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NO.542                Ryo Onishi              10/1/2006   

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河合さんの さくらの独り言 川柳 & コント 森田さんから ホームページ
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雑貨屋のひとり言

「のじぎく国体」が兵庫県の各地で開催されています。毎日歩いている公園も会場の一つになっています。毎日おそくまで練習している人がいました。この大会のためにがんばっていたんですね。高校硬式野球が行われている高砂市野球場ではハンカチ王子の斎藤選手がえらい人気のようですね。(R.O.)

12年ぶりのオリンピック(3)

――― 前号よりの続き ―――
「これまでの29年間の人生で最悪だった父親の死と、私自身への肺がん宣告、治療生活でしたが、今振り返ってこの経験は私にとって大きなプラスの転機になりました。氷の上に3分と立てなかった私でしたが、その日から私は過去の私と訣別することにしたのでした。毎日の練習では“全盛期の良かった頃の自分”との比較ではなく、“昨日より少しでも進歩を感じる喜びを発見する自分” になることにしました。また健康のありがたさに感謝できる人間にもなりました」 ――― こうして彼女は最大の苦境を脱したのです。

アメリカに渡り、当初は言葉もままならなかった異国の地でのカルチャー・ショックは怜奈さんにとっても大きかったようです。

その上、乞われたとはいえチャンスに恵まれ、米国選手とのペア演技で氷上に立つことになった彼女にとって、異文化の壁は厚かったようです。でも持ち前の努力と根性でこれも克服し、遂にフィギュア・スケート・ペア演技で、アメリカ代表オリンピックの候補の位置にまで到達します。

そこで彼女の国籍問題が出てきます。国際オリンピック規約では、オリンピック選手はその国の国籍保持者のみに出場が認められているのだそうで、怜奈さんはそれまで米国の永住権は保持しているものゝ、国籍は日本だったのです。

また、彼女は悩みます。 ――― 「私は日本人として生まれ育ちました。日本人としての誇りがあります。もし私がシングル演技の選手だったら日本国籍を離れるなど考えもしなかったでしょう。私にとってオリンピック出場は魅力であっても、日本国籍を捨ててまでも出たいとは考えていませんでした」 

そんな彼女がなぜ日本国籍を捨て米国籍を取得するになったのか。いわんやオリンピック(2006年、トリノ)のフィギュア・ペア米国代表権すら得ていない段階で米国籍を取得しても、オリンピック代表の選考から外れれば、“笑いもの”になるだけのこと、普通ならば躊躇するでしょう。

でも彼女は自分がアメリカでペア演技の選手であることを優先し、相手(ジョン・ボルトウイン選手)のことを思い米国籍を取得する決意をします。

「私は既に二度もオリンピックへ出してもらっていますが、ジョンはまだオリンピックに出ていません。彼はこれまでたいへんな努力と苦労を重ね練習に励んできました。可能性がある以上、ジョンにもオリンピックという桧舞台を経験させてあげたかったのです。でも、もし米国代表に選ばれなかったら、私も“笑いごと”では済まされないのでこの時ばかりは必死でした」

ところが代表選考会予選で彼女のペア演技はトップになれず(4位)、崖っぷちに追い込まれます。

しかし起死回生のスロートリプルアクセル(三回転半ジャンプ)を始め見事な演技でアメリカ代表としてオリンピックへの切符を手にすることになったのでした。

前述した「演技は他人(競合選手)がやらないこと、他人以上のことをやれ」を見事に成し遂げたのであり、まさに「努力も才能」を身をもって実証したのでした。

井上怜奈さんは間もなく30歳になるそうですが、今年も現役引退を考えずトレーニングに励むそうです。

「私にはまだこの世界でやり残したことがあるように思っています。このような思いがある以上、現役生活を続けます。引退してから後悔しても遅いからです」 ――― スポーツ選手にとって引退時期をいつにするか難しい問題と言いながらも怜奈さんは今年にかける新たな意気込みをこう語っていました。

「“やらなかったことを後悔する”ことこそ人生最大の失敗です」と語っていた怜奈さんでした。

講演の最後に彼女が述べた「成功の条件は努力・才能・運」という言葉は実際に身をもって体験してきた井上怜奈選手だからこそ言える言葉であり、また聞く側にとっても重みの感じる一言でした。
――― 次号に続く ―――
      河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言「 神楽坂散策 」

「江戸は粋(いき)で、大坂は粋(すい)」とよく耳にする。どちらも渋味を基調とし、江戸の粋には苦味、大坂の粋には甘味が加わるという(木津川計著「上方芸能と文化」)。侍という官僚兼軍人の都市だった江戸と商都の大坂では、都市の彩りも習慣も違う。歌舞伎や落語などの芸能にもそれは当てはまり、例えば、東京の落語家は今でも黒紋付きを着ることが多く、大阪は色紋付きを好むという。今回は「粋(いき)な江戸」に触れてみる。

私が勤める会社のオフィスは飯田橋にあり、歩いて3分のところに、むかし花街として賑わった神楽坂がある。今でも昼と夜とでは全く違う顔を見せるこの神楽坂、ここに生活する人たちは、この一帯を「粋な神楽坂」と呼ぶ。この神楽坂には、料亭やおしゃれなレストランが軒を並べ、また歴史や文学のかほりもいっぱい。賑やかな通りから路地に一歩入ると、石畳に下駄をカランコロンと鳴らして歩く(数少なくなった)芸者さんともすれ違う。と思えば、今が青春といわんばかりの学生にもバッタリ、はたまたこの地を故郷のごとく歩くフランス人。プチ・フランスと呼ばれるように、フレンチレストランやカフェ、ワインバーなども点在する。花街、文士と学生、和と洋、江戸と現代、迷い込んだ路地には色々と粋な空気が流れている。

ところでこの神楽坂の周辺には、むかしからの町名が多く残っていることでも有名だ。1792年から毘沙門天の参拝客で賑わう「神楽坂」、戦国時代の管領上杉氏の城郭であった筑土八幡神社からとった「筑土八幡町」、東京湾から神田川に入る船便が荷物の揚げ下ろしをおこなった「神楽河岸揚場町」、16世紀初頭大胡氏が築いた牛込城の「牛込」、通り抜けできない袋小路の「袋町」、徳川第2代将軍秀忠が名づけたという「若宮町」、御徒という戦いの際に徒歩で行軍する下級武士が住んだ「北町」、「中町」、「南町」、将軍の鷹狩用の鷹の訓練所だった「市ヶ谷鷹匠町」、7つの寺院が軒を連ねていた「横寺町」、赤城神社にちなんだ「赤城元町」と「赤城下町」、武家屋敷だった「岩戸町」や「白銀町」などがある。さらに、幕府御家人の組み屋敷に由来する次の4つの町名はなかなか面白い。具足奉行組同心・弓矢鑓奉行組同心屋敷だった「箪笥町」、これは、武器を総称して御箪笥と呼ぶことから付けられた。御細工同心屋敷だった「細工町」、これは、江戸城中の建物・家具の製作や修繕にあたったという。御納戸同心屋敷だった「納戸町」は、将軍の手元にある金銀・調度などの管理にあたった。そして「払方町」、これは御納戸払方同心屋敷で、御納戸役のうち将軍が大名や部下に下賜する金品などを扱った。地図を片手に町名を眺めると、江戸城下の粋な風が吹いてきて楽しいものだ。

さて、この神楽坂、最近テレビや雑誌で取り上げられることも多く、注目を集め、静かな人気を呼んでいる。時に、どこからこんなにやってきたのかと首を傾げたくなる人の足並み。古い歴史をたたえ、他の町にない地形や町並みなどの魅力がその要因なのかもしれないが、有名無名の人々が、この町の魅力、歴史や有形無形の文化資産を育み、伝え続けていることがすばらしい。作家や出版社、学者や研究者、花柳界や芸術家、日本人もフランス人も、成人も学生も、神楽坂まちづくりを目指した「粋なまちづくり倶楽部」の活動が地域の発展に貢献しているという。粋な街、粋な人が多い神楽坂、粋な風をきって、明日も粋に坂をのぼってみようか、っと呟く、さくらの独り言。

週間五日坊主(東京・成近)


( 川 柳 )

吸収合併階段を外される

出世魚挫折 回転皿に乗り

ロボットとペアで明日の社を担う

ベンチャーの目にネクタイの隙だらけ

謙譲の美徳が隅で埋もれてる

( ニュースやぶにらみ )

「二位残念セール」
ハム食い放題 −西武グループ


「自派から入閣者ゼロ」
再チャレンジ −谷垣禎三

「課長以上全員減給処分」
裏金であてがってくれるんだよね −岐阜県庁職員

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

 連載 ウィドウ(11)

 あまり大きな声でいいたくないのだが、渡米して三十四年になるのに、私には英語力がない。中学で習った英語の教科書『ジャック・アンド・ベティ』に毛が生えた程度である。
いや、それ以下かもしれない。
 中学の時、英語の授業で、
「さあ、今日はジャックが庭の芝刈りをするところから始めます。誰か読める人」
 先生が言い終わるやいなや「ハーイ」と私は勢いよく手をあげた。なんてたってハワイ生まれで十四歳まで英語教育を受けた母に教り予習をしたのだ。私は得意になって読んだ。ところが、母の流れるような抑揚のある発音と、一字一句はっきり一本調子で読む先生の読み方とはまったく違っていた。それっきり、母に教わることはなかった。
 しかし、いま思えば、日本歴史専門の教師が、仕方なく英語を教える羽目になった戸惑いが見えるようだ。「雀の学校」の先生は、生徒がお口を揃えて先生のいうとおり「ディス・イズ・ア・ペン」「アイ・アム・ア・ガール」と言ってくれなくては困るのである。
 その後遺症を引きずっているとはいわないが、私は未だ英語に自信がない。
 夫と結婚する時、誓約の言葉である「あなたは健やかなる時も、病める時も常にこれを愛し、敬い、助け……」と、牧師のいう英語が、小鳥のさえずりのようにしか聞こえなかった。反復しながら、やっと言い終えた。そんな私に、夫はハーバー・カレッジの土曜英語クラスに行くようにすすめた。だが、アメリカ人による英語の授業には付いていけず三日坊主で終わってしまった。
 娘が学校へ行くようになれば嫌がおうでも英語は話せるようになるという、友人の言葉を信じたのが大間違い。小さい頃の娘は日本後だったが、幼稚園から小学校になると陣取りをするように急速に英語がつよくなつた。それに私は乗り損ねた。大きくなるにつれ日本語は聞けるが、話す言葉は英語オンリーになった。半透明なビニールを鋏んだような母子の間柄になってしまったのである。
 娘独立、母孤立だった。
「せめて俺くらいの英語力がオマエにあったらなぁ」
 心配しつつ逝った夫の気持ちが、切実に思えてきた。
 勉強をしよう!
私は一念発起した。
 英語環境に接することが一番というウィドウ仲間の幸子に誘われ、昨年の十一月から週二回、ガーディナ市のアダルト・スクールへ通いはじめた。四十年間も英語社会にいて英語しかしゃべらなかったという澄江が、
「日本人社会に十二年もいると、すらすらと英語が出てこなくなったわ。どうしましょう。日本食が食べたくて、日本語を使いたくて、日本人の友達がほしくてモンタナ州からロサンゼルスへ引っ越してきたのに。私も英語クラスへ行くわ」
 と言い出した。
 日本人教師による英語クラスは分かりやすくて楽しい。生徒は老若男女二十人前後。
「誰か読んでくれますか。間違ってもいいから読みたい人?」
 これならついていけそうだ。私は手をあげる。黒板に書かれた問題を「間違いを気にしたら何も出来ません、間違ったほど覚えますよ」という先生にあおられ、私は積極的にチョークを握っている。発音は無理だが、ブロークン・イングリッュでも、相手に通じればいいのである。
「英語をマスターするには、アメリカ人のボーイフレンドを見つけるのが一番」
 澄江がいう。しかし、そんな器用なことができるなら苦労はしない。
 ある日、私は以前書いた「イスラエル紀行」のコピーを取りにキンコー・コピーへ行った。コピー・マシンの前に立ったその時、ユダヤ人らしきお爺さんが話しかけてきた。
「あなたは日本人ですか」
「はい」
「私はジャンサンといいます。高校の教師をしていました。日本へ行ったことがありますよ。……あなたのお住まいは?」
 などと聞く。ナンパされているのかなと思った。だが、ユダヤ人に興味を持っていた私は、イスラエルの紀行文を見せ話の取っ掛かりを掴もうとした。しかし、質問には答えず、
「あなたはカラー・コピーを取るのですか」
 はっとした。私の間違いを指摘したくて、話しかけてきたのだ。
 この話を澄江にすると、
「あなた、そんな時は電話番号を聞いておくのよ。またお会いしましょうねとか言わなくちゃ。チャンスは自分で掴むのよ」
 時、すでに遅し。
 後日、近所のスーパー・マーケットへ行くと、くだんのお爺さんがきていた。
「Hi! Do you remember me?」
 私は勇気を出して尋ねた。お爺さんは怪訝そうな顔をしていた。
「I met you the KINKO’S COPIE. Three
weeks ago」
 しかし、彼は怪訝そうに首を振っていた。

               つづく

 

編集後記

今週お薦めのジャズ
Bud Powell ” The Scene Changes “
これもビーバップ系ですが何度聴いても飽きのこないテンポのいいピアノジャズです。
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Zakkaya Weekly No.542

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com