チェコ兵の帽子
その日は、モハベ砂漠から吹いてくる熱風でロサンゼルス一帯は真夏に逆戻りしたような暑さだった。
夫がリズミカルな音を響かロウモアで庭の芝生を刈っていたときだ。
「ヘイ、チャリー」
通りがかった近所のフランクじいさんが声をかけた。チャリーというのは夫のアメリカ名で日本名は敏之である。
「おまえさん、いつからコミュニストの回し者になったんだい?」
フランクはクソ真面目な顔をしていった。
夫は、社会主義のシンボルマークのついたカーキ色の戦闘帽を被っていた。銀色のギザギサになった楕円形の真ん中に赤い星とハンマーに西洋鎌のデザインがあるチェコ陸軍兵士の帽子である。
アメリカ人四十人ほどの観光ツアーに混じって私たち夫婦が東欧旅行をしたのは六年前の秋だった。ハンガリーからオーストリーへ、ウイーンを朝出発してチェコの首都プラハのホテルに着いたのは午後五時を過ぎていた。ホテルで夕食をすませた後、私はガイドブックとプラハの市街地図を小脇にかかえ「さぁ、早く早く、今夜しか時間がないのよ。明日の晩は『白鳥の湖』を観に行くでしょ。夜のカレル橋に立ってモルダヴァ河を眺めたいの、絶対に」といって、夫を急かした。なぜそれほどまでにカレル橋にこだわったかといえば、故人になった作家澁澤龍彦のプラハに関するエッセイを読んだからである。ぜひブラハを観たいと思った。スメタナ作曲の『モルダヴァ』を身体に染み込むほど聴いた。橋の両側の欄干にずらりと並んでいるという巨大な彫像、ライトアップされているという丘の上のフラッチャニ城。プラハのなかでももっともプラハらしい光景を私はこの眼で確かめ感動を味わってみたいと思った。
夫とふたりで地下鉄に乗った。街の中心部で降り地下鉄を出ると、そこは幅広い道路のようなヴィツラ広場であった。一九六八年に起きた「プラハの春」事件のとき、ソ連軍戦車が撃った機関銃の弾の痕が国立博物館の建物に生々しく残っているそうだが、暮色に沈みかけた街からは、その痕跡も見ることはできなかった。
聴きなれたアメリカン英語を話す若者、多くの老若男女が歩いていた。
地図さえあればどこにでも行けるとタカをくくっていた私たちは、旧市街地の入り口で迷ってしまった。中世から洗浄や修復にはあまり手をかけてこなかったのだろう。長い歳月の間のすすや汚れで建物は黒ずんだ色をしていた。迷路のように入り組んだ石畳の小道。いたるところが工事中だ。道路標識もない。地図はなんの役にも立たなかった。道行く人に「カレル橋はどこでしょうか」と、夫が英語で尋ねた。通じない。地図を見せる。が、彼らも「ウーン」といったまま考えこんでいる。
私たちがどこにいるのか、それさえ分らない。
とりあえず勘で歩いていると広場に出た。街灯に照らされて彫像が見えた。ガイドブックを開く。十五世紀の神学者ヤン・フスだ。たしか、この角を曲がった辺りに、かの有名な天文時計があるはずだ。感覚がつかめてきた。右に曲がる。いやこっちだ、あっちだといっている間にどこをどう歩いているのか分らなくなった。と、とある路地から澄んだバイオリンの音色が聞えてきた。メロディは知っているが曲名が思い出せない。音色のきこえる方角へ進んでいると賑やかな場所へ出た。街頭音楽家を取り巻いている人々の間を縫って進むと、目前を見て、はっとした。
カレル橋だ !
ひっそりと静まり帰った橋の袂に立つ尖塔は夜霧に包まれ、尖塔のアーチの門をくぐると欄干に並ぶ巨大な彫像のはずだったのに……。目前の情景はなんとかけ離れていることか。むんむんする人いきれ、喧騒、橋の両側にずらりと並んだ屋台のお土産店。一昔前の家庭用品、陳腐なアクセサリー、似顔絵描きもいた。それらを冷やかして歩いていると、ブルー・ジンの若者が二人、半畳ほどの板の上に将校帽や兵士の帽子などを積み重ねていた。夫がひとつ手にとって、ひょいと被った。
「テン・ダラ」
すかさず若者がいった。
「欲しいだよな、庭仕事に」といって、ポケットに手を入れた。
「だめよ。十ドルは高い。ドジャースの帽子だって十ドル前後でしょ」
私は、片手を広げた。そのかわり、あんたたちをポロライド・カメラで撮ってあげるとジェスチャーで示した。五ドルで商談成立である。
フランクじいさんにそんな話をした。すると、
「オレはチェコ生まれなんだよ。ワイフがテキサスで生まれたのでソ連コミュニストが入る前に子供とアメリカへきていたんだ。体制が変わりビザが下りなくなってオレひとりチェコに残された。ワイフがフランス製の冷蔵庫をコミュニストの幹部に贈ってやっとビザが下りた。そりゃ、あんた、酷いもんだったぜ、汽車を乗り換えながらウィーンに出てさ」
と、苦渋の歴史を話してくれた。
フランクが味わった苦しみを知るのは容易だが、心情を理解するのは難しい。
チェコ兵の帽子は、旅の思い出とともに哀しい唄をうたいはじめたようだった。
おわり
森田のりえ noriem@JoiMail.com
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