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NO.526                Ryo Onishi              6/12/2006   

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河合さんの さくらの独り言 川柳 & コント 森田さんから ホームページ
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雑貨屋のひとり言

連日、テレビやラジオでワールドサッカーのことが報道されています。さあ日本チームは期待通りに決勝戦に進めるでしょうか?このW杯を機に大型のプラズマテレビや液晶テレビを買って観ている人も多いのでしょうね。
エレベーターの事故は他人事ではないですね。たくさんの事故が起こっていたのに、犠牲者がでるまで、問題が表面化しないのはなぜでしょうか?(R.O.)

国 家 の 品 格 (2)

  ――― 前号よりの続き ―――
この本(藤原正彦著、「国家の品格」)の第二章(「論理」だけでは世界が破綻する)に日本人小学生への英語教育の是非についての記述があります。

「・・現在、(日本)全国の九割以上の小学校で英語が教えられています。私に言わせれば、小学校から英語を教えることは、日本を滅ぼす最も確実な方法です。公立小学校で英語など教え始めたら、日本から国際人がいなくなります。英語というのは話すための手段に過ぎません。国際的に通用する人間になるには、まずは国語を徹底的に固めなければダメです。表現する手段よりも表現する内容を整える方がずっと重要なのです。・・」「・・内容がないのに英語だけは上手いという人間は、日本のイメージを傷つけ、深い内容を持ちながら英語は離せないという大勢の日本人を、無邪気ながら冒涜しているのです。・・」

現在、英語が最大の国際語となっている以上、英語が出来ないより出来たほうが良いに決まっています。しかし、人間形成の最重要期である小学校での限られた時間では、たしかに国語、算数、歴史などの基本を日本語でしっかり学ぶのが優先でしょう。

以前、私はある日本の大学生から『世界で活躍するビジネスマンに必要なものは何ですか?』というたいへんな難問をE-Mail で受けました。以下、彼からの質問メールに対する私の回答メールを以下に記し、読者の皆さんのご意見をうかがいたく思います。
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普通、「世界で活躍するビジネスマンに必要なもの」 という質問をすると、多くの自称 「国際通」の人は 「国際感覚を身に付けること」 と返事をします。そんなことは当たり前で、その 「国際感覚」 とは何かが問題なのでしょう。

国際感覚とは外国語に堪能になったり、外国の風俗・習慣・マナーに詳しくなることばかりではありません。これらはもちろん重要ですが枝葉末節なことであり、もっと基本とすべきものがある筈です。

私流に敢えてその基本を言うなら、それは 「自分を知る事、日本を知る事。そして自分が日本人であり、日本人としての ID を明確にすること」 だと言えると思います。

私達は自分について、日本についてどれだけ良く理解しているでしょうか?
「国際感覚」 と言っても、これが 「国際感覚である」 と言った絶対的なものはない訳で、あくまでも何かと比較して初めて知り得るものです。その場合何と比較をするかと言うと、私達の場合は 日本 または 日本人としての自分と言うことではないでしょうか。

日本も ナショナルの時代から インターナショナルの時代になっており、更に世界は トランスナショナル(ある意味のボーダレス)の時代に向かっています。

ナショナルとしての ID 無しに 何で インターナショナルになり得ましょうか。インターナショナルをしっかり確立しないで何でトタンスナショナル に移行できましょうか。

日本から駐在員がアメリカへ赴任してきた時、自分の子弟の教育について日本語を中心にするか、英語を中心にするかという問題は、親にとって重大事です。

きちんとした方針と信念の下に決めるのであれば この場合、どちらにしても間違いはありませんが、よく 親によっては 折角アメリカに来たのだから 子供は アメリカの現地校に通わせれば、国際語である英語が出来、国際感覚が身について良いだろうと 安易に考える親がいます。

こんな安易な考え方で現地校に入れられた子供は気の毒です。(尤も、この場合、現地校とその先生にとってはもっと迷惑な話ですが・・)

この場合、その子は 国際人にもならなければ、多国籍人でもなく、ただの 無国籍人 にしかなりません。

私が会社を引退する前、日本の親会社より赴任する人から 「 3ヶ月後にアメリカへ赴任する事が急に決まりましたので、私は妻と2人であわてて英会話学校へ通っています 」 という挨拶状が届いたので、私は 「今更 英会話の勉強をする暇があったら、もっと日本の事を勉強してきて下さい」 と返事を出したことがありました。

一般的に言える事は、どうも日本人は自分の ID ( 自分と言うモノサシ)が曖昧で、客観的に他のものを測るのが苦手のようです。

日本人の持っているモノサシは伸縮自在で曖昧な 「 生ゴム 」 製ではないかとさえ思うことがあります。(これはこれで 日本人のよいところなのですが)

でも、これから海外へ出る人にとっては、最も重要なのは海外へ出てから見聞き・経験をしっかりと見極められる自分の IDではないでしょうか。

極論を言えば 私はこれが 「国際感覚を身につける」 ということだと思っています。 そして その次にようやく個々の具体的な話が始まるのだと思います。

その具体的な話は また何時かお会いした時にいたしましう。
     ――― 次号へ続く ―――                   河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言「 ボール 」

テレビを付けると、決まって話題はワールドカップ。駅の売店や本屋に並ぶ雑誌、電車の中吊り、新聞に折り込まれるチラシも同様にサッカー、まるでオリンピックさながら。スポーツ観戦が大好きな私だが、どうしてもサッカーにはいまいち心が奮わない。この時期こんなことを書くと石を投げられそうだが。日本が、世界が、サッカーボールと格闘する男たちの姿に興奮する今、ボールはボールでも違ったボールに興ずるさくらの呟き・・・

ボールと一口に言っても色々ある。仮に球技ひとつにしても、各ボールの大きさも違えば形や色、そして重さも全く違う。その中でも、今、私が注目しているボールは3つ。まず、ゴルフボール、ゴルフプレーもさることながらこの小さなボールの弾道は不思議で、グリップ、スタンス、スイング、目、その全てが統合、その調和度具合を表現する。弾道の美しさはフォームの完成度合いを示すから、不思議なのだ。2つ目は、ラグビーボール。さくらの独り言“ノーサイド”(雑貨屋271号)にも書いたが、昔は豚牛の膀胱を使用していたためその形は楕円、それが作りなす業の魅力。地面に落ちると不規則なバウンドをし、チャンスをピンチにピンチをチャンスに仕掛けてくれるスリルだ。3つ目、それはバランスボール、実物をこの目で見たことも触れたこともないが、購入を申し込んだばかり、来週には私の手に届く。公私共にパソコンに向かう時間が多くなったことや歳をとって前かがみになったことからくる姿勢の悪さの矯正、背筋や筋肉のトレーニングによく、ひいてはダイエット効果もある。また、バランス感覚と集中力を養うともいい、友人が進めてくれた。この時期、世界中ではボール蹴りで盛り上がる中、私は多分ボール乗りに夢中となることだろう。

ところで、英語のBall(ボール)の語源は、ラテン語ballare から派生した英語to dance、日本語では“踊る”と、ギリシャ語のballeinで英語のthrow、日本では“投げる”が組み合わさったもの。派生語や語源的ファミリー語彙には、おなか、風船、球場、ボーリング、鉢、弾道といった丸形及びボールや球技に関連するもの、バレーやダンス、舞踏会場や宴会場といった踊りに関するものがある。以外なものとしては、投票、悪魔、問題などがある。これは同じthrowという投げる意味でも、小さなボールを投げる意味の投票、横切って投げたり、悪口や中傷を投げたりという意味の悪魔、そして前にボールを投げるという意味の問題である。こうしてみると、私たちの回りにあるボールやそれを使うスポーツがなんとも単なるゲームではなく、もっと身近な生活に共通するものとして見ることができるから不思議だ。

さて、ボールやボールに関連するものを身の回りで探してみると、私の手の中に一本、いや一個の小さなボール、ほらボールペンなんてのもそのひとつ。ペン先に組み込まれたボールの回転によりインクが出るしくみ。そして、そうそう、私たちが立っているこの地球、これもまたボールのひとつ。1日に1回、東回りにしかも同じ速度で自転していることにより、人間の私たちに簡単には自覚できないこの地球の回転、その音や速度を実感することはない。地球の回転速度は速く、よくも振り落とされないものだと不思議に思うもの。ボールはボールでも、こんなに不思議なボールはないものだ。だって、夜空に輝く万点の星以上のドラマを載せて回っているのだから。地球という巨大なボールの上で私たちは、小さなボールを打ったり、蹴ったり、拾ったり投げたり、乗ったりしているのだと思うと、そのドラマも面白い。そういった意味で地球は、ボールルーム(ball room)、生命の舞踏会場なのかもしれないな、っと呟くさくらの独り言。

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

日々好日頷くだけの首となり

皿洗い上手いと妻にほめられる

とぼけてはいても承知の太郎冠者

身の丈の欲で風船弾んでる

駒一つ足りぬジグゾー組んでいる

( ニュースやぶにらみ )

「新幹線 特急全面禁煙」
もちろんキセルも −JR東海

「目指すはプロ選手」
プロ中のプロにはなりません −野球少年

「子供受難時代」
近くの他人に気をつけなさいよ −遠くの親戚


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

 アネモネの花咲く丘
              森田のりえ
 二月一日金曜日の夕方、ガリラヤ湖畔のキブツ・エンゲブに着いた。頭上で椰子の葉擦れの音がする。昨日通過した、熱気のこもったユダの荒野にくらべ、風まで柔らかくなったように感じられた。
 イスラエルでは金曜日の日没から土曜日の夕暮れまで安息日だ。旧約聖書の創世記に、神が天地創造のすべての作業を終え、第七日目に休まれた。安息日の由来である。
「なんのわざもしてはならない」
 モーゼは十戒のなかで労働を禁止している。
 神を礼拝する日とし、火を点けても、エレベーターのボタンを押してもいけないと聞いた。しかし、ロビーには受付係がいるし、スーツケースを部屋へ運ぶボーイも働いている。食事も整っていた。
 夕食後、私は同室の友と散歩にでた。
 コテージの前に五、六人の若者がたむろしていた。そのなかのひとりが静かにギターをつま弾いている。
「シャローム」
 そばを通り過ぎようとした私たちに声をかけた。連れの友は「シャローム」と、挨拶を返した。そのいい慣れた声がおかしくて、私はくすっと笑ってしまった。
 空を見上げると、満月だった。蛙が鳴いている。なぜか急に日本の母を思いだした。去年、老人ホームにいる九六歳の母を見舞うと、
「こんな句を作ったんじゃがのう」
 といって、教えてくれた。

  蛙なく 植えおえし田を喜びて

 翌朝、キブツ・エンゲブの宿泊所からバスに乗った。五、六分で下りると、ガリラヤ湖の小さな桟橋に船が一隻停まっていた。煉瓦色の船腹が皮膚病のように剥げている。私たち聖地旅行二六人が乗り込むと「バンザイ、バイザイ」といいながら、船員が日章旗をあげた。船員といっても二人だけの観光船だ。
 遙か彼方に、イスラエル北端のヘルモン山が雪に覆われ横たわっていた。雲の上に浮かんだように見える。
「みなさん、基本的なことを話します。」
 ガイドが説明をはじめた。
「ガリラヤ湖は水位が年々下がっています。これ以上下がると塩分が高くなり生態系が崩れ、淡水魚がすめなくなります。今年は、ヘルモン山の雪解け水が流れこむから希望がもてそうです」
 湖面を吹く風が冷たい。私はコートの襟を立てて寒さを防いだ。
「この湖は、旧約聖書ではキネレテの海と呼ばれています。キネレテは竪琴のことですから、日本でいう琵琶湖ですね。大きさは、南北二一キロ、東西一ニキロ、深さ四五メートル、世界で一番低い場所にある淡水湖です。周りを山に囲まれすり鉢形ですから、時には突風が吹き荒れます。これは聖書の記述にあるとおりです」
 私の前に座っていた男性が「そうだそうだ」
というように頷いていた。
「向こうがローマ皇帝の名前をつけたティベリヤです。墓の上に建てた『汚れた町』としてイエスさまとお弟子さんたちは、あの町へ行くのを避けられました。ローマ人とユダヤ人の確執があったからでしょう。その北がマグダラ、山上の垂訓の丘、イエスさまが伝道の拠点とされたカペナウム、そしてベッサイダです。イエスさまは、見棄てられた病人の群れと寝起きをともにし彼らを看病し、貧しい村々を中心に福音伝道をされました。」
 その時、女の人が質問をした。
「先生、豚の群れが崖から海へなだれこんで死んだ場所はどこですか」
 ガイドは、イエスの公生涯の中心となったガリラヤ湖畔で起きた奇蹟を話した。嵐を静め、湖上を歩き、病を癒した話なら、うろ憶えだが聞いたことがある。それらの舞台になった場所に自分がいる。半年前まで考えたこともなかった。遠くへ来た、と思った。
 対岸へ着いた。貸切バスは、ラクダ・ファームやバナナ畑を通過し、アネモネの花が咲く丘の坂道を上がった。頂上にユーカリや楡の樹木に囲まれた教会があった。山上の垂訓の丘と呼ばれている所である。
「マタイによる福音書第五章には『イエスは群衆を見て、山に登り』とあるけれど、宣教学者はこういっています。イエスさまは岸辺に立ち、丘に集まった群衆に向かって話されたのではないか。それは、湖面が自然の音響効果となり、山の上まで声が届くからです」
 木陰の椅子に座り、私たちはガイドの話を聞いた。現在の教会は一九三六年、ムッソリーニがお金を出して建てたという。
 教会のベランダから、紺碧の湖面と手入れの行き届いた耕作地が俯瞰できた。緑の塊のなかに赤い屋根が見える。イエスを慕ってきた群衆の飢えを満たすために、五つのパンと二匹の魚を無数に増やしたといわれる「パンの奇蹟教会」だ。
 聖餐式が行われた。
 パンはイエスの身体、葡萄酒はイエスの血だという儀式である。ノン・クリスチャンの私は余所者のような違和感をおぼえた。
               つづく               

 

編集後記

今週もCDを借りて(今週は16枚)ジャズをいっぱい聴きました。自分の好みがだんだんわかってきました。来週も借りようと思っていますが、ダブらないようにリストを作っています。
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Zakkaya Weekly No.526

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
tenshu@zakkayanews.com