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NO.600                Ryo Onishi              11/11/2007  

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LAの観光スポット ホームページ バックナンバー
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雑貨屋のひとり言

500号を発行した日からまた100週間経ちました。
雑貨屋を創刊したのが1996年の5月でした。あの日から毎週、毎週、発行し続け、11年半の歳月が経ちました。そして今日は区切りのいい600号の発行となりました。一号、一号の積み重ねですね。これは毎週、原稿を書いて送ってくださる執筆者(河合さん、さくらさん、成近さん、森田さん、長尾さん)とこれまで執筆してくださったみなさん、そして雑貨屋を支えてくださる読者の皆さんのお陰です。本当にありがとうございます。。(R.O.)

日系人、日本人にゆかりのあるL.A.周辺のスポット

当Zakkaya ホームページに掲載された私の『あまり知られていないL.A.周辺の観光スポット』シリーズも200回を超えました。尤もそれらの中には、お花見情報のような同一場所を毎年紹介しているものもあるので、スポット(場所)としては200個所までは達していませんが・・。

先日、当地Palos Verdesにある日本人駐在員子弟の保護者団体である「ペニンスラ父母の会」幹事さんから私に10月に開催される会の定例ミーティングのアトラクションとして講演依頼がありました。「何か参加者に有意義な楽しいお話をしてくださる方はいないかと、いろいろ話し合いを重ねていましたところ、数年前に河合様に講演していただいたのがとても好評だったと伺い、また、参加者の顔ぶれも転勤などで入れ替わってしまったこともあり、もう一度お願いできないものかとメールを送らせていただいております。・・」と記されており、誉め言葉に弱い私は即、承諾の返信メールを送りました。

そういえばこの会の皆さんには以前にも講演をさせていただいたことがあり、その時はロサンゼルス周辺の観光スポット案内をしました。

教育関係のミーティング定例会に招かれての講演なので、なにか教育に資する話ができればよいのでしょうが、私にはそんな高尚なテーマなどはじめから無理であるし、主催者側も主題ミーティング後のアトラクションとして期待しているようなので、今回も「周辺の観光スポット」をテーマにすることにしました。

この会のメンバーは日本からの企業駐在員が多いと聞いています。その性格上、数年で多くの人は入れ替わっているはずなので、今回も前回とまったく同じ内容でよいかとも思いましたが、200箇所近い場所を羅列しても意味がないし、講演時間の制限もあり、今回はテーマを絞り「L.A.周辺の、日系人・日本人にゆかりの深い場所を訪ねる」とすることにしました。

これまで私が取材したスポットからこのテーマに即した23箇所を選び出し、さらにそれを6つのカテゴリーに分類しました。6つのカテゴリーは、
(1)White Point / Royal Palms Beach
(2)ターミナル島
(3)オレンジ郡農業・日系博物館
(4)日米戦時の跡
(5)周辺の日本庭園
(6)日本語図書館、ほか
としました。

上記6つのカテゴリーと23のスポットを選び出す基準としては、(1)当地にある日本庭園など日本文化を表現した場所の紹介する。(2)19世紀末から日本人がこの地に移住し、苦労しながら今の私たちの基礎を作ってくれたゆかりの場所や、特に米国に滞在する私たちにとって戦時中に先輩者達がたどった苦難の道を知り、感謝の想いを忘れぬための場所を知ってもらい訪ねてもらう。・・・というところに絞りました。

例えば、戦前3千人以上も住み付いていたターミナル島の日本人・日系人が開戦とともに立ち退きを命じられただけではなく、戦後も土地に帰ることを許されず散逸させられた歴史があり、現在は記念碑のみが存在しているのです。また、各地のミュージアムや戦時博物館には日米戦下での航空機、戦利品、記念品などが多く展示されています。

それらは日本人にとって決して楽しいところではなく、むしろつらい場所です。でも現在の良好な日米関係もこのような戦争という悲劇を経験したのちにたどりついたものであり、米 国に滞在し、米国のお世話になり、米国民と友好関係を築くためにも、私達は過去の歴史は歴史としてきちんと認識しておく必要があると思います。特に若い日本人の駐在員の皆さんには、このような歴史の跡もぜひ訪れてみて欲しいと感じています。

日系人や日本人の歴史を訪ねるとき、ロサンゼルス・ダウンタウンにある全米日系人博物館(Japanese American National Museum)やマンザナ強制収容所跡(Manzanar National Historic Site)は必須場所ですが、これらはすでに多くの案内書に掲載されており、私が改めて紹介するまでもないので今回は敢えて省略しました。

会の当日、会場には80名近い会員(当日が火曜日の午前中であるためか「父母の会」といっても、私が確認した限り全員が女性であり、これでは父抜きの「母の会」でした)が席を埋めていました。

地元学校区の教育委員会からのオリエンテーションや会の新役員紹介など予定された内容がすべて終了したあと私の出番となりました。23箇所それぞれのスポットで私の撮った写真(ただし、場所を示すための上空写真はGoogle Earth写真を借用)をパワーポイントに収めスクリーンに映し説明する私の話を皆さん熱心に私の説明を聞いてくれました。終了後、会から礼状と記念品をいただき大切に保管させていただいています。   河合将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り 言「発想の転換」

午後4時頃、秋の太陽が傾き始める時間帯を、私は“魔タイム”と呼ぶ。訳もなく睡魔に襲われる時間帯なのだ。そもそも、海外出張が多かった頃、陽が傾く時刻になると必ずと言っていいほど時差ボケに悩んだものだ。しかし、苦しがってばかりいたのでは、時間がもったいない。この“魔タイム”を何とか“間タイム”に転換する工夫はないものか、と努めるようしてきた。すると案外、何かの機会(グッドチャンス)に出会うこともあった。それは、車のハンドルでいう“あそび”にも似ている。その“あそび”は、安全運転を行うに必要ないわば“余裕”なのだ。私の生活の中に潜む“魔”を“間”に転換する試みは、今も続いている。

たまらなく眠く、仕事に集中できないまま机にすがり付いているのは、拷問に等しい。コーヒーやお茶を飲んでも、立ったり座ったりしても、どうにもならず苦しみもがく。こんな時、タバコでも吸えたらいいだろうにと、(とことん、タバコ嫌いの私が)他愛もないことを思ったりもする。そしてまた、どこででも居眠りができる技もちの人を羨ましく思う。そんなある日、ふと思い立ち、「ちょっと、出かけてくる!」と、部下に言い残してオフィスの隣にある古本屋さん『ブック・オフ』へ初めて足を踏み入れた。以前、そこには某書店があり、とても重宝したものだったが、いつの間にか閉店、そして替わりにこの古本屋『ブック・オフ』が開店した。毎日の通勤時に必ずその前を通るのに、今まで一度も立ち寄ったことはなかった。ところが、いやぁ驚いた!“これが古本屋?”それまでの古本屋に対する“狭く、暗く、臭く、汚い”というイメージが完全に壊された。ゆったりした空間、明るい雰囲気、もちろん悪臭などない。「これぞ発想の転換だ」と感嘆の声ひとつ。おかげで私の“魔”タイムが、あそびの“間”タイム化するチャンスとなったのだ。

ところで、この古本屋チェーン店『ブック・オフ』、雑貨屋の読者の中でも、訪ねた人は少なくないだろう。この店の明るい照明、一般書店のように立ち読みも可能な自由さが表す様に、従来の古本屋形態を打ち破ったビジネスモデルが、当たった。何よりも、古本屋で見かける「本買います」の看板が、「本、お売り下さい」の文言に代わったことが、成功をなした大きな要因と言われているらしい。その背景には、前者は買い手(店側)が売り手(客)より上位的な言い方であるのに対し、後者は買い手(店側)が売り手(客)より下の立場から御願いする響きになることから、販売製品の流通が増し、それが大きな成功要因だとビジネス界では評されている。これこそ、発想の転換、いわば売り手と買い手の意識の逆転と、日本語特有の微妙な綾(あや)がマジックとなり、古本屋の新しい、そして成功したビジネスモデルを生み出したと言えよう。

さて、古本屋『ブック・オフ』で購入した数冊の古本、健康朝食の料理本とニュージーランド旅行情報本、どれも定価1500から2000円が、なんと105円。ためらわず、惜しまず、喜んで買い、足取りも軽やかに書店をget off、そしてオフィスに戻り新しい企画に向かってtake off、これも『ブック・オフ』で感じた発想の転換から得たもの、なかなか面白い。たまにこれからは、魔タイムに悩まされなくても、間タイムを求め、『ブック・オフ』を訪ねてみるつもり。『古きを訪ねて、新しきを知る』・・・っと呟く、さくらの独り言。

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )

任せろと年金小さな声で言い

強弁の舌が縺れた身に覚え

瀬戸際の我が社にもいたブルータス

外来魚一気にオセロ裏返す

裏面史で干涸びているトカゲの尾


( ニュースやぶにらみ )

「原油100ドルに」
船舶一艘につき〇〇キロリットル以内 −新テロ特措法

「今の仕事」
火の粉を払うのに精一杯 −防衛省

「有力候補」
まさか=@−今年の流行語大賞

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

 

森田さんから

悲惨な出来事
              森田のりえ
 長袖ばかりを持参した私はあわててTシツを買い求めなければならないほど、九月末の広島は暑かった。
 ロサンゼルスから沖縄の実家へ里帰りしていたK子と私は広島駅で待ち合わせ、原爆記念館のある平和公園へ向かった。広島は私のふるさとである。渡米した三十七年前、爆心地北側の河岸にはバラックが立ち並び、金網で囲まれた原爆ドームのまわりには瓦礫が散乱していた。ところが、原爆ドームは崩壊を防ぐ補強が施され、河岸はすっかり整備され公園のようになっていた。メモ用紙を持った修学旅行中の生徒や外国人が多い。以前はこうではなかったと思い出しながら、川沿いを歩き原爆死没者慰霊碑前に立った。
「安らかに眠ってください。過ちは 繰返しませぬから」
 この主語のない碑文について、建立前から『過ち』は誰が犯したものであるかについて議論があった。一九五二年八月、時の広島市長は議会で「戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」と答弁した。同年十一月、広島を訪れた極東国際軍事裁判の判事の一人であったインド人のパール判事は、主語はアメリカ人であると解釈する発言をした。後にけんけんごうごうの議論の末「再びヒロシマを繰返すなという悲願は人類のものである」として、主語は『世界人類』となった。
ごく最近まで「原爆を落とす過ちは」だと、私は勝手な解釈していた。だからアメリカは市内を見下ろす小高い丘に被爆者のために治療施設ABCC(原爆傷害調査委員会)を建てたのだと思っていた。しかし、そこで働いていた人の話では、原爆の人体への影響を調べる所であって、被爆者の治療はまったくせず、被爆者男子の精子の数まで調査の対象にしたというのを聞いて驚いた。
青春時代、深い緑でおおわれ市民の憩いの場所となった平和公園を私は勤めの帰りに散歩をし、ボートに乗って遊んでいたが、原爆について深く考えることはなかった。
 だが、広島市の郊外に住んでいた私は、原爆の落ちた日のことは覚えている。
 その朝、私は八歳年上の兄と二階にいた。市内の学校に通っていた兄は、毎日勤労奉仕にかりだされ、八月六日は市役所横の道路作業に行くはずであったが、駅まで行くと腹痛になり家に引き返したのである。兄がふとんをしき、押し入れの蚊帳をぽんと投げた、その時、蒼白い閃光が窓いっぱいにはしり、ピカッと光った。つぎの瞬間、「ドォーン」と、ものすごい音がした。気がついた時、私と兄は階段の下り口にたっていた。けがはなかった。障子の窓が吹っ飛んでいた。母や妹がどうしていたのかまったく記憶にない。覚えているのは、夕方になって大人たちが庭先に立ち、真っ赤に染まった山の向こうを緊張した面持ちでいつまでも眺めていたことである。幼いながら、大人たちのただならぬ雰囲気を肌で感じ、薄気味悪さと恐怖のようなものを抱いたことは脳裏から消えない。
 子供のころ、顔半分がケロイドで唇の歪んだおばさんが家にきては両親と話すことを、傍で恐々と聞いていた。
原爆資料館を訪れたのは高校一年の春だった。幼い頃から原爆の悲惨な状況を聞かされ過ぎて神経が麻痺していたのかもしれないが、大きな感動はなく見たくもなかった。その後なんども訪れた。その都度、思いが深まっていったように思う。
今回は、なぜ日本は太平洋戦争へ突き進まなければならなかったのか。当時の国際状況はどうだったのか。また、広島に続いて長崎まで原爆を投下する必要があった理由について、戦争を早く終らせるため原爆投下はしかたなかったという考えは間違ってないのか。また、勝者による東京裁判は正しいものであったかどうか、多くの問題を提起されたような気がした。
 K子は、十数年前、アメリカ生まれの息子三人を連れてここを訪れたという。
「突然、七才になる次男が泣き出して・・・」
 焦土と化した瓦礫のなかで、焼けただれた皮膚がスダレのようにぶら下がり、逃げ惑う被災者の人体模型が展示している場所だった。感受性の強い子だから、子供なりになにかを感じたのでしょうねとK子はいった。
ホテルに戻ってテレビを点けると、おりしも、沖縄戦の『集団自決』の件について、抗議集会が沖縄の宜野湾市で行われたニュースを報じていた。集まった人は十一万人。
六十数年前、珊瑚焦の美しい海の見える読谷村に米軍が上陸し、恐れた村の人たちがチビチリガマで集団自決をした。地獄絵のような悲惨な出来事やヒロシマの原爆について、私とK子は夜遅くまで語り合ったのであった。
              つづく
                   

龍翁余話

 

ジャズの魅力−今週のお奨めジャズ

先週はTSUTAYAの半額キャンペーンでしたが、一度もTSUTAYAに行くことはありませんでした。半額キャンペーンは一ヶ月に一回のペースで来ているような気がします。こんなにしょっちゅう来ると、行くほうも疲れます。ペースダウンをしてしばらくは聴くほうに専念したいと思います。
一ヶ月前、娘からバックグラウンドミュージックで使ういいジャズはないかというので、何曲か選んだ中に、今日ご紹介するアルバムがありました。雑貨屋ウィークリー592号で紹介したAnn Sallyです。このAnn Sallyのアルバムは癒されます。

Ann Sally  Moon Dance

1 I Wish You Love
2 Onde Eu Nasci Passa Um Rio
3 Haven't We Met?
4 蘇州夜曲
5 Peaceful
6 Only Love Can Break Your Heart
7 Happier Than Morning Sun
8 星影の小径
9 5/4 Samba
10 Meu Carnaval
11 Allelujah
<R.O.>

編集後記


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Zakkaya Weekly No.600

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com