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No.488          Ryo Onishi               9/18/2005   

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雑貨屋のひとり言

先週、家族四人揃って大阪で食事をしました。家でも四人で食事をすることが少なくなっているので、ちょっと貴重な楽しい時間を過ごせました。感謝!
この夏はクールビズでノーネクタイの人を多く見かけました(自分自身もそうでした)が、今年の冬はウォームビズでどんな風景になるか今から楽しみです。でも関西はちょっと秋らしい気候になってきところで、またネチっとした暑さが戻ってきました。ちょっと動くと汗だくです。もういい加減にしてもらいたいなー。(R.O.)

最 高 裁 判 決 下 る

 海外に住む私たち日本人が、日本の国政選挙において選挙区の選挙権行使を認められていないことをめぐり、国を相手に、選挙権行使などの確認と、慰謝料の支払いを求めた訴訟の最終判決が9月14日、日本の最高裁判所大法廷で言い渡されました。

結果は「選挙権を制限している公公職選挙法の規定は憲法に違反する」とされ、原告側の勝訴となりました。これで私たち海外在住者も日本にいる日本人の皆さんと同じように選挙権を行使できる地位にあると確認されたわけです。

今回の衆議院議員選挙では比例区のみにしか与えられていなかった投票も次回から選挙区選挙にも参加できそうです。

ようやく私たち海外在住者も選挙制度上、一人の日本人として認知された想いであり、また過去12年間、多少なりとも「在外投票実現」運動にかかわってきた一人として感無量のものがあります。

私たち原告団の主だった仲間たちは判決公判出廷のため日本でしたので、判決が下された直後の9月13日夜中(ロサンゼルス時間)ロサンゼルス留守部隊の私のところにも日本の読売新聞本社社会部から電話による取材があり、私も喜びの気持ちを語りました。

今回の最高裁の判断は、国に対しすみやかな法改正を強く求めており、これを受けて一日も早く国会が立法措置をとるよう願っています。

新聞報道によると、日本の最高裁が現憲法下で法律を違憲と判断したのは7件目なのだそうです。また、国会がある法律を作らなかったり改正しなかったりするという「立法不作為(怠慢)」について最高裁が違法を認めたのは初めてなのだそうで、そう言った意味でも今回の判決は極めて画期的な判決となりました。私たちが今から12年前(1993年末)にスタートさせた「海外投票制度実現をめざす」草の根運動がこのような司法(最高裁)の判断を引き出したことにつながり、日本の選挙制度の歴史に重要な1ページを加えたことになりました。

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草の根運動はじめの頃、私たちはロサンゼルス地域の日本人を対象に署名を集める活動をしました。

私も自宅近くの日系スーパー入口前で署名用紙を持って立ちました。運動二日目の日曜日の午後、たまたまショッピングに来た私の会社の米国人法務担当の女性弁護士に「こんなところで何やってるの?」と聞かれ、彼女に日本の選挙制度の実情を細かく説明するはめになり、その時この弁護士から「ここアメリカでは投票権の行使は最高に重視されている。これは民主主義以前の問題だ。あなたの国(日本)はまだその程度の国なのか」と言われ恥ずかしい思いをしたことがありました。

これからは米人に対しても私は胸を張って日本の選挙制度を説明出来ることになり、安堵しています。
                                             河合将介( skawai@earthlink.net

さくらの独り言中秋の名月

今週は、公私が重なった週末である。16日(金)は仕事で名古屋入り。偶然だが、最愛の姪(姉の長女)の婚約相手が名古屋の息子さんで、その婚約式と家族会が17・18日に名古屋市内で執り行われた。当方の出席は、福岡から姉家族と母、それに私、である。元来、出不精の母を、「この際、引っ張り出して東京見物させよう」と、姉との密議が功を奏して、母もしぶしぶ(内心は娘二人の親孝行に感謝しているのだが)話に乗ってきた、という次第。「ついでだから、大阪の弟にも会いたい」という母の申し出に従って、今日18日(日)の午後、母と姉、そして私の三人は大阪へやって来た。「今夜は十五夜お月さんだね、三人でお月見しようか」との母の言葉に、昨日からずっと母のご機嫌と体調を気遣っていた私は、急に“家族愛”が蘇り、「ねえ、ねえ、白玉のお月見団子を食べようよ」と、何十年ぶりかで甘えん坊の末っ子娘に戻ったものである。

「お月見」とは、旧暦の8月15日に月を鑑賞する行事のことで、「中秋の名月」、「十五夜」、「芋名月」と呼ばれていることは周知の通り。中国では、サトイモの収穫祭であったところから「芋名月」ともいわれるのだろう。日本には奈良〜平安時代に伝わって来た、とされている。お月見の風習は各地さまざまだが、団子、サトイモ、ススキのお供えが一般的のようだ。中には“お月見どろぼう”というのがあって、家々の軒先や玄関に供えられたお団子を、近所の子供たちが盗み食いをする、というもの。各家庭では、それを見越してお盆に山盛りのお団子を置いておく。多く盗まれる家が、縁起がいい、とも言われているが、真偽の程はわからない。南九州や沖縄などでは、十五夜に綱引きをする風習があり、私の故郷(熊本)でもそうだった。私たち母娘三人は、白玉のお月見団子をほおばりながら、遠き昔を偲びつつ家族の絆を噛み締める。真ん丸いお月様の暖かい光が、私たちの心をまん丸にした。

ところで、もう一つのお月見がある。「十五夜の月」が「芋名月」なら「十三夜の月」((旧暦9月13日、別名「豆名月」)がそれ。いずれも作物の収穫祭(感謝祭)がこの風習のルーツだろうが、「十三夜のお月見」は、日本古来(919年ごろ、醍醐天皇の御代)のものらしい。今年の十三夜は10月15日とされている。「十五夜の月」を見て、「十三夜の月」を見ないと“片見月”、あるいは“片月見”といって縁起が悪いという地方もあるとか。全国的にお月見の風習が少なくなって行く現代、ましてやビルの谷間で暮らす私などは、「十五夜の月」も「十三夜の月」も“月見ず”になってしまいがち。でも今年は母娘3人で「中秋の名月」を見たのだから、縁起をかついで(手帳の暦の)10月15日に「十三夜」と記しておこう。但し、満月が見られるかどうかはお天道様次第。

大阪の叔父(母の弟)の家で待ち合わせた、東京・新宿に住む叔母(母の妹)も合流して叔父の家族と共に、久しぶりの“団欒”を楽しんだ。父亡き後の我が一族は、母が大黒柱
的存在で、大阪の叔父、新宿の叔母も、それはもう皇太后に従うが如く母を大事に扱ってくれた。その甲斐あって、母の気分も体調も絶好調。「明日(19日)から、いよいよ東京だね。どこへ連れて行ってくれるの?」の問いに、姉と私は顔を見合わせニヤリ。これまで何回となく上京を勧めたのに応じてくれなかった母の変わり様に、私は、思わず胸が熱くなる。多分、姉も同じ思いだったろう。気のせいか、今夜の母は、4〜5歳若返ったようにも見える。それもこれも「十五夜お月さんのお蔭かな」っと呟く、さくらの独り言。

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

銭の音 今日はどなたを狂わせる

踏み絵踏む心にマリア抱いたまま

使い捨てカメラに老いを覗かれる

古池の主で終って悔い少し

ソーランソーランあれは幻 北港


( ニュースやぶにらみ )

「第二幕」
ワンマンショー ― 小泉劇場

「民主党惨敗」
岡田さんはよくやったんだけど ― 堀内巨人監督

「在外選挙権の制限は違憲」
一票ってそんなに大事だったのか ― 立法府

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

チェコ兵の帽子

 その日は、モハベ砂漠から吹いてくる熱風でロサンゼルス一帯は真夏に逆戻りしたような暑さだった。
 夫がリズミカルな音を響かロウモアで庭の芝生を刈っていたときだ。
「ヘイ、チャリー」
 通りがかった近所のフランクじいさんが声をかけた。チャリーというのは夫のアメリカ名で日本名は敏之である。
「おまえさん、いつからコミュニストの回し者になったんだい?」
 フランクはクソ真面目な顔をしていった。
 夫は、社会主義のシンボルマークのついたカーキ色の戦闘帽を被っていた。銀色のギザギサになった楕円形の真ん中に赤い星とハンマーに西洋鎌のデザインがあるチェコ陸軍兵士の帽子である。

 アメリカ人四十人ほどの観光ツアーに混じって私たち夫婦が東欧旅行をしたのは六年前の秋だった。ハンガリーからオーストリーへ、ウイーンを朝出発してチェコの首都プラハのホテルに着いたのは午後五時を過ぎていた。ホテルで夕食をすませた後、私はガイドブックとプラハの市街地図を小脇にかかえ「さぁ、早く早く、今夜しか時間がないのよ。明日の晩は『白鳥の湖』を観に行くでしょ。夜のカレル橋に立ってモルダヴァ河を眺めたいの、絶対に」といって、夫を急かした。なぜそれほどまでにカレル橋にこだわったかといえば、故人になった作家澁澤龍彦のプラハに関するエッセイを読んだからである。ぜひブラハを観たいと思った。スメタナ作曲の『モルダヴァ』を身体に染み込むほど聴いた。橋の両側の欄干にずらりと並んでいるという巨大な彫像、ライトアップされているという丘の上のフラッチャニ城。プラハのなかでももっともプラハらしい光景を私はこの眼で確かめ感動を味わってみたいと思った。
 夫とふたりで地下鉄に乗った。街の中心部で降り地下鉄を出ると、そこは幅広い道路のようなヴィツラ広場であった。一九六八年に起きた「プラハの春」事件のとき、ソ連軍戦車が撃った機関銃の弾の痕が国立博物館の建物に生々しく残っているそうだが、暮色に沈みかけた街からは、その痕跡も見ることはできなかった。
 聴きなれたアメリカン英語を話す若者、多くの老若男女が歩いていた。
 地図さえあればどこにでも行けるとタカをくくっていた私たちは、旧市街地の入り口で迷ってしまった。中世から洗浄や修復にはあまり手をかけてこなかったのだろう。長い歳月の間のすすや汚れで建物は黒ずんだ色をしていた。迷路のように入り組んだ石畳の小道。いたるところが工事中だ。道路標識もない。地図はなんの役にも立たなかった。道行く人に「カレル橋はどこでしょうか」と、夫が英語で尋ねた。通じない。地図を見せる。が、彼らも「ウーン」といったまま考えこんでいる。
 私たちがどこにいるのか、それさえ分らない。
 とりあえず勘で歩いていると広場に出た。街灯に照らされて彫像が見えた。ガイドブックを開く。十五世紀の神学者ヤン・フスだ。たしか、この角を曲がった辺りに、かの有名な天文時計があるはずだ。感覚がつかめてきた。右に曲がる。いやこっちだ、あっちだといっている間にどこをどう歩いているのか分らなくなった。と、とある路地から澄んだバイオリンの音色が聞えてきた。メロディは知っているが曲名が思い出せない。音色のきこえる方角へ進んでいると賑やかな場所へ出た。街頭音楽家を取り巻いている人々の間を縫って進むと、目前を見て、はっとした。
 カレル橋だ !
 ひっそりと静まり帰った橋の袂に立つ尖塔は夜霧に包まれ、尖塔のアーチの門をくぐると欄干に並ぶ巨大な彫像のはずだったのに……。目前の情景はなんとかけ離れていることか。むんむんする人いきれ、喧騒、橋の両側にずらりと並んだ屋台のお土産店。一昔前の家庭用品、陳腐なアクセサリー、似顔絵描きもいた。それらを冷やかして歩いていると、ブルー・ジンの若者が二人、半畳ほどの板の上に将校帽や兵士の帽子などを積み重ねていた。夫がひとつ手にとって、ひょいと被った。
「テン・ダラ」
 すかさず若者がいった。
「欲しいだよな、庭仕事に」といって、ポケットに手を入れた。
「だめよ。十ドルは高い。ドジャースの帽子だって十ドル前後でしょ」
 私は、片手を広げた。そのかわり、あんたたちをポロライド・カメラで撮ってあげるとジェスチャーで示した。五ドルで商談成立である。

 フランクじいさんにそんな話をした。すると、
「オレはチェコ生まれなんだよ。ワイフがテキサスで生まれたのでソ連コミュニストが入る前に子供とアメリカへきていたんだ。体制が変わりビザが下りなくなってオレひとりチェコに残された。ワイフがフランス製の冷蔵庫をコミュニストの幹部に贈ってやっとビザが下りた。そりゃ、あんた、酷いもんだったぜ、汽車を乗り換えながらウィーンに出てさ」
 と、苦渋の歴史を話してくれた。
 フランクが味わった苦しみを知るのは容易だが、心情を理解するのは難しい。
 チェコ兵の帽子は、旅の思い出とともに哀しい唄をうたいはじめたようだった。

      おわり    

  森田のりえ  noriem@JoiMail.com

 

 

 

編集後記

熾烈な優勝争いを展開していたセリーグは阪神タイガースの連勝と中日ドラゴンズの連敗でタイガースにマジックが出て2年ぶりセリーグ優勝が見えてきました。今の関心事はどこで優勝するかです。
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Zakkaya Weekly No.488

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
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