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NO.515                Ryo Onishi              3/26/2006   

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雑貨屋のひとり言

WBCの決勝戦は最高視聴率56%を記録するほどの注目度で、日本中を熱狂させてくれました。歴史に残るすばらしい試合でした。きっと皆さん、スッキリ気分になっておられると思います。この快挙の話題は当分続きそうですね。私たちに夢を与えてくれた日本チームとWBCに感謝したいと思います。(R.O.)

ワールド・ベースボール・クラシック

 「私は野球が好きになりました!」日本からのニュース・テレビで街頭の主婦とおぼしき女性がインタービューに答え、弾んだ声で叫んでいるのを見ました。

 第一回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)決勝戦で世界の強豪であるキューバチームを撃破し堂々のワールド・チャンピオンに輝いた日本チームに私も感激した一人でした。

アジア地区予選で韓国に次ぎ第2位となった日本チームはこちら米国へ渡り、それ以降の試合はアナハイム、サンディエゴといずれも私たちの住む南カリフォルニアで行われました。多くの在米日本人、日系人が応援に行きました。

私たち夫婦は球場まで足を運びませんでしたが、自宅でテレビならぬパソコンにしがみつき試合の経過に手に汗握る時間を過ごしました。

当地ロサンゼルスではWBCのテレビ実況中継はESPN(スポーツ専用有料テレビ)のみが行っていました。

我が家は有料テレビの契約はしておらず、通常の番組しか見ることが出来ないので、残念ながらテレビでの実況を見ることが出来ませんでした。その代わり、インターネットの速報で試合を見ていました。

ご存知と思いますが、コンピュータで「日刊スポーツ」紙を開き、WBC速報画面を開くと試合の映像こそ出ませんが、今の打者のボールカウントまで都度画面に表示され、試合の状況をリアルタイムに刻々と知ることが出来ました。

実際の球場での試合状況が映し出されるのではなく、また音声もなく、ただひたすら画面にリアルタイムの試合経過が表示されるで臨場感は皆無ですが、それがかえって自分たちだけの試合観戦になり、決して悪いものでもありませんでした。

結局、わが夫婦は対韓国戦(準決勝)、対キューバ戦(決勝)は試合開始から終了までトイレで席を外した(対韓国戦では加えて雨で中断した時間)以外はコンピュータの画面にはり付いていました。久々の感激でした。

 米国の大リーグでは毎年アメリカンとナショナル両リーグの優勝チーム間で米国No.1(正確には大リーグにはカナダのチームも含まれるので米国・カナダNo1.)を決めます。

こちらではこの決勝戦を“ワールド・シリーズ”、そして優勝チームを“ワールド・チャンピオン”と呼びますが、これからはWBCに“ワールド・シリーズ”、と“ワールド・チャンピオン”の名称を譲って欲しいくらいです。

 今回のWBCを通じて、「野球とはチームワークのスポーツだ」と痛感しました。米国代表チームは当然ながら全員が大リーガーの選手でした。日本チームはイチロー選手と大塚選手二人のみが大リーガー、キューバにいたっては大リーガー選手ゼロだったそうです。

年俸ウン百万ドルの選手を寄せ集めてれば勝てると思った米国はとんだ誤算だったと言えそうです。尤も米国の場合、日本、韓国、キューバなどと違い国をあげて熱を上げていたわけでなく、シーズンオフの余興程度の関心だったことも否めない事実でした。

今回、日本は韓国に1勝2敗、米国に0勝1敗と全体の勝率では決して1位ではありませんでした。日本チームの優勝はWBC運営方法が日本に有利だったとの指摘もあるようですが、これははじめから納得していた決まり(ルール)であり、日本の優勝はいかなる文句もつけられない立派な優勝であったと私は主張したく思います。

「私は野球が好きになりました!」ニュース・テレビで喜ぶ街頭の主婦の声が今回の日本チームの快挙に対する最高の祝辞だったと思います。
                     河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言「 世界一!」

万歳!、万歳!!、万歳!!!っと、テレビの画面に独り仁王立ちしての万歳三唱、きっとわたしだけではなかったと確信する。ワールド・ベースボール・クラッシック(WBC)でのキューバとの決勝戦、見事日本優勝、堂々世界一! 小さな部屋のテレビに映る海の向こうのベトコ・パークと、自分が居るこの日本列島全体が、「創り上げた!」という「ひとつ感」に酔い、感激と喜び湧いた。一人ひとりが、一つひとつを、同じ方向へ一つに導いた王監督のニックネームがONE(ワンチャン)なら、イチロウは一ちゃん、第一回の優勝にふさわしいワンワンづくしの世界一。あれから一週間、まだまだ興奮冷めやらぬ王大ファンのさくら・・・

王や長島が大活躍期に中学生だった私は、「野球は巨人」だと無条件に思っていた。日曜日の青春ドラマは野球中継の延長で見送りになるのが常、王がホームランを打つのが当たり前、きっとまた巨人が勝つんだと思っていた。男勝りのおてんば女子中学生だった私だが、野球にはそれほど興味のない時代だった。そんな自分が何故これほどまでに「王ファン」になったのか、これは好き嫌いもさることながら、私の知る彼の生き方、その誠実で堅実な人柄とそれを貫く監督としてのこだわりやチーム作り、一つひとつの小さな積み重ねと配慮、それに尽きる。リーダーシップのあり方は三人三様とはいうけれど、王のそれは、選手時代も今の監督時代も、「我(われ)が」ではなく、「我と諸君」の関係を共に創り上げるという信念と大胆でしかも謙虚な姿勢が、その魅力だと思う。九州の私の実家では、王が監督に就任した1995年から、ダイエーフォークス(現ソフトバンクフォークス)一色、76歳の母の元気の秘訣は、案外このワンチャンにあるのかもしれないとさえ思う。

王監督とWBCにおける日本チームの試合を振り返ると、孟子の「天の時は地の利に如(し)かず、地の利は人の和に如かず」を思い出す。天候などの諸条件よりも、結局は人と人の和が大切だということの証だったと。これこそが日本人の強みでもある。一方、有力選手を完備したドリームチーム(米国)の世界制覇プランは、「我(われ)」の強みが弱みになってしまった」という。日本チームのキャプテン格として、また最高のリーダーたらんと自覚し、チームメイトを鼓舞し続けたイチロウの眼を回想すると、高村光太郎の道程「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」ではなく、「僕らの前に道はある、僕らの後ろにも道ができた」と、叫んでいるように思える。

根っからの「王ファン」の私が、王について今でも忘れられないことが二つある。ひとつは、1980年の引退セレモニー。ピッチャーマウンド上で挨拶終了後、打席へ歩いて行ってバットを置き、続いて一塁ベースへ歩いて行きファーストミットを置いた。そして同時に引退する高田選手をマウンドに呼び、彼にも挨拶のチャンスを提供した。積み重ねとけじめ、そして自分と同僚、時と人を大切にする王の人柄だと、当時成人式を迎えたばかりの私は感激した。もうひとつは、サインを断ったことは一度もないというプロとしてのファンサービス精神、選手への指導にも徹底しているという。これは、王自身の少年時代、川上哲治といった巨人選手にサインを貰おうとしたが見向きもされない中、与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)から気持ちよくサインボールを貰えた実体験は有名だ。王は今もその与那嶺の野球人としての姿勢に倣っていると評されている。この与那嶺要氏は、偶然にも私の前職時代の先輩で直上司だったP・ヨナミネ氏のお父上でもあることから、接する機会も多かった。時に多数のサインをお願いしても、ファンサービスへの心意気は今も変わらず、現在、日本とハワイで野球少年育成に貢献しておられる。その与那嶺氏が一少年に渡したサインボールが、後の世界のホームラン王を育て、第一回WBC世界一の日本チームを導いたというのは過言だろうか。しかし、一つのサインボールが半世紀以上を経て、世界一へと実を結んだことは事実。これも、一つひとつの積み重ね、王の口癖「一つひとつの小さな積み重ね」なのだと思う。何事も、One by one・・・ワン、ワン、ワン・・・そうか、今年は戌年なんだ、っと呟く、さくらの独り言。

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

金の卵でした孵化する前までは

切り売りの笑顔が弾く計算機

舌下錠まだ逆転を諦めず

分別収集僕の肩書きはどっち

年金の脳に乾燥注意報

( ニュースやぶにらみ )

「3月21日」
東京で開花宣言 −気象庁
こちら満開 −王ジャパン

「安全への危惧」
骨抜き−PSE法、 骨付き−アメリカ産牛肉

「プロ野球(パ)開幕」
トウシュの足を引っ張るな −小泉首相、前原代表

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

連載「夫と私 」  
                                               温かい手( 25 )

 腹につけた液体食を入れるチューブの付け根から血が噴出した。
 局部をガーゼで覆い応急処置をした私は、以前から医師に勧められていた「ホスピス・ホームケヤー」に派遣看護婦を依頼した。すると、一時間後にはきてくれた。大きな酸素ボンベが届いた。看護婦は、気管切開をした夫の喉に酸素マスクを当て、モルヒネをスポイドで数滴舌の下に垂らし、出血したチューブの付け根を手当てすると帰ってしまった。モルヒネ投与で小康状態になった。一安心だ。姉と娘と私は交代で食事をすまし休憩をとった。夕方になって夫は「熱い、熱い、苦しい」といいはじめた。身体中から玉の汗が出る。汗びっしょりだ。バスタオルを持った私は夫の背中に、右側を娘、左側には姉が汗を拭きつつ身体をさすりつづけた。だが、いつまでも苦しみは治まらない。派遣看護婦に問い合わせると、モルヒネの量を倍にするようにいったが効果はなかった。後から考えると、もっと量を増やせば楽になったかもしれないのに、その時は思いつかないものである。
私たち三人は片時も夫の傍から離れることができない。私は、いつ誰がきても入れるように玄関のドアーを少し開けておいた。すると、
「入ってもいいですか」
 夫の友人が会社の帰りに立ち寄ってくれた。
友人は部屋へ入るなり棒立ちになった。
「森田さん・・・・・・・」
といったまま、無言で立ち尽くす友人に、
「あ・り・が・と・う」
 夫は精一杯の力で、吐く息でいうと手を合わせた。
 今夜は徹夜の介護になりそうだ。しかし、これでは三人ともぶっ倒れる。私は、夜中に交代してもらうつもりで姉と娘を休ませた。深夜三時だった。
もはやメモに書く力のない夫は途切れ途切れに何かいっている。口元を見ていると、
「オ・マ・エ・の・う・で・の・な・か・で・死・に・た・い」
 聞き取れない息でいった。
 モルヒネを口に入れる。明け方四時、連日の介護で疲れた私はとうとっと眠ってしまった。夢のなかで鈴が鳴っている。夫が呼んでいる。眼を覚ますと六時だった。
 苦しい。痰を取ってくれと夫が手まねで合図をした。
「もう、痰は出ないの、あなたの苦しみをどうしてあげることもできないのよ。ごめんね」
 といったまま、私は夫の膝の上に倒れた。
 一時間後に起きてモルヒネを投与すると私は、床に敷いたマットレスに崩れるように倒れ寝込んでしまった。電話の鳴る音で眼が覚めた。時計を見ると八時十五分。派遣看護婦からである。四十分後に行きますという。私は受話器を置き、夫を見た。蒼い顔をしてじっとしている。はっとして近寄った。顔を覗き込み名前を呼んだ。反応がない。手を取った。脈がない。気管切開した穴に耳をそばだて、息を殺した。スーともハーとも音がしない。
 私は、まだ温かい夫の手を両手で包み込んだ。
 時がきたのである。
 あれほど私の腕に抱かれて死にたいといっていたのに、独りで逝かせてしまった。最後のモルヒネを投与したのは七時だから、その時点で夫は生きていたのだ。あのとき姉か娘を起こせばよかったが、呼びに行く気力も私にはなかった。こんなことになるのなら、寝ないで一晩中付き添っていればよかった・・・・・・。
 
                                                                                   つづく

 

編集後記

今年ほどサクラの花の待ち遠しく思ったことはありません。でも私の住んでいる周辺はまだのようです。でももう春はそこまで来ています。
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Zakkaya Weekly No.515

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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