インディアン金貨
海に沈んだ金貨
ロサンゼルスの海の玄関口にサンペドロ湾がある。その海辺にへばりついている観光地『ポーツ・オブ・コヘル』へ久しぶりに行くと、赤いチンチン電車が走っていた。私はあの時のことを卒然と思い出した。
海に沈んだインディアン金貨。
あれは、日本の遠洋マグロ漁船が船員の休養と食料品の積み込み、給油などのためにサンペドロ港に入港していたころだから、二十年も前の春のことである。鮮やかなビンク色をしたアイスプラントの花が土手を覆っていた。
日本船員のお土産品を扱っている私の店に船の代理店から電話がきた。
「こんどくる船はメキシコ沖での操業を終えて一年半ぶりに気仙沼へ帰るから、みんなお土産を買いたいといっています。着岸と同時に船にきてください」
入港時間を見計らって波止場へ行くと、すでに漁船は長旅で疲れた船体をいたわるかのように船縁を波に打たれながらゆったりと停泊していた。船腹のペンキは剥げ落ち錆がシミのように浮き出て貝殻や青海苔が付着している。
税関、移民局、植物検疫などの検査が終わり、乗組員は代理店から渡された家族や友だちからの手紙をむさぶるように読んでいた。ある者は日当たりのいい甲板で、ある者はヘサキやトモなど好き勝手な場所に散らばり誰にも邪魔されずに一人の時間に浸っていた。私は、そんな光景を波止場から眺めていた。と、顔見知りの船員が、銅版色に日焼けした顔をほころばせながら近づいてきた。
「おばちゃん、元気スか!」
店の電話で日本の家族に電話をかけたいというのである。
「おっかぁとカタってさ、ガキの声をきくべェ」
それを聞いた他の船員が、オラもオラもと集まってきた。すると、
「おばちゃん、胸になにをぶら下げているンだべぇ? オリンピックのメダルみてえじゃねぇか。ピカピカ光ってよぉ、ちょっくら見せてくんろ」
若い船員がいった。その日私は、インディアン金貨のペンダントをしていた。これ母にもらった私の宝物ものよといって船員に手渡した。
「ハワイ生まれの母が父親にもらったのよ。私がアメリカへくるとき『困ったときに何かの足しになるかもしれない』といって母がくれたけど、タンスにしまっていてもしようがないからペンダントにしたの」
そして、私は船員にこんな話をした。
母の父親が亡くなり、母は十四歳のときに観光のつもりで母親につれられて日本へ行った。大正五年ごろだから、ハワイから日本まで二週間くらいかかった。船酔いで再びハワイに戻る気がしないうちに、遠縁に当たる父と出会い結婚し、そのまま日本へ居着いてしまった。ハワイに帰りたいと思ったけれど一人息子だった父にはできない相談だったと。
「おばちゃんのお母さん、それっきりハワイに帰らなかったのけぇ?」
私は返してもらったペンダントを首にかけながら、
「三年前に呼んであげたわよ。半年うちにいてハワイの親戚を訪ね……」
といったその時、首にはめたと思ったペンダントがするりと落ちた。拾おうと腰をかがめた目の前で、桟橋の板の隙間にああっという間に吸い込まれていった。運悪く、隙間にすぽっと入ったのである。
誰もが沈黙したまま私を見ていた。
しばらく沈黙が続いた後、「オラが潜ってとってやるよ」
と、若い船員がいった。
オイル・バースの持ち主の跡取息子であるハンサムなイタリヤ青年に話すと、首をふりながらこういったのだ。
「えっ、潜る? オーノー、この底には三メートルくらいの泥土が積もっているんだぜ。インポシブル!」
おわり
森田のりえ noriem@JoiMail.com
|