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No.470          Ryo Onishi               5/15/2005   

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河合さんの さくらの独り言 川柳 & コント 森田さんから ホームページ
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雑貨屋のひとり言

連休の最終日の5日、久しぶりに松村さんご夫妻と高槻の吟醸ミュージアムで会いました。奥様のそよ乃さんが5月8日に渡米(シアトル)し、お二人の新しい生活が始まるということで、お別れ会でした。でもこれでシアトルに行く口実ができ、ある意味で喜んでいます。吟醸ミュージアムがそう遠くない時期に閉館するとのことで、寂しくなります。まだ行かれたことがない方は早めに行かれることをお勧めします。ご連絡いただければお付き合いも可能です。(R.O.)

あまり 知られていないL.A. 観光スポット(182)

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 私(河合)は5月17日(火)から6月10日(金)まで日本へ行きます。日本滞在中E-メールは使用しません。連絡先は次の通りです。

(1)5/19 - 5/25 まで:上諏訪ステーションホテル、Tel.:0266- 57- 0001
(2)5/26 - 5/29 まで:ホテル・サンルート(浅草)、Tel.:03- 3847- 1511
(3)5/29 - 6/1 までは旅行中
(4)6/2 - 6/9 まで: ホテル・サンルート(浅草)、Tel.:03- 3847- 1511

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ロサンゼルスはジャカランダが満開です(2005年5月)
 ロサンゼルスを含む南カリフォルニアでは目下“ジャカランダ(Jacaranda)”の花が満開です。

この花は20年前(1985年)私達夫婦が初めてアメリカへ赴任した時に、ロサンゼルス市と郊外の街の到るところに街路樹としてあり、咲いていたのがとても印象的でした。

 手許の辞典によると、この花の説明として、『熱帯アメリカ産ノウゼンカズラ科ジャカランダ属の樹木、青紫色の密集花をつけ、熱帯の街路樹とされる』とありました。うすい紫色の花が樹木いっぱいに付き、見事です。

日本では「桐もどき」または「ハワイ桜」とも呼ばれているそうです。鹿児島など九州南部で見られるようです。

また、米国西海岸でもロサンゼルス(地球の緯度上では日本の愛媛県・松山市とほぼ同じ)ではポピュラーなジャカランダですが、サンフランシスコ(宮城県・仙台市とほぼ同じ)では殆ど見かけないようです。

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“さだまさし”さんの歌に「ジャカランダの丘(作詩・作曲:さだまさし)」という歌があります。「さだまさし」さんは長崎県の出身ですから、長崎にはジャカランダの木があるのではないかと私は推察しています。次のような歌詞です。
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 岬をめぐる船が 汽笛ひとつ鳴らした
 まぶしそうに遠くを見る 横顔が好きだった
 この町を出ると決めた 君の笑顔の向うで
 蒼空に紫色の花が咲き乱れてた
 ジャカランダの花の咲く頃に
 君は故郷を出て行った
 夢に縁取られた明日を
 小さな鞄につめて

 ユリカモメが小さな 円を描いて飛んだ
 君はこの海の向うで 一人暮らしはじめた
 市場へ出る毎日 僕は何も変わらず
 僕の花が君の街へ出てゆくのを見ている
 ジャカランダの花の咲く頃に
 君は帰ると約束した
 忙しいという言葉を初めて
 君の手紙で識った

 ジャカランダの花の咲く頃に
 君の 長い手紙が届いた
 もう帰らないどうかしあわせに
 暮らして下さいと

 ジャカランダの花の咲く頃に
 この町は何ひとつ変わらない
 僕も何ひとつ変わらない
 遠くで汽笛が鳴った

                                                               河合将介( skawai@earthlink.net

さくらの独り言お墓参り」

米国滞在中、日本からの企業や政府官公庁関係のお客さん、その土地(州・郡)のご紹介などをしたことがある。自然や歴史の中で生まれたその土地に生まれ育った文化と人を、日米対比の中で案内したものだ。その中でも、大変好評だったのが「お墓めぐり」だった。日本にきてからはその逆文化紹介で、日本で玉兄貴と井出さんに「お墓めぐり」に連れて行ってもらったことがある。そして今度は、私が叔母と一緒に“池波正太郎氏祥月命日の墓参”を実現させた。「お墓めぐり」は、お参りだけではなく、その人々の死後も息づく何か不思議なものが、充満していると思う。

73歳になる祖母は、私の薦めで池波正太郎の剣客商売を読み始めた。いまや私以上にどっぷりと池波ワールドに浸り込んでいる。その叔母が、お墓参りだけでなく、池波正太郎氏とかかわりのあった場所も訪ねてみたいというので、氏ゆかりの地を散策してみた。今号では「お墓参り」、次号で「池波正太郎ゆかりの場所」を紹介したい。

池波正太郎氏の忌辰(祥月命日=5月3日)から少し過ぎた連休明けの某日の午後、叔母と仁王門(雷門)前で待ち合わせた。私も仁王立ちになって叔母を待っていた。地図は持っているものの、念のために仁王門横の交番で西浅草にある西光寺への行き方を尋ねた。
「西光寺(さいこうじ)?・・・西浅草にはたくさんのお寺があるんで・・・」確かに、地図で見るだけでも、西浅草地区だけで約26のお寺がある。
「池波正太郎先生の墓所ですが」
「ああ、池波先生の・・・」
そのお巡りさんも“池波ファン”だろうか、とても嬉しそうに、そして親切丁寧に道順を教えてくれた。雷門通りを国際通りへと進み、国際通り(雷門1丁目)の交差点を渡って左へ。そこからが西浅草のブロックになる。この一帯、まさに“寺の町”そのもの。中でも浅草本願寺(東京本願寺)はひときわ目を引く。明治8年6月20日、明治天皇が臨幸され、日本で最初の“地方官会議(知事会議)”が開催された。それが、このお寺。『木戸光允(桂小五郎)、勝海舟、大久保一翁など官軍、旧幕臣が一同に会しての歴史的会議であった』という(同寺の案内書)。目指す西光寺は、そのすぐ近く。普段は門が閉じられ、庫裏(住まい)のインターフォンで池波家墓参の意を告げると、若い住職が応対してくれた。お線香(お代300円)を焚いて狭い墓地内を案内してもらい、『池波家』の墓の前に立つ。想像していたよりも小さなお墓だが、念願の“池波正太郎とのご対面“に、お水かけの柄杓を持つ手が、心なしか震えた。線香台にはまだ香りが漂い、花立にもまだ真新しいお花が飾られているのを見ても、いかに参詣者が多いかがしのばれる。さきほど焚いてもらったお線香は線香台へ、来る途中で買い求めた供花は、「線香台の横に、そっと立てかけましょう」という叔母の意見に従った。その叔母のお祈りの、長かったこと。帰り際、ご住職の奥さんから、いろいろなエピソードを聞くことができた。池波正太郎が存命中、氏にかかわりの深かった映画、演劇、テレビ、出版関係者、レストランのオーナーやシェフ(これらの人々は、氏の著書『池波正太郎の銀座日記』に登場する人物たち)は言うに及ばず、北海道から沖縄まで、あるいは一時帰国した海外生活者、それも、老若男女を問わず、大勢の“池波ファン”がお参りする。もちろん、ご命日とは関係なく、だそうである。なかでもユニークなのが、“刑事のお礼参り”である。熱烈な“池波ファン”のある警視庁刑事が、ある事件の容疑者を逮捕、取り調べにかかったが、その容疑者、いっさい口を開こうとしない。それが数日続いた。業を煮やしたその刑事、いったん尋問を停止して、以前から希望して果たせなかった池波家墓参を思い立ち、西光寺を訪ね、“池波先生”のご冥福を祈ると同時に、いま自分が直面している捜査(取り調べ)が“うまくいきますように”と祈願した。翌日、取り調べ再開の時、容疑者に「私は昔から池波文学の大ファンでね、昨日、池波正太郎先生のお墓参りをしてきたんだ」と切り出したら、その容疑者、瞠目(目を見開くこと。池波小説の中では頻繁に使われている言葉)して、突然、刑事の話に乗ってきた。容疑者も池波小説の愛読者だったのだろうか。結局、そのあと、すらすらと容疑を認め一件落着。その刑事、再び“池波先生”のお墓に詣で、“お礼参り”をした、という。何やら、『剣客商売』や『鬼平犯科帳』の一場面を髣髴とさせるエピソードである。

「いい時間を過ごさせてもらった」と姪の私に感激することしきりの叔母。「忙しいあなたが貴重な時間を割いて私との約束(墓参)を果たしてくれたことに感謝するわ」と、改まってお礼を言われた。この“時間と約束”と言う叔母の言葉に、ふと、『男の作法』(池波正太郎著)の一説を思い出した。『余裕をもって生きるということは、時間の余裕を絶えずつくっておくということだ。そして、この時間という問題は、もう一つ大事なことがある。それは、自分の人生が一つであると同時に、他人の人生も一つである、ということだ・・・・』。仕事関係者の時間、友人たちの時間、家族の時間、そして私自身の時間、それぞれを大事に考えることを、今も残る線香のかほりの中で、心に語る。そして、やっぱり、お墓というところには、その人の死後も息づく何か不思議なものが、ゆぅらゆっぅらと漂っているものなのだ、っと呟く、さくらの独り言。

kukimi@ff.iij4u.or.jp

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

みどりの日 昭和の森の濃く薄く

遡上するごと千匹の鯉のぼり

タンポポも今年限りの設計図

グリーンに映える藍色 さくら色

赤く赤くつつじ燃えおり事故現場

( ニュースやぶにらみ )

「ボーリング大会、宴会」
ダイヤ通りです −JR西日本

「観光客受け入れ再開」
あすなろも順調に育っています −三宅島

「ブレア首相三期目へ」
そちらも中二階が賑やかそうで −小泉首相

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

花の都にて( 2 )
 
  アルノ河に沿ってできたイタリア中部の街フィレンツェを旅している。
 胸をときめかせて見てまわった天才たちのルネサンス芸術や教会も、四日目ともなれば飽きてきた。泊まっているホテルは、六世紀のビザイチン様式の牢獄だったという塔がある建物で、とにかく、街全体が歴史博物館のようなのである。
 明日はミラノに行くという日の午後、私たち家族三人、丘の上のミケランジェロ広場を目指してホテルを出た。目抜き道りをあるいていると行列をつくっているアイスクリーム屋があった。娘が「食べようよ」と、しつこい。理由を聞けば、
「アイスクリームはイタリア語でジェラードといい、生みの親は、フィレンツェをルネサンス芸術の街にしたてあげたメディチ家だから、本場で食べなくちゃ」
 この店はイタリア中で一番美味しいと定評があるとガイドブックに載っているという。それならばと列に並んだ。料理番組に出てくる味見役のようにおいしく頂きたいが、歯にしみるので私は冷たい物が苦手である。。
 裏街の路地を歩く。石造りの四、五階建てが両側に並ぶ狭い石畳の路を歩いていると、突然、広場に出た。政庁舎の前にあるシニョーリア広場は露天商で賑わっていた。十四世紀、修道士のサヴォナローラが火あぶりになった場所で、その火刑跡があるはずだ。いまでも花束が絶えないというからぜひ見たいと思い、露天売りのおじさんに尋ねた。だが、私の英語では通じない。娘に代弁してもらうと、
「ほら、あそこに丸型の石がはめこまれているだろう」
 おじさんは身を乗り出して教えてくれた。
「おまえなぁ、人が殺された跡をみて、どうするんだ。しかも昔の話だろう。行くぞ、行くぞ。そんなものまでじっくり眺めていたら日が暮れてしまう」
 といった夫が水彩画を売っている若者の所で足をとめた。
「手描きだよ。これはいい。大きさも手ごろだし、街の名所が描いてある。そうだ、これをお土産にしよう」
 夫の話を聞いていた若者は、
「ファイブ・ダラー」
 と、すかさずいった。
「これ、あなたが描いたの」
 そうだよ、と若者がいったような気がした。私たちは十枚ほど買い求め、ロサンゼルスに戻って良く見ると全部プリント絵だった。
 アルノ河に架かるベッキオ橋の両側に貴金属店がずらりと軒を連ねていた。雑踏のなかで、たちまち私と娘の歩調が乱れた。
「よそ見しないでさっさとついてこないと迷い子になるぞ ! そんなに欲しいのなら、帰ってから宝石の問屋へ連れて行ってやる」
 安いとか高いといった問題ではない。高校卒業前の娘と親子三人でイタリア旅行をし、フィレンツェの由緒あるベッキオ橋で買ったという記念である。夫は、知らん顔をして先へ、先へと歩をすすめた。女心の分らない男である。
 ミケランジェロ広場がある丘の上までつづく長い石段をのぼりつめると、足がふるえてきた。しかし、いい眺めだ。街が一望のもとに見わたせる。街の中心あたりに群を抜いて見えるレンガ色のクーポラを戴いた花のサンタ・マリア大聖堂が、花の都フィレンツェを象徴しているかのように青空に浮かび上がっている。アルノ河に架かるアーチ型の橋桁。街を包みこむような丘陵の重なり。美しい古都である。なぜこの街にかくも華麗なる文化が花開いたのだろう。どんな歴史的ドラマやロマンを秘めているのだろう。
 いつかまた天才たちが活躍したこの街を訪れる日がくるのだろうか。
 その時は、この街の歴史をじっくりと勉強して来たいものだと思った。
  森田のりえ  noriem@JoiMail.com

 

 

 

編集後記

日本史上初のプロ野球の交流戦、結構盛り上がっています。あんなに負け続けている楽天を応援している楽天ファンはすごいですね。阪神ファンにちょっと似ているところがあります。
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Zakkaya Weekly No.470

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              tenshu@zakkayanews.com