weekly
 

No.485          Ryo Onishi               8/28/2005   

 weekly

 

河合さんの さくらの独り言 川柳 & コント 森田さんから ホームページ
成岡流お酒 雑貨屋のひとり言 LA観光スポット 編集後記 バックナンバー
 .
雑貨屋のひとり言

 台風11号は関西をそれて東海、関東方面を直撃したようですが、みなさん被害はなかったでしょうか?大雨は困りものですが、水不足のところにはちょっと降ってもらうほうがいいのにうまくいかないものです。 アメリカ南部では大きなハリケーンが近づいていて住民が避難している場面が報道されていますが、なにごともほどほどがいいです。(R.O.)

 カリフォルニア・ロール

  日本料理を代表する“すし(寿司、鮨)”も最近では国際化が進んでいます。こちら米国西海岸では“寿司”から“SUSHI”へと変貌を遂げ、今では日系スーパー・マーケットだけでなく、ローカル・スーパーや会員制ディスカウント店でも“SUSHIコーナー”が設けられています。

 以前、私達の日本人勉強会グループのセミナーで「米国における“すし”レストランの現状」をテーマに取り上げ、ロサンゼルスで現地人を対象に寿司職人の養成学校(スシ・シェフ・インスティチュート)を創設した日本人を講師に招いたことがあります。

 講師の話によると、現在アメリカでは寿司を含む日本食がブームであり、全米で約7000軒の日本食レストランが営業しているそうです。

 アメリカでは高い離婚率と未婚者の増加のためシングル(単身者、独身者)が多く、一人で行っても話ができる SUSHIバーが人気であり、その上、健康食ブームにも乗り、日本食一般がロサンゼルス、ニューヨークなど大都市を中心に注目されているのだそうです。

 日本食レストランと言っても必ずしも日本人が経営しているとは限らず、日本人経営は全体の約30%であり、残りの70%は日本人以外が経営するもので、この比率はさらに拡大しているようです。

 日本食レストランが日本人以外の人々によって営業されることは、一面では日本食の国際化を示すもので悪いことではありませんが、他方、生(なま)ものが多く鮮度・調理・衛生面での配慮に欠ける店もあるようで心配が残ります。
 
 私のみるところ、米国の「日本食レストラン」には二種類あり、ひとつは主として日本人客向けの「日本料理店」で、もうひとつは現地人対象の「ジャパニーズ・スタイル・レストラン」とでも言うべきものです。

 当地ロサンゼルス周辺には日本人料理人を何人も抱え、店構えから内装まで日本国内の有名料亭を凌駕しそうな本格店(値段も超本格高価!)もあれば、名前だけのジャパニーズ・レストランも多数存在しています。店内の寿司コーナーも本格的なものから、酢めしでないご飯(というより“おにぎり?”)に具を乗せた程度のものを提供している店もあり多彩です。

 日本料理のうち寿司のみに限定してみても、最近は寿司ネタ(具)も新鮮な魚介類、卵焼きといった本来の材料を主とするものから、伝統にこだわらない“ヌーベルバーグ寿司”とでも言えるものまで広く出回っています。醤油でなく、マヨネーズで寿司をつまむ情景も決して珍しいものではありません。

 私の住んでいる地域にも日本人若夫婦の経営する寿司店がありますが、ここでは野菜、くだもの、天ぷら、マヨネーズなどを使い、形式にとらわれない“変形(創作)寿司”を提供していますが、実に新鮮味があり人気です。

 このような寿司屋さんは上記二種類のどちらに含めるべきか迷いますが、私はこれも新しい形式の「日本料理店」ではないかと思っています。
 
 “ヌーベルバーグ寿司”と言えば、その代表格は「カリフォルニア・ロール」と言えるのではないでしょうか。先日、私が日本へ行った際、東京だけでなく地方の山間地、漁港(長野県・諏訪、千葉県・館山)の寿司屋さんでも「カリフォルニア・ロール」がメニューに載っていたのには驚きました。寿司メニューの一つとして日本でも堂々と認知されているようです。
 
 一般的に「カリフォルニア・ロール(California Roll)」とは、“巻き寿司”の一種で、かに(もしくは蟹風味蒲鉾)、アボガド、きゅうり、マサゴ、煎り胡麻、マヨネーズなどを海苔で巻いたものを言います。海苔は“内巻き(裏巻きとも言い、海苔の外側を寿司飯で包む)”にしたものが多いようです。また胡麻やマサゴは外側からまぶします。
 
 「カリフォルニア・ロール」の誕生、命名者についてはいろいろな風説があるようですが、私の知るところでは当地ロサンゼルスの寿司店が発祥の地となっています。
 
 最近ロサンゼルスで発行された食の雑誌「美食Gochiso Magazine」(2005 春号)に「カリフォルニア・ロール物語」が特集されていましたので、以下その記事内容の一部を参照または引用し、ご紹介します。
 
 **********************************
 「カリフォルニア・ロール」は1964年、ロサンゼルスのリトル東京で生まれました。今でこそこの地域では数多くの日本食レストランが営業していますが、当時のリトル東京には寿司を扱う大型日本食レストランは三軒しかありませんでした。

 日本食材を扱う問屋さんもあまりなく、また今のように冷凍システムも発達していないため、新鮮な寿司ネタは日本の築地からドライアイス詰めにして直接空輸しでいたのでした。

 しかしそれではすぐにネタが底をついてしまいます。そこで地元で仕入れたスモークサーモンをネタにして色どりの辻褄を合わせるといった具合でなんとか凌いでました。
   
 「地元で入手できるネタで寿司を作りたい! しかも地元でなければ出来ないものを!」――― そこで考えついたのが「アボガドを使おう!」だったのです。でも、最初は“巻き寿司”ではなく、握り(寿司飯)の上にアボガド片を乗せた“アボガド寿司”でした。

 これが後に手巻き寿司になり、さらに巻き方も海苔の外側を寿司飯で包む“内巻き”へと変化していったのです。

 最初の巻き寿司の材料はタラバガニ、アボガド、細かく刻んだガリ(生姜)だったそうです。まだこの頃はマヨネーズを使うという発想はなかったようです。それでも味は抜群で当時から人気は上々でした。

 とはいうものの、当時は寿司屋へ来る客の大半は日本人駐在員、日系人、日本人留学生たちであり、日本人、日系人以外で寿司に興味を示すアメリカ人はまだまだ少数でした。

 1970年代に入り、ネタも試行錯誤の結果多彩になり、カニ、アボガド、ガリに加え、きゅうり、マサゴ、カニカマ、煎り胡麻、マヨネーズなどが加わり絶妙なバランスある食感が生まれ、ほぼ現在の形に近いものとなりました。

 名前も“アボガド寿司”から“アボガド巻き”、そして“カリフォルニア巻き(California Rolls)”となり、このアメリカ生まれのSUSHIが今では日本へも進出し、寿司の国際化に一役を果たす結果となっています。

 アメリカでは「カリフォルニア・ロール」をはじめ巻き寿司は“内巻き(海苔の外側を寿司飯で包む)”ものが多いですが、これは1970年代に寿司に興味を持ち始めた地元アメリカ人が海苔の持つ磯臭さ(生臭さ)を嫌うために工夫されたもののようです。

 さらに中身の具をたくさん詰め込むために海苔を内側、寿司飯は外側の方が巻き易いといったこともあったようです。私たち日本人にとって海苔が持つ新鮮な磯の香りも多くのアメリカ人にとってはフィッシー(生臭い)で不快というのも面白いですね。中には海苔を見て「これ何?カーボン紙?」そんな質問も飛び出すこともないとは限らないようです。

 日本食は健康的で、バランスが良く、その上盛り付けが芸術的であり世界に誇れる料理といえましょう。「カリフォルニア・ロール」はその日本料理ブームを最も盛り上げた功労者の一つと言うことが出来、世界にはばたく日本料理最大のヒット作と言えるのではないでしょうか。
(この原稿の後半部分は前述の通り、「美食Gochiso Magazine」(2005 春号)に掲載された「カリフォルニア・ロール物語」からその記事内容の一部を参照または引用させていただきました)
                                             河合将介( skawai@earthlink.net

さくらの独り言美少年

台風11、12号が引き連れてきた大雨が窓を叩き、その激しい音で目が覚めた。早朝の闇の中に、流れるように、そして突き刺すように、降り続ける雨を、窓越しにじっと眺めた。気がついてみると、窓ガラスに映ったそんな自分は、豪雨に立ち向かう武者のように仁王立ちになっていた。窓ガラスを隔てた二つの世界、暗く小さな部屋の中と闇に動く豪雨の世界が、時代と真偽の対照がひとつとなる。それは、小さな部屋に小さな自分が居る一点の現実と、遠き故郷に遠き昔流れた雨の事実が一本の線。腹底に力が入り、口をついてきた歌ひとつ。「雨は降る降る、人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂、しゃかほい、しゃかほい」。男に生まれてきたかった自分が憧れる世界の極地の歌、『田原坂』。

今は亡き父のルーツは、鹿児島だった。だから父には、西郷どんの血が、有形無形として流れていた。西郷隆盛教だった父の座右の銘は、『敬天愛人』、『天を敬い人を愛し、天を知り、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬるべし』だった。LA在住の井出さんの紹介で読み始めた池波正太郎シリーズに凝った話、既に過去のこの欄で書いたとおり。その彼の作品に、この西郷隆盛登場する数冊があり、今は亡き父の西郷隆盛教の真髄を知る思いになる。例えば、薩摩の唐芋サムライから無双剣で身を起こし、その豪剣は、あまりにも多くの血を吸ったので中村の本名は呼ばれず、人斬り半次郎と怖れられた。最後は賊将として西郷と共に殉じた我が国最初の陸軍少将・桐野利秋の半生を描いた小説『人斬り半次郎(賊将編)』。維新の功労者・我が国最初の陸軍大将・西郷その人の生涯を描いた小説『西郷隆盛』。そして、維新動乱に生き、剣豪・伊庭八郎、桐野利秋、西郷隆盛とも交流のあった直参の剣士・杉 虎之助の数奇な運命を描いた小説『その男(上・下)』などである。私が物心ついた時から耳にタコができるほど聞かされた我が父の口癖、「お前(さくら)が男だったらなぁ」が、私自身の願望も重なって、私の魂を震わせるほどに心芯に響いた。

ところで、我が国最後の内戦「西南の役」(1877年=明治10年〜12年)は、何故起きたのか。「西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である」と多くの史書に記されているが、「そうではない」と池波正太郎は真っ向から反論している。以下、池波の「西南の役」観・・・「征韓論に敗れ、野に下った西郷は、もはや軍人でも政治家でもなく、ひたすら自然の営みを愛し、高い所から人材を育てようとする教育者、文化人であった。再び武器をもって中央政界に踊り出ようなどという野望は、かけらもなかった。しかるに、明治政府は、西郷の全国的人望を怖れ、薩摩が軍事力を蓄え、明治政府を脅かすという架空のシナリオに怯えた。そして大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)、山県有朋らは24名の密偵を鹿児島に送り込んだ。西郷の周辺の耳に“西郷暗殺計画”が入った。西郷の腹心・桐野利秋、永山弥一郎、別府晋介、池上四郎、西郷小兵衛、それに西郷を校長とする私学校の生徒達数千人が挙兵を強く主張した。それでも西郷は、皆の憤りを鎮め、挙兵の愚を説いた。しかし、血の気の多い薩摩隼人の、明治政府に対する常日頃の反発、憤懣を抑え切ることは出来なかった。西郷は病身(肥大症)に悩まされながら、やむなく盟主を引き受けた。それでも西郷は、“戦争をしに行くのではない。東京の連中(明治政府の要人)に挨拶に行くだけのことだ”と言って、軍備を最小限にとどめさせた。西郷軍には全国各地の不平士族(ラストサムライ)たちが刀一本で集結した。結果的に、物見遊山に近い軽装備と命令系統が徹底しない軍隊組織が、田原坂以降の惨敗に繋がったのかもしれないが。歴史家は“西郷の征韓論”と言うが、彼は韓国を成敗・征服するなどという考えではなかった。かの国は、出来たばかりの明治新政府を日本の公式政府とは認めず、依然として徳川政権を日本国政府と思い、明治政府の外交をことごとく軽視・無視した。そのことに西郷は『おいどん行って、ちゃんと説明しもうす』と、あくまでも穏便な話し合い・平和交渉を主張した。それが、いつの間にか、征韓論になってしまった。口下手な西郷は、もはや大久保や岩倉たちに反論する意欲を失い、参議を捨てて鹿児島に帰った・・・・」。私が思うに、西郷隆盛という人は、あの大きな眼で遠く(日本の未来)を見据えていたのだろうか、彼が“朝鮮との緊密な友好関係の必要性”を説いてわずか20数年後に「日清戦争」が勃発、その背景(動機)は、支那(中国)が朝鮮半島を狙い、日本を脅かそうとしたことにある。日露戦争も然り。ロシアが南下政策をとり、朝鮮侵攻を企てた。朝鮮半島が奪われれば、日本が危ないことは、自明の理。明治政府は、話し合いでロシアの野望を阻止しようとした(日露和平交渉)。しかし、ロシアは、世界に誇る強大軍事力にものをいわせ、日本の低姿勢(穏やか交渉)を侮った。我慢の限界に来た日本は遂に「日露戦争」へと突入することになる。朝鮮半島の平和が、我が国の安全につながる状況(立地環境)は、今も昔も変わらない。そのことを西郷隆盛は見抜いていた、と私は思いたい。私の生まれ故郷である熊本には、西南戦争の舞台、“兵(つわもの)どもが夢の跡”である田原坂がある。田原坂の戦いの大半は冷たい雨の降り続く中で行われ、「薩摩隼人は天下無敵じゃが、一に雨、二に大砲、三に赤帽は苦手じゃ」と薩摩の兵士はこぼしたといい、結局この戦いは、長く降り続いた春の大雨直後の、多量な新兵器による官軍の猛攻撃で薩摩軍の負け戦に終わった。

明け方の暴風雨で目が覚めた日、火の国・肥後の血が私に歌わせる、『雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂。 右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱 馬上ゆたかな 美少年。山にしかばね 川に血ながる 肥薩の天地 秋さびし。田原坂なら 昔が恋し 男同志の 夢の跡。田原想えば 照る日も曇る 今宵忍ぶは 恋じゃない』・・・男に生まれてきていたら、絶対私は美少年、っと呟く、さくらの独り言。

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

わだかまり笑い袋の底を這う

無駄骨の今日を労る湯が溢れ

負けて勝つ術を覚えた痩せ蛙

年金の額が虎穴に近寄らず

謙譲の美徳が隅で埋もれてる


( ニュースやぶにらみ )

「クールビズに続いてウォームビズ」
大賛成  −百貨店

「首相の任期延長論」
人気次第  −自民党

「9月」
アツい日が続くでしょう −政界天気予報

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

逆を順にかえた人( 3 )
星野富弘氏の場合

              
 からし菜の花がロサンゼルス郊外の丘を黄色に染めはじめると、私は、星野富弘さんに手紙を書いたことを思い出す。
――イエス様、私のところでもイスラエルから来たからし種に花が咲きました――
「からし種」という詩の一部である。
 キリスト教とはまったく無関係だった私は、文面通り受け取っていた。ところが、友人に誘われ教会へ出入りするようになってから「からし種」とはクリスチャン信仰のたとえ話だと教えられた。
 私は自分の勘違いが滑稽で、そのことを手紙にしたためたのである。その数ヶ月後に本人に会えるとは思いもせず……。
 一九七〇年六月、星野富弘さんは群馬県の某中学の体育教師になって二ヶ月目、クラブ活動の指導中に頚椎を損傷し肩より下の神経が麻痺してしまった。入院中にキリスト教の洗礼を受け、口に絵筆をくわえ詩画を描き続けて三十数年。現在、日本だけではなく海外においても星野さんの『花の詩画展』は開催されている。
  私がはじめて星野さんの本に出会ったのはロサンゼルスに『富弘美術館を囲む
会』が発足した五年前のことである。
「これ、読んでみない?」
 友人に薦められた本は、草花をモチーフにした詩画集であった。生命力溢れる色使い、やさしい言葉で書かれた詩の奥深さに魅せられた。一枚の絵、一遍の詩を通して、心の奥にある「何か」を目覚めさせてくれた。
 誰かそばにいなければごはんも食べられない。重度障害の星野さんが詩と絵に楽しみを見出し、絵筆を口にくわえて書き描くようになるまでの記録『愛、深き淵より』
を読むと、私は涙をおぼえた。そこに辿りつくまでの歳月と精神力、また、ご家族にはどれほどの苦労があったか、想像に余りあるものがある。
 当時、たまたま訪日を控えていた私は、群馬県東村にある富弘美術館を訪れた。平日であったにも関わらず大勢の人たちで、ゆっくりと作品を鑑賞できなかった。けれども、映写室で映し出された電動車椅子の星野さんのメッセージに感動した。
「わたしは、けがをして、こんなことをいうのは申し訳ないけれど、ほんとう、ほんとうに、しあわせでした」
 苦難に遭ったことは益であったという星野さんに、私は、からし菜の花が咲くころ手紙を書いたのである。
 それから数ヶ月後、九、一一同時多発テロの起きた直前、日米サンフランシスコ講
和条約五十周年記念行事が行われた。その一環として花の詩画展が開催されることになった。星野さんご自身、はるばる太平洋を越えて来られる。私は、ぜひ会いたいと思い『囲む会』の人たち十数人とシスコへ飛んだのであった。
 幸い、テレビ・インタビュ直前の星野さんと直接話をする機会に恵まれた。私が手
紙を出したことを告げると、「すみません。返事が書けなくて」
 返事は微塵も期待はしていなかった。だが、もしも返事をいただいたなら、間違い
なく、手紙を額に入れて掲げ、朝晩の祈りを捧げているであろう。
「からし種は、イスラエルから実際に送られてきました。毎年うちの庭に咲きます。
もちろん信仰のことも兼ねて書きました」
 謙虚な物言いに、なにか話したいのだけれど軽々しく言葉が口をついて出てこな
かった。
 翌日、シティホールで行われた晩餐会会場でのこと。連れの友だちを見失った私
は、偶然、蝶ネクタイにタキシードを着込んだ電動車椅子の星野さんとその一行の傍にいた。ちなみに、車椅子は顎で操作できるものである。日本から元首相の宮沢喜一氏はじめ数人の政府高官、パウエル国務庁長官など錚々たる人たちの出席もあった。
 中央ホールの幅広い階段から、シルバーグレイのイブニングドレスを着た司会の女性が下りてくる。その後に正装に身を包んだ政府高官がつぎつぎに下りる。華やかなハリウッド映画を観ているような気分に私は酔っていた。星野さんを見ると、紅潮した頬で偉い人たちからの賛辞を受けている。
 逆境を順に変えた人の目は輝いていた。
 これから先、私がどんな不運に襲われるかわからない。その時、きっと星野さん
は、「大丈夫、乗り越えられるよ」
 そういって、励ましてくれるような気がしたのであった。

      おわり    

  森田のりえ  noriem@JoiMail.com

 

 

 

編集後記

もうすぐ夏休が終わります。今日、近くのショッピングセンターに行ったら、小さなテーブルでお母さんが子供の宿題を手伝っている光景を目にしました。人があまりいない空間をうまく利用しているなーと思いました。
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.485

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              tenshu@zakkayanews.com