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NO.568                Ryo Onishi              4/1/2007   

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雑貨屋のひとり言

春になりました。風もやわらかくて身体がほっとしています。まだちょっと早いかなと思いながら夙川の桜を見に行きました。昨年までは西宮駅から歩いていましたが、今年から、開通した「さくら夙川駅」を利用できるのでとても便利になりました。思ったとおり桜は4分から6分咲きくらいでした。東京ではすでに満開のようですが、なんでこちらのほうが遅いのか不思議です。まだ混雑するほどでもなく比較的静かでゆっくり楽しむことができました。今週あたりが観ごろになると思います。(R.O.)

植木 等さん逝く 

 「クレージーキャッツ」のメンバーとして1960年代から高度成長時代に爆発的な人気を博したコメディアンで俳優の植木等さん(80歳)が3月27日(火)に呼吸不全のため亡くなったそうです。

植木さんと言えば「スーダラ節」をはじめ、無責任男のイメージで一世を風靡した人ですが、実際の彼は几帳面で生真面目な人だったそうです。虚像(役柄)と実像は正反対であり、彼に関するエピソードを知るにつけ、私は植木 等さんに対して尊敬にも似た気持ちで彼の歌や演技に声援を送ってきました。

 私は以前、このZakkaya Weekly に植木 等さんとスーダラ節について書きました。(Zakkaya Weekly 142号、1999年1月31日号)

植木 等さんの訃報に接し、改めてその時の原稿を以下に再掲させていただき、故人への弔辞に代えさせていただきます。(合掌)

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80.『 スーダラ節は 100遍の説教に勝る』
“ スーダラ節 ” と言えば 1960年代初めにクレージーキャッツの植木等(うえきひとし)が歌い、日本中で大ヒットしたコミックソングです。 当時としては空前の30万枚を超える大ヒットとなり、1961年の紅白歌合戦でも歌われました。

中年以降の方ならご存知と思いますが、参考までに歌詞を以下記します。

★ スーダラ節(作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶、1961年)

(1)♪♪ チョイト一杯の つもりで飲んで
   いつの間にやら ハシゴ酒
   気がつきゃホームのベンチでゴロ寝
   これじゃ身体に いいわきゃないよ
   分かちゃいるけど やめられねぇ
   ア ホレ スイスイ スーララッタ
   スラスラ スイスイスイ ・・

(2)♪♪ 狙った大穴 見事にはずれ
   頭カッと来て 最終レース
   気がつきゃ ボーナスは
   すっからかんのカラカラ
   馬で金儲け した奴ア ないよ
   分かちゃいるけどやめられない
    (以下同じ)

(3)♪♪ ひとめ見た娘(こ)にたちまち惚れて
   よせばいいのに すぐ手を出して
   だましたつもりが チョイトだまされた
   俺がそんなに もてる訳ないよ
   分かちゃいるけど やめられねぇ
    (以下同じ)
 

この歌は一見( と言うよりどう見たって )ふざけた退廃的な歌に聞こえます。 私もずーとそう思ってきました。

ある時、雑誌 「 プレジデント 」 仏教・親鸞特集号にこの植木等氏 自らが寄せた文があり、何気なく読んでみたら、そこにはこの 「 スーダラ節 」 と彼の父親とのエピソードが書かれていました。そしてこの 「 スーダラ節 」 には人間に対する深い思いが込められている事を知り、「なるほど、そういう側面もあるのか 」 と目の開く思いがし、以後 私は時々友人達と人生を語る時、この話を引用させてもらっています。

今回はこの植木等氏の文の一部を抜粋、以下転載し、人間について考える材料を提供させて頂きます。
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「・・・僕が芸能界に入って『スーダラ節』がヒットしたとき、親父は、あの歌の文句は真理をついている、親鸞の教えに通じるものがあるって言ってました。 『わかっちゃいるけど、やめられない。ここのところが人間の弱さを言い当てている』 ってね。

くん酒山門に入るを許さずとか、肉食妻帯を許さずとか、世間がいろいろ言ってた時代に、親鸞は『わかっちゃいるけど、やめられない』と思いながら、自分の生き方を終生貫いたという訳です。
『うん、青島君は、なかなかの詞を作った』って、作詞した青島幸男さんを褒めていましたよ。・・・」
【植木等、無責任流大往生論 (プレジデント '95年2月号)より抜粋】

≪注≫植木等氏の父親は三重県の寺の住職でありながら、キリスト教の洗礼も受けていたり、労働運動、部落開放運動、反戦活動など当時としては危険な思想の持ち主だったようです。

晩年は親鸞に対する敬慕の情を吐露しつつ昭和53年83才で没したそうです。植木氏の文によれば「確かに親父は、一見、支離滅裂ではあったけれど、その底には一貫したものが貫かれていました。弱く貧しい者、生身の人間に対する共感。人間平等、部落開放、戦争反対を主張して、官憲による投獄、拷問にもその節を曲げることがなかったんですから。・・」
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お経を唱え、説教を100回繰り返しても親鸞の心を真に伝え、理解させる事は困難なのに、この 「 スーダラ節 」 は人間の業(ごう)とか ありようを見事に言い切っている。 「 飲む、打つ、買う」 とは 人間の欲望であり、悲しい人間の性(さが)である事を認めた上で、それを 「 わかっちゃいるけど、やめられない 」 人間の弱さ、不完全さを素直に認め、その上で人としてどう生きるかを問うものだ、これこそ親鸞の教えの神髄だ、と言う事のようです。

たかが無責任なコミックソングと思うなかれ、この歌は解釈の仕方によっては 100遍の説教よりも説得力のある人間修行の言葉でもあるのですね。

      河合将介( skawai@earthlink.net )

さくらの独り言「 そうね」

定年退職をした友人のN夫妻にゴルフ場で再会した。ご主人のN氏は、現役時代、国内外に飛びまわり、1年の5分の1も家に帰らない仕事人間で有名、たまに家に帰っても九州男児丸出しの亭主関白、横のものを縦にもしない人だった。そのご主人の一方的なひと目惚れでお嫁入りした奥さんは、チャキチャキの江戸っ子、男性部下を率いる才女でありながら、我がままご主人と4人のこどもを育て上げた良妻賢母で有名、私たち仲間の間でもヤマトナデシコの鏡的存在。先日、ゴルフ場でのN夫妻の対話を聞いていて、彼らのマジック・ワード、「そうね」に気がついた。何気ないこのひと言が、愛情や信頼を含み、それが二人の立場や関係を創り、そして繋いでいる。とっても素敵な言葉だと思う。

思えば、N夫婦の対話のやりとりには、「でも〜」とか、「どうして〜」とか、「〜すべき」とか、「だって〜」とか、「だから駄目だ」といった否定的な言葉が少ない。実はこの部類の言葉、私たちの生活の中では、ごく自然に安易に使っているものだが、考えてみると相手と向かい会う言葉としては否定的であり、会話の広がりや深まりを妨げる要素が強い。家庭や社会で、自分がよく使う言葉や癖にはどんなものがあるのかを拾ってみると、さて、どうだろう。何気ない、些細なひと言が、関係や物事を創ったり壊したりするのが、私たちの毎日。しかし、N夫妻のように、ひとつのマジック・ワードを持っていると、それを拠点にマイナスではなくプラスに、反発ではなく理解に、小さいものを大きく深く、独りではなく二人で共有できる、そんな自分と人を創れると思う。

ところで、こどもの教育ツールのひとつに、「せんせい、あのね」とか「おかあさん、あのね」がある。児童と先生、こどもとおかあさんが交わす交換日記だ。この日記をツールとしてコミュニケーションを図るというもの。これは『一年一組 せんせい あのね』(著者:鹿島和夫)で紹介されている『あのねちょう』を知った全国の教育者や母親が、活用し広まった。『あのねちょう』は、高校教諭だった鹿島先生が教諭生活20年目に初めて小学校一年生一組を担任、一年生の子どもたちとの言葉での対話がうまくできず、コミュニケーションをどうにかうまくとりたいと考え、「ええか、一日の中で考えたことや、感じたこと、おかしいなあと思ったことを書いてや」とこどもたちに注文、ノートでの対話に挑戦。子どもたちは、毎日の暮らしの中で鹿島先生に、おしゃべりをしたいと思ったことをノートに書いて毎日、提出する。こどもたちが書いたページには、感想や質問に対する返事を赤ペンで先生が書く。この帳面(ノート)は、先生とのおしゃべりノート、交換日記。だから目的は、上手な作文や詩を書くことではなく、こどもたちが思考したことを書くこと、つまりこどもたちが思考する生活をすること。1年生のどもたちは、先生に伝えたいことや聴きたいことを一生懸命書いた。先生も一生懸命お返事を書いた。そんな『あのねちょう』から多くの人たちを感動させる作品が生まれ、それらをまとめたものが、著書『一年一組 せんせい あのね』だった。私が最初の大学を卒業し、小学校5年生の担任をした時、愛読した一冊。私も毎日、こどもたちとの『あのねちょう』を続けた一人だった。

さて、ある携帯電話のTVコマーシャルに、お母さんと喧嘩した小学生が携帯電話メールでごめんなさいとメッセージを送信する場面がある。時代は変わり、コミュニケーションのツールが、ノートから電子メールに代わった。しかし、どの時代でも、重要なコミュニケーションの中味、変わらない対話と対話を求める人間の心がある。人の数ほどの対話があり、それぞれの対話の工夫があるだろう。N夫妻のように、そして鹿島先生のように、マジック・ワードを大切にしたいものだ。マジック・ワード、「〜あのね」と「そうね」、わたしも使ってみよう、っと呟く、さくらの独り言。

川柳(東京・成近)

 


( 川 柳 )

父祖の職中国製に値切られる

エルメスのゴミ袋などいかがです

水甕が語るおしんの物語

戦争と飢えも昭和の数え歌

のほほんの平和ノドンの射程距離

( ニュースやぶにらみ )

「植木等さん逝く」
我が青春も一緒に −団塊世代

「買収防衛策を可決」
のまれてたまるか −サッポロビール

「豪華議員宿舎」
−もちろんテッキンで
−ゼイキンです

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

私の朝晩の万歩計コースの一つ葛西用水の今朝の桜です。

森田さんから

 インド紀行 (8) 昼の月
                           森田のりえ

インド北部ダラムシャーラーにあるチベット難民学校を訪れた。校長先生は、私たち一行を案内しながら、貴重な話をしてくれた。「この間、十四歳の男の子が何ヶ月もかけて徒歩でヒマラヤを越え、ここへ辿り着きました。たった一人で・・・。明日のないラサでの子供の教育を心配して、年端もいかない子をここに置いて、こっそりチベットへ帰る親もいます。勿論、彼らは命がけです。人口調査の役人がくると『ヤクを追っていて崖から落ちてしまった』と言い逃れるそうです」
チベットから亡命してくる子供たちは年間五、六百人。来たい人は誰でも受け入れる。学校では、自分たちの文化や歴史に精通する教育はもちろん、チベット語やヒンドゥー語、それにいまや国際語である英語などの言語教育、そして、自主自立の精神を養うよう教育している。この頃、授業についていけない子供が出はじめ問題になっている。
チベット難民の学校は現在八十四校。インド政府をはじめ世界各国から財政的その他さまざまな分野で多大な援助を受けている。けれども、経済的な岐路にたたされているのが現状で、ビルマ国境付近の学校は想像もできないほど酷い状態だという。
私たちが来る一週間前、マイクロソフト社のビルゲイツ氏の奥さんが友人たちとジープ七台を連ねて訪れ、また、チベット支援で有名な俳優リチャード・ギアは支援のためにジェット機でたびたびやってくるそうだ。
日本の某国際ボランティア団体はチベット亡命政府と協力して、文化支援として絵本などの出版物を送る計画があり、教育資金の援助をこれから五年間行うと確約したと、通訳の日本人僧侶は話しくれた。
「支援とは・・・」
魚を獲って上げるのではなく、魚の獲り方を教えるのが正しい援助である。援助が現地の人たちにどう届いているかも問題だという。
援助といえば太平洋戦争直後の日本である。ちょうど私は小学生だった。給食の時間にアメリカから送られてきた脱脂粉乳のミルクを飲まされた。不味いと文句をいったけれども、振り返って考えると、物質的に困窮していた当時の日本人にとって、ありがたかったことであった。食料品だけでなく、衣料、薬品などいろいろな物が送られてきた。それが『ララ物資』といわれる救援物資だと知ったのは大人になってからである。
子供たちの寝室には二段ベッドが並ぶ。幼い子供をおいてチベットへ帰らねばならない親の心情を思うと、胸が痛くなった。
 幼稚園の教室では園児たちがお絵描きをしていた。子供たちの私たちに向ける笑顔は、私の幼い頃に見覚えのある顔であった。部屋の隅で金髪の若い女性が子供を膝に乗せてあやしていた。不思議に思って尋ねると、
「スイスからボランティヤで来ました。もうすぐ二年になります」
「なぜここへ?」
たたみ掛けて尋ねると、日本人の僧侶は彼女の話をこのように通訳してくれた。
「チベットは中国の圧倒的な軍事力の侵略を受け、一九五九年、ダライ・ラマ十四世はインドへの亡命を余儀なくされ、十数万人の人々が難民となって海外に逃れました。一つの民族国家、文化の根絶を意図としていることは、ナチスドイツによるユダヤ人絶滅政策となんら変わりません。私はこのことを知り、微力ではあっても何かできることがあるのではないかと思ってきました」
世界の屋根といわれるチベットの出来事は、私にとっては遠い遠い国の話であり、心にとめたこともなかった。それなのに、若い女性がこのようなことを考えていたとは、私は自分の脳天気を恥じ、また、驚いた。
山の起伏に沿った校内を歩いていると、祈祷用の大きなマニ車がずらりと並んでいた。山の木々に張りめぐられた五彩の祈祷旗タルチョがハタハタと風に鳴っている。時たま出会う生徒の純朴そうな顔。木々の間から見える向こうの丘の上に赤い屋根の三、四建ての建物が望まれた。ノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマ法王の公邸である。
時の首相ネールは、ダライ・ラマ十四世から亡命の要請があったとき、閑静で静穏という理由でチベット難民のためにダラムシャーラーを選んだという。一九六〇年、法王は、チベット亡命政府をここに移し現在にいたっている。住民は六千人以上。標高千八百メートルの山岳地帯である。
どこからともなく子供たちの元気な歌声が聞こえてきた。
重なり合う山の遥か彼方に連なる白い峰はヒマラヤ山脈である。雲ひとつない青空にくっきりと昼の月が見えた。
                つづく                           

 

編集後記

朝から視界が悪く六甲山が見えませんでした。黄砂だったんですね。
≪今週のお奨めジャズ≫
先週ご紹介した"You'd be so nice to come home to"に続いて今週は” My Funny Valentine”をご紹介します。

アーティスト名/アルバム名
(1)Chet Baker/Chet Baker With Strings Heartbreak
Chet Baker自身が歌っています
(2)Bill Evans & Jim Hall/Undercurrent
Bill EvansのピアノとJim Hallのギターのコラボレーション
(3)Eddie Higgins Trio/Haunted Heart
メリハリのあるHigginsのピアノが好きです
(4)Manhattan Jazz Orchestra/Moanin'
トランペットも魅力があります
(5)Steve Kuhn Trio/The Ballad On Jazz Piano Trio
(6)阿川泰子/JAZZ BALLAD
夜、静かに聴きたいですね
(7)Oscar Peterson/The Best Oscar Peterson
軽やかなOscar Petersonのピアノ
(8)Fried Pride/Street Walking Woman
女性ボーカル、ギターもいいですね
(9)New York Trio/Blues in the night
力強いピアノとドラム・・これもいいです

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Zakkaya Weekly No.568

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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