――― 私は月に一度、ロサンゼルスの日系新聞(羅府新報)に寄稿していますが、以下は最近この新聞に送った原稿です。昨年はじめに当欄に書いた原稿(Zakkaya
Weekly #507)と趣旨は似ています。―――
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米国で生活していると「フェア」という言葉にしばしば出会う。「それはフェアではない!」「アンフェアだ!」といった具合だ。
一般的な米国人にとって、フェアであることはたいへん重要なことであり、アンフェア呼ばわりされることは人格・人間性の否定にもつながりかねない響きに聞こえるようだ。なにかにつけて正義を振りかざす米国だが、国家の唱える正義に対し国民はフェアネスをモラルの原点と考えているのではないだろうか。
それでは米国流のフェアネスとは何だろう?――― 単純には言えないだろうが、米国流のフェアネスの原点は先ず共通のルールをつくりそれに従うことが基本となっているように思える。
米国は多文化・多民族国家であり価値観や常識の幅が大きい。そこであらゆる事柄について皆で合意されたルールをつくり、これを遵守することによって秩序を保とうということなのだろう。
私が日本企業の米国駐在員であった時、米国現地法人内では業務内容に関するルール(マニュアル)が詳細につくられていただけではなく、必要に応じて随時書き換えられ従業員がそのマニュアルに従って働いているのに驚いたものだ。日本にいた頃は業務処理基準などのルールは存在しても個人のノウハウが優先し、処理基準など忘れられがちだった。
最近、私の周囲で日本人仲間数人から始めた勉強会が、外部からの入会者の増加により、会をまとめるためのルールが必要になり会則作りをした。でも日本人で構成するグループであるためか、せっかく会則を皆で議論を尽くして作ってもあまり守られていない。「めんどうな会則で縛られず臨機応変のほうが気楽でいいよ」というのが会員たちの気持ちのようだ。
フェアネスの意味を日本語辞典で調べてみると「公正」といった単語が先ず記されている。日本人に対し「君は公正でない!」「不公正だ!」と非難しても、言われたほうは人格・人間性の否定とまでは受け取らないので、米国流フェアネスは日本人には通用しないのかもしれない。
河合 将介(skawai@earthlink.net)
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