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NO.517                Ryo Onishi              4/9/2006   

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河合さんの さくらの独り言 川柳 & コント 森田さんから ホームページ
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雑貨屋のひとり言

関西もようやく桜が満開になりました。ワイフと夙川の桜を観に行きました。天気はまずまずでしたが多くの人でにぎわっていました。桜の花は気持ちを和ませてくれますね。昨年と同じようにJR西宮駅から歩き、いい運動になりました。
阪神タイガースの金本知憲選手が904試合連続試合フルイニング出場世界新記録を達成しました。すごい記録ですね。インタビューで金本選手の野球やファンに対する謙虚な姿勢に感動させられました。(R.O.)

教 育 勅 語 (その2)

――― 前号よりの続き ―――
「教育勅語ってナニ?」と、いまどきの若者から聞かれそうですので、私も改めて国語辞典をひいてみました。次のように書いてありました。

【教育勅語】:明治天皇が国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明示するために下した勅語。明治23年10月30日発布。第二次大戦の終わりまで教育の基本方針を示すものとされた。――― 岩波書店、広辞苑(第二版)―――

 教育勅語は前記の通り、明治憲法(大日本帝国憲法)下の明治23年(1890年)に「明治天皇のお言葉」として国民に示され、敗戦後の昭和23年6月、新憲法下の国会で排除、失効されるまで日本国民の道徳と教育の目標とされたものです。

 明治憲法では、わが日本(大日本帝国)は天皇によって国は統治される(第一条)と規定され、また天皇は神聖にして侵すべからず(第三条)とも規定していました。その天皇が下したお言葉は絶対的な権威のあるものでした。

教育勅語が明治憲法の天皇主権主義(君主主権)に基づいたものであり、軍国主義の推進のため国家に忠実な人間の育成を目的としたことはその文章からはもちろん、成立の経緯(*下記注)をみても明白です。したがって戦後の現行憲法(日本国憲法)下では徹底的に排除されてきました。

しかし、前回も書いたごとく、私が調べた資料によると、現行の教育基本法の制定時(昭和22年)は「教育勅語の排除・失効」前であり、現行教育基本法と教育勅語は車の両輪のように互いに補完関係にあり、決してこの勅語は敗戦とともに排除されたのではなく、現行教育基本法制定されてからも更に一年余り道徳的側面の指針として生きていました。

要するに現行教育基本法は制定当時、教育勅語と共存し、民主主義、平和主義(基本法)、倫理・道徳(勅語)と役割分担し、両者が車の両輪として機能するようになっていたようです。

【*注】教育勅語立案、作成の経緯:そもそも教育勅語を立案したのは当時総理大臣であった山県有朋であり、彼が文部省に働きかけて「国民を教育する為の『勅語』を作成させたのがそのはじまり」とされています。山県有朋といえば、日本陸軍の創設者であり、徴兵令や軍人勅諭など明治の軍制の整備に努めた政治家兼軍人です。国家に忠実な国民を作り、強力な軍事国家建設のための教育を推進しようと意図したことは明白でしょう。

 以下は「教育勅語」の原文です。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
  御名御璽

                     河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言「 創るもの」

「『伝統は、守るのではなく創るもの』が座右の銘です」と語ったのは、某製造業オーナー社長のK.T氏、今年59歳。その会社の新入社員研修第一日目の冒頭、約1時間の社長訓話のクロージングの部分だ。一般的に、伝統を守り続けることに執着しがちなオーナー経営者が多い中、5代目社長のこの言葉は印象的で、同時に“創る者と物”について考えさせられた。この深い意味を持つ言葉よ、これからの会社を、これからの日本を、創る若者に届け・・・と、さくらは心の中で叫んた。

“ものづくり”に拘る製造業にとって、創る者と物は命だ。だから、真剣に人材育成に取り組みたいとK.T氏は説き、そのための人と資金の投資は惜しまない。形式的な入社式での社長による辞令書朗読はひとつの儀式、形として守らねばならないものとして位置づけてきた。それは今後も変わらない。しかしK.T氏は、『今年度は教育元年』と掲げ、新入社員研修を皮切りに全社的研修の見直しと改善プロジェクトを指示、そのひとつとして、入社式翌日から始まった新入社員研修の初日、社長自らが講師を担当、会社の変遷と同時にどのような時代でも貫かれてきた製造業の源流について熱く語った。こうした入社式以外に新入社員へ社長自らが講ずるのは、創業以来初めてという。それは創業者の孫であり、現社長でなければ語れない講話だった。それは、小さな町工場から今や社員5000人のグローバル企業へと成長した企業の展開に、「創る者と物」がちりばめられていた。その中の体験談、K.T氏の入社時、本社配属と期待していた自分、しかし実際は、机さえ与えられず、ただただ製造現場に立っていろと命じられたという。製造は現場からのスタートだとしみじみ知らされたと、K.T氏は当時を振り返る。これはどの業種でも同じこと、現場なくして「仕事」はありえない。

ところで、伝統を守るも創るも、やはり人だと痛感する今日この頃、日常の仕事・現場で、創る人と壊す人の二極化をまのあたりにすることが多い。どんな逆境・渦中にあっても、人や物事を、ひたすら“創る”ことに情熱を傾ける人。逆に、どんなに好条件・環境下であっても人や物事を“崩壊”へと導く人。この二つのタイプの要因となるものを考えてみると、前者には、愛、情熱、喜び、寛容、忠実、柔和などであり、後者は、敵意、闘争心、ねたみ、分裂分派、怒りなどのエネルギーが働くといえる。しかし、何であれ「創ることができる人」、それは創造力、つまり枯渇なき愛だと思う。

先日、民主党党首に選ばれた小沢氏はいつも「政権交代のために戦う」と言う。民主党に限らず、野党は政権交代をうたって当然ではある。しかし、国会議員の本来の目的は“国民のための国”を創ることではないだろうか。このことを、今一度国会議員は与野党誰しも認識して欲しいと日本人の私は強く思う。もし本当に、そのことが認識されていれば、膨大な国民の税金を使って開かれる国会のあり方、与野党の戦い方や内容は、今のそれとは全く違ったものになるはずだ。“壊し屋”で有名だった小沢氏が政権交代のために「私自身も変わる」と言明した。単に政権を取るという権力への欲望より、真に国民と国家への愛をもって明日の日本を創る変革へのトップランナーになれるかどうか・・・創ること、その力の源は愛、っと呟く、さくらの独り言。

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

1・ 1 1 ケータイの愛 安っぽい

オヤジもう歳だとカタカナ語に言われ

再就職まだエンジンは錆びてない

懐旧の酒に血圧しゃしゃり出る

古希までの貯金が喜寿を生きている

( ニュースやぶにらみ )

「全身全霊」
モンゴルの四文字熟語かい −フリーター

「世の中いろいろ」
ゴミの中から出て来たり、藪の中に入ったり − 一億円

「5年間で代表が5人に」
トカゲの頭切り −民主党

   (注・携帯電話のメールでは、あ=1、い=1 1)

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

連載     母と私(上)
                                               
「お母さん、わたしよ。わ・か・る?」
 ベッドから起きあがろうともせず、年とって落ち込んだ眼をしょぼつかせながら、ぼーっとしている九十九歳の母に、私は腰を屈め耳元で大きな声でいった。しばらく無表情な顔で私を見つめていた母が、私の名前を呼んだ。
「お母さんの好きなチョコレート、買ってきたわよ。食べてみる?」
 軽く頷いて起きあがった。少しだけ口に入れると、飲み込めずいつまでも口をもぐもぐさせている。そのうち口端からチョコレートが垂れてきた。慌ててタオルを添えティシュで拭く。表情に変化がない。いまにでも枯れた枝がポキッと折れるのではないか、そんな不安に襲われた。
 危ない、と思った。
 去年の六月、訪日したときはこうではなかった。もっとしっかりしていた。岐阜の老人養護施設に母を訪ねると、
「よう帰ってきたのう。みんな変わりはないねぇ」
 と広島弁でいい、にっこり笑いベッドから起きあがった。みんなとは、娘夫婦のことである。一昨年の秋、娘夫婦と三人で訪日旅行をした。アメリカ人の娘婿に向かって、
「Hi ! How are you」
と、母のほうから手を差し出した。おまけに「Please sit down」といったので娘婿は目を白黒させていた。レディ・ファートスの国で生まれ育った娘婿は、私と娘が立っているのに自分が座っていいものかどうか戸惑っているふうだった。そして母の口から、
「You look see Kyoto」
 という言葉が出た。
 ブロークン・イングリッシュにせよ、幼いころ覚えた言語は老いても忘れないというのは本当だと思った。

 母は明治三九年、移民の子としてハワイのマウイ島で生まれた。十一歳のときに父親が亡くなり、母親に連れられて父親の生まれ故郷である広島に帰ってきた。西暦にすれば一九一七年は第一次大戦中である。その時期、日米間に客船が運行していたかどうか。そのことを不審に思って、以前、母に尋ねるとこんな答えが返ってきたことを覚えている。
「あのころは、隣に行くような気持ちで日本とハワイを行き来していた」
 そうこうしているうちに遠縁に当たる父と結婚をした。十七歳の時だ。その翌年に母親が亡くなった。兄弟姉妹のいるハワイへ望郷の念を募らせたが、一人息子だった父にはできない相談だった。それに日本は「産めよ殖やせよ」と国が音頭を取っていた時代だから、母は十人も子供を産み、生まれ故郷へ戻りたくても帰れなかったのである。
「はじめは観光のつもりじゃったが、一ヶ月間も船に揺られて、船酔いがつろうてのう、ハワイへ戻る気にならなんだ」
 子供のころよく聞かされた。そして古い記憶箱から引きずり出すように「わたしの子供のころは」といって、あわあわと霞む遠い景色を語ってくれたものである。
「毎朝お母さんが長い髪を梳いて、服の色に合う大きなリボンを頭につけてくれた。同じ服を続けて着たことはなかったし、下着にまでアイロンがかかっていた。ハワイの家は水洗便所じゃったし、みんなでよくピクニックに出かけた」
 物資の不自由な戦後に育った私は、母の話を羨望の眼差しで聞いたものだ。そして最後に「若いときに苦労すると歳とって楽をする」と、慰めるように締めくくった。 
 母は五人兄弟の末っ子で育ったせいか自己中心的なところがあった。また、他人の眼をさほど気にしなかった。
「そんな生き方でいいのか。よく考えて行動しないと、やがて自分が損する」
 所詮頼る人も泣きついていく所もなかった母。何事も自分で判断し、どうするか自分で決めなくてはならなかった。じっと我慢し、自らの手で孤独をかみしめ、哀しみを埋める手だてをつくりつつ生きる以外に道はなかったのだ。そうした体験から出た言葉のように思えてならない。
 日本でお見合いをし、結婚に踏み切れない私に「気のすすまない結婚ならせんでもええ。結婚だけが人生じゃあない。幸い、アメリカのおじい( 母の兄)が来てもええいうとるから行ったらどうか。別の生き方が見つかるかもしれん。向こうはええ国じゃ。生活水準が違う。わたしだって日本で独りぼっちじゃったから、なんとかなるよ」と、渡米をすすめてくれたのである。
 あれから三五年、私は母と同じように生まれ故郷を離れ肉親からも離れた国で暮らしている。その時の責任を感じていたのか、訪日する度に私にいう台詞があった。
「アメリカへ行ってよかったと思うか?」
「そりゃ、向こうがいいわよ。私の性に合っているみたい。お母さんのお蔭よ」
 そう答えると、安堵したのかニコッと笑った。あのころの母は元気そのものだった。
                                                                                         つづく

ミナちゃんの決意            作:成岡 卓翁

   ミナちゃんのお父さんは日本人です。お父さんはインドネシアの大学で、インドネシア語を学びました。その時にアルバイト先でインドネシアの女性と親しくなりました。その女性がミナちゃんのお母さんになる人でした。
 お父さんは卒業して、インドネシアに支店のある日本の会社に就職しました。就職しても二人の交際は続き、益々仲良くなりました。
 しかしそんな時、会社から新しくタイに支店を出すので、そちらに転勤するように言われました。
 お父さんは会社の辞令でタイのバンコクに転勤しましたが、タイ語が分かりません。お父さんは頑張ってタイ語を勉強しましたが、なかなか思うように話せるようになりません。壁にぶち当たると、いつもお母さんの事ばかり考えてしまうのでした。そして、何通も何通もお母さんにラブレターを書くのでした。しかし、お母さんからは「ありがとう」という返事の手紙は来るのですが「私も愛しています」という返事はないのでした。

 お父さんは益々「これだけ僕が愛しているのに!」といら立ち、ついに一日休暇を取ってインドネシアに飛んで行きました。そして、お母さんの勤めている会社の門で仕事を終えて出てくるお母さんを待ちました。仕事を終えて同僚と出てきたお母さんはビックリしました。二人は工場の近くの海岸に黙って歩いて行きました。海岸に着いて堤防に腰掛けても、お父さんたちは話し合えないでいました。
 帰りが遅くなると家族が心配すると思ったお母さんが「今日はなぜ来たの?」と切り出しました。お父さんは「なぜ僕の気持ちを分かってくれないのだ!」と怒ったように言いました。そして「僕は君を愛している。だから僕は君と結婚したいんだ。いったい君はどうなんだ?」と聞きました。しかし、お母さんは「有り難う!有り難う!」と答えるだけでした。思いあまってお父さんは「君が結婚してくれると言ってくれなかったら、このジャワ海に身を投げて死ぬ!」と本気で言いました。
 そしたら、お母さんの目から涙が溢れだし、泣きながら「私の家族の宗教では、同じ部族の者と結婚する習わしになっていて、あなたとは結婚できないの‥‥」と説明したのです。それを聞かされてお父さんは、お母さんがなぜ「愛している」と言ってくれなかったのか解りました。そして、もう一つ大変なことを教えられたのです。
 お父さんはインドネシアはイスラム圏の国だから、お母さんもそうだと思っていたのですが、「私たちはインドネシアでは少数派のキリスト教徒で、それも厳格なクリスチャンの宗派の部族なんです」と話しました。二人は沈みゆく夕陽を見ながら言葉を失いました。
 しばらくたってお父さんは「それだけ君や君の家族が信じている宗教だったら、改宗してもいい、でも同じ部族にはなれないな‥‥」と悩んだあとの答えを言いました。また沈黙の時間が流れ夕陽は沈み、越すに越せない川のように暗闇が二人を包みました。

 もう帰りの飛行機の時間が迫ってきました。お父さんは後ろ髪を引かれる思いでバンコクに戻りました。しかし、寝付けないまま明くる朝、会社に出ても仕事が手に着きません。お母さんはお母さんで、お父さんが帰ってから食欲がなくなり、スマートな体がどんどん痩せていきました。その姿を毎日見ていたお母さんのお母さん(ミナちゃんのおばあちゃん)は心配でたまりません。
 一ヶ月後の日曜日にお父さんはまたインドネシアに飛んでいきました。そして礼拝から帰って来るお母さんを家の前で待っていましたが、先におばあちゃんが帰ってきました。そして、お父さんを見つけて「お願いですからこれ以上娘を苦しめないでください。あなたが本当に娘を愛してくれているのであれば、キッパリと別れてやってください。そうでないと娘はこのままでは死んでしまいます!」と泣きながら訴えました。
 そこまでお母さんを苦しめているのだったら「もうあきらめようか」と思ってバンコクに帰りましたが、心が晴れません。

 あきらめるにしても、お母さんの信じているキリスト教を直接見てみたくなり、バンコクにある同じ宗派の集いに行ってみました。そこはホテルの一室を一日だけ借りて行われる礼拝でした。そこで見たものは神を信じる熱心な人々の姿でした。礼拝が終わり帰ろうとしていたお父さんを、呼び止める声がしました。その声は今までキリストの教えを説いていた牧師さんでした。
 「あなたは初めての方ですね。何か救いを求めに来たのですか?」と尋ねました。言おうかどうか考えていると「あなたは愛について悩んでいるのではありませんか?」とズバリ心の中を見透かされたようでした。そこで、今までの経緯を話すと「それは大変ですね。大変難しい問題ですが、あなたは神に試されているかも知れませんよ。よく考えて判断しなさい」と、答えのような答えでないような曖昧なアドバイスでした。
 それから一週間お父さんは悩んでから、自分の結論を持って次の礼拝に行き、礼拝の後牧師さんに自分から「彼女との愛を成し遂げたいと思います」と打ち明けました。すると牧師さんは「あなたは大変な方を選びましたね。その覚悟が本当なら、きっとイエス様はあなた方を助けてくださるでしょう」と笑顔で話してくれました。

 月曜日に会社に行っても、日曜日の牧師さんとの短いやり取りが、目の前を走馬燈のようにグルグル回って仕事になりません。ついに部下に「昼から休暇を取るが、いつ会社に出てくるか分からないが、宜しく頼む」と言って空港にタクシーで向かうのですが、いつも以上の車の渋滞が、何か今から始まる出来事が大変であるような予感を与えました。
 インドネシアのジャカルタの空港からタクシーで、今日はお母さんの働いている会社の門に向かいました。終業のベルが鳴りぞろぞろと従業員が帰っていきます。しばらくするとやせ細ったお母さんが同僚に支えられるように門に向かって来ました。そこでお父さんはひざまついて「ごめんなさい。あなたとどうしても結婚したくてやってきました。苦労をかけるかも知れませんが、一緒に結婚するために力を合わせてください」と涙ながらに訴えました。
 周囲の人たちは何が起こったのかビックリしながら二人を遠巻きに見ていました。お父さんの前に立っているお母さんの目から、大粒の涙がしたたり落ち、乾いた地面を濡らしました。そして、同じようにひざまつき「どうぞ立ってください。そして私と一緒に進んでください」と言って、二人は人目をはばからず抱き合いました。すると、今まで固唾を呑んで見守っていた同僚の間から、一人二人と拍手が起こり、みんなの祝福と激励の拍手が鳴り響きました。

 その出来事は、二人が家に着くまでにおばあちゃんの耳に入っていて、漁から帰ってきたお父さん(ミナちゃんのおじいちゃん)に伝えました。その話を聞いて「絶対に認めるわけにはいかない。こんなことを許したら部族のみんなに申し訳がたたない」と身構えていました。しかし、おばあちゃんは少し違っていました。自分が同族から嫁いで来たので、おじいちゃん以上に反対の気持ちを強く持っていましたが、昨日から考えを変えるようになっていたのです。それは、昨日の夕方にバンコクの牧師さんから密かに電話があり、「ひょっとしたらお父さんがインドネシアに向かうかも知れないが、神様の定めと思って受け入れてやってはどうか」という話だったのです。

 家にたどり着いた二人は玄関口でぬかずき「お願いします。お願いします!」という言葉を繰り返すのでした。奥の部屋に居るおじいちゃんは、入ってきたら一括のもとに追い返してやろうと思っていたのですが、戸口で何度も何度も「お願いします。お願いします!」を繰り返す二人の声に対応できません。その姿を見ていたおばあちゃんは「あなた、あの声が何の声に聞こえますか?」とおじいちゃんに尋ねました。けげんな顔をするおじいちゃんに、「神様の声と思いませんか?」と言うのでした。敬けんな信者のおじいちゃんは、自分の信仰心の弱さを見透かされたような衝撃を受け、神様に申し訳ないと思うと、涙が洪水のように溢れ出てきました。

 もう表はとっぷりと日が暮れていましたが、扉を開けたおばあちゃんの目には、お父さんとお母さんの姿に後光が注しているように見えたのでした。おばあちゃんに支えられて家の中に入れられた二人は、咽が枯れてもう声が出ません。黙っておじいちゃんにひざまずきました。
 その後、結婚式まで大変な出来事が起こったようですが、詳しくはミナちゃんには話してもらっていません。
 そして、お母さんと改宗したお父さんはめでたくバンコクで、日本からの駆けつけた友人やバンコクに住む日本人やタイ人の友人、インドネシアから来てくれた親戚や友人と教会で結婚式を挙げ、それからも仲良く日曜礼拝に通っています。

 そして、一年後にミナちゃんが誕生したのです。ミナちゃんの国籍はお父さんの国の日本で、なぜミナちゃんという名前になったかというと「みんなに愛される人になってほしい」とお父さんとお母さんが話し合って決めたのでした。
 誕生から一年、言葉を教えるのに思案したお父さんとお母さんは、お父さんが日本語を、お母さんはインドネシア語でミナちゃんに語りかけるようにしたのですが、ミナちゃんが最初に話したのはインドネシア語で、その次が日本語でした。しかしここはバンコクです、タイ語が話せないと困ります。

 両親はどの学校に行かせるか悩みましたが、やはり地元の学校に通わすことにして、一年生になりました。タイ文字から勉強するのですが、地元の子供たちとは差がついています。しかし、頑張り屋のミナちゃんは、高学年になるころにはクラスの中ほどまでいくようになり、そんな時に弟が誕生したのです。名前はサン君です。太陽にように輝く人になってほしいと思って付けたのです。
 ミナちゃんは中学に入るころにはトップクラスまでいき、クラスメートにはバイリンガルさから、日本語とインドネシア語を教えてあげるようになっていました。弟のサン君もミナちゃんのおかげで、最初に喋るようになったのはタイ語でした。

 しかし、ハイスクールに進学したミナちゃんは、自分が「誰なのか」を悩むようになりました。日本国籍ではあるのですが、お父さんの里帰りに帰国するだけで、日本に帰っても「お客様」みたいだし、お母さんと夏休みなどにインドネシアに行っても、やはり「お客様」で、タイに住んでいてもタイ人らしくない自分に、いい知れない不安に駆られるのでした。そこで大学進学は、比較文化論を専攻し、日本・タイ・インドネシアの研究をするようになるのでした。
 そんな中で、お父さんに「お父さんが自分の生まれた国で、世界に自慢できるものはなんですか?」と聞きました。お父さんはハタと考え込んでしまいました。日本に生まれて十八年過ごしましたが、もうすでにバンコクでの生活が二十年になります。日本人のようで日本人になりきれない自分を考えると、日本人としての誇りは無いのかと、真剣に考えるために三日後に答えを出すことにしました。

 そして、あらためて日本人の歴史や文化について考えてみました。日本人が長らくの間培ってきた、しきたりや作法、わび・さびといわれる美学や、伝統芸能や小は箸や器、大は木造建築など、また日本に帰った時に味わった、目の覚めるような吟醸酒の味やその製造技術の奥深さ。
 しかし、日本固有のものとしての良さは沢山あるけれど、世界の人々に訴える力のあるものが掴めないまま、三日目になってしまった。お父さんが困り果てていた時、テレビのニュースで首相の靖国神社参拝を非難する韓国の声明が流れました。
 お父さんはA級戦犯を合祀しているのも問題だが、戦争を美化するような施設を持っている靖国神社に、一国の長たる首相が参拝することは、隣国のみならず日本国民に対しても許せないと考えました。そこでこれだとお父さんはひざをたたきました。

 そこにアルバイトから帰宅したミナちゃんにお父さんは言いました。「日本が世界に誇れる答えが見つかったよ。それは日本国の平和憲法だよ!」と。ミナちゃんは比較文化論でも日本の憲法を勉強したことがあったので「それは絵に描いた餅ではないのですか?」「現に戦力は持たないと書いてあるのに自衛隊という世界でもトップクラスの軍隊を有しているではありませんか。戦争を解決する手段として、軍事力を行使しないとあるのに、アメリカに同調してイラクに派兵したりしているではないですか!」「そんな本音と建て前の違う国の憲法が自慢できるのですか?」と疑問を投げかけました。
 するとお父さんは、「確かに書かれていることと、日本国政府がやっていることには矛盾がある。しかし、血と血で洗うようなことで、平和な世界がやってくるだろうか。原子力爆弾の唯一の被害国であり、また大量の殺戮を繰り返して、アジアの人々始め、世界の人々を殺した日本の軍国主義の反省から作られた憲法は、正に平和宣言であり、解決の唯一の道を明らかにしたのではないだろうか。民族対立、宗教対立を助長したり、利用して多くの人々を殺して金儲けをしている国や企業を無くすいしずえとして、日本の憲法はあるように思う」と、遠く日本の方を眺めるように、窓の外に目をやったお父さんの目にはうっすら涙が光っていました。
 それを見てミナちゃんは、自分も日本人として平和憲法を名実共に生かされる日本国になるように、努力してみようと決意するのでした。そして、タイやインドネシアにも平和憲法が根付けるように、活動してみようと思うのでした。

編集後記

プロ野球、セリーグは巨人が見違えるほど強いチームになりました。これで阪神・巨人戦が面白くなります。
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Zakkaya Weekly No.517

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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