逆を順にかえた人( 3 )
星野富弘氏の場合
からし菜の花がロサンゼルス郊外の丘を黄色に染めはじめると、私は、星野富弘さんに手紙を書いたことを思い出す。
――イエス様、私のところでもイスラエルから来たからし種に花が咲きました――
「からし種」という詩の一部である。
キリスト教とはまったく無関係だった私は、文面通り受け取っていた。ところが、友人に誘われ教会へ出入りするようになってから「からし種」とはクリスチャン信仰のたとえ話だと教えられた。
私は自分の勘違いが滑稽で、そのことを手紙にしたためたのである。その数ヶ月後に本人に会えるとは思いもせず……。
一九七〇年六月、星野富弘さんは群馬県の某中学の体育教師になって二ヶ月目、クラブ活動の指導中に頚椎を損傷し肩より下の神経が麻痺してしまった。入院中にキリスト教の洗礼を受け、口に絵筆をくわえ詩画を描き続けて三十数年。現在、日本だけではなく海外においても星野さんの『花の詩画展』は開催されている。
私がはじめて星野さんの本に出会ったのはロサンゼルスに『富弘美術館を囲む
会』が発足した五年前のことである。
「これ、読んでみない?」
友人に薦められた本は、草花をモチーフにした詩画集であった。生命力溢れる色使い、やさしい言葉で書かれた詩の奥深さに魅せられた。一枚の絵、一遍の詩を通して、心の奥にある「何か」を目覚めさせてくれた。
誰かそばにいなければごはんも食べられない。重度障害の星野さんが詩と絵に楽しみを見出し、絵筆を口にくわえて書き描くようになるまでの記録『愛、深き淵より』
を読むと、私は涙をおぼえた。そこに辿りつくまでの歳月と精神力、また、ご家族にはどれほどの苦労があったか、想像に余りあるものがある。
当時、たまたま訪日を控えていた私は、群馬県東村にある富弘美術館を訪れた。平日であったにも関わらず大勢の人たちで、ゆっくりと作品を鑑賞できなかった。けれども、映写室で映し出された電動車椅子の星野さんのメッセージに感動した。
「わたしは、けがをして、こんなことをいうのは申し訳ないけれど、ほんとう、ほんとうに、しあわせでした」
苦難に遭ったことは益であったという星野さんに、私は、からし菜の花が咲くころ手紙を書いたのである。
それから数ヶ月後、九、一一同時多発テロの起きた直前、日米サンフランシスコ講
和条約五十周年記念行事が行われた。その一環として花の詩画展が開催されることになった。星野さんご自身、はるばる太平洋を越えて来られる。私は、ぜひ会いたいと思い『囲む会』の人たち十数人とシスコへ飛んだのであった。
幸い、テレビ・インタビュ直前の星野さんと直接話をする機会に恵まれた。私が手
紙を出したことを告げると、「すみません。返事が書けなくて」
返事は微塵も期待はしていなかった。だが、もしも返事をいただいたなら、間違い
なく、手紙を額に入れて掲げ、朝晩の祈りを捧げているであろう。
「からし種は、イスラエルから実際に送られてきました。毎年うちの庭に咲きます。
もちろん信仰のことも兼ねて書きました」
謙虚な物言いに、なにか話したいのだけれど軽々しく言葉が口をついて出てこな
かった。
翌日、シティホールで行われた晩餐会会場でのこと。連れの友だちを見失った私
は、偶然、蝶ネクタイにタキシードを着込んだ電動車椅子の星野さんとその一行の傍にいた。ちなみに、車椅子は顎で操作できるものである。日本から元首相の宮沢喜一氏はじめ数人の政府高官、パウエル国務庁長官など錚々たる人たちの出席もあった。
中央ホールの幅広い階段から、シルバーグレイのイブニングドレスを着た司会の女性が下りてくる。その後に正装に身を包んだ政府高官がつぎつぎに下りる。華やかなハリウッド映画を観ているような気分に私は酔っていた。星野さんを見ると、紅潮した頬で偉い人たちからの賛辞を受けている。
逆境を順に変えた人の目は輝いていた。
これから先、私がどんな不運に襲われるかわからない。その時、きっと星野さん
は、「大丈夫、乗り越えられるよ」
そういって、励ましてくれるような気がしたのであった。
おわり
森田のりえ noriem@JoiMail.com
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