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No.477          Ryo Onishi               7/3/2005   

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雑貨屋のひとり言

7月に入ってようやくまとまった雨が降りました。降りすぎは困りものですが、これで四国の渇水状態が緩和されればいいですね。
今日は兵庫県知事の選挙だったのですが、雨が降っていたので低調だったのではないかと思います。
ファッションジーンズが流行していて、穴の開いたヤツや破けたヤツがファッションになっているようですが、どうみてもみっともない恰好の人もいますね。(R.O.)

ふ る さ と 浅 草

5月中旬から3週間あまり日本へ行ってきました。私は7年半前に日本企業の米国現地法人を引退後、引き続きロサンゼルス郊外で妻と二人暮しですが、年一度5月中旬から6月の梅雨入り前まで日本へ行くことにしています。

日本の5月はみずみずしい新緑が生命の息吹を感じさせてくれ、私にまで生気を与えてくれます。
日本での滞在は長野県・諏訪と東京がいつも主になり、今年も諏訪と東京を中心に活発に動きまわってきました。

今年は日露通好条約締結から150年にあたる年であり、日露関係と縁の深い北海道・函館まで足を伸ばしたかったのですが日程の都合がつかず函館行きは断念しました。(昨年、伊豆・下田を訪れた際、日露交渉と条約締結が行われた福泉寺、長楽寺などはしっかり訪れました)

今回も諏訪滞在中には旧職場の仲間たちが集まってくれ、楽しく語らい歌い、大いに盛り上がりました。軽井沢ドライブにも連れていってもらい緑のオゾンを思う存分吸収してきました。

友人との旅行といえば東京では中学時代の同級生夫妻と行った房総(館山、鴨川)での磯の香りと海鮮料理は圧巻でした。強風吹く入江に面した宿のベランダから見えたのは海原だけでなく、鳶(とんび)まで真下を滑空する様子を目の当たりにし感動しました。

私はこれまで東京の宿泊はどこへ行くにも便利な新宿駅近くのホテルを定宿と決めていましたが、このホテルが現在改装閉鎖中であることから、今回は同じ系列で浅草にあるホテルを宿としました。

私の生まれ育ったところは浅草の横を流れる隅田川の対岸(東京都墨田区)であり、浅草は私の“御幼少時代”(本当は私のワルガキ時代?!)の遊び場の一つでした。

しかし“御幼少の砌(みぎり)”から早や半世紀が過ぎた今日の浅草は当然大きく変わっており、昔の面影など皆無に等しいように見えました。でも、そこ(浅草)にひと晩泊まっただけで何か懐かしさがこみ上げてくるのを感じたのには驚きでした。

翌日から時間が許す限り浅草の表裏を歩いてみました。ありました、ありました。雷門も、仲見世も、浅草寺も・・、それに神具(お神輿、太鼓)屋、仏壇・仏具屋から天ぷら屋、うなぎ屋、蕎麦屋、トリス・バーまで50年前と同じ懐かしい屋号が残っていました。

さらに私を感動させてくれたのは浅草の名もなき裏通りでした。狭い道に鉢植えの花木を並べ、人情溢ふれるたたずまいと家々の風情は昔を彷彿とさせてくれました。

子ども心に宿していた想い出がこれほど強烈に感動させてくれるものだと初めて知りました。

今回、私の日本行きにあたり目的の一つは私たちがロサンゼルスでスタートさせる「日本人のためのシニア・プログラム」の情報収集でした。そこで私は日本滞在中、諏訪と東京周辺のシニア関連グループ(シニア・ネット、海外ロングステイ同好会など)を訪ね、情報交換をし、日米のシニア事情について学んできました。

7月にはこの「シニア・プログラム」創設を記念して第一回目のフォーラムを開催することになっています。不肖私もパネリストとして参加し皆さんと語りあうことにしています。

この「シニア・プログラム」が定年予備軍を含めた私たち在米日本人シニアにとって少しでも役立てばと願っているところです。

私たちは縁あって日本を離れ、海外(米国西海岸)で生活しています。この地に「シニアの居場所」を見つけるため、私自身もこの「シニア・プログラム」を大いに活用したいと思っています。
                                             河合将介( skawai@earthlink.net

さくらの独り言「 祝婚歌

昨日、昔の教え子H君の結婚式へ出席するため、北海道へ飛んだ。H君とのこの再会は、アメリカで別れて以来、実に6年ぶり。そして、私が北海道は札幌を訪ねたのは、なんと20年ぶりだった。札幌到着から挙式時刻までの間、薄らいだ記憶をなぞりながら、碁盤目の地図を片手に独り散歩へでかけた。一世紀の時を刻み続けている時計台は、静かな音を響かせ、鐘の波がまるで時の流れのように感じた。初夏の大通公園は、「花祭り」のイベントでハナが咲き、憂鬱な梅雨の東京生活を一瞬忘れさせてくれた。そして、教え子の挙式と祝賀パーティは、H君と、彼が出会った伴侶との始まりにふさわしい、笑いも涙も溢れる内容だった。自然が、時が、人が、彼らの門出を祝しているように思えた私は、幸せのおすそ分けをしてもらった気分で、嬉しかった。

チャペルで行われた結婚式では、二人がどんな状況でも「愛すること」を誓った。「愛している」かどうかではなく、「愛する」実践を誓う。また、牧師による宣誓は「神が会わされたものを、人は離してはならない」と結ばれ、そして式の最後は、そこに集まった一人ひとりの祝福を祈る牧師の祝祷で閉じられる。このようなキリスト教式結婚式に参加すると、結婚式が二人だけの誓いの儀式のみならず、結ばれた二人に繋がる全ての人や業が祝されることだと知らされる。また、祝賀パーティでは、二人が生まれ育った「生き様」の集約短編ドラマを観る感じだった。祝辞を依頼された私は、ある祝いの詩を朗読した。私にとってこの歌は、歌というよりは“いのり”のようなものだと思っている。

『祝婚歌・・・吉野 弘
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少し控えめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかという
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい』(祝婚歌:谷川俊太郎編より抜粋)

H君夫妻へ向けられた祝辞の中には、結婚を「卒業のない学校への入学式」に喩えたユニークなものがあった。時に試験があること、そこには、回答の出ない難問があり、時には落第しそうにもなること。また夜間クラスもあり、その試験に合格すると彼らのご両親が歓ぶようなご褒美がもらえることもあるという。これは、アメリカにおいてPh.D.(博士号)を今年4月に取得し、数年後の日本帰国を目標にさらに大学に残り、教鞭をとりながら研究と論文に励むH君夫妻の生活に重なるスピーチだった。少子化や夫婦のあり方が新聞雑誌の話題になる昨今ではあるが、夫婦の数だけ、それぞれの物語があるのだと思う。だからこそ、私たち先輩のミッションは、単なる社会傾向で若者を批判・非難するのではなく、祝いの歌を歌い続けることなのだと思う。自分たちが祝いの歌を歌われ続けたように、なぜなら祝いの歌は、祈りだから・・・っと、呟く、さくらの独り言。

kukimi@ff.iij4u.or.jp

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

方便の嘘を子の瞳に詫びている

清純派女優 笑顔に嘘がある

サバ読んだ歳ににっこり言い寄られ

見栄張った嘘の疲れがどっと出る

耳寄りな話に欲をくすぐられ


( ニュースやぶにらみ )

「公約、マニフェスト」
政党だってやっている −リフォーム詐欺

「郵政法案の反対派説得」
ポストも絡めて −小泉首相

「独首相の信任案否決」
与党で反対したのは どいつとどいつだ −小泉首相

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

ベルリン壁
              
  ロサンゼルス空港から車で一時間半ほど北西部にドライブしたあたりにある「レーガン記念博物館」へ着いたのは、正午前だった。私とK子は、見学する前に昼食をとることにした。
「レストランはどこですか」
 案内所で尋ねると、玄関ロビーから裏庭に出て右折した突き当たりだという。外へ出ると、若草に覆われた小高い丘が重なり合いながらつつぎ、遠くはかすんでいた。いいお天気だった。
「あら、これ、なにぁーに?」
 裏庭を出たところに立っていた幅一メートル、高さが三メートル、厚さが十センチほどの板状になった記念碑を指して、K子がいった。コンクリート地に青色を塗り蝶と花が描かれている。ここを訪れるのは今回で三度目の私は、これはベルリンの壁の一部だと答えると、
「へぇー、これが? ほんと! もっと頑丈な壁だと思っていたのに、驚いた!」
 K子は感慨深そうに眺めていた。私もドイツ旅行をしたときにベルリンの壁を見て、K子と同じことを感じたのを覚えている。

 ベルリンを訪れたのは、東西ベルリンを分断する壁が築かれて二十年後の五月であった。街を歩いていると、小銃を肩にかけた二人連れの兵士に出会う。パトロールしているらしい。東西冷戦構造のまっただなかにいることを実感せずにはいられなかった。緊張した。体制の違う東ドイツは壁を隔てた向こうだ。何がどう違うのか、行って見たいと思った。幸いホテルから、日帰り東ベルリン観光バスが出ていた。
 東独はベルリンのソ連占領区と西側占領区の境界全域に鉄条網を張り巡らし、その四日後に、鉄条網は一夜にしてコンクリート壁に替えられ二分されてしまった。壁構築の情報を聴いたアメリカ大統領は、なぜ事前に察知できなかったのかと、補佐官たちに声を荒げたという。そんなガイドの説明を聞いたあと、ケネディ大統領が物見台に上がって東側を見たという、その同じ場所を訪れた。
 どこでも見られる普通の壁。その脇を車が走る。これが「鉄の壁」と呼ばれているベルリンの壁なのか。なぁーだ、と思った。拍子抜けがした。
 だが、物見台に上がって怖くなった。
 東に面した壁から百メートルほど砂利がしかれ地雷が埋められている。等間隔に監視塔があり、西が見える建物の入り口や窓という窓は全部バリケートで塞がれていた。
 いよいよ東へ入るチャリー検問所である。全員バスから下ろされた。 
「ガイドに変な質問をするなよ。ヘタをすると帰れなくなるぞ」
 夫が脅かした。
 東側の係官は、一人ひとりの前に立ってパスポートの写真と本人の顔を確かめるように何度も見比べる。夫の番がきた。無表情な顔でパスポートと夫の顔を見ていた係官が、説明もなく、いきなり夫を建物のなかへ連れて行った。ドキッとした。私はふとある雑誌で読んだ手記を思い出した。
 社会主義の国を訪ねて、その出国間際に呼びとめられ、四年間も監獄入れられ日本へ帰れなかった人の話である。問題はカメラだったように記憶している。その人は一夜にして頭髪が真っ白になったそうである。
 どうしょう! 帰れなくなったら…。私の心臓は破裂しそうになった。
 しばらくして、夫が出てきた。顔が蒼い。
 後で理由を聞くと、顔面神経痛を患ったとき、医者が、上瞼が垂れすぎで視界が狭くなるので手術したほうがいいというので、一重瞼を二重瞼にした。パスポートの写真は一重瞼のときのものだ。目が違う。それに引っかかったのである。
 
 私は、そんな話をK子にすると、
「わたしの夫がドイツに配属されたのは一九六一年だから、ベルリンの壁ができた年だったのね。幼い子供が二人いて、お腹にもいたから社会情勢に目を向ける余裕がなかったのよ。それに、あのころ頃は日本へ帰りたい一心だったわ」
 といった。
 アメリカ軍人と結婚して渡米したK子は、当時の記憶をさぐるような目をしていた。そのK子のご主人は十七年前に亡くなった。私のまわりも大きな変化があった。ベルリンの壁は崩壊し、時は流れた。
 思い出ばかりになってしまった。
                           おわり
  森田のりえ  noriem@JoiMail.com

 

 

 

編集後記

英国式の足マッサージを初めて体験しました。想像していた飛び上がるほどの痛みはなく、心地よい痛みで眠ってしまいました。
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Zakkaya Weekly No.477

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              tenshu@zakkayanews.com