自分の生まれ育った国を離れ、海外で生活するメリットのひとつは自他の比較により、自国を客観的に観察出来ることでしょう。
私も滞米期間22年を越えました、中年を過ぎてからのアメリカ生活のためか、日米文化の違いにとまどい、いまだにカルチャー・ショックの多い毎日です。
以前、当地の日系新聞の人生相談欄で読んで私も納得しましたが、一般論としてアメリカでは対人関係において、よほど親しい人を除いて以心伝心に頼ることは不可能に近いようです。
この新聞の人生相談担当者は私も親しい日本生まれの女性ですが、彼女のようなクロス・カルチャー専門のコンサルタントがアメリカで存在すること自体が異文化との交流がいかにむつかしいかを物語っている証拠でしょう。
人が何かを発言する時、「何を言うのか」 が重要であるのは当然ですが、日本人の場合、それと同じ位、またはもっと重要なのが
「どういう言い方をするのか」 だったりします。
「私はその案には反対だ」 と明確に言うより 「私はどうもその案には必ずしも賛成しかねるのですが・・」
などと歯切れの悪い婉曲的な言い方をしがちであり、こちらの方が受け入れられやすい日本語と言われています。
英語の世界(と言っても私はほんの一部しか知りませんが)でも当然、相手の立場を充分配慮した言いまわしはしますし、気を遣うことを重視されますが、それでも最重要なのは内容をいかに論理的に説得するかでしょう。
日米の差は、相手を出来るだけ傷つけずにこちらの気持を察してくれるのを待つか、それとも気持を明確に伝えた上でお互い納得し合うかの差といえるでしょう。
論理的に説得するためには曖昧な言い方より明確な表現の方が都合が確かに都合がよいといえます。
私自身も何か意見を述べる時、英語での場合はイエス、ノーも含めて比較的明快な言い方をするくせに、まったく同じ内容を日本語で言う場合はなぜか言葉の語尾に余計な言い回しを付けたりしているのに気付きます。
尤も私の場合は英語の語彙不足のため、英語で微妙な言い方が出来ないのが最大の理由なのでしょうが、でも
“どうもその理由だけとは必ずしも限らない、と言ってもあながち正しくないとは言い切れないと思うのですが・・”(?!)
「正しい日本語と、良い日本語」は同じではないのが日本語の特徴ではないでしょうか。
河合将介(skawai@earthlink.net) |