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No.486          Ryo Onishi               9/4/2005   

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雑貨屋のひとり言

アメリカ南部を襲ったハリケーンは想像を絶する規模で多数の犠牲者と被害が出てしまいました。災害救援にあたるはずの州兵がイラクに派遣中で、支援活動に障害が起こるというアメリカの矛盾が報道されています。はやく復興できることを祈ります。世界的に天災の規模が大きくなってきている気がします。日本も大型台風、そして大型地震が次から次とやってくるので人ゴトではありません。(R.O.)

 カリフォルニア・ロールその後

  前回の私の原稿「カリフォルニア・ロール」の中で、『・・アメリカでは高い離婚率と未婚者の増加のためシングル(単身者、独身者)が多く、一人で行っても話ができる SUSHIバーが人気であり、(略)日本食一般がロサンゼルス、ニューヨークなど大都市を中心に注目されているのだそうです』と書いたところ、ある人から『・・カリフォルニア巻きと御寿司屋のお話有難う御座いました。離婚が原因で独身者がふえて、一人でもところ。特に面白かったです。・・』とのコメントをいただきまさした。

米国、特にカリフォルニア州で離婚率の高さは有名です。先日、仲間内(日本人)のミーティングの折、雑談の中で私が「現在のカリフォルニア州では初婚者同士の離婚率は70%で、離婚者同士の再婚率も70%と聞きました。ということは、ここカリフォルニア州では街中で見かける夫婦の約半分は離婚経験者ということになりますね」と発言したら、ある人から「河合さん、あなた
が言ったことは古く、今ではもう半分以上になっていますよ!」と言われてしまいました。

世の中に夫婦が100組いれば100通りの考え方があり、それぞれに家庭の事情があるはずで、私は個人的には離婚を否定するものではありません。“バツイチ”(この言い方に大いに異議あり)も大いに結構、夫婦間の問題を他人が嘴を挟むべき事柄ではないと思っています。
 
先日、私達の詩吟の先生ご夫妻がめでたく金婚の寿(結婚50年)を迎え、祝賀会がありました。これはこれで素晴らしいことであり、私も不肖の弟子の一人として祝辞を述べさせていただきました。

50年も夫婦を続けた我々の先生ご夫妻に改めて敬意と祝意を覚えました。私たちも見習いたいものだと思いました。

祝賀会の席で、私は改めて自分達が結婚何年目であるか指折り数えて見ましたら、39年目でした。
 
以前にもこの欄で書いた記憶がありますが、夫婦と言うものは“愛”にあふれて結婚しても必ずしも“愛”だけでは長続きするものではないようです。 ――― ある人が言っていました。『夫婦生活は“愛の期間”の次には“努力の期間”があり、さらに“忍耐の期間”、“あきらめの期間”と変化するものだ。でも諸君、安心しなさい。それだけで終わるのではなく、最後には必ずお互い“感謝の時”がやってきます』と。
 
39年目のわが家の場合は今どの期間に該当するのだろう? 愛? 努力? 忍耐? あきらめ? 感謝?
                                             河合将介( skawai@earthlink.net

さくらの独り言長い月

暦はもう9月、旧暦では長月という。この長月には、夜がだんだん長くなる夜長月(よながつき)、もしくは雨が多く降る時季だから長雨月(ながめつき)の略だという説がある。残暑厳しい9月初旬とはいえ、初秋・新秋・新涼・清涼・孟秋・秋の七草などの季語を並べてみると、何となく夏の終わりが告げられ、豊かな実りへの期待感が膨らむ。長月には、そういえばもうひとつ、穂長月(ほながつき)の略だという説もあった。これだけなら平穏な長月ではあるが、この月はどうしても2001年9月11日の、あの忌まわしい米国のワールド・トレード・センター無差別テロ事件を想起する。私が日本に転勤したのが2000年。あの時点での転勤先として、カリフォルニア、ニューヨーク、そして日本のいずれかの選択チャンスがあったことを思い出すと、えも知れぬ戦慄を覚える。この9月は私にとって、長い祈りの月でもある。

さて日本では、9月1日は「防災の日」と定められている。1923年(大正12年)のこの日に起きた関東大震災の教訓を忘れないという意味と、この時期に多い台風への心構えの意味も含めて、私が生まれた年である1960年(昭和35年)に制定された。その1年前の1959年(昭和34年)9月26日に、愛知・三重両県を襲った伊勢湾台風は、死者・行方不明合わせて5,098人を出す明治以降で最悪の被害をもたらした。近年、台風の当たり月は9月に限らなくなり、昨年などは春から秋にかけて10回もの大型台風に見舞われ、日本列島各地は甚大な被害を蒙った。そして今、米国南部を襲ったハリケーン“カトリーナ”によってニューオリンズ市域の80%が水没(9月4日現在)、目を覆いたくなるような悲惨な被災状況が連日報道されているところである。

ニューオリンズといえば、水郷の湿った空気と心揺さぶるジャズの都。私は一度、そう、1990年の6月に訪れたことがある。ヨーロッパ風の美しい町並みが続くフレンチクオーターは印象深く、店の名は忘れたが、そこで初めて食べたケイジャン料理の味が今も忘れられない。フレンチクオーターの中心部にあるジャクソン広場の大道芸や、ストリート・ミュージシャンが奏でるロックンロールも素晴らしかった。えっ?ジャズではないの?と疑問に思ったが、ニューオリンズは、ロックンロール発祥の地でもある、と一緒に旅をした友人に教えてもらったものだ。映画「欲望という名の電車」の舞台となったバーボンストリートは、ジャズ・ライブのメッカ。生きたジャズの芸術的波が押し寄せて、連夜眠りを知らない町となる。その町が今、米国自然災害史上最大の被害を蒙り、被災者たちは飢えと恐怖に耐えながら救済を待つという、眠れぬ長い夜を迎えている。

「災害は忘れた頃にやってくる」とは、今や死語に等しいくらい、日本で、いや世界各地で自然災害が発生している。わずか100年の近代、人間は可能な限りの英知を駆使して科学技術の発展に猛進した。その間、科学技術万能の風潮は人の心を蝕み、自然の恩恵を忘れ破壊した。“災害は、忘れないうちにやってくる“ 自然災害に、私たちは、どう対処すればいいのだろうか。自然の怒りを鎮めることは難しい。自然の脅威の前には、人間の英知などひとたまりもないことに気づき、昔に還って謙虚に自然への畏敬の念を取り戻す社会環境を整えなければならない。それが、人の心をも取り戻すきっかけになるのではないだろうか。天災を完全に防ぐことは難しい。しかし、人災なら防げる。人の心をもって問題に対処すれば、戦争の愚は避けられるはず。いまだ大地震の傷跡が消えない新潟・小千谷やテロのニューヨーク、ハリケーンのニューオリンズ、そして戦火の治まらないイラクにまで思いを馳せる9月、過去の惨事に心を痛め、過去と未来に祈りを捧げ、そしてまた物思いにふける・・・9月を長月という、なんであれ長い月とはよくいったものだ、っと呟く、さくらの独り言。

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

振るだけの尻尾が退化せず残り

鬼の目の涙あいつも歳を取り

不器用に生きたね 膝が笑ってる

まだ夢に歳八掛けにした気負い

越えてきた修羅直球で勝負する


( ニュースやぶにらみ )

「ハリケーンの大被害」
人災はともかく、天災まで −ブッシュ大統領

「刺客候補者」
出したい人より出てくれる人 −小泉首相

「楽天が18得点」
元気が湧いてきた −泡沫候補

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

インディアン金貨
       海に沈んだ金貨


 ロサンゼルスの海の玄関口にサンペドロ湾がある。その海辺にへばりついている観光地『ポーツ・オブ・コヘル』へ久しぶりに行くと、赤いチンチン電車が走っていた。私はあの時のことを卒然と思い出した。
 海に沈んだインディアン金貨。
 あれは、日本の遠洋マグロ漁船が船員の休養と食料品の積み込み、給油などのためにサンペドロ港に入港していたころだから、二十年も前の春のことである。鮮やかなビンク色をしたアイスプラントの花が土手を覆っていた。
 日本船員のお土産品を扱っている私の店に船の代理店から電話がきた。
「こんどくる船はメキシコ沖での操業を終えて一年半ぶりに気仙沼へ帰るから、みんなお土産を買いたいといっています。着岸と同時に船にきてください」
 入港時間を見計らって波止場へ行くと、すでに漁船は長旅で疲れた船体をいたわるかのように船縁を波に打たれながらゆったりと停泊していた。船腹のペンキは剥げ落ち錆がシミのように浮き出て貝殻や青海苔が付着している。
 税関、移民局、植物検疫などの検査が終わり、乗組員は代理店から渡された家族や友だちからの手紙をむさぶるように読んでいた。ある者は日当たりのいい甲板で、ある者はヘサキやトモなど好き勝手な場所に散らばり誰にも邪魔されずに一人の時間に浸っていた。私は、そんな光景を波止場から眺めていた。と、顔見知りの船員が、銅版色に日焼けした顔をほころばせながら近づいてきた。
「おばちゃん、元気スか!」
 店の電話で日本の家族に電話をかけたいというのである。
「おっかぁとカタってさ、ガキの声をきくべェ」
 それを聞いた他の船員が、オラもオラもと集まってきた。すると、
「おばちゃん、胸になにをぶら下げているンだべぇ?  オリンピックのメダルみてえじゃねぇか。ピカピカ光ってよぉ、ちょっくら見せてくんろ」
 若い船員がいった。その日私は、インディアン金貨のペンダントをしていた。これ母にもらった私の宝物ものよといって船員に手渡した。
「ハワイ生まれの母が父親にもらったのよ。私がアメリカへくるとき『困ったときに何かの足しになるかもしれない』といって母がくれたけど、タンスにしまっていてもしようがないからペンダントにしたの」
 そして、私は船員にこんな話をした。
 母の父親が亡くなり、母は十四歳のときに観光のつもりで母親につれられて日本へ行った。大正五年ごろだから、ハワイから日本まで二週間くらいかかった。船酔いで再びハワイに戻る気がしないうちに、遠縁に当たる父と出会い結婚し、そのまま日本へ居着いてしまった。ハワイに帰りたいと思ったけれど一人息子だった父にはできない相談だったと。
「おばちゃんのお母さん、それっきりハワイに帰らなかったのけぇ?」
 私は返してもらったペンダントを首にかけながら、
「三年前に呼んであげたわよ。半年うちにいてハワイの親戚を訪ね……」
 といったその時、首にはめたと思ったペンダントがするりと落ちた。拾おうと腰をかがめた目の前で、桟橋の板の隙間にああっという間に吸い込まれていった。運悪く、隙間にすぽっと入ったのである。
 誰もが沈黙したまま私を見ていた。
 しばらく沈黙が続いた後、「オラが潜ってとってやるよ」
 と、若い船員がいった。 
 オイル・バースの持ち主の跡取息子であるハンサムなイタリヤ青年に話すと、首をふりながらこういったのだ。
「えっ、潜る?  オーノー、この底には三メートルくらいの泥土が積もっているんだぜ。インポシブル!」

      おわり    

  森田のりえ  noriem@JoiMail.com

 

 

 

編集後記

土曜日、近所にある沖縄料理のお店にワイフと行きました。ゴーヤチャンプル、ミミガーなど定番の料理を生ビールと泡盛で楽しみました。
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

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Zakkaya Weekly No.486

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              tenshu@zakkayanews.com