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NO.523                Ryo Onishi              5/21/2006   

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河合さんの さくらの独り言 川柳 & コント 森田さんから ホームページ
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雑貨屋のひとり言

10数年前ロスにいたころ買ったCDを引っ張り出し、それらをMP3にして携帯プレーヤーで通勤時に聴いています。聞き覚えのある懐かしいメロディーが心地よく聞こえてきます。携帯プレーヤーは何百もの曲を持ち運び、好きなときに聴けるのであらためて便利だなと思います。(R.O.)

誰か成敗をもって英豪を品する

 ☆ 山中 鹿之助 (谷口 廻瀾作)
  
大義は山の如く 身は毛に似たり
   誰か成敗をもって 英豪を品する
   清光一片 初三の月
    忠魂を照映して 万古に高し

山陰の戦国時代の武将、尼子十勇士の一人であった山中鹿之助(山中幸盛)は主家、尼子氏再興のため苦難をかえりみず戦い、生き、そして死んだ悲劇のヒーローとして有名です。

彼が「願わくば われに七難八苦をあたえたまえ」と三日月に祈ったという逸話は講談などでよく知られています。山中鹿之助の生涯は決して成功物語ではありません。日本人はなぜかこのような悲話に感銘する傾向があるようです。

映画通を自認する私の友人の言によると、アメリカの西部劇が世界中で受け入れられる理由の一つは、西部劇の筋には一定のパターンがあり、それは(1)悪が街にのさばる、(2)ヒーローが現れ悪と戦い、(3)街が守られる、といったことなのだそうです。この場合、映画は移住白人の立場で描かれるので先住民(アメリカ・インデアン)は悪のほうに分類されてしまいます。

要するにアメリカ西部劇映画は「勧善懲悪(善事を勧め、悪事を懲らすこと。=ハッピーエンド)」が原則なのです。これなら単純明快であり、映画を見終わって“考えさせられる”こともない、よかったよかったと安心していられるわけです。また勧善懲悪なら世界中に通じる普遍性もあります。往年の西部劇名画「シェーン」などその典型です。

映画で一定のパターンといえば、かつて日本で大ヒットした寅さん映画(渥美 清さん主演の「男はつらいよ」シリーズ)もそうでした。この映画は私も大好きでシリーズ(全48作)のほとんどを観ました。

「男はつらいよ」ではテキヤ稼業の主役(フーテン寅=渥美清さん)が柴又の“とら屋”を飛び出し、旅先で出会ったマドンナに淡い恋をし、恋に破れて再び旅に出る、というのがおおよそ毎回の筋書きです。一定のパターンで筋書きが進むので観客側は安心していられるわけです。

このように最近は日本でも「男はつらいよ」式のストーリー展開も受け入れられていますが、でもやはり日本人にとって山中鹿之助式悲話や“考えさせられる”式の筋書きのほうが心を打つのではないかと私は思います。

日本の4月は新入学、新入社の季節です。40年以上前、私は学卒後はじめての就職試験を受けました。その際、作文試験がありました。テーマは確か「社会人への覚悟」といった類のものだったと思います。

私は学校生活から一社会人として、また企業人として世の中へ羽ばたく意気込みと覚悟を綿々と書き込み、そして最後にこう締めくくったのを今でも鮮明に記憶しています。

――― 「かの悲運の驍将、山中鹿之助は三日月に向って『願わくば われに七難八苦をあたえ給え』と祈ったという。私もこれからの会社生活において、いかなる困難に直面しても回避せず、社会、企業、そして自分自身のため成長するよう努力し・・」

こんな幼稚な作文でよく就職試験をパスできたものだと今でも恥じ入っています。                               河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言「 Bridge Over Troubled Water 」

今朝(5月21日)の日経新聞「春秋」には、私の大好きな「隅田川」が語られている。その限られた紙面スペースで隅田川の過去と未来への期待が展開されている。「どぶ川」と呼ばれた隅田川を全く知らない私は、隅田川の今に親しんでいる。日本に帰国してから住んでいるこの隅田川沿いの生活も、今年9月で6年目となるから驚きだ。隅田川もそしてそこに架けられている橋も、四季折々の姿を持ち、その時々にかなって私を癒し、また奮い立たせてもくれる。不思議な世界が流れていると、しみじみと惹かれる川なのである。

この佃のお部屋に入居した最初の3年半は、隅田川に架かる佃大橋と勝どき橋の見える川沿いに、その後から現在は、同じ隅田川に架かる中央大橋と永代橋の見える方向、つまり以前とは逆方向に移動して住んでいる。同じ川でも川下か川上かによって、窓から見える趣が全く違う。変わらないのは、その川や橋の誘惑だ。事実、先の大型連休の初日、5月3日は、快晴の東京だった。いつもの“ちょっと、散歩”癖に揺すぶられ、リュックに水とミカンとタオルを入れて隅田川散策、サイモン&ガーファンクルの”Bridge Over Troubled Water”(明日に架ける橋)を歌いながら延々、川上へそしてまた川下へと歩いて一日を過ごした。歩いても、歩いても疲れを感じさせないリバーサイド・ウォーキング、川沿いや橋の下には、その上を忙しく行き交う車や人の世界やスピードと違うものがいっぱい転がっていて、色々なことを考えたり思ったり発見したりするのには最高なのだ。

ところで、この延長23kmの隅田川には、現在25の橋が架けられているのだから、隅田川の水上バスに乗るだけでも、橋の展覧会場をすべるようなもの。その昔、米蔵や酒蔵への物資運輸の大動脈として重要だっただけでなく、舟遊びやお花見などの遊興としても活躍し発展したこの川、その様は、多くの芸術家や文豪の作品にも登場すること多く、世界中の人々に知られている。また、2011年には、地上610mの電波塔“すみだタワー”が、言問橋や桜橋から程近い押上辺りに完成する。そのコンセプトは、「1.地域と共に活力ある街づくりに貢献・・・世界一の観光タワーを中心に地域社会の活性化」、「2.時空を超えたランドスケープの創造・・・隅田川を背景に日本の伝統的な美意識を活かし、情景や下町の粋な雰囲気との融合」、「3.防災面での安心と安全の提供・・・災害時に情報インフラとして社会的意義を発揮、地域の防災性能の向上に貢献する」という。あと5年もすると、川やタワーを登ぼったり下ったりする人の波とともに、隅田川周辺の彩りも変わるかもしれない。それでも変わらないでほしいものがある。それは、古くから江戸の人々に癒しと勇気を与えてきた“大川”の、美しくも雄々しい流れである。

友人に、隅田川散歩の話を自慢したら、逆にとても羨ましい話を聞かせてくれた。友人二人は、一人は隅田川の最下流の勝どき橋から、もう一人は最上流に近い桜橋からスタートし、二人が合流したのが新大橋、なんと偶然にも、それぞれのスタート地点から丁度8つ目の橋であったと。それだけではない、その友人曰く「川というのは方位学的にいうと愛情を示すものであり、川向に住む男女は結ばれやすい運命にある」んだと。だから、多くのドラマや小説に、この隅田川やそこに架かる橋が舞台とされるのだと。なるほどね、と、うなずいた。男女でなくても、人間の一生には「どぶ川」の時代や出来事がある。しかし、そこに架けられた橋が、向こうにある夢を形にしてくれるのだと信じたい。人はそんな風にして、明日に架ける橋を渡り続けているのではないだろうか・・・っと、呟くさくらの独り言。

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

随道の先は五月の山桜

雪渓に都会の靴が目をみはり

畳平 五月の雪に迎えられ

平成の世を信玄の湯に浸る

雪解けの水に元気な梓川

( ニュースやぶにらみ )

「景気、いざなぎを超えるか」
貧乏神も健在です ー格差社会

「石原都知事、続投発言」
ポスト小泉はないらしい −麻垣康三

「米産牛肉 輸入再会へ」
骨抜きだな −安全論議

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

 イスラエル紀行( 4 ) 
   途方もないジグソウ・パズル             
              森田のりえ
 海面下一三〇〇フィート。地球で最も低い所を観光バスは走っている。前方にヨルダンの山なみが霞んで見えた。
「向こうは、モーゼが一二〇歳で没したネボ山のあるモアブの地です」
 ガイドが説明する。蒼い湖面が見えた。死海の北岸である。バスは荒削りな丘陵を右手に、死海西岸の一本道を南下する。行き交う車はほとんどない。九・一一同時多発テロ以降、観光客が激減した証拠であろう。
 緑の茂りが見えた。キブツの経営するなつめ椰子畠らしい。死海を見下ろす小高い所でバスを降りた。クムランである。まず映写室に入り、遺跡を見る予備知識として、二千年前、ここに住んでいた共同体の様子を再現したビデオを観た。外に出た。強い日差しをうけて、小石を積み重ねたクムラン共同体の建物の遺跡が広がっている。
 水は? 食べ物は?  
 疑問は次から次へと沸いた。
 ガイドは私の疑問を先取りするように説明しはじめた。
「エルサレムに大雨が降ると、鉄砲水となって遺跡の背後にある渓谷に流れこみます。それを堰き止め、石灰岩の崖面を掘り抜いた水道トンネルによって水槽へーー」
 発掘作業をしている人が使う機械の音に、ガイドの声が途切れる。
「共同体にいたエッセネ派の人たちは、夜明け前に祈り、五時間労働をし、その後清潔な腰布を身につけ、水浴という潔めの儀式を毎日していました」
 その説明に一人の女性が質問した。
「たくさんの人たちが入るから水は汚れ、清い水とは言えなかったでしょうにーー」
「いい質問です。では、どのような水が『清い水』なのかといえば、ユダヤ教――」
 機械音にガイドの声がかき消された。
 
 一九七四年の初春『死海文書』という考古学上貴重な文物が、ここクムランで、羊飼いの少年によって発見された。ちょうど今ごろの季節であったのだろうか。
 羊飼いの少年は、迷った山羊を探してクムランの崖をよじ登っていた。と、崖面に大きな穴を見つけた。少年は、穴の内部を覗こうとしたが、そこからは見えない。逃げた山羊を脅そうと穴のなかへ小石を投げた。すると、何かが壊れる音がした。悪霊を信じている少年は恐ろしくなり、逃げ帰った。だが、探検心を駆り立てられた少年は、翌日、友人を連れて戻ってきたのである。
 そこは小さな洞窟になっており、なかには、数多くの土製の壺があり、壊れたものや無傷の壺もあった。
 これが『死海文書』発見にまつわる発端で、イスラエルが建国される一年前。当時ここは、イギリス委任統治領トランス・ヨルダンと呼ばれていた。
 ほぼ二千年前に書かれた死海文書の巻物は、高さ二フィート、幅一〇インチほどの壺のなかに朽ちた布に包まれて入っていたという。
 その後、考古学的発掘がはじまり、この辺りにある洞窟から夥しい数の古文書が発見された。しかし、羊皮紙やパピルス、銅板などに書かれた古文書の多くは破損し、いくつかの巻物は隠匿され、また、燃料にされて永久に失われてしまった。
 死海文書の断片は『途方もないジグソウ・パズル』といわれ、カトリックの神父や学者によって解読がすすめられたのである。
 四番目に発見された洞窟の入り口が崖面に見えた。穴だらけ丘陵の斜面を見ていると、よくぞ発見されたと、感嘆せずにはいられない。そして、なぜ文書が壺に入れられたのか。彼らはどんなふうに生きたのだろうか、私の思いはいやが上にもふくらんだ。ミステリアスであった。
 
 バスは、クムランから南へ走った。
「みなさん、前方をよく見てください。山の中腹からスパッと切ったような台地があります。あれが『マサダの要塞』です」
 と、ガイドは説明をつづけた。
 ローマ軍に追いつめられたユダヤ人が立てこもったマサダの要塞も、二年間におよぶ執拗なローマ軍の攻撃と包囲作戦に補給路を断たれ、総攻撃に耐える見込みがなくなった紀元七二年、九六七人のユダヤ人は、生きて異教徒の辱めをうけるより、死を選んだ。その時、水道トンネルのなかに隠れていた二人の女性と子供五人は、大量自決を免れた、と。
 険しい断崖の上に築かれた要塞跡へはロープウエィでのぼった。
 風が吹いてきた。地球で最も低い所から吹く風は、心地よかった。眼下に見える死海を横切れば、数マイル向こうはヨルダンである。
 突然、空を切り裂くような轟音が響いた。「あの音はーー」
 連れの友が言った。
「ファントムF・16に、間違いない」
 古い感覚の世界に、二一世紀が突如、侵入してきた。
               つづく

 

編集後記

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Zakkaya Weekly No.523

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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