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NO.577                Ryo Onishi              6/3/2007   

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河合さんの さくらの独り言 川柳 & コント 森田さんから ホームページ
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雑貨屋のひとり言

環境にやさしいからとトウモロコシから造るエタノールが話題になっています。そのせいでトウモロコシを作る農家が増え、オレンジなどを作る農家が減ってきているらしいですね。ということは大切な食物や飼料が減っていることになります。温暖化の原因になっている自動車の排気ガスを減らすのはもちろん大事なことですが、食料不足で餓死している人が地球上にたくさんいることもそれ以上に深刻なのではないでしょうか?先進国の「エコ」が「エゴ」になって、さらにこの地球をダメにしているような気がします。(R.O.)

サリナス去り難し(2)

  FWY101(フリーウエイ101号線)がサリナス市に近づくにつれ、バスの車窓の両側は広大なレタス畑に変わっていました。

サリナス市の入口の道路標識に人口148,400人と記されていました。日本の鹿児島県・いちき串木野市と姉妹都市関係にあるそうで、このあたりには古くから日本人・日系人による開拓地も多いと聞きます。

私たちの先輩の日本人がこの地に入植し、それこそ血と汗と涙の結果切り開いた畑なのでしょう。私のような最近の企業駐在員上がりの者には想像も出来ない苦労の跡が目の前に広がり、過ぎ去ってゆくのを見ながら、改めて先人が築いてくれた礎(いしずえ)に頭の下がる思いでした。

今回のバス旅行の目的地であるサリナスの街は、少なくとも初訪問者である私には明るくきれいな中都市といった感じのところで、たいへん好印象を与えてくれるところでした。

 インターネットや旅行案内書などによると、現在のサリナスは人口の過半数をヒスパニック、ラティーノ系が占め、主要産業は人的労働のためコストのかかる農業であるため、決して財政が豊かとは言い難く、一人あたりの収入は近隣の裕福なモントレーやサンノゼの半分にも及ばない状況なのだそうです。

このような環境下にありながら、私にこの街が豊かに見えたのは、後で述べる通り、この地の人たちによる私たち訪問者に対する厚いもてなしの心が大きく影響したのかも知れません。

サリナス市といえば、「エデンの東」、「怒りの葡萄」などの作者で有名なノーベル賞作家ジョン・スタインベックが生まれたところです。これらの小説、さらに映画化された作品は私にとって懐かしい青春の記念碑そのものです。
 
中でも私は「怒りの葡萄」には大きな想いを持っています。私は米国へ来てから「道路」に関心を持つようになり、特に「U.S.ハイウエイ、ルート66」は私の生涯テーマにしようかと思っているくらいです。

「怒りの葡萄」と “ルート66” は関係が深く、スタインベックはこの小説で、オクラホマから “ルート66”でカリフォルニアへ移り住む移民の様子を見事に描いています。

1934年(昭和9年)から1940年(昭和15年)までアメリカ南西部を襲ったダストストーム(大砂嵐)は農業に大きな被害を与え、人々の多くは土地を手放し、代わりに買った車に家財道具一式を積んで、砂嵐の来ない豊かな土地であると信じるカリフォルニアを目指しました。

ジョン・スタインベック(John Steinbeck)は1939年に発表した小説“The Grapes of Wrath(怒りの葡萄)”で、オクラホマから“ルート66”でカリフォルニアへ逃げ出す移民たちのことを書き、その年のピューリッツアー賞を受賞しました。この作品でスタインベックは“ルート66”を“マザー・ロード”とも“バックボーン・オブ・アメリカ”とも呼んでこの道を称えています。

この小説は、2年後の1941年(昭和16年)ジョン・フォード監督によって映画化され、アカデミー賞を獲得し、一躍“オクラホマ難民”と“ルート66”の存在が全国に知れ渡るのです。

 今、米国西海岸の農業はメキシコからの多くの移民(不法移民)に支えられているといわれています。もしかしたら“オクラホマ難民”は“メキシコ不法難民”に形を変えてまだ生きているのかも知れません。 ――― 次号へ続く ―――
      河合将介( skawai@earthlink.net )

さくらの独り言「 黙

『死人に口なし』・・・熊本県出身の松岡利勝前農相が自殺した。多額の事務所費計上や農水省所管の談合事件の献金などに対する釈明に苦しみ、窮地に立たされての結末が自殺。公開された遺書から、故人以外にこの真相の鍵を握る人物の存在が匂うとはいえ、黙したままの死に違いはない。不正や偽証に縁のない普通人(庶民)でも、人は長い人生の中で、時に、黙することを強いられる場合がある。それが人のためか、会社や社会のためか、あるいは自分自身のためかは、異なるだろうが・・・そんな黙するということには、終結か始まりか、諦めか希望かの両極があると思う。そう考えると、前者は断絶や崩壊、後者は“祈り”ではなかろうか。

大学時代の恩師が、黙することについて語ってくれたことを思い出す。「もし自分が自分の失敗や過ちを非難されたら、一切の言い訳をせず黙って認め、取るべき責任をとり償うこと。もし友人の犯した失敗や過ちなのに、自分が犯したという誤解をうけて非難されたら、知っている事実を語らず黙ること。もし愛する人が罪を犯しそうになったら、目をつぶらず、黙するが如く二人だけで向かい合い、語り合うこと。黙することは、相手への期待や不誠実で消極的な冷たい行為ではなく、“祈る”という積極的な愛と信頼の行為なのだ」と。若く青い頃に聞いて書き留めたこの言葉の真意を、あれから25年経った今になってようやくわかりはじめたように思う。黙したままの死を選んだ松岡前農相の出身県が私と同じ熊本県だということから、支持者ではないにしても残念に思う。彼は何を黙し、何を祈ったのだろうか。

ところで、同じ熊本県出身者に、癒しの詩人としても有名な坂村真民(1909-2006)がいる。『人はどう生きるべきか』を一生の命題とした、“祈り”の詩人と呼ばれた。彼が8歳の時、父親に急逝され、その後5人兄弟の長男として母親を助け、どん底の生活を貫く中で、自分に甘えを許さない一徹さを身につけた。1941年、大学を卒業し韓国で教鞭をとり、1946年から退職する65歳まで、愛媛県の高校で国語教師を勤めた。その後、一遍上人の信仰に随順した仏教精神を基本とする詩の創作に転じ、1962年に月刊詩誌「詩国」を創刊、以後1回も休まず毎月発行、1200部を無償で配布していたという。晩年、毎日午前0時に起床、未明混沌の霊気の中で打坐し、念仏し、称名し、詩作し、午前3時半になると、月の光、星の光を吸飲し、大地に額をつけ、地球の平安と人類の幸福を祈願する日課を続けたと伝えられている。坂村真民作品の愛読者の一人でもある斎藤茂太(1916-2006・医学博士・作家)は、挫析と劣等感をバネに詩作を続けた坂村真民を尊敬し、「どん底を見てきた人は、人間に対する眼差しに慈愛が満ちるのだろう」と言っている。この坂村真民の作品に『時間をかけて』がある。『あせるな いそぐな ぐらぐらするな 馬鹿にされようと 笑われようと 自分の道を』という短い詩。同じ熊本県出身の松岡前農相、“どん底”で自殺を選んだ彼は、坂村真民の詩を読んだことはなかったのだろうか。

さて、熊本賢人、坂村真民の詩から私が大好きな作品をここにご紹介、『念ずれば花ひらく』である。
『念ずれば 花ひらく 
 母がいつも口にしていた
 このことばを
 わたしはいつのころからか
 となえるようになった
 そうして
 そのたび
 わたしの花が
 ふしぎと
 ひとつ
 ひとつ
 ひらいていった』
今朝も誰かが、私のために祈ってくれている。私も今朝、誰かのために祈る。そして毎朝、自分のために祈る。黙して祈る。さくらの花がひらきますようにと。一度しかない人生なのだから、一途に生きていこう、っと呟く、さくらの独り言。

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )

食料に相撲までもの自給率

蜜蜂と異常気象の花を追い

景気まだ時給いくらに目がいかず

情報の海ガセネタのいい泳ぎ

I Tの狐狸も棲んでる六本木

( ニュースやぶにらみ )

「ウオッカ、ダービーを制覇」
いきなり女王ですか −ハンカチ王子、ハニカミ王子

「精神一到」
モンゴルの四文字熟語かな −日本のヤング

「東京のタクシー値上げ先送り」
参議院選までだな −都民

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

 

森田さんから

 血は水よりも
              森田のりえ

「あなたたち、いいわねぇ。子供やきょうだいが近くに住んでいるから、いざという時はすっ飛んできてくれるでしょ。その点、私なんか天涯孤独みたいなものよ。一人娘はミズリー州だし、きょうだいはみんな日本だもの」
ウィドウ仲間が集まると、いつも私はこういって嘆いていた。
ところがこの春先、突然、付き合いが途絶えて久しい伯父の娘から電話がきた。そうだ、一人ぼっちじゃなかった。近くに頼りになるイトコがいたことを思い出した。
そもそも私が渡米できたのは伯父が保証人になってくれたからである。当時、伯父には息子と娘がいた。共通点はなし、歳が離れていたせいか、いつの間にか疎遠になっていた。
電話の内容はこうであった。
「イトコの節子から連絡がきて、ラスベガスでイトコ会をする。彼女は今、ファミリー・ツリーを調べているので、日本側の情報を知りたい。教えて欲しいそうだから、都合がよければ一緒に行かないか」 
ハワイ移民の子として生まれた母は八人きょうだいであったから、相当な数のイトコがいるに違いない。会ってみたいと思った。

母の両親は一八九一年、官約移民として横浜から山城丸に乗船してハワイへ渡った。
十九世紀後半、ハワイの砂糖産業が大発展をし、労働不足を解消するためにハワイ国王カラカウワが来日し日本政府にハワイ移民を要請し「日布渡航約定書」が成立。三ヵ年の契約で移住者の渡航費用はハワイ側が負担し、砂糖キビ農場で働き月の労働日数は二十六日、月給は食費などを含め十五ドル。この契約でハワイへ来た人たちを官約移民という。
月十五ドルは、当時の日本の平均賃金にくらべると破格の賃金であったという。だが、ハワイでの暮らしは過酷を極めたそうで、落伍者が出ないよう同郷者はお互いに助け合い故郷に錦を飾るという意識を加速させていったのだと、母が話してくれたことがある。結局、母の両親は契約期間が過ぎても日本に帰らず、ハワイの住民になった。そして、母の父親が亡くなり、母親、つまり私の祖母は、十一歳になる末っ子の私の母ひとりをつれて二十六年ぶりに故郷「広島」の地を踏んだのである。第一次世界大戦が終結する一年前のことであった。
母は観光のつもりで日本へ行ったというが、長い船旅が辛くて、日本へ居着いてしまった。祖母が亡くなり、親戚筋の父の元に嫁いだ母は十人も子供を産んだにも関わらず、
「人間、みんな一人ぼっち」
望郷の念があったのであろう遥か遠い想いを探るような目をして、よく呟いていた。
私を呼び寄せてくれた伯父は、戦後、ツールレイク日系人強制収容所から日本へ帰る道を選んだ。数年後にアメリカ市民権復活の話があり、子供二人を連れてアメリカに戻ってきたのである。
 終戦後、進駐軍だったのか、朝鮮戦争のときに日本へ来たのか、ハワイの伯母の息子が我が家を訪ねてきたことがある。カーキ色の軍服に長方形の帽子を斜めに被りジープに乗ってやってきた。格好よかった! ガムとキャンディを繋ぎ合わせレイのようにした物をもらったのが誇らしくて、近所の友だちに見せびらかした。僅かの距離だったがジープに乗せてもらった。車のなどほとんど見かけない時代だったから、うれしくて有頂天になった。声をかけられても、恥ずかしくて母の後ろに隠れるようにしていた。
「はっきりものをいわにゃ」
 母にたしなめられたが、ともかく、近寄り難く、遠くから眩しいものでも見ているような感じであったのを覚えている。
 私は、子供のころに思いをはせながら、ラスベガスへ向ったのである。
 すでに前日からホテルに泊っていたイトコたちの待つ部屋へ行く。
「のりちゃん!」
アリゾナからきたテル子が私を抱きしめた。テル子は一枚のセピア色の写真をみんなに配った。日本三景の一つ宮島の鳥居をバックに赤子を膝に抱いた着物姿の母、伯母、後列につばの広い帽子を斜めに被り洒落た洋服の娘が三人、いかにもハワイ帰りという格好をしている。左端がテル子である。裏書に私の生まれた年が書かれていた。母の膝にいる赤子はまぎれもなく私、不思議な因縁である。
集まったイトコは女四人男一人。食事をし、雑談をしていると「血は水よりも濃い」のたとえにあるように、連帯感が自然に湧き起こってきた。節子が調べたところによるとイトコは全部で三十人あまり。機会があれば会いたいものである。
つづく

今週のお奨めジャズ

ジャズはもう私の生活の一部になっています。次から次にすばらしいジャズに出会えるのでワクワクしています。ジャズを聴かない日はありません。一日3時間以上は聴いていると思います。「趣味は何?」と訊かれたら躊躇なく「ジャズを聴くこと!」と応えられます。537号で初めてジャズを紹介したころは、一週間一回のペースで紹介したらすぐに底をつくと思っていましたが、どんどん勢いがついてきて、紹介するジャズに困らなくなってきました。
今週は"Fourplay"の"Elixir"をご紹介します。スムースジャズのジャンルに入ります。サウスベイで聴いていたKTWV94.7MHzでオンエアーされていそうなきれいな曲です。

Elxir Fourplay

1 Elixir 07:26
2 Dream Come True 05:17
3 Play Lady Play 04:39
4 Why Can't It Wait Till Morning 05:20
5 Magic Carpet Ride 06:30
6 Whisper In My Ear 06:14
7 Fannie Mae 05:33
8 The Closer I Get To You 05:03
9 East 2 West 05:58
10 Licorice 05:14
11 In My Corner 06:58
12 Any Time Of Day 06:15

編集後記

今日は涼しい一日でした。身体にやさしい気候です。もうしばらくこのいい季節が続いてもらいたいものです。

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Zakkaya Weekly No.577

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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