ベルリン壁
ロサンゼルス空港から車で一時間半ほど北西部にドライブしたあたりにある「レーガン記念博物館」へ着いたのは、正午前だった。私とK子は、見学する前に昼食をとることにした。
「レストランはどこですか」
案内所で尋ねると、玄関ロビーから裏庭に出て右折した突き当たりだという。外へ出ると、若草に覆われた小高い丘が重なり合いながらつつぎ、遠くはかすんでいた。いいお天気だった。
「あら、これ、なにぁーに?」
裏庭を出たところに立っていた幅一メートル、高さが三メートル、厚さが十センチほどの板状になった記念碑を指して、K子がいった。コンクリート地に青色を塗り蝶と花が描かれている。ここを訪れるのは今回で三度目の私は、これはベルリンの壁の一部だと答えると、
「へぇー、これが? ほんと! もっと頑丈な壁だと思っていたのに、驚いた!」
K子は感慨深そうに眺めていた。私もドイツ旅行をしたときにベルリンの壁を見て、K子と同じことを感じたのを覚えている。
ベルリンを訪れたのは、東西ベルリンを分断する壁が築かれて二十年後の五月であった。街を歩いていると、小銃を肩にかけた二人連れの兵士に出会う。パトロールしているらしい。東西冷戦構造のまっただなかにいることを実感せずにはいられなかった。緊張した。体制の違う東ドイツは壁を隔てた向こうだ。何がどう違うのか、行って見たいと思った。幸いホテルから、日帰り東ベルリン観光バスが出ていた。
東独はベルリンのソ連占領区と西側占領区の境界全域に鉄条網を張り巡らし、その四日後に、鉄条網は一夜にしてコンクリート壁に替えられ二分されてしまった。壁構築の情報を聴いたアメリカ大統領は、なぜ事前に察知できなかったのかと、補佐官たちに声を荒げたという。そんなガイドの説明を聞いたあと、ケネディ大統領が物見台に上がって東側を見たという、その同じ場所を訪れた。
どこでも見られる普通の壁。その脇を車が走る。これが「鉄の壁」と呼ばれているベルリンの壁なのか。なぁーだ、と思った。拍子抜けがした。
だが、物見台に上がって怖くなった。
東に面した壁から百メートルほど砂利がしかれ地雷が埋められている。等間隔に監視塔があり、西が見える建物の入り口や窓という窓は全部バリケートで塞がれていた。
いよいよ東へ入るチャリー検問所である。全員バスから下ろされた。
「ガイドに変な質問をするなよ。ヘタをすると帰れなくなるぞ」
夫が脅かした。
東側の係官は、一人ひとりの前に立ってパスポートの写真と本人の顔を確かめるように何度も見比べる。夫の番がきた。無表情な顔でパスポートと夫の顔を見ていた係官が、説明もなく、いきなり夫を建物のなかへ連れて行った。ドキッとした。私はふとある雑誌で読んだ手記を思い出した。
社会主義の国を訪ねて、その出国間際に呼びとめられ、四年間も監獄入れられ日本へ帰れなかった人の話である。問題はカメラだったように記憶している。その人は一夜にして頭髪が真っ白になったそうである。
どうしょう! 帰れなくなったら…。私の心臓は破裂しそうになった。
しばらくして、夫が出てきた。顔が蒼い。
後で理由を聞くと、顔面神経痛を患ったとき、医者が、上瞼が垂れすぎで視界が狭くなるので手術したほうがいいというので、一重瞼を二重瞼にした。パスポートの写真は一重瞼のときのものだ。目が違う。それに引っかかったのである。
私は、そんな話をK子にすると、
「わたしの夫がドイツに配属されたのは一九六一年だから、ベルリンの壁ができた年だったのね。幼い子供が二人いて、お腹にもいたから社会情勢に目を向ける余裕がなかったのよ。それに、あのころ頃は日本へ帰りたい一心だったわ」
といった。
アメリカ軍人と結婚して渡米したK子は、当時の記憶をさぐるような目をしていた。そのK子のご主人は十七年前に亡くなった。私のまわりも大きな変化があった。ベルリンの壁は崩壊し、時は流れた。
思い出ばかりになってしまった。
おわり
森田のりえ noriem@JoiMail.com
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