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NO.532                Ryo Onishi              7/23/2006   

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河合さんの さくらの独り言 川柳 & コント 森田さんから ホームページ
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雑貨屋のひとり言

日本各地で大雨による大きな被害が出ています。川の増水で家が流されたり、土石流により家が無残に破壊されたりして、まるで映画のようなシーンがニュースで報道されています。もう梅雨が明けてもいいころなのに、先週は大雨の中の通勤が2度もありました。集中豪雨が多くなってきたと思います。これも地球温暖化による影響なのでしょうか?(R.O.)

祝、J A C A L 200回突破

 私たちの仲間、若尾龍彦さんから次のようなメールを受信しました。

――― JACAL第201回、2006年7月例会のお知らせ ―――
1987年に勉強会・JACALを始めてから200回が過ぎました。来年で20年、あっという間でした。早いものですね。
200回を重ね7月度はお祝いを兼ねてBBQとしましょう。裏庭でビールやワインを片手に今までの会を振り返って語り合うのも一興です。
(開催記録: http://www.wakao.com/wai/wa/log.php  )
また、200回達成を記念して皆さんのコメント (祝辞)を募りたいと思います。 E-mail で結構です。是非事前に若尾までお送りください。よろしくお願いします。―― 若尾 龍彦

若尾さんが主宰する月例勉強会「JACALの会」が先日(6月11日)に200回目を迎えました。振り返ってみると私が日本企業の駐在員として当地(ロサンゼルス郊外)に赴任した1985年直後にスタートしたのがこの会でした。

私は若尾さんとは早い時期からのお付き合いでしたが、私が会の発足第一回に出席したかどうかは記憶になく、定かではありません。でも、少なくとも現在の会員の中では(若尾ご夫妻を除いて)私が最古参メンバーだと思います。――― 尤もこの会にはOB会が日本ほか各地にあるそうで、OBメンバーを含めれば私が最古参と名乗る資格があるかどうか・・、でも自称真面目なメンバー(?)の私は何度も主催者(若尾さん)から「年間皆勤賞」を受賞しているので、“最古参”がダメなら“最多出席者”の方なら間違いないと自負しています。

若尾さんのホームページ内の「JACALの会」の案内には次のように記されています。
『JACAL会は、「会員が、日頃の仕事や諸々の雑事を忘れて、社会的地位や看板を外し、みんなで集まって一緒に食事をし、一杯飲みながら、全員が対等の立場で、異なった人の異なった意見や見方にふれて行く」楽しい会です。我々がLAに済んでいるため、話題は自然、日米関係、特に日本とカリフォルニアが話題の中心になります。そのため、JAPANとCALIFORNIAを合成し、JACAL会とネーミングしました。』
そして会の目的については次のように書かれています。

1. 「会員が、日頃の仕事や諸々の雑事を忘れて、社会的地位や看板を外し、みんなで集まって一緒に食事をし、一杯飲みながら、全員が対等の立場で、異なった人の異なった意見や見方に降れて行く」楽しい会を作る。

2. 会を通じて、各界の人々の異なった意見、異なった見方、新しい知識に触れ、見識を高めると共に自己を磨く

3. 「大量生産、大量販売の工業化社会の後にはどのような社会が出現するか」を予測する

4. 上記のために、政治経済はもとより、各国の歴史、文化、習慣、宗教、教育、法律、税制まで各人の意見交換や議論を通じて掘り下げる

5. 会得した知識、見識を外に紹介するように努力する。
会員相互の懇親を図るため、配偶者を含め、年一回忘年会または新年会を開く。

原則として毎月一回開催されるこの会は出席メンバー全員が人間として対等の立場で、時々のトピック(テーマ)についてある時は大所高所から、また、あるときは日常体験をもとに持論を展開し、自己主張できる場となっています。

相手の立場を理解しながら話を聞くことの難しさを毎回実感し、いつも恥ずかしい思いをしている私ですが、この会を通じて学ぶことが多くありました。

これまでの過去200回で取り上げられたテーマは上記「開催記録(ホームペジ)」の通りで、「日米関係とその歴史」「米大統領選挙」「中東問題」「日本国憲法」「教育のあり方」「年間予測」「医療保険、年金制度」などなど、いつもトピカル(時局的、時宜を得た)話題をテーマにオープンな議論を重ねてきました。

私にとって毎回のテーマはどれも興味のあるものばかりでしたが、中でも1993年のテーマだった「日本改造計画(小沢一郎)」読書会、1992年の「LA暴動の影響と今後のアメリカ」、2002年の「ユダヤ教にみるセダカの思想(ヘンリー幸田氏)」などが、なぜか強く印象に残っています。

上記「開催記録」一覧表によると、私も講師(というより担当という程度ですが)18回登場させてもらいました。いろいろ調べて皆さんに発表し、ご意見をいただき大いに勉強させていただきました。

さて、今回、この文の冒頭に載せた若尾さんからのメールで「200回達成を記念して皆さんのコメント (祝辞)を募りたいと思います」とありましたので、私は早速次の通りメールを発信しました。

祝、JACAL 200回突破。『飛躍(百)に飛躍(百)を重ねた(二百回)のJACALに乾杯! これからは飛躍(百)の三段跳び(三百回)に向かって活発に議論しよう!!』      河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言「 うぐいす 」

叔母と交わした2年越しの約束をやっと果たせた。2年前に私が友人と行って感激したという長野県木島平村(雑貨屋428・429号さくらの独り言『自然劇場@・A』)の訪問だ。東京のど真ん中、新宿で独り暮らしの叔母だが、私にとって“東京の母”でもあり、親戚の中でも一番近い存在。都会や社会の様々な騒音を逃れ、心と身体の癒しと感動を求めて、その叔母と私、日本の原風景に身を置いてみた。木島平村の豊かな自然の息吹の中で、今回の滞在で出会ったもの、それは“うぐいす”。声はすれども姿は見えず・・・だが、確かに出会ったんだもん。

ホーホケキョの鳴き声で親しまれているこの“うぐいす”は、オオルリやコマドリとともに、日本三鳴鳥のひとつに数えられている。“うぐいす”は、ホーを吸う息で、ホケキョを吐く息で、まるで胸式呼吸をするように胸を大きく膨らませてさえずる。都会周辺では “うぐいす”の鳴き声は早春だというが、自然の宝庫、ここ木島平では、盛夏まで聴くことができる。前回同様、今回も宿に選んだパノラマランド木島平の窓の下、広がる赤松林の中から、姿は見せないが♪ホーホケキョ♪。叔母が誰かから教えてもらったという口笛を真似て♪ホーホケキョ♪、“うぐいす”との会話にトライしてみると、大成功。様々なリズムやトーンの鳴き声で返してくれる。まるでわらべ歌を歌いながら遊んでいるこども感覚だ。“うぐいす”遊びとでも名づけようか。こうなると、“うぐいす”について好奇心が沸いてくるというもの。たわいもないことだけど・・・語源や謂れを調べたくなる。

「うぐいすは、何故うぐいすと呼ばれるようになったか」を調べてみると、「うぐいすの語源」(佐々木彰のうんちく講座・著作権なし)というものを見つけた。それによると、うぐいすは、枕草紙の頃の表記では「うくひす」となっていた。濁点の表記は、最近になってから。音韻学では、昔の「う」の発音は、「fu」に近いものであり、「い」の発音も」「hi」に近いものだった。ハ行も現在とは違ってファ フィ フゥ フェ フォと発音されたことが推測されている。その根拠は、中世の「なぞなぞ」を集めた本に「父には一度も会わず母には二度会うもの」という謎かけがあり、解答として「くちびる」となってることによるものだ。つまり、父の発音は現在のものにほぼ近いが、母は英語のF音に近く、ファファと唇を合わせて発音していたということになる。ところで、万葉集は万葉仮名という漢字で表記されているが、日本人が文字を持たない頃の発音を、当時の中国語の文字を借用して書いたもの。これらを分析すると、「ひ」の発音は、「Pi」に近いものだったことがわかっている。また、「す」の発音は、「tyu」にちかいものだったことも推測されている。そこで、「うぐいす」の発音を大ざっぱに遡っていくと、「うくひす」「ふくぴちゅ」の順に古くなるわけだが、フークピチュ(声に出して見ればよくわかる)という鳴き声からきている。「すずめ」は勿論「ちゅちゅめ」であり、「め」は、小さいものの愛称の接尾語。ちゅんちゅん鳴く可愛い小鳥ということになる。つまり、鳴き声がそのまま名前となり、音韻変化をとげたということ。ちなみに「かっこう」などは音韻変化がなく、そのまま今でも鳴き声で呼ばれているということになるのだろう。

さて、74歳の叔母は少し耳が遠くなったせいか、電話の受話器を通した話やざわめく飲食店内での会話が聞き取りにくいという。その叔母が、宿の500メートル先にある林からの“うぐいす”のさえずりは明確に聞こえ、まるでこどものように喜んで口笛を吹くのだから不思議だ。ただ、耳が遠くなった分、叔母の♪ホーホケキョ♪は、少し音痴。森の“うぐいす”は、そんな叔母の口笛に、戸惑いながらも喜んでいるみたい。そんな叔母と“うぐいす”さえずり合いを観たり聴いたりしながら、心身の癒しに感謝する。初夏の森、真似てみようか♪ホーホケキョ♪、っと呟く、さくらの独り言。

週間五日坊主(東京・成近)


( 川 柳 )

禁断の実に変身を迫られる

踏み台にされて約束葬られ

塞翁が馬与太郎が生き伸びる

色即是空説いて離せぬ般若湯

欲言わぬ自適の酒の酔い心地

( ニュースやぶにらみ )

「朝青龍、千秋楽前に優勝を決める」
勝負はそういきたいね −安倍晋三

「昭和天皇の靖国発言メモに」
あなたはハクシュ? やっぱりカシワデ? −拍手

「福田氏総裁選に不出馬を表明」
笑顔が引きつっている −福笑い

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

イスラエル紀行( 11 ) 再びエルサレム
              森田のりえ
連載 ウィドウ(1)
              森田のりえ
 亡夫の夢をみた。
「あら、あなた、生きていたの? どこへいっていたのよ、いままで・・・」
 夫は黙っている。
 私の一存で部屋の模様替えどころか、夫が自慢していた熱帯魚用の大きな水槽は友人に上げたし、鯉を飼っていた池も埋めて花壇にした。家のペンキも塗り替えた。服だって、整理してサルベーション・アーミーへ寄付してしまった。いまごろ帰られても夫の居場所はない。どうしょう! 俺の許可もなしに勝手なことをして、と怒るだろうなぁ。それにしても、何だって今頃帰ってきたのだろう。
「あ、わかった。あの女のところでしょ?」
 やはり、返事がない。
「いいのよ、帰ってこなくて。私たち離婚しましょう」
 内心、怒り狂っているくせに、私は強がりをいった。
「あの女と一緒に暮らすって? えっ、お金は全部持っていく?」
というところで目が覚めた。
 一日でいいから後に残れと、私によく話していた夫は、三年前の春、食道癌で亡くなった。享年六十歳。医師の宣告したとおり一年間の闘病生活であった。
 五十二歳でリタイヤした夫は「わがままな亭主によく付いてきてくれた。ありがとう。これからはお前の喜ぶことをするからな。それがオレの生き甲斐だ」というのが口癖だった。罪滅ぼしのつもりらしいかったが、私は少々迷惑した。
「美容院へ行く?  よし。オレが送り迎えしてやろう」
「手紙? 誰からきた」
「日本へ行った時に同級生に会う? オレも行くぞ。女房の友だちに亭主が会って何が悪い」
「友だちに昼食を招待されたって? 夫婦で行くのが礼儀だろう。日本の男社会は間違いだ。夫婦はいつも一緒にいて人生を楽しむパートナーだ。な、そうだろう?」
 夫は、自分の価値観を押しつけた。
 たまには一人で行動をしたい。ほっといてといえば、不思議だ、不思議だ。オレには理解できない、と首を傾げた。月一回の句会に出かける私に、オレだったら夫婦で楽しめるモノをみつける、と必ず嫌味をいった。
 夫は寂しがり屋だった。
 子供のころ、縁日の屋台で赤と白のねじり飴を売っていた。夫婦がお互いの人権を尊重するとは、このねじり飴のようだといえば、夫婦別々でどうする、同じ色に染まるべきだと夫は主張した。亭主関白の遺伝子がDNAに組み込まれたような夫から、夫婦礼賛の言葉を聞くと、どこか違っているような感じがしてならなかった。
 私はウィドウ(未亡人)になった。
 夫の死後は、事務手続きや処理しなければならないことが多かったが、ややこしい書類上のことは娘夫婦が片づけてくれた。それらが一段落し日常の生活に戻ると、家のあちらこちらが目につきはじめた。
 机の前にすわりパソコンのスイッチを入れる。古いタイプだから画面が出るまでの間、私の目は自然と斜め上の天井を見上げるのが癖になってしまった。茶色のシミは雨漏りの痕。天井のアコースティクがふくらみ剥げ落ちる寸前だ。スプレーで応急処置をしたがもちそうにない。日本で訴訟問題にまでなったアスベストが入っているのだろうか。シミは天井のコーナーから玄関まで続いている。原因は分かっている。玄関ポーチの天窓から雨が沁み込んだのである。四年前に屋根工事をしたので雨漏りは止んだ。だが、後遺症のシミは残ったままだ。業者に訊ねると、部分的に直すのも全体を直すのも金額は大差ないという。一時は諦めていた。急にこのごろ気になりはじめた。
気になるところはたくさんあった。
夫が作った裏庭のデッキが白蟻にやられている。待てない。壁のペンキも素人仕事で家具を動かすとまだらが目立った。ゴテゴテ飾るのが好きだった夫は壁に隙間があれば絵をかけた。ある時期から、
「写真を壁に貼ろう。いつでも見られるからいいぞ、どうだ、いいアイデァだろう」
 といって、一部の壁面いっぱいに貼り付けはじめた。それが剥がれてきた。糊付けの痕が汚らしい。造花はいたるところに置き、また、ぶら下げた。ベルサイユ宮殿の鏡の間にヒントを得たという夫は、家中に鏡を貼りまくった。狭い部屋を広く見せるという発想は結構だが、寝室の天井と壁の鏡にはまいった。即、抗議して取り外させたことはいうまでもない。
 夫は、ホームデポーへ行くのが大好きだった。電気、水道工事に大工仕事、なんでも見よう見まねでやった。
「どうだ、うまいもんだろう。プロといっても通じるぞ」
 威張っていたが、所詮、素人の仕事。屋根工事の際、軒先に取り付けたテラスの屋根が邪魔になり取っ払っう羽目になった。家の中は、厚化粧をして着飾った老婆のように見えた。 鯉を飼っていた池が空池のままだ。車庫にはガラクタが陣取り、車も入らない。壊れた電気製品の分解が趣味だった夫は、部品をヤマのように遺した。処分するモノは他にもあった。二十五、六年間、何度いっても手放さなかったキャンピングカー。
「女房をつれて全米をまわるのが、オレの独身時代からの夢だ」
 ついに果たせなかった夫の夢の遺物。
 半年間は気ぜわしい日々が続き、気が紛れた。夫に先立たれた知人が、身体がふるえるほど寂しい時があるといったが、私には無縁のように思えた。
 家の工事が一段落した。
 知らぬ間に、空池を埋めた花壇にコスモスが咲くころになった。白や桃色の花が風に揺れる。小鳥がさえずる。私はサンルーム越しに花壇を眺めながら、朝のコーヒーを飲む。
「あなた、見て、なんとか片づいたわ」
 胸のうちで呟いたら、涙が出た。悲しみがどっと襲ってきた。もし、私が先に逝ったら、あの人は寂しさに耐えられないだろう。夫はうまいことやった、先にいった方が勝ちだと思ったら、おかしさがこみ上げた。
 今の私は孤独ではない。咲く花、そよぐ風、小鳥のさえずりに慰められている。心が癒されている。家族の思い出がある。夫の浮気で悩み苦しんだ日々さえ、人生に彩りを添えたと思えてきた。失った人の思い出は、日が経つにつれ美化されるというのは本当だ。なにもかも、これでよかったのだ。
 これからは私の人生。充実した「クオリティ・オブ・ライフ」を送りたいものだ。
               つづく

 

編集後記

松任谷由美のコンサートのチケットをラッキーにもいただいたので、土曜日の夕方、ワイフと大阪城ホールに行って来ました。松任谷由美のコンサートは初めてでしたが、彼女のパワフルさと派手な演出を堪能して帰ってきました。
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Zakkaya Weekly No.532

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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