何者でもない」と怒った。さらに画伯を怒らせたのは・・・画伯が座っている後方の壁面に、得体の知れない絵が飾ってある。青年が訊ねた「先生、あの絵は、何ですか?」画伯ムッとした表情で「“太陽”だよ。君は芸術が分からないな」青年も負けじとばかりに「僕のような凡人に理解できないような作品が芸術ですか?」と食ってかかった。画伯、赤鬼になって「芸術とは、魂の叫びだ!魂が爆発してこそ真の芸術が生まれる。凡人に迎合するような作品は芸術ではない。帰れ!」ロクにインタビューが出来ないまま、青年はついに追い帰された。ちなみに、画伯の後方の壁画は、旧都庁に飾られていた『日の壁』など11枚の陶板レリーフ(浮き彫り細工)の原画の1枚だった。更に「芸術は、爆発だ!」は、その後も岡本太郎の名言として、テレビなどでしばしば使われた。

さて、数日後、画伯から青年のもとへ電話がかかった「おい、凡人よ、もう一度、来いよ」。喜んで再訪した青年は開口一番「僕は芸術とは何かは分かりませんが、先生がおっしゃった“芸術は魂の叫び、魂の爆発だ”に打たれました。座右の銘にさせていただきます」画伯ニンマリ。それから父・岡本一平(漫画家)、母・岡本かの子(小説家・詩人・仏教家)、そしてご自分の少年時代、美術学校(現・東京芸術大学=中退)時代、パリ留学時代、兵役時代、抑留時代(戦後1年間)、本格的創作活動開始時代、と2時間かけて語ってくれた。途中、カステラや紅茶を出してくれた秘書さんがいた。あとで知ったのだが、彼女の名は岡本敏子、画伯の養女であり、実質的な奥さんでもあった。画伯没(1996年、享年84)後、敏子さんの活躍で“不世出の芸術家・岡本太郎”の名と作品を次世代へ繋ぐこととなる。

岡本画伯に怒られた青年も今や翁となり、先日、40数年ぶりで岡本画伯の“爆発”と再会した。JR渋谷駅から井の頭線への連絡通路の壁面に巨大な壁画が取り付けられ、11月18日に一般公開となった数日後、翁は『明日の神話』(作品タイトル)に会いに行った。

1967年、メキシコのホテル経営者に依頼された画伯はメキシコに行って製作開始、翌年に『明日の神話』を完成させた。ところがホテルが倒産、その後『明日の神話』はメキシコ各地をさまよい行方不明となる。前述の岡本敏子さんが懸命の捜索を行なった結果、2003年にメキシコシティの、とある資材置き場に放置されていたのを発見。敏子さんが館長を務める『岡本太郎記念館(現代芸術振興財団)』に再生プロジェクトを設置、日本への移送、修復に取り組んだ。しかし敏子さんは修復の完成と渋谷での展示(設置)を待たず2005年に急逝された(享年79)。

『岡本太郎記念館』の資料によると、『明日の神話』は、原爆が炸裂する悲劇の瞬間である。しかし、この作品は単なる被害者の絵ではない。人は残酷な悲劇さえも勇敢に乗り越えることが出来る。そして、その先にこそ『明日の神話』が生まれるのだ、という岡本太郎の強いメッセージが込められている。大阪万国博(1970年)のシンボル『太陽の塔』と並ぶ岡本太郎の最高傑作であり、岡本芸術の系譜の中でも欠くことの出来ない重要作品である、とされている。

師走の初め、冬晴れの日、翁、午前中、代々木のオフィスで仕事を済ませ、午後、新宿から小田急線に乗って向ヶ丘遊園へ。そこからタクシーで『岡本太郎美術館』(川崎市多摩区)へ行った。ここは岡本太郎生誕の地。まず、高さ30メートルのシンボルタワー『母の塔』が目に付く。母・かの子をイメージした作品だそうで、ふくよかで優しい生命力が感じられる。エントランスホールでは、あの『太陽の塔』の顔のレリーフが出迎え、ここから来館者を“岡本太郎ワールド”へいざなう。周囲の自然美との調和を配慮してか、地上は『母の塔』のほかカフェテリア、池、滝など市民の憩いの広場的思想で設計され、展示室などの施設はすべて地下に造られている。
常設展は『岡本太郎“挑み”』(来年1月12日まで)。彼独自の芸術理論“対極主義”、つまり、相対する全てのものが拮抗(きっこう)しながらも一緒にあることで新しい次元の芸術・妥協が全く無い精神の両方を現実の世界に置くことが出来る、そのことへの挑戦・・・
と解説されているが、難しくて翁、いまだに“岡本芸術”を理解することが出来ない。展示作品『挑み』(1975年の油彩画)の奥から「おい凡人、お前のような凡人に俺の絵は見せたくない。帰れ!」と、あのギョロ目の赤鬼が今にも飛び出して来そう。

久しぶりに出会った“岡本芸術”だったが、結局は、己れの“凡人”を自覚させられるだけの結果に終わった。しかし、画伯に教えられた“魂の叫び!魂の爆発!”だけは、これまで翁の映像製作活動に活かされたと自負している。そして奇縁にも、画伯の(テレビ出演などの)多くの映像が、何と今、翁の会社のスタッフの手で編集されている。いずれ陽の目を見ることになろう。翁、呟く「人間・岡本太郎の軌跡(映像記録)は我が手にあり。岡本芸術を、この凡人が“魂を爆発させて”映像芸術に仕上げる運命(さだめ)となった。
岡本先生、これぞ正に“明日の神話”ですぞ」・・・っと、そこで結ぶか『龍翁余話』。 

ジャズの魅力−今週のお奨めジャズ

女性ジャズ・ラテンボーカリストMayaのアルバムを紹介します。コケティッシュでエキゾチックなジャズ・シンガー、妖艶さとあどけなさをあわせ持ち、くるくるとその表情を変える、まるで小悪魔のようなヴォーカル・スタイルでJ-JAZZ界に新風を吹き込んだMaya嬢・・・と紹介されています。このアルバムはMayaのメジャーデビュー作で、
ポップス、ラテンからボサノヴァまで幅広く、じっくり聴けるおしゃれなものです。9曲目はどこかで聴いたことがあるなーと思ったら、「卒業写真」でした。
Maya

1 QUIEN SERA 3:59
2 SO FAR AWAY 4:11
3 CARNIVAL 5:18
4 IT’S A WONDERFUL WORLD 3:41
5 MY CHERIE AMOUR 4:09
6 IF I WERE A BELL 3:43
7 AMAPOLA 3:58
8 SAMBA DO SOHO 3:47
9 A Foto De Formatura 4:31
10 GIRL TALK 4:40
11 CARNIVAL(RADIO EDIT)
<R.O.>

編集後記

寒くなりました。この冬は新型のインフルエンザが流行すると報じられていますが、心配ですね。どう対処すればいいのでしょうか?
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.656

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com