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NO.509                Ryo Onishi              2/12/2006   

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雑貨屋のひとり言

トリノオリンピックが始まりました。開会式はイタリアらしい趣向でなかなか凝ったものでした。中でも聖火点火の場面には驚かされました。日本選手の期待が高かった今回のオリンピックですが、はたしてメダルは取れるのでしょうか?
ケーブルTVで地上波デジタル放送が観れるようになりました。画質はとても繊細でいいのですが、録画が一回しかできないと聞いてちょっとがっかりです。(R.O.)

エクササイズ

  ビジネス現役時代の不摂生がたたり、私も“生意気にも”十数年前から血糖値、血圧、コレステロールが高くなり、生活習慣病と仲良く(?)一緒に暮らしています。嘗ては成人病と称していたこの病も最近は若年層にもはびこり、年齢とはあまり関係ない生活習慣に関する疾病とみられるようになっています。

 今から十数年前、急に咽喉の渇きを覚えるようになり、慌ててドクターの診察を受けたところ、空腹時の血糖値が何と330もあることが判明しました。一般に成人の場合、空腹時の血糖値が100〜120位を超えると糖尿病、または糖尿病予備軍と云われているようで、330などという高い値はとんでもない数字であり、この時ドクターから「即入院、要治療」を申し渡されました。

しかし、当時の私は企業の駐在員であり、自称「熱烈たる海外戦士」でした。これしきのことで戦場離脱など・・、と入院は断固拒否し、ドクターを説得して通常の生活をしながら治療することにしたのでした。

ドクターから薬を処方してもらい、食餌療法、運動療法の指導を受け実行することにし、今にいたっています。
 
肥満は万病のもとと言われますが、私もホーム・ドクターからまず体重の減量を指示されました。

あるときドクターから「次回の定期チェックまでに5ポンド(約2.3kg)減量してください」といわれ、「なあんだ、たったの5ポンド減らすだけでいいんですか?」といった趣旨のことを下手な英語で口答えしたところ、「あなたは今まで、それすら出来なかったではないですか!」ときつく叱られたこともありました。

7年前のある時は「次回の診察時までに血糖値が下がらない場合は、インシュリンの注射を毎日数回、自分で打ってもらうことになります。この練習用注射器セット自宅へ持ち帰り、オレンジを自分の身体と見立て、注射を打つ練習をしておいて下さい」などとも言われました。

 インシュリン注射の警告は、さすがに私にとってショックでした。そこで私は“身を入れて”血糖値対策を実施することにしました。

それまで中途半端だった食餌療法もまじめに取り組み、暴飲暴食は厳に慎み(企業の定年を迎え、義理のお付き合いが減ったことも幸いでした)、そして最も気合を入れたのが運動(エクササイズ)でした。

ビジネス引退者の私ですが、日中は何かとあわただしい身であるので、昼間のエクササイズ継続実行は不可能だったので、夜間に自宅でトレッドミル(ルームランナー)マシンを使ったエクササイズをすることにしました。

98年末のクリスマスの翌日、さっそく機械を買い込み私のエクササイズがスタートしました。以後7年余り、私は日本行きなどによる外泊日以外、風邪ひきや特別な例外日を除いて殆ど毎日1時間のトレーニングを欠かしていません。

就寝前の1時間はトレーニングの時間と決め、どんなに夜が遅くなっても(たまに午前様の帰宅の場合も)トレッドミルによるエクササイズを実行することにしています。

幸い、朝の出勤という義務から開放されていますので、午前1時であろうが、2時であろうが、翌朝早く起床しなくて良い身分である私はゆっくりトレーニングを実行出来るわけで、この点は恵まれており、ありがたいことです。

家の中でのエクササイズですので、見ているのは我が妻だけです。遠慮なく下着だけの格好でやっています。

1時間のエクササイズでパンツと肌着はまさにずぶ濡れ状態、絞らなくても沁みた汗がしたたり落ちそうな状態になります。

そこで濡れた下着を脱ぎシャワーを浴び、冷やした豆乳を大コップ一杯ぐっと飲み干す――― 最高に充実した一瞬です。

毎日1時間のトレーニングは私の場合、たいへん効果があり、その後体重が安定し、血糖値・血圧・コレステロール値も正常に近いものになりました。(尤も、ドクター処方の薬は毎日夜飲んでいます)おかげさまでインシュリン注射も今のところ未実行です。

人間はもともと、野山を駆けまわったり、田畑を耕したりして身体を使い労働するように出来ているようで、身体を動かさなければならない生き物であることを実感した次第です。

最初の頃は苦痛であった毎日のトレッドミルによるエクササイズも続けているうちに自分の日課の一部となり、最近では身体がエクササイズを要求し、実行しないと一日が終わらない気分になっています。

糖尿病のおかげでエクササイズを覚え、日課のエクササイズが身体に生命の充実感を与えてくれる。「一病息災」とはこんなことを意味するのではないでしょうか。
                     河合 将介(skawai@earthlink.net)

さくらの独り言「 義理チョコA」

昨日、「後期試験を無事終えましたので、美味しいもの(夕食)をご馳走してください」とメールをもらった。某大学に通う甥からだった。彼が九州から上京して以来この数年、数ヶ月に一度は、私の家でご馳走することにしている。甥は、今月16日から春休みを利用して九州へ帰省するというので、私は早速自分のスケジュールをチェック、空いていた日を提示した。ところが、なんと「その日はちょっと・・・」と甥の反応。大雨の日も雪の日も、ご馳走めがけて飛んできていた甥の、意外な今回の反応に驚いたが、自分に無関係な出来事を忘れていた自分に気がついた。そうそう、2月14日がバレンタイン・デー、うっかりさくらの独り言。

バレンタイン・デーについては、既に雑貨屋353号の「さくらの独り言」(2003年2月16日発行)にて言及済みだが、あれから2年経った今の自分も、日本独自の“義理チョコとバレンタイン・デー”を楽しめないでいる。これもひとえに、「女性が愛の告白をするなんてもってのほか」という、男尊女卑風習の強い九州で生まれ育った偏見と拘りなのだと、反省する。チョコレートや甘いものなどを好んで食べることも少なく、人間的・女性的甘さや潤いも乏しいのも、こんな世の中の流れに無頓着だからだと、自己指摘する寂しい今日だが・・・甥には、「そうだね、バレンタイン・デーだもんね、じゃあ15日にしょうか」と、“おとな”の叔母を演じてみせた・・・かっこいいぃ〜!来年は「バレンタイン・デー以外の日にしてね」と、甥に言ってやるつもりだ・・・かっこいいぃ〜!

ところで、バレンタイン・デーの習慣やイベント、さらにはその派生文化についての国別比較をしてみると、なかなか面白い。バレンタイン・デーの贈り物が、花やカード、ケーキやキャンディボックスである欧米に比較して、日本及びアジア諸国ではチョコレートや食べ物が多い。また、バレンタイン・デーのギフトの贈り主が女性というのは、なんと日本だけ、他の国々における贈り主は男性。私の在米時代、同オフィスで働くプロフェッショナル女性が、ご主人や恋人から届く美しい花束を歓ぶ光景や習慣があったことを思い出す。さらに、派生文化をみてみると、日本においては3月14日のホワイト・デーでは、マシュマロやクッキーを男性が女性へ返礼として贈り、続く4月14日のオレンジ・デーには、恋人同士がオレンジを贈り合う。私の知らない日本がここにも広がっている・・・。台湾ではこの4月14日、バレンタイン・デーからこの日まで何ももらえなかった男性がチャンジャン麺を食べるといい、これをブラック・デーというから、笑っちゃう。チョコレートと同じ色でも、中味も味も全く違うブラックだ。世界中で、このバレンタイン作戦はチョコレート業界を超えたコマーシャル・イベントとなりつつあるようだ。

今年46歳になる日本人の私にとってバレンタインといえば、やはりチョコレート、チョコレートといえばロッテではなく今は亡き父。大の甘党、チョコレートも大好物のひとつだった。頂き物はなんでも気前良く分けてくれていた父だったが、チョコレートだけは別。頂き物の中でもチョコレートは、量の多少に係わらず父の管理下、父の手からからのみ一個ずつ大切に分けてもらったものだ。そんなある日、私たちこどもたちは、父の目を盗みチョコレートの箱を開けてみた・・・甘〜いチョコレートのかほりがまるで玉手箱から舞い上がる煙のように漂い、私たちの顔は一斉にその箱へ吸い込まれた・・・っと、そこにはメモ紙が一枚、「見たな!」、父の字で書かれた文字だった。幼かった私たちが甘いかほりの中で凍りついてしまったのは、言うまでもない。今年のバレンタイン・デーも、義理チョコ1つ送ることなく過ごしそうだ。そして・・・美しい花束が私のオフィスに届けられるバレンタイン・デーはいつのことだろう・・・っと呟く、さくらの独り言。

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

信号を守ってライバルに抜かれ

追走をする健康という馬力

苦は楽の種を未だに蒔き続け

無位無官 尻に馴染んだ固い椅子

自己流を踊る 電池の切れるまで

( ニュースやぶにらみ )

「日本と北朝鮮の間」
ひん曲がっている −平行線

「学力低下食い止め策」
学習塾さんお願いします −文部科学省

「トリノ五輪」
金メダルで日本中を沸かせて欲しい −偽≠S点

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

連載「夫と私 」  
                 旧友(19)
 年が明けた正月二日、気管切開で声を失った夫を旧友たちが見舞いにきた。
 お金もなく定職もなかった結婚当時の私たちをいろんな面で助けてくれM氏、同僚だったF夫妻、新婚のころ我が家に二ヶ月間居候をしていたH君は、日本から家族三人できてくれた。
 夫が渡米したのは一九六五年、観光が自由化された一年後である。目的はオレゴン大学留学。留学といえば聞こえがいい。だが、内情は大変なもので、優秀な学生にでるフルブライトと違って奨学金があったとはいえ金銭面ですぐ底をついた。おまけに語学のハンディで二年目にして脱落してしまった。落ちこぼれたのである。いったん日本へ引き上げたが、アメリカの自由と豊かさを垣間見た青年は再び舞い戻ってきた。そのころ知り合った友人のM氏 は、すでに宝石商として頭角をあらわしつつあった。M氏は、夫にこういった。
「ロサンゼルス港には日本船がぎょうさん入りよるさかいな、船員相手に商売したらどうや、うちのロングビーチ支店ということでどうやろう?」
 まず身を固めるのが一番とM氏にいわれ、友人の紹介で知り合った私たちは結婚をすることにした。が、お金がない。夫は出勤するや否やイエローページをめくり近くにあるウエディング・チャペルに片っ端から電話をかけはじめた。幸い、その日の午後一時に予約がとれた。証人は同僚のF夫妻がリトル東京からかけつけてきた。結婚リングは、店の商品を拝借した。夫も私もジーンズにトレーナー姿で教会へ向かった。
 私は牧師のいう『結婚の誓いの言葉』が小鳥のさえずりのようにしか聞こえない。しどろもどろながら形だけの式をやっとの思いで終えた。ふたりとも日本の身内には事後承諾だった。
私たちはM氏のIDと援助でロングビーチ市に『観光とお土産の店』を構えたのであるが、それから四ヶ月後に全米港湾ストライキが三ヶ月続いた。それが終わると続いて全日本海員組合がコンテナ船合理化反対のストライキに入り三ヶ月も続き商売は自然消滅した。
再び港は活気を取り戻した時、M氏はまたもや援助の手をさしのべてくれたのである。
「もう一度やってみる気があるのなら、うちの商品を貸すから自分でやったらどうや?」
 私たちはリスクをかけず、商品を船に持ち込む行商をはじめた。日本は高度経済成長期だったおかげで商売は順調に伸び、資金もできた。自主経営にきりかえシアトル港とポ―トランド港に支店を出した。娘に恵まれ、夫の浮気の一つ二つがあって小競り合いもあったが、大事にはいたらず世間並みの家庭を築き上げた。
 海運業界も時代とともに変貌をとげ、外国人と日本人船員との混乗船による第二の合理化の波が押し寄せてきた。日本のバブル経済が崩壊した。湾岸戦争やロスアンゼルス暴動などがあり、しだいに不況風が吹き、日々、商売も芳しくなくなっていった。血眼になって働き続けた二十二年間を振り返り、なんとか生活の基盤もできたし。欲をいえばきりがない。このあたりでテを打つのが得策だと判断して一九九三年末で店を閉めた。夫は五十三歳になっていた。早すぎるリタイヤではあるが、ゆっくり、のんびりしようと考えたのである。
 M氏は大阪船場の呉服問屋の息子である。商才に長けている。商売を大きく広げ貿易などもてがけるようになっていた。同僚のF夫妻はレストラン経営でがんばっている。H君は、サンタモニカにあるGIAを卒業して日本へ帰り、当時としては宝石鑑定士のはしりになり活躍している。三人とも昔の仲間である。
H君が帰り際に、
「がんばれよ。な、ジイサン」
 夫の昔のあだ名でいった。
                                            つづく

 

編集後記

フィットネスボールを使って、家の中でバランスをとりながら腹筋をきたえることができます。70cmくらのゴムボールに乗ってバランスをとるのですが腹筋がないとすぐにバランスを失います。意外にいい運動になります。
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Zakkaya Weekly No.509

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              
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