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NO.518                Ryo Onishi              4/16/2006   

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河合さんの さくらの独り言 川柳 & コント 森田さんから ホームページ
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雑貨屋のひとり言

先週はよく雨が降りました。ようやく咲いた桜の花もほとんど散ってしまいました。それにしても桜の花は短い命ですね。コートもマフラーも要らず軽くなって春を実感できるようになりました。
携帯がどんどん進化していきます。音楽携帯、お財布携帯、ラジオつき携帯、ワンセグTVが観られる携帯などへと発展しています。携帯なしでは生きていけない人がいるのではないでしょうか?そういう人は無人島に行くときでも携帯は持って行くのでしょうね。(R.O.)

新 東 京 タ ワ ー

日本からのニュースによると日本首都圏各地の誘致合戦が繰り広げられていた新東京タワー建設地は条件付ながら東京・下町の「墨田区押上・業平地区」に決定されました。

地上波テレビのデジタル化に伴い、現在の東京タワーに代わる首都圏向けの電波塔として高さ610メートル、2008年半ばに着工し、3年後2011年春の完成なのだそうです。

電波塔としてはカナダ・トロントにあるCNタワー(553メートル)が現在世界一ですが新東京タワーはこれを大きく上回ることになります。そして高さ350メートルと450メートルには展望施設が設けられる計画になっています。

建設予定地は東京都墨田区押上1丁目にある東武鉄道伊勢崎線の業平橋駅と押上駅に隣接する貨物操車場跡地であり、東武鉄道が500億円をかけ建設し、テレビ局が「店子」として使用するのだそうです。

墨田区押上1丁目とはまさに私の生まれた実家の住所です。我が家のすぐ近くで、東武電車の貨物駅や操車場のあったところで、私がまだ“ワルガキ”の頃の遊び場で、いつも遊び回っていたところです。東京・下町の荒廃の中で育った私にとって、時代の流れを感じます。あんなところが近い将来、日本の新名所に? と思うと不思議な気持ちです。

東京・下町は地盤もやわらかく、そんなものを作って本当に大丈夫?とも思い、またこのニュースを知った友人から「そんな高いものを立てて、羽田、成田などの飛行に悪影響はないの?」と聞かれましたが、その辺は専門家が当然調査済みなのでしょう。

「観光客誘致の起爆剤に」と各地で誘致合戦が繰り広げられてきただけに、この日の候補地決定の報に墨田区関係者は歓喜し、山崎(墨田)区長は「誠によろこばしい限りであり、心から歓迎の意を表する。・・」とのコメントを表明していました。私も生まれ故郷が大きく発展し、世界の墨田区になることに心躍る思いです。

でも一時の興奮からさめて平常心に戻って思うに、新タワーの完成で東京・下町の伝統の多くが消えるであろうことが容易に想像され気になります。

東京・下町は情緒の残る場所です。開発は大いに結構ですが、これで下町人情や風情がなくなるおそれがあり、少々淋しいことでもあります。

私は毎年5月から6月にかけて日本へ一時帰国しますが、昨年は浅草にあるホテルを宿としました。浅草は私の生まれ育ったところと隅田川をはさんだ対岸です。そこ(浅草)にひと晩泊まっただけで何か懐かしさがこみ上げてくるのを感じたのには驚きでした。一泊した翌日、浅草の裏道を歩いてみました。ありました、ありました。狭い道に鉢植えの花木を並べ、人情溢ふれるたたずまいは昔を彷彿とさせてくれました。下町風情がこれほど強烈に私を感動させてくれるものだと初めて知りました。

 少なくなりつつあるそんな下町風情が新東京タワーの出現でさらに消滅へ向かうのでしょうか。

【追伸】現東京タワーは昭和33年に完成した高さ333メートルのタワーです。建設工事期間中はちょうど私の学生時代で、東京から今のJ.R.横須賀線で横浜まで通っていました。日々タワーが上に伸びてゆくのを車窓から眺めていました。好奇心旺盛で新しいものが大好きだった私はタワーが一般公開された直後に友人たちと行き、展望台からの景色を楽しんだのを覚えています。特に遠くに富士山が見えいたく感動したことを昨日のように思い出します。
新東京タワーが完成し一般公開が始まったら、いろいろ言いつつも結局、真っ先に展望台に登ってみたくなる私です。

                     河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言「わっしょい」

佃公園の路面に散る桜の花びらの数が増えるごとに、大川(隅田川)一帯は“春うらら”へまっしぐら。河の流れも、鳥のさえずりも、若葉の色も、空の色も、風のかほりも、そして人々の歩みも、“新生”の季節。江戸・下町の春である。下町の春は、祭りの準備で始まると聞いたことがある。それぞれの町では、町会、商店街、自治会、神輿会が、神輿の蔵出しの有無から、担ぎ手や組の調整、開催費の調達などの追い込みに入る。にぎやかなでたのもしい祭り開催の裏には、沢山の人の手と苦労がある。これこそ、「わっしょい」・・・“和を背負う”のである。

祭りの掛け声で使われるこの「わっしょい」の語源には、“和上同慶”の和上(わじょう)が変化した、和を背負う、和と一緒、輪を背負う、など諸説ある。「和」か「輪」かの議論は別にしても、いずれも、一緒に力を合わせる“掛け声”であることには違いない。祭りや神輿担ぎの掛け声には、この「わっしょい」の他に、「セイヤ」、「ソイヤ」、「オイサ」、「エイサ」、「コリャサー」、「チョイサ」、「ソレソレ」、「どうかい」、「オリャ・ウリャ」、「ヨイ・ヨイ」などと、祭りの数ほどの種類がある。江戸近郊、特に下町の神輿担ぎの掛け声は「わっしょい」が多い。神輿担ぎは、足並みを揃えられないと、足の踏み合い、肩の浮き沈みが発生し、ペースやコントロールを失ってしまうが、この掛け声とその拍子木の間が、神輿担ぎの調和と盛り上がりを作るための大きな役割を果たしているという。

ところで、和といえば、やはりチームを連想する。神輿担ぎもそうだが、プロジェクトチームにも「わっしょい」はつきもの。私が研修講師としてチームワーキングやビルディングのファシリテーションを担当する場合、まずチームダイナミクス、その発展段階の理解とチームロール(役割と影響)について説明することにしている。前者は、チームが形成され、本格的に稼動するまでには、4つの段階を経て発展するというタックマンの定義。個から集団、集団からチームに形作られる間には、結成、混乱、基軸、稼動というステージがあるということ。後者は、チーム発展段階チームワーク理論学者で有名なメレディス・ベルビンが説く「成功するチームの基本的な要因」、つまり理想的なチームには9つの役割を担う人が必要であるということ。プラント(創造力があり困難な問題を解決できる人)、リソースインベスティゲーター・資源探索者(外交的で熱中しやすく、好機を探る人)、コーディネーター(優れた議事進行者で、明確な目標を示し意思決定を促すことができる)、シャーパー・形作る人(挑戦的で、精力的に障害に立ち向かっていける人)、チームワーカー(協調性があり、もめごとを避けるタイプだが、人の話をよく聞き築き上げる人)、インプリメンター・実行者(有能で頼りがいがあり、アイデアを実行に移せる人)、コンプリター・フィニッシャー・補完的完成者(勤勉で誠実な仕事を納期通りに行う人。また自分や他者の誤りや手抜きにうるさい人)、スペシャリスト(特定分野の知識やノウハウをもつエキスパート)、そしてモニター(優れた戦略的判断力持つ人)である。これは、一人一役という人数に値するものではなく、仮にメンバーが3人であっても、人数に関係なく、より多くの役割を網羅しているチームほど、そうではないチームよりも成功する確率が高い傾向にあることを強調している。要は、チームの中で個々人が、担う、貢献する、他所との相互関係を作るという行動傾向をいかに調和できるかが、大きな成功要因になるということ。そこにも、和を背負い、一緒になることの掛け声、「わっしょい」が聞こえてきそうな気がする。

“永遠の歌姫”、“歌謡界の女王”と称される美空ひばりの歌に、「お祭りマンボ」という歌がある。TVやラジオの懐かしのメロディーでしか聞いたことのない曲で、自分には馴染みのない唄のひとつ。ところが、こうして江戸・大川(隅田川)沿いの佃島に住んで5年も過ぎると、この歌の歌詞もテンポも身近に感じるからあら不思議。この歌を練習してみようと思い始めた今日この頃だ。江戸で生活し、江戸で仕事をしながら、大川の風景に、仕事を供にするクライアントや自分が率いるチームメンバーに、そして自分自身に、今日も元気に掛け声をかけてみる・・・「わっしょい・わっしょい」・・・あとの祭りとならないように・・・っと、呟く、さくらの独り言。

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

人並みにあの泣き虫も反抗期

紙兜こんな元気な子に育ち

腕白でいいよと偏差値は言わず

足して2で割りたい兄弟の個性

父さんをいつか越せよと肩車

( ニュースやぶにらみ )

「小沢剛腕トウシュ」
コントロールがねえ −民主党幹部

「時価総額10分の1に」
ライブドアの話しか −赤字国債

「全店に業務停止命令」
この厳しさを見習おう −アイフル

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

連載     母と私(中)
                                               
 父が亡くなった翌年、七十三歳の母は単身でロサンゼルスの我が家にやって来た。
「まるっきり英語が分らなきゃ飛行機には乗れんのう」
 LAX空港に出迎えたときの母の第一声である。しかも誇らしそうにいった。
 当時、夫はシャトル支店へ単身赴任をしていた。仕事をしていた私は、家事や娘の世話をしてくれる人が必要だったので日本の母を呼び寄せたのである。母は、娘の幼稚園のイ−スタ−行事に私の代わりに出席しアメリカ人のお母さん方と卵探したと喜んだ。人前に出ても物怖じせず「あがることはない」という。母のそのような性格は、十一歳までアメリカ教育を受けたせいか、天性によるものか分らない。我が家にかかってくる電話でも受話器をとる。例え、不充分な英語の受け答えであってもである。その勇敢さに私は舌を巻いていた。
「英語力が戻ってくる気がするよ」といい、ここに一年もいれば相当な英語がわかるようになるに違いないとうれしそうだった。
 だが、逗留が四ヶ月過ぎると、友達がいなくて寂しい。ハワイ経由で日本へ帰るといいだした。母はハワイ島の親戚へ寄って、生まれ故郷のマウイ島へ六十二年ぶりで訪れたのである。母の義兄が健在だったから甥や姪から大歓迎をされたことはいうまでもない。
 あのころ私は大変な親孝行をしたつもりでいた。が、いま振り返れば、なぜ一緒について行かなかったのか、よくぞ一人で行かせたものよと我ながら呆れもし、また、勇気ある母の行動に感心もする。
 
 私が義母の介護のために兵庫県の龍野市にある夫の実家にいたころ、
「母、倒れる」
の報せが届いた。母、九十二歳の時だ。
 庭の草むしりをしている最中に脱水症状で倒れていた母を、たまたま訪ねてきた近所の人が見つけ病院へ担ぎ込んでくれたのである。歳が歳だけに私は入院中の母を見舞う合間に、もしもの場合を考え、一人住まいの実家を片付けようとしたが、どこから手をつけていいのか途方にくれるほど散らかっていた。母にしてみれば、便利なように目の前に置いているのだろう。が、好き勝手に暮してきたその
有様を如実に知る思いがした。写経の紙片、旅行のパンフレット、老人クラブで習ったのであろう手芸品の数々。鴨居の上にはずらりと自作の押絵が掛かっていた。
 押絵とは、羽子板についているような立体的な絵で、江戸中期までは身分の高い女性の手工芸品だった。宮尾登美子の小説『東福門院和子の涙』の主人公和子姫( 徳川二代将軍秀忠の娘 )が押絵を趣味としていたというくだりがある。昔から、高貴な女性は侍女にかしずかれ自分では何もせず運動不足のため短命であった。だが、和子姫は働き者で、小鳥や鯉の世話、指先を使う押絵などをして日を送ったので、当時としてはめずらしい七十二歳という長寿を全うしたという。
 私は母の人生を考えた。
 明治に生まれ、大正、昭和と生きぬいた時代の人は、いまとは違い、何でもかんでも自分の手でやらねば生きていけなかった。朝起きれば、井戸から水を汲み薪割りをし煮炊きをする。着る物は自分で縫い洗濯をして子供の世話、その上に農作業があった。
 そのことを母に尋ねると、
「うちにはお婆さんがいたし、忙しい時は人を雇っていたから」
 と、苦にした様子もない。
 東福門院和子の手仕事に、働き者だった母をなぞらえるのはおこがましいが、その生き方は手先を使うことへの効能を信じさせる。
 話を戻す。母が退院した。近所の助け合いや老人福祉サービスがあるとはいえ、元の一人暮しをさせる訳にはいかず、かといって娘や息子の世話になりたくないという母は老人保健施設に入る道を選んだ。入所できるまでの間、私は母と広島の実家で過ごした。
 日米開戦、鬼畜米英といわれた時代に、アメリカ国民を兄弟に持つ母の心境はどうであったのか、広島に原爆が投下された当時の様子、ハワイにいた子供のころなど、母の来し方をじっくり聴いておきたい。しかし、しゃべろうとすると、これが最後になるかもしれない思いが先にたち、言葉より先に涙があふれそうになる。とうとう聞かずじまいで時間だけが過ぎてしまった。温泉旅行をし、話す機会は充分あったのに……。
 母は老人保健施設へ入った。
 私も家庭がある。いつまでも日本へいる訳にはいかず、義母も同じように老人保健施設へ入ったので帰途についた。
「郵便屋さんがくるのが楽しみです」
という母の手紙が届く。リュ−ウマチで曲がった指先に鉛筆をにぎり、一字一字考えながら書いたであろう母の手紙。あて先のスペルも間違ってはいない。手紙くらいで喜んでくれるのならお安いご用だ。せっせと書こう。遠く離れている私にできるのは、それくらいしかない。それから、できるだけ日本へ行くことにした。
 時に、母は九十四歳になっていた。
                                                                                         つづく

 

編集後記

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Zakkaya Weekly No.518

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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