FWY101(フリーウエイ101号線)がサリナス市に近づくにつれ、バスの車窓の両側は広大なレタス畑に変わっていました。
サリナス市の入口の道路標識に人口148,400人と記されていました。日本の鹿児島県・いちき串木野市と姉妹都市関係にあるそうで、このあたりには古くから日本人・日系人による開拓地も多いと聞きます。
私たちの先輩の日本人がこの地に入植し、それこそ血と汗と涙の結果切り開いた畑なのでしょう。私のような最近の企業駐在員上がりの者には想像も出来ない苦労の跡が目の前に広がり、過ぎ去ってゆくのを見ながら、改めて先人が築いてくれた礎(いしずえ)に頭の下がる思いでした。
今回のバス旅行の目的地であるサリナスの街は、少なくとも初訪問者である私には明るくきれいな中都市といった感じのところで、たいへん好印象を与えてくれるところでした。
インターネットや旅行案内書などによると、現在のサリナスは人口の過半数をヒスパニック、ラティーノ系が占め、主要産業は人的労働のためコストのかかる農業であるため、決して財政が豊かとは言い難く、一人あたりの収入は近隣の裕福なモントレーやサンノゼの半分にも及ばない状況なのだそうです。
このような環境下にありながら、私にこの街が豊かに見えたのは、後で述べる通り、この地の人たちによる私たち訪問者に対する厚いもてなしの心が大きく影響したのかも知れません。
サリナス市といえば、「エデンの東」、「怒りの葡萄」などの作者で有名なノーベル賞作家ジョン・スタインベックが生まれたところです。これらの小説、さらに映画化された作品は私にとって懐かしい青春の記念碑そのものです。
中でも私は「怒りの葡萄」には大きな想いを持っています。私は米国へ来てから「道路」に関心を持つようになり、特に「U.S.ハイウエイ、ルート66」は私の生涯テーマにしようかと思っているくらいです。
「怒りの葡萄」と “ルート66” は関係が深く、スタインベックはこの小説で、オクラホマから
“ルート66”でカリフォルニアへ移り住む移民の様子を見事に描いています。
1934年(昭和9年)から1940年(昭和15年)までアメリカ南西部を襲ったダストストーム(大砂嵐)は農業に大きな被害を与え、人々の多くは土地を手放し、代わりに買った車に家財道具一式を積んで、砂嵐の来ない豊かな土地であると信じるカリフォルニアを目指しました。
ジョン・スタインベック(John Steinbeck)は1939年に発表した小説“The Grapes of
Wrath(怒りの葡萄)”で、オクラホマから“ルート66”でカリフォルニアへ逃げ出す移民たちのことを書き、その年のピューリッツアー賞を受賞しました。この作品でスタインベックは“ルート66”を“マザー・ロード”とも“バックボーン・オブ・アメリカ”とも呼んでこの道を称えています。
この小説は、2年後の1941年(昭和16年)ジョン・フォード監督によって映画化され、アカデミー賞を獲得し、一躍“オクラホマ難民”と“ルート66”の存在が全国に知れ渡るのです。
今、米国西海岸の農業はメキシコからの多くの移民(不法移民)に支えられているといわれています。もしかしたら“オクラホマ難民”は“メキシコ不法難民”に形を変えてまだ生きているのかも知れません。 ――― 次号へ続く ――― 河合将介( skawai@earthlink.net )
|