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NO.516                Ryo Onishi              4/2/2006   

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河合さんの さくらの独り言 川柳 & コント 森田さんから ホームページ
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雑貨屋のひとり言

先週、久しぶりに伊丹−松山を往復しました。某航空会社を利用したのですが、整備の都合で帰りの便が欠航となり、別会社の便に変更しました。往きの某航空会社の飛行機の窓から見えたタイヤには溝がなくつるつるでした。着陸時、タイヤがパンクしないことを祈っていました。金曜日は川崎への出張があり、神戸空港からの便を利用しようとしたのですが満席で利用できず、新幹線を利用しました。いまのところ神戸空港は調子がいいようです。(R.O.)

教 育 勅 語 (その1)

 日本では今、教育基本法改正の動きが現実のものとなっているようです。現行教育基本法は敗戦直後の昭和22年(1947年)に決定され、以後60年にわたり日本の教育の指針としての役割を担ってきました。

この法律は戦中戦後の天皇主権、軍国主義教育への反省から民主主義、平和主義の教育を念頭に、個人の尊厳ならびに真理と平和を希求する人間の育成を期する教育をめざすものでした。

この教育基本法はその目的とするところでは一定の成果をあげ評価されるところですが、他方、最近の日本人の倫理・道徳感の低下、家庭や社会による子どもたちへの躾(しつけ)欠如、また学校におけるいじめや学級崩壊問題など精神面での問題に対し有効でなかったとの批判、反省の声が聞かれます。私も同感です。

なぜ、このようなことになってしまったのでしょう。米国においても同様な問題が多くあるので簡単に原因を特定できるものではありませんが、日本だけに限っていえば、私は戦後の教育基本法にも一因その原因があると思っています。

明治憲法のもとで天皇の勅語として下された「教育勅語」は明らかに帝国主義、軍事国家を作り上げるための方針として利用され運用されました。この発想は絶対に再生させてはならないものです。

しかし改めてその内容を整理してみると、一般的な人間としての倫理について「教育勅語」には『父母を大切にし、兄弟に友人に夫婦共にむつまじくし、友人を信じあい、慎み深く自分を見つめ、全ての人々に対して優しい心を持ち、学問を修めて業(職業)を習い、以って智能を啓発し、自らの才能を発揮し、自ら進んで公益を広め、世の中の努めを 果たし・・』と人間としてあるべき最低限の道を諭しています。

私が調べた資料によると、現行の教育基本法が制定・施行された昭和22年当時はまだ国会の「教育勅語の排除・失効」決議前であり、教育基本法は教育勅語ありきを前提として、勅語に欠けていた民主主義、平和主義の教育を強調したのが教育基本法であったようです。

現行教育基本法は教育勅語が失効した時点で、人の道を示す項目も追加されるべきだったのです。

そうすれば今の日本も多少は変わっていたのではないでしょうか。ただし、私は今議論されている改定教育基本法で「愛国心の涵養」を強制する項目にはいささか危惧を感じます。愛国心の定義が難しいからです。

愛国心とは国民だれでも自然に持つものであり、法律で押し付けるべきものではありません。法的に強制すれば、いつの日か時の政権に悪用され「政府に逆らうものは非国民(愛国者ではない)」とのレッテルを貼られるおそれがありえます。

最近日本からのニュースには日本国憲法と教育基本法の改定論議関係が多くなっています。私はこの機会にもう一度、教育勅語、教育基本法について自分なりに調べてみようと思い立ちました。

以下は私の「教育勅語、教育基本法」に関して各種資料(インターネット)からまとめたメモです。――― 次号へ続く ―――
                     河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言「 さいた・さいた・さくらがさいた」

『さいた さいた さくらがさいた。』とか、『はなこさん、はい。』で始まったのは、小学校1年生の国語の教科書、今から40年足らず前のこと。あの頃は、卒業式の頃に梅が薫り、入学式の頃に桜が散っていた。例年より10日遅い4月10日に開花した昨年の桜とは逆に、例年より10日ほども早い3月24日に開花した今年の桜。たったこの1年の間に、2週間もの開花時差を体験した桜の木は、どことなく戸惑いを隠せぬように見え、木全体の調和がいまいち。とはいえ、今年も私の誕生日に満開で祝ってくれる桜花、“桜花繚乱”の佃島である。

中央大橋を間にして川下に佃大橋、勝鬨橋、川上に永代橋と、隅田の川岸に連なるダイナミックな桜並木は、実に見事だ。その昔、大川(隅田川)を引き入れて作られた船溜り、赤い欄干の佃小橋から眺めるこじんまりした桜群も最高。小雨日和の今日は、風に吹かれてちらりと散り初めを迎えた。雨風に散る花に自分を重ねた辞世や座右の銘には、花を「桜」とするものが多い。「散るは桜、薫るは梅」、「風さそふ花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせん」、「花発(ひら)いて雨風多し」、「花謝(お)ち花開く」、「花開きて万人集い、花尽きて一人なし」、「落花粉粉雪粉粉、「静心なく花の散るらん」などなど。昔から、桜の潔い散り方に、日本の美学を重ねてきたのだろう。九州男児だった私の父は、自分の息子や娘(私たち)には男女問わず、「桜の花の如く」と言ったもの、侍の潔さ、日本人の美学だったのかもしれない。そんな父も、心筋梗塞であっという間に逝ってしまったが。

ところで、“教科書を教えるのではなく、教科書で教える”と意気込んでいた教員時代、今から25年ほど前の自分。確かに教える側はそうなのだが、自分の小学校1年生時代を振り返ると、やはり当時の教科書が頭に残っている。あれから40年足らずが経過した今も、この季節、『さくら さくら さくらがさいた』は口をついて出てくるのだから、恐ろしい。『さくら さくら さくらがさいた』が小学校一年生の国語の教科書から姿を消して久しい。その後は、時代と共に変化した就学前後のこどもの環境により、当然のことながら教科書内容も変化した。最近の小学校1年生の国語の教科書は、文字のない絵から始まるらしい。これは、昔は就学時にまず50音、ひらがなの読み書きを習得していた児童が、今は就学時には既にひらがなとカタカナの習得、そして漢字までも学習し始めているという実態の変化がある。また、国際社会化に伴う比較教育による想像力を重視する要項が強調された結果、小学校一年生の国語の教科書から文字が消えたケースもある。絵を観て想像し、日本語を発するというのが、入学した児童の国語の最初のページ。さらに、2002年4月以降、「総合的学習」または「国際理解」の時間という位置づけで、英語や英会話を教科としての導入している小学校が増加、今月も小学校英語教育の必須化の討議でニュースをにぎわせている。英語教育の導入により、減らされるものが日本語・国語の時間になるかもしれないとも取りざたされる今日、開花に戸惑いを隠せなかった今年の桜花のように、わが国日本の国語教育、日本の文化とその教育はどうなるのだろうかと不安な春でもある。

さて、今日の朝刊、日経新聞によると、4月1日、幕張に「さくら広場」が完成したという。約3万2千平方メートルの敷地に植えられた505本の桜も見ごろは9日辺り、幕張のビル軍を背景に桜の花が、無料で眺望できるのだそうだ。日本のどこそこで、いや、世界中のあちこちで、「さいた さいた さくらがさいた」と、歓びの声が聞こえる季節、やっぱり、桜花は日本の美、いいものだと酔いしれる。さぁ、雑貨屋の原稿も書き上げた、大川沿いの桜花をくぐって、いつものちょっと気ままな散歩にでかけようかな、っと呟く、さくらの独り言。

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

1・ 1 1 ケータイの愛 安っぽい

オヤジもう歳だとカタカナ語に言われ

再就職まだエンジンは錆びてない

懐旧の酒に血圧しゃしゃり出る

古希までの貯金が喜寿を生きている

( ニュースやぶにらみ )

「全身全霊」
モンゴルの四文字熟語かい −フリーター

「世の中いろいろ」
ゴミの中から出て来たり、藪の中に入ったり − 一億円

「5年間で代表が5人に」
トカゲの頭切り −民主党

   (注・携帯電話のメールでは、あ=1、い=1 1)

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

連載「夫と私 」  
                                               知らぬ間に( 26 )

 四月三日の朝、夫は食道癌で亡くなった。享年六十歳。癌の専門医が最初に宣告した通り「長くて一年」という期限を十一日ほど過ぎていた。
 夫も私も、治るという希望と、もうダメだという絶望の間を揺れ動きながらの闘病生活であった。夫は、ある時は覚悟し、家の経済状態や税金の申告など生活全般について事細かく私に教えてくれた。私たちは手を携えて死に臨んでいったような気がする。
「もし、先に逝ったら」
 私たちは健康なころから、このような話をよくした。
 夫は私より先に死にたがっていた。
 ひとり淋しく取り残されるのは耐えられない。オマエはたとえひとりになっても、余生を楽しく暮らせるだろうが、オレはダメだ。絶対にできないといい、
「オマエなぁ、男に騙されるなよ。気をつけろ」
 と、必ず付け足した。
「私が先だったら、再婚するといいわ。シァトル店で働いていたY子さん、あの人なら私も異存はないけれど、娘とも仲良くしてくれそうだから・・・・・」
 彼女はいま離婚している。半分は本気だった。夫もまんざらでもない様子だった。
 私たちはパロス・バルデス半島の海沿いの道をドライブするのが好きだった。そんな時、海に切り立つ崖の上から太平洋を眺めていると、
「オレの墓はいらん。海に撒いてくれ。アメリカへくるときに船できたから、海がいい」
 しかし、死の一ヶ月前、墓について夫の意見を求めると、
「近くある『グリーン・ヒル・セメトリー』へ埋葬してくれ」
 といったが、私は、それには従わなかった。
 三十年の結婚生活は多くの人たちに支えられもしたが、また、迷惑もかけた。私は、社会へ還元するつもりで墓を買う費用を社会福祉施設へ寄付しようと思ったのである。私たちは宗教的な人間ではない。葬儀の形にとらわれず、生前の夫を知る人々によって哀惜の濃いお別れ会にしたい。夫は、私と娘の記憶のなかで生き続ければいい。旅好きな夫のお陰で思い出もたくさんある。
 遺灰は海へ撒こう。
 たとえ墓を設けても、私が生きているうちは墓参りをする。だが、娘夫婦だけになれば、アメリカのどこに住むか、あるいは外国に住むかもしれない。そうすれば、無縁墓地になる。
 娘夫婦はそんな私の考えに「グッド・アイディア」だと賛成してくれた。
 夫の両親はすでになく、一人しかいない日本の義兄から、
「身体の調子が悪いので葬儀には行けない。そちらで好きなように」
と、返事がきた。
そのかわり、幼いころより夫と親しくしていた従兄弟夫婦がきてくれる。
私は夫の死に不思議と涙がでなかった。悲しむ余裕などなかったかもしれない。亡くなったのが朝の七時から八時十五分の間。ホスピスの派遣看護婦が九時過ぎにきて死亡を確認した。死亡書類に書き入れ、亡夫の使った吸引機や酸素ボンベ、薬などを片付けていると、葬儀社の人がきた。打ち合わせをし、支払いなど所用がたくさんあった。
午後一時過ぎ、遺体を載せた車は、美しく晴れあがった空の下を出て行った。
いつの間にか春になっていたことに、その時はじめて、私は気づいた。
                                                                                   つづく

 

編集後記

桜の開花、関東は満開ですが、こちら神戸・大阪はもうちょっとというところです。
なんで緯度の高い関東が早く、関西が遅いのか不思議です。

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Zakkaya Weekly No.516

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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