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No.475          Ryo Onishi               6/19/2005   

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雑貨屋のひとり言

■脱線事故から55日ぶりに、それぞれの思いを乗せ、JR宝塚線の運転が再開されました。尼崎駅に近づいてくる電車の騒音が以前より静かなのは、カーブでスピードを落としているからではないかと思います。尼崎駅は明日の朝から、元の通勤風景に戻ると思います。
■PCの動作が遅くなってきたので、調べるとCPUの使用率が常に100%状態になっていました。あるEXEファイルが、何らかの原因で勝手にPCに入り込んできていました。恐ろしいことですが現実に起こっていました。見つけ出して消去しましたが、みなさんも気をつけたほうがいいですよ。(R.O.)

 シ ニ ア の 居 場 所

 第二次大戦後の1947(昭和22)年〜1949(昭和24)年のベビーブーム時代に生まれた人たちを日本では“団塊の世代”と呼びますが、この巨大な人口の塊(かたまり)である“団塊の世代”がいよいよ2年後から定年年齢(60歳)に達し、日本は『大定年時代』を迎えます。

その昔、人生わずか50年といわれ、初老が40歳の異称であった時代ならいざ知らず、現代の平均的日本人にとって60歳はまだまだ人生真っ盛りの時期といえましょう。

定年退職という第一の人生を卒業した後、次に来る長い第二のシニア人生をどのように過ごし、どこに「居場所」を見つけるか、これはたいへん重要な課題です。

第二次大戦後の日本の繁栄は私たちシニア世代が努力した結果であることは私たちにとって誇りとするところです。

しかし環境、資源問題ほか負の遺産も少なからず後世に残さなければなりません。少々大げさですが、これら実績と課題を正しく次世代に伝え、つなげる仕事がこれからのシニアの仕事であり、そこに私たち「シニアの居場所」があると私は思っています。

 私は7年半に日本企業の駐在員として米国赴任中に企業定年を迎え、そのまま当地(ロサンゼルス郊外)に定住し、ビジネス現役時代に果たし得なかった「生涯テーマ」への取り組み、そして地域コミュニティとのかかわりの中にこの「シニアの居場所」を見つけようと努めているところです。

ところで私たちの住むロサンゼルス地域にJ.E.R.C.(Japanese Educational Resource Center)という日本人のボランティア・グループがあります。私もメンバーとして参加しています。このJ.E.R.C.は発足以来10年間、当地の日本人子弟の教育問題を中心に活発に取り組んできましたが、今度これまでの活動に加えて在米日本人シニアのための人生設計サポート・プログラムをスタートさせることになり、私もお手伝いすることにしました。

この種の活動はこれまで当地日系コミュニティでは殆どなかったことですので、どのような活動内容になるかは未定の部分も多いのですが、こちらで企業定年を迎える(または数年後に迎える)人、引退を考えている人、専業主婦などが如何にアメリカで有意義なシニア生活を送るかを一緒に考えるのをその目的としたいと思っています。

また将来は、日米間のシニア交流、日本でビジネス引退後にアメリカでのロングステイを考えている方々のための情報提供サービスも考えています。

私はこの「シニア・プログラム」発足にあたり、先月(5月)中旬から先週末(6月10日)まで日本へ行き、日本各地のシニア関連グループ(シニア・ネット、海外ロングステイ同好会など)を訪ね、情報交換をし、日米のシニア事情について学んできました。

7月にはこの「シニア・プログラム」創設を記念して第一回目のフォーラムを開催することにし、不肖私もパネリストとして参加し皆さんと語りあうことにしています。

この「シニア・プログラム」が定年予備軍を含め私たち在米日本人シニアが第二の人生設計を策定するためのお手伝いが出来ればと願っているところです。

私たちは縁あって日本を離れ、海外(米国西海岸)で生活しています。この地に「シニアの居場所」を見つけるため、私自身もこの「シニア・プログラム」を大いに活用したいと思っています。
                                             河合将介( skawai@earthlink.net

さくらの独り言七夕」

東京は佃、その下町の路地にも隅田川沿いの散歩道にも、紫陽花が咲き始めた。藍く小さな花が集まっていることから名づけられたというこの花は、陽なたが苦手と聞く。しかし私の目には、雨の日も晴れの日も会い合う(集まる)ことを喜んで咲いているように見える。仮に、晴れの日は、雨の日をそっと待ちのぞみつつ、晴れの日は晴れの日なりの生を楽しんでいると思う。そんな紫陽花の頃になると二つのことを心に想う。額アジサイには日本の花火を、雨を歓ぶ大手毬紫陽花には七夕を。

見事な額アジサイは、東京湾に上る華美(東京湾花火大会ではこの「華」の字を使う)を連想させるといったが、小花集団を四葉のクローバに似た額片が額縁のように囲むこの種、なんと実は、『すみだの花火』と別名を持つと聞き驚いた。日本や東南アジアが原産地の紫陽花は、江戸時代に来日したオランダ商人が興味を抱き、さらに紫陽花に魅了されたシーボルトによってヨーロッパへ紹介された話は有名だ。その大手毬紫陽花に七夕を連想させられるのは、雨を待ち望みつつ姿を変えない日々、そしていよいよ受ける天の雫に、その雨の恵みを一身に歓び楽しむという姿に、「愛より藍い」海の深みのような出会いや生き方と考える。それはまた『紫陽花の 末一色となりにけり』と歌った小林一茶の真髄にも触れる気がする。

ところで、私にとって「七夕」といえば、笹飾りと短冊書き、そしてなんといっても天の川物語である「おりひめとひこぼし」神話である。このような習慣は、家庭・家族でも学校の生活でも組み込まれていた懐かしく貴重な文化的行事だった。紫色の手毬紫陽花を機に、なんと40年ぶりぐらいだろうか、「おりひめとひこぼし」を読んでみる。すると、忘れていたことや初めて知らされることに、心が洗われる思いになる。「七夕」の起源は古く、中国から伝承された説と古代日本神話と農耕民族のみそぎの儀式・祭りごとの合体により五節句一つとなったという二つの説があるが、民族学者の多くはこれら二つもしくはそれ以上の合体版が日本の現在系を作ったという。現代の笹飾りなどは江戸時代から始まった他のアジアの習慣にはない、日本独特のものらしい。また日本各地によって伝承や歴史も違うため、祭りごとそのもの異なり、例えば織姫彦星ではなく七夕の神そのものを祭つる地方も多い。時にこうして、幼少の頃に読みまたは慣れ親しんだ文化的習慣や神話・童話に触れると、歴史的伝承の事実や変化を超えた、日本人の自然に調和した情緒が自分の現実に和らぎを与えてくれて、とてもすばらしい恵みだと心に感じる。

ひらがらでつづられた「織姫と彦星」の絵本を読みながら、3つのことを考えた。ひとつは、1年に一度だけ許された再会の日に、雨が降らないようにと祈ること。この再会を待ち望む日々に、織姫は機織に、彦星は牛飼いに専念する。これはまるで、晴れた日にゴルフを待ち望みつつ日々の仕事に専念する自分に単純にオーバーラップする(笑い)。次は、本分の全うということだ。機織のみに没頭し遊びもおしゃれも全く興味を示さず父、天帝の心を痛めさせた織姫は、彦星と恋に落ちた後、その機織を全く怠ってしまった。また素晴らしい笛の音色で牛を率いて飼育てた勤勉な彦星も、織姫との出会い後はそれを怠ったため、まとまっていた牛たちがバラバラに草原へ散っていってしまった。この二人の現象に多くの民が悲しみ嘆いた。これがそもそも天帝の怒りとなり、離れ離れにさせられた。さて、三つ目は、年に一度の二人の再会のために橋をかけるカササギ集団の翼と思いやり、だからこそ再会を知っていならが許す天帝だ。七夕祭りの背景もあり方も小さな日本とはいえ各地それぞれ異なるだろう。でも現代に生きる私たちは、自分の幼少を思い出し、七夕祭りや織姫と彦星などの絵本を手にしてみるのもいいと思う。そこには、一般的な七夕ではなく、自分の七夕が心に生まれるとおもうから。雨が降ろうが晴れていようが、空を見上げて「七夕の日には雨が降らないように」と皆が祈る、そんな自分が幸せだと思えるから・・・っと呟くさくらの独り言。

kukimi@ff.iij4u.or.jp

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

カクテルに混ぜた涙がほろ苦い

それなりの夢を飲んでたトリスバー

縄のれん俺の味方がここにいる

まだ疼くためらい傷を 洗う酒

余生満開百薬の長といる


( ニュースやぶにらみ )

「父の日」
倅から電話も来ない −親離れ

「トラブル頻発」
海外出張は他社の飛行機で行きます ー日航、全日空社員

「ICHIRO、NOMO快挙」
KOIZUM Iはいまいちだな −ブッシュ

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

私と父
 
 無意識に口ずさむ歌がある。
 初夏、ロサンゼルス郊外に街路樹として植えられたジャカランダに花が咲いた。薄紫の小さな花が満開になり、風まで薄紫に染まったように見える。私は桜の花に想いを重ね合わせながら夕方散歩をしていると、知らぬまに口ずさんでいた。

   ♪ 濡れた子馬のたてがみに
     なでりゃ両手に朝の露

 私の故郷は、広島市から瀬戸内海沿線を西へ行った所にある日本三景のひとつ「安芸の宮島」との中間にある。いまでは広島市に組み込まれているが、もとは観音村という弘法大師ゆかりの極楽寺を山頂にいただく山裾にひらけた村であった。ほとんどが農家で、どこの家でも農耕用に牛を飼っていた。だが、なぜかうちだけは「アカ」という名の馬がいた。
 子供のころ、下校途中に父と出くわそうものなら、必ず仕事をいいつけられた。
「帰ったら、藁を小切っておけよ」
 刃物の長さが身長の半分はありそうな「押し切り」という農具で藁を五センチほどの長さに切り飼葉をつくるのである。ひとりでは押し切りを使いこなせないので姉妹でやる。ひとりが藁束を下刃に乗せ、もうひとりが上刃を下ろす。いま考えると、けがもなく五本の指が全部そろっているのが、なんとも不思議な気がする。父は「♪濡れた子馬のたてがみを〜〜」と鼻歌まじりで、小切った藁に飼葉と糠を混ぜて米のとぎ汁をかけ馬の餌をつくっていた。時たま、馬に乗せてくれたりもした。始めはタヅナを握りしめているから、馬が道端の草を食べようものなら前につんのめって落ちそうになる。次第に要領を覚えてくると、馬に乗せてもらえるのが嬉しくてしかたがなかった。父は肥桶を天秤にかついで中身が飛び散るのもかまわず畑に下肥を運び畑仕事をしながら、やはり、あの歌をうたっていた。
 私は日本へ行ったとき、この話しを二つ違いの妹にしてみた。
「そんな歌をお父さんが唄っていたなんて、覚えていないわ。わたし、おとうさんにはよく抱いてもらったし可愛がってもらったわ」
 妹は遠い記憶を探すような眼でいったのである。
 私は父に甘えるどころか、すれ違いざまに「つらっこうな」といって、ピシャと頬を殴られたことさえある。これは広島弁で、生意気だ、可愛げがないという意味である。そのころ、毎晩晩酌をする父のおかずが一品多いのも許せなかったから、タクアンをかじりながら睨みつけていたような気がする。きょうだい十人というのも嫌だった。恥ずかしいと思った。
「お父さんは一人っ子じゃったけえ、本当は十二人子供が欲しかったんじゃ」
 しゃあしゃあと言ってのける母も私は見下したのである。
 だが、社会に出て働くようになり最初の給料を、
「お父さんのお蔭です。ありがとう」
 と、殊勝なことを言って渡すと、父は随喜の涙を流した。しかし、親孝行は所詮付け焼刃で生来の反発心が頭をもたげ、妻子ある上司と駆け落ちをして親の顔をまっくろに塗りつぶした。家にひきずり戻された私に小言ひとついわず、
「そっとしといてやれ、いまは何もいうな」
 といっている父の言葉をベッドのなかで聞いた。
「人生は悪いことばっかりはない。いつかいいことがある。ちょっとの辛抱だ」
 そういって、父は励ましてくれたのだった。
 一九七〇年夏、父は渡米する私を広島空港まで見送りに来てくれた。中風で不自由になった足をひきずりながら、何かいいたそうに父が近づいてくる気配がすると、私は、くるりと背を向け友だちと話しをした。でも、私には分っていた。「身体に気をつけるんだぞ」と、いいたい気持ちがーー。
「お父さん、元気でね」
 その一言がいえず、焦れば焦るほど言葉が喉にひっかかって涙があふれそうになる。とうとう、言葉を交わさずじまいだった。飛行機の窓から空港のデッキを見ると、どこに座っているかも分らない私に、父は一緒懸命に手をふっていた。
 その父はもうこの世にいない。
                             おわり
  森田のりえ  noriem@JoiMail.com

 

 

 

編集後記

ビールを飲みたくなる季節ですね(何?年中じゃないかって?)。酒店に行くたびに新しいビールの銘柄を見かけます。ビール業界は激戦です。
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Zakkaya Weekly No.475

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              tenshu@zakkayanews.com