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NO.554                Ryo Onishi              12/24/2006   

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雑貨屋のひとり言

 ノロウィルス感染が広がっています。人から人へ簡単に感染し、予防薬も治療薬もないので心配です。カキのおいしい季節なのに悪いニュースが先行して、食べられなくなっています。とても残念です。
今日はクリスマス・イブですね。最近はクリスマスだという感覚はなく、ただ年末が近づいたなあと思うだけです。おまけに今日は朝から穏やかで風も無く暖かな一日なので、クリスマス・イブだということさえ忘れてしまいそうです。今年もワイフと二人だけで静かに食事をしました。後にご紹介するEddie Higgins Trioのジャズを聴きながら・・・。
(R.O.)

水 と 空 気 の 味

引退者のくせに、私の身のまわりではここ連日各種忘年会が続いています。シニア年齢の私にとって“もの忘れ”は得意であり、いまさら“年忘れのセレモニー”など不要なのですが、忘年会という響きは何ものにも代えがたく、何はおいても私の足が向いてしまいます。

最近、私はビジネス現役の若い(といっても引退間近の人たち)日本人仲間から『ご隠居』というニックネームを頂戴したりしています。国語辞典によると『隠居』とは『世を避けて仕官しない』、『世事を捨てて世に出ない』という意味のようです。【角川新字源】

私の場合、この解釈からすると適合するのは『仕官しない』だけで、世を避けてもいないし、世事を捨ててもいないので『ご隠居』とはとうてい言えないのですが・・。

ところで、忘年会に限ったことではありませんが、私たちのパーティに提供される料理はいつも豪華で、出される量も食べきれないほど多く贅沢なものです。

世界中には貧困のため、食べるものがなく「生きるために食べる」のさえままならない人々が多くいます。ところが私たちのパーティは「食べるために生きる」ものであり、美味しいご馳走を堪能できるわが身の幸せを感謝すると同時に、良心の呵責(かしゃく)を感じざるをえません。

『もったいない』とは辞典によると、「そのものが本来持っている価値や意義をまっとうせず、中途半端にうち棄てられること」なのだそうです。私たちのパーティの豪華料理はまさに『もったいない』ものと認識しなければならないようです。

 忘年会に参加するたびに私たちは先輩が残してくれた「もったいない」思想をもっと大切にしなければと反省している次第です。

 最近私は『空気と水の味』に興味をひかれるようになりました。これまで『水』の味については地域によって味が違うことが気になっていました。

こちら米国ロサンゼルス周辺ではパーム・スプリングス近郊の自然湧き水のうまさに感激したことがあります。

若い頃、東京の水道水しか知らなかった私は長野県(諏訪)に就職し、信州はじめ日本各地に多くの名水があることを知りました。東京の水道水との味の違いにびっくりした記憶があります。

今年の5月、私は日本へ一時帰国した際、友人に連れて行ってもらった長野県の軽井沢で早朝の白樺林で吸った空気にハッとしました。確かに空気がひと味もふた味も違っていたのです。オゾンがどうの森林浴がどうのとかの理屈はまったくわかりませんが、味が違うことだけははっきり実感しました。

年を重ねるとどんな豪華な料理よりも最後は『水と空気の味』がいちばん気になるものなのでしょうか。

『水と空気の味』に関心が向くようでは私も歳をとったということかもしれませんが、こんな境地に到達できること自体、最高に贅沢なことといえましょう。ますますわが身の境遇のありがたさに感謝している年末です。                                              河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言「 一粒の種」

今日はクリスマスイブの日曜日、心なしか外は静かだ。今朝の朝刊に挿入されたクリスマス広告はゼロ、昨日までの量が嘘のよう。この1週間の新聞や広告を整理しながら、クリスマス商戦から窺えるクリスマスの過ごし方、その定番と変化を読み取る。そして、自分が今まで過ごしてきたそれぞれの時代の、様々なクリスマスが走馬灯の如く浮んでは消える。今年は母にさえクリスマスギフトを用意する時間もなく、今日を迎えてしまった。出張続きで東京にいること少なく、また百貨店が開いている時間に買い物へ行くことも出来ずに過ごした師走。そんな慌しさの、ほんの合間に迎えた今朝、独りコーヒーをすすりながら、今年のクリスマスは“一粒の種”をテーマに過ごそうと思った。

11月末の感謝祭が終わった頃からクリスマス当日までを、待降節(アドベント)と呼ぶ。この時期、欧米では、それぞれの家庭独自の伝統や習慣を生かして過ごす。これらのひとつひとつは、その国柄は勿論、個々の家庭の文化と教育が強く結びついていて、意味深いものが多い。私が過ごした米国でのアドベントもクリスマスも、クリスマスギフトに注力する日本のそれとは違い、灯されるキャンドル1つにも、飾られるクリスマスツリー1本にも、吊るされるソックス1つにも、送られるカード1枚にも、それぞれの家庭教育の種が植えられていた。そもそもクリスマスはキリスト教のものだとはいえ、こどもにとってもおとなにとっても、教育材料がいっぱい詰まった絶好のチャンスだと思う。そう思うと、どんな形であれ、今日のクリスマス・イブをそんな視点で過ごしてみると、これもまた意味があって面白いもの。

ところで、クリスマスに限らずキリスト教の説教では、「種」について語られることが多く、事実、聖書の中、特に新約聖書のイエス・キリストやその弟子によって語られたとされる“たとえ話”にもよく使われている。その“たとえ話”に共通する「種」について考えてみた。まず、種は命を宿している。しかしそれが本当に生きているのか死んでいるのかは、植えてみるまで誰も分からない。また、どんな小さな種でも成長があること、それを確認するには芽がでたり根が張ったりするまで待つしかない。また、種には人間の常識を超えた力がある。一時話題になったアスファルトの隙間の微かな土に生えた大根を連想する。そして、小さな一粒の種がもたらす実は、その種よりはるかに大きい。結ぶ実の大きさは、小さな種から想像できないもの。そして、一粒の種が実を結ぶには時間がかかること、つまり、種蒔きと収穫が同時に起こらないということ。さらに、蒔いた種には、水や栄養分の補給と同時に、ケアが必要だということ。こんなことを並べてみると「一粒の種」には、家庭教育、学校教育、社会教育、社員教育、などといった“共育”の知恵が一杯詰まっていると思う。

さてビジネスでは常に2S+Rが求められる。スピーディ、スマート、リゾルト(質の高い成果)がそれだ。しかし、種を蒔かずとも実は結ぶと勘違いしている企業も少なくない。
私の担当するプロジェクトは人が主役。その人たちが創造する組織や技術に関係する教育分野だ。既に造られた汎用的なモノやシステム(機械)を一方的に提供するのではなく、その土壌、気候、水、風土にあった種を、特別に選定されたチームメンバーと共に植えていくようなもの。そしてそれは、クリスマスに誕生した救世主の言葉のごとく『少しだけ蒔く者は少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取る』と信じている一人だ。今日はクリスマス・イブ、久しぶりにキャンドル礼拝にでも出かけてみようかな、一粒の種が枯れないように・・・っと呟く、さくらの独り言。
 

週間五日坊主(東京・成近)


( 川 柳 )

風説に揺れが止まらぬ風見鶏

後出しジャンケン人参を掻っ攫い

反則を秘し勝ち組に名を連ね

勝ち馬に乗って目線は次の椅子

限界の我慢伏せ字を裏返す


( ニュースやぶにらみ )

「ノロウイルスショック」
胃が痛い −カキ養殖業者

「税調会長の後任」
“一身上の都合”のない人 −安倍首相

「懲役4年の求刑」
想定外だった −ホリエモン

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

  チベット紀行( 8 )
森田のりえ
 日本語の「こんにちは」はチベット語で「タシデレ」といい、「ありがとう」は「ツチェーチ」、「さよなら」は「カレシュ」。挨拶は「私はあなたを敬います。仏様になられる人だから」という深い意味をこめた合掌。この程度の予備知識をたずさえ、いよいよチベット第一日目である。
 ラサのホテルに着いたのは正午前だった。せっかくだからチベットらしい宿に泊まるのも一興ではないかという思いが一瞬、脳裏をよぎった。しかし、アメリカのホテルと同じ様式だったので胸をなでおろしたというのが、本音であった。
 スーツケースを開くと服がどことなく湿っぽい。見ると、下着が部分的に醤油で煮しめたように薄茶色に染まっていた。
「水気の物はないのに、おかしいわ」
 すると、娘がこういった。
「マミー、チーズよ。ほら、見て、パック入りのチーズがはじけて流れ出ているわ」
 旅に出る前「現地の食べ物にうっかり手を出すと肝炎になるよ」と、友人にさんざん脅かされたので、私は、非常食用にチーズや真空パックの煮豆、駄菓子などを持ってきた。ところが、食事はすべてホテルで取り朝食は洋式で昼と夜は中華料理だった。案ずることはなかったが、匂いが鼻について食べられない人もいたから、人それぞれである。
 ホテルで一休みした後、森下永敏住職の寄付によって建てられたラサ市内の小学校を訪れた。日曜日だった。校長先生はじめ先生方だけの出迎えを受け、ひとり一人に歓迎用のカタを首にかけてもらう。ひと通りの挨拶が終わり日本から持ってきた学用品を贈呈した後、私たちは教室へ案内された。
 この学校はチベットの将来を担って立つであろう子供たちのエリート校だそうで、勉強机は私たちが戦後使っていたような粗末な物だったが、コンピューターが十数台と理科の実験用具なども揃っていた。教室の壁に「毛沢東」「ケ小平」「江沢民」の写真が掲げられ、黒板に漢語が書かれていた。消し忘れではなく、私たちのためにわざわざ書かれたものだという感じがしてならなかった。
 中国において少数民族の自治区、自治州、自治県の小学校には、その民族の言語を教えるクラスもあるし、漢語だけで教えるクラスもある。その選択は家庭に任されている。しかし、漢語が支配言語であるから、誰もが望むようないい生活をしようと思えば漢語を勉強する必要にせまられる。小学校を優秀な成績で卒業し素行がよくて健康なチベット人の子弟は、北京、上海など都市の中学校へ入れるチャンスがある。しかし、出身地や定員、行く先の範囲も決められ本人の自由意思で行けないと、ある書物に書いてあった。それを確かめたいと思ったけれども、なんとなく聞きそびれてしまった。
 成都空港でのことである。
 ラサ行きの飛行機を待っていたとき、二人連れの日本婦人と隣り合って座った。
「チベットへは観光ですか」
 私が尋ねると、
「七年前、曲水という村に小学校を寄付したので、そこを訪ねる予定です」
 婦人がいった。
 好奇心をかき立てられた私は、あれこれ質問すると、こんな情報が得られた。
 日本には芸大学長でもある日本画家の平山郁夫画伯が会長を務める日中友好協会がある。中国の田舎では学校がなくて勉強をしたくてもできない子供たちがいる。それを知った平山画伯は、シルクロードの絵を描き、それを売ったお金であちこちに小学校を建てている。その話を婦人たちが所属する日中友好女性委員会が知り、自分たちにも何かできるのではないかと募金活動をしたところ三百万円集まった。それで七年前、チベットの曲水という田舎に児童二百人の小学校を建てた。今回はその小学校へ北海道の某小学校の児童が描いた絵を届けるというのだ。
「低学年の子供たちはノートがない子もいます。台所の煤を塗った自家製黒板をノート代わりにして遠い道を学校へ通ってきます。子供たちにノート、鉛筆などを持って行くと、こんな白い紙に字が書けるだろうかと校長先生が心配されていました。いつもは書き古した紙にしか書いていないから……。私たちの世代は敗戦直後の物資欠乏の時代を知っているはずなのに、いまでは物をムダに使い『もったいない』という言葉を忘れかけています。当時は紙が不足し紙質も極悪でしたから、白い紙への憧れは私たちにも憶えがあります。純白な紙に文字が書けるかと心配された校長先生の気持ちが、よく分ります」
 隣に座ったおかげで、品のいい婦人と知り合いになれた。うれしい出会いである。

 ホテルの売店で働いている若い女性が、ラサで勉強をしたという英語で娘にこんな話をしていた。
「アメリカで勉強したいけれど政府の許可が下りません。アメリカからきた女性が援助をしてくれるというのですが」
 それは、私よりも流暢な英語であった。                
                つづく

               

 

編集後記


今週お薦めのジャズ
今週はクリスマスイブなのでどの曲を紹介しようかと考えましたが、クリスマスイブの夜に似合いそうなEddie Higginsのアルバム"Ballad Higgins"をご紹介します。この曲は夜向きの曲だと思うのですが、朝から聴いていました。前回、ご紹介した"If Dreams Come True"とは異なり、落ち着いた曲です。Eddie Higginsは好きなアーティストの一人でアルバム数は14枚もあります。

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Zakkaya Weekly No.554

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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