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No.479          Ryo Onishi               7/17/2005   

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雑貨屋のひとり言

3日連休いかがお過ごしですか?7月18日がなんで海の日なのかよくわからないのですが、久しぶりの連休でゆっくりできます。でも朝から暑いので、家にいるより会社のほうが涼しくていいと思っている方もいるのではないでしょうか?
福知山線に乗って伊丹のショッピングセンターに行きました。事故現場を通過するときはスピードが極端に落として運転しています。車両が激突したあのマンションが線路からずいぶん近いと思いました。(R.O.)

ロンドン・オリンピック

 北京オリンピックの次、2012年夏のオリンピックの開催地は、英国ロンドンに決定しました。
本命候補のパリ(フランス)を破りオリンピック開催を獲得したロンドン市民の歓喜の声がテレビに流れていました。

ところがその直後に突如発生したロンドン市内の同時多発爆発事件(テロ?)に水を差された感じで盛り上がりに欠けてしまったようですが・・。

 ロンドンは既に過去二回、近代オリンピックの開催地となっており(1908年、1948年)今度が三回目となります。

 1948年の第14回夏季オリンピック大会は第二次世界大戦直後の開催でした。(本来は1944年にロンドンで開催される予定だったものが戦争のため中止となり繰越となったもの)この時私は小学校5年生でした。

この頃、日本のスポーツ界で私達日本人の誇りは水泳の古橋(広之進)選手でした。日本大学在学中だった当時の古橋選手は同じ大学水泳部仲間の橋爪(四郎)選手とともに水泳400メートル、1,500メートル自由形で泳ぐたびに世界記録を更新し続けていました。

これらの快挙は敗戦に打ちひしがれ、自信喪失状態の日本人の心にともされた希望の灯りでした。

私は全盛時代の古橋選手の泳ぎを目の前で見たことがあります。小学校高学年時代の夏、私達はよく近くの隅田公園プールへ泳ぎに行っていました。

ある時、そこで古橋選手をはじめとする日本の競泳選手たちによる模範水泳があり、目の前で颯爽と水を切る古橋選手に感動したことを60年経った今でも鮮明に覚えています。

ところがその古橋、橋爪選手たちがロンドン・オリンピックに参加できなかったのです。敗戦国日本はこのオリンピックへの参加が認められていなかったのです。私も子ども心に悔しい思いをしたものです。

古橋、橋爪選手がこの時のオリンピックに参加していたら間違いなく金、銀メダルを獲得したでしょう。

現に古橋選手はこのロンドン・オリンピックとほゞ同時に開催された全日本水泳選手権大会での1,500メートル自由形で、オリンピック優勝者に40秒以上の差をつけた記録で泳いでいます。(この時も世界新記録でした)

ロンドン・オリンピックの次のヘルシンキ・オリンピック(1952年)から日本は再びオリンピックへの参加が認められましたが、既に全盛時代を過ぎた古橋選手は400メートル自由形競泳で決勝進出はしたものの8位(最下位)という成績に泣きました。橋爪選手は1,500メートルに出場、銀メダルでした。
 
よく「オリンピックで優勝することは世界記録を出すよりむつかしいことだ」と言われますが、国家の事情によって全盛時代にオリンピック参加を逸した古橋選手たちはこの言葉を別の意味で実証したと言えるのかもしれません。

 今回ロンドンで発生した連続爆発事件はテロによる可能性が高いと言われています。国境を越えた平和の祭典であるオリンピックの開催地に決定という時に発生した爆発事件は現代の不安定な国際情勢をよくあらわしているのかもしれません。

戦争、テロとは無縁な世界はいつ来るのでしょうか。
                                             河合将介( skawai@earthlink.net

さくらの独り言「 オ・ナ・ラ

自分がマスターしていない外国語を耳にした時、私はつい、自分の母国語(日本語)の同音異義語に結びつける癖がある。街頭で通りすがりの外国人の会話が耳に飛び込んできた時、テレビや映画で外国語の会話や歌が流れた時などである。また逆に、自分の母国語の語彙や節が、他の国の同音類義語・異義語はあるかと、友人の外国人に聞いたりもする。これは、自分が渡米した時のインターナショナル・カルチャルセンターでの多国籍人との交流や、言語学研究への参画経験が生んだ左脳反応習慣なのかもしれない。今回はその中から、「オ・ナ・ラ」。

テレビ嫌いの私だが、実は毎朝、起きてから出かけるまでの間テレビをつけている。つけてはいるが、消音にしている。テレビをONにすることの目的、つまり私のニーズはかなり明確で、時刻と特別大事件だけを知ることだからだ。そんなテレビ嫌いの私が、夢中になっている番組が二つある。ひとつは、週末のゴルフトーナメント。もうひとつは、毎週木曜日夜10時からNHK(衛星)で放映されている韓国ドラマ『チャングムの誓い』である。16世紀初頭の朝鮮王朝時代の宮廷内を舞台とした実在女性医師の物語。長々と続く権力争いと策略にうんざりもするが、屈しないその主人公の生き方の展開についつい見入る。そのうち、このドラマの主題歌が口をつくようになった。この歌を聞き取れなかったうちは、「♪ラララララララララァ♪」と、メロディだけを歌っていた。最近、この韓国語の歌を音としてとらえられるようになった。「♪オナラ、オナラ、ララララァ♪」。先日、仕事を終えてオフィスを出ようとした時、この歌を口ずさんだ。それを聞いた部下が驚いた顔をした。「さくらさん、今、なんて言いました???」。私は慌てて叫んだ、「歌よ!歌!!」。

ここにその歌を紹介してみよう。
作詞・作曲: イム・セヒョン
オナラ オナラ カジュオナ
カナラ カナラ アジュガナ
ナナニ ダリュド モンノナニ
アニリ アニリ アニノネ
ヘイヤ ディイヤ ヒヤナラニノ
オジド モタナ ダリュガナ
日本語訳: 張銀英 金賢珠
来てください 来てくださいと言えば 本当に来てくださるのでしょうか
行って下さい 行ってくださいと言えば 本当に行ってしまわれるのでしょうか
果てしなく待てど ふれることもできず
まるで羽があっても飛べない穴蜂のよう 愛しい気持ちを分かち合うこともできない
いいえ いいえ だめなのですね
愛しい人の愛は 私の気持ちだけではどうすることもできない
ヘイヤ ディイヤ ヘイヤナラニノ
愛しい人よ 来ることができぬのならば 私を連れて行って下さい」(NHK・HPより)

この歌は、三国時代の文献などを参考に、韓国語の古語をベースに作られたという。歌っているのは、3人の少女たち。この少女たちは、韓国古典芸能のひとつである歌う語り部の後継者でもあるという。その独特な発声とメロディが、この古語の歌詞の響きをなお興味深いものにしている。なぜか、このドラマに綴られる母国と母国語、歴史と先祖、叫びと祈り、誓いと決断、運命と希望、国土と文化、そして愛と憎しみが、この少女達の珍しい声質に完全融合しているように思えてくる。『♪〜オ・ナ・ラ〜オ・ナ・ラ〜♪』と口ずさむ自分も『エイヤァ、コラヤ(ヘイヤ ディイヤ)』と力が入るから、これまた、不思議だ。韓国語の『オ・ナ・ラ』が「来てください」という切なる祈り・叫びだとわかり、思い出したことがある。今から4年前、癌の開腹手術直後「早く来てください」と祈ったものだ。ガスがでなければ、水も飲ませてもらえなかったからだ。あの頃、この歌を知っていたナラなぁ、っと呟く、さくらの独り言。
kukimi@ff.iij4u.or.jp

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

まだ半分 もう半分の泣き笑い

遠目にはきれいな暴発の花火

虹掴むはずの十指が節くれる

亀なりにプラス思考という歩み

ありがとう口癖にして向いた運


( ニュースやぶにらみ )

「30年後 40年後」
遺伝子操作食品は大丈夫かな −アスベスト

「参議院のポストから」
白い煙が出るか 黒い煙が出るか −バチカン法王庁

「ディスカバリー打ち上げ延期」
野口さんにお会いしたかったのに −織姫

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

追憶              
  小学校の同窓会名簿が届いた。
 私たちの通った小学校は、広島市から瀬戸内海沿線を西にいった辺りの山裾に拓けた村にあった。二クラス合わせて生徒数は九十人前後。だが、還暦を過ぎ、二年毎に開かれている同窓会に出席するのは半数弱である。名簿が届くたびに鬼籍の人が一人、二人と増え、メンバーが減っていく。
 最初に鬼籍に入ったのは、親友のU子であった。

「父の実家へ遊びにいかない?」
 高校二年の夏休み、広島県の奥深い山村にある温泉地へ私を誘ってくれたのは、小学校から高校まで同じ学校へ通ったU子である。
 一週間分の着替えをバックに詰め、わずかなお小遣いをもってバスに乗った。舗装されていない川沿いのデコボコ道、流れる水が岩に砕け散って飛沫が立つ。山道を上る。窓際の席から谷が見える。もしタイヤが滑ったら、と思うと怖くて怖くて。つり橋のある停留所で下りたときは、ほんとうにホッとした。
「あの家よ」
 U子は、段々畑の一番高いところにある家を指していった。二階家の離れ座敷に棟高の萱葺き屋根の母屋、土蔵と納屋が一列にならび白壁の横手にぐるりと囲まれた大きな家だった。屋号は田の上に「へ」の字。U子の性は「田村」である。
 広島へ原爆が投下されたとき、市内で薬局屋をしていた両親は原爆でなくなったが、たまたま父方の実家にいたU子は助かったのである。その後U子は、私の生まれ育った村にある母方の実家へ引き取られた。
「父は厳しい人だったのよ」
 U子は厳格な父親を誇りにしているような、懐かしみをこめてよくいった。
 辛く哀しいことがあったはずなのに、暗さなど微塵もなく、明るくて先生や同級生からも好かれる性格だった。私など、ときには妬ましく思ったことさえある。
 さて、元庄屋だったというU子の父方の実家で私たちは勉強という名目で行ったはずなのに、勉強はそっちのけで川遊びをしたり、疲れると座敷に寝転んでおしゃべりをし、蝉や蛙の鳴き声をききながら昼寝をした。U子の親戚の人が経営する川べりの温泉旅館へ行って遊んだりした。親戚の人たちはみんな親切だった。。あの時『鮎の塩焼きは』をごちそうになった。
「どう、おじさんが川で釣ったのよ。おいしい?」
 U子は私の口元をじっとみていった。
 大人になって何度か『鮎の塩焼き』を食べる機会があったが、あの時の味に匹敵するおいしさに出会ったことはない。
 私は一昨年の秋、小学校の同窓会があったときにあの温泉村を訪ねた。
 道路は舗装され家も増え、当時の面影は薄れてしまっていたけれども、萱葺き屋根が赤瓦にかわってはいたが、あの家はすぐわかった。
 あの家の西手にある墓地で、U子は両親といま永遠の眠りについている。
 U子の訃報が届いたのは成人式を迎えた後だったか、前だったか。多量の睡眠薬を飲んだのである。建設会社に就職したU子が東京本店の勤務になってからの出来事だった。勤務先の引出しに遺書が入っていた。
 人は辛いことがあると、いっそ死んでしまったらと考えることがある。極限に立つと親のことを想うのだろう。U子は、両親の元へいこうと思い、引き返せず、ひょいと一線を超えてしまったのではないか。私はそんな気がしてならない。
 たとえ妻子ある上司の子供を身ごもったからといって、命を絶つことはなかった。生きていれば、やり直しもでき、過去の過ちを笑って話し合える日が必ずきたはずなのに……。
                               おわり
  森田のりえ  noriem@JoiMail.com

 

 

 

編集後記

最近またPCの調子がよくありません。定期的に再インストールしたほうがいいと思います。
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Zakkaya Weekly No.479

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              tenshu@zakkayanews.com