アメリカで生活していると「フェア(FAIR)」という言葉にしばしば出会います。「それはフェアではないぞ!」、「アンフェアだ!」といった具合です。
一般的なアメリカ人にとって、フェアであることはあらゆる状況において、たいへん重要なことであり、アンフェア呼ばわりされることは人格の否定にもつながりかねません。「君はアンフェアだ」と言われるのは「君は人間ではない」と同じ扱いになるのです。なにかにつけて正義(JUSTICE)を振りかざすアメリカですが、国家が唱える正義に対し、国民はフェアネスをモラルの原点と考えているのではないでしょうか。
フェアネス(FAIRNESS)の意味を和英辞典で調べてみると、「公正」といった意味が先ず目につきます。日本でも「公正であること」は重視されますが、日本人が「君は公正でない!」と非難されても、言われたほうは人格、人間性の否定とまでは受け取らないでしょう。
それでは、アメリカ流のフェアネスとは何だろう? ――― 私なりの体験をもとに敢えて定義してみると次の通りです。(1)みんなで客観的なルールを作り、全員がそのルールに従うこと。(2)状況の変化により現実がルールに合わなくなったら、まずルールを変更し、改めて変更したルールに従う。――― とういことになるのではないでしょうか。すなわち、アメリカ流のフェアネスとは先ず共通のルールをつくり、それに従うことが基本となっているように思えます。
日本のように比較的均一な人たちで形成された集団と違い、アメリカは多文化・多民族による移民国家であり、価値観や常識の幅が大きいところです。したがって「そんなことは言うまでもないこと、常識だ」は通用しません。あらゆる事柄について皆で合意されたルールが必要なのです。
作ったルールは全員が守らなければ社会の秩序は保たれないので、これを遵守するためにアメリカ流フェアネスの概念が生まれたのではないでしょうか。
私が日本企業のアメリカ駐在員であった時、現地法人内では業務内容に関するルール(マニュアル)が詳細につくられていただけではなく、必要に応じて随時書き換えられ従業員がそのマニュアルに従って働いているのに驚きました。日本にいた頃は業務処理基準などのルールは存在しても個人のノウハウが優先し、処理基準など忘れられがちでした。
ところがこのアメリカ流フェアネスの原点として重視されるルールも、感情に支配される人間がつくるものであり、時としてホンネとタテマエが顔を出すことがあり、中でもこの国の成り立ちとも関係し、人種に関する差別・偏見がフェアネスの邪魔をしてきました。こちらでは公民権法により人種、宗教、性別などによる差別をしないのがルールであり、フェアネスのはずですが、近年大きく改善されてきたとはいえ、人種による差別はまだ残っているのが事実といわざるをえません。
そんな状況の中で、今回の大統領選挙の結果、黒人系のバラク・オバマ氏が見事当選に必要な代議員数を獲得し、次期大統領になることが確定したことは歴史的な出来事として後世に記憶されることは間違いないでしょう。
私は前回のこの欄で「かつてエリート支配層の象徴とされた《ワスプ(WASP)》という言葉は、表面的にはその色が薄くなっているようです。尤も“表面的”という言葉の裏には“立て前として”という見えざる影が付きまとっている感がなきにしもありません」と書きましたが、その見えざる影も今回の選挙でさらに薄くなったように思います。加えてオバマ氏にとって、現政権に対する不人気と、最近の金融危機という与党(共和党)に対する超逆風が大いに利することになったことも否めない事実でしょう。
また、これも前回のこの欄で書いた「ブラッドリー効果」についても結果的には直前のほぼ予想通りの差でオバマ氏の勝利となりました。民主、共和各党の政策や主義主張は別としても、「ブラッドリー効果」が表面化しなかったことについて、今回の選挙結果はアメリカの歴史を大きく前進させた画期的なものだったと評価できると私は思っています。
もっともオバマ氏は黒人系といっても母親は白人であり、自身も選挙運動期間中、あくまでアメリカ合衆国の代表として人種や党派の違いを超えた「統合」を訴え続け、国民の共感を得るように努力していました。
アメリカの指導者はそのまま世界の指導者としての責務を負う立場です。新大統領がアメリカと世界の平和と繁栄のため、尽くして欲しいと願わずにはいられません。 河合将介(skawai@earthlink.net) |