仕事でも個人の生活においても、自分の目の前に置かれた困難な課題や問題に、どう取り組み、どんな結果を出したかということが、大きな分かれ道になる。これはごく当たり前のことだが、忘れてしまっている場合が多い。この課題や問題を結果へと導くその間の緊張や圧迫の中で、いかに力を保ちつつ正しい方向へ自分が自分を支えられるか、そこには単純なひとつの原則があると思う。これをさくらは、“遠近両用めがねの法則”という。
“遠近両用めがね”にはまだお世話になっていない45才の私だ。しかし、「離せば分かる」年齢と同時に、役割や任務を負う立場に置かれることが多くなったのは事実だ。先日、久しぶりに、数百人の聴衆を前に、重要なプレゼンテーションを担当した。実は、準備の段階からそのプレゼンテーションが終わるまで、失敗が怖く、緊張と不安でいっぱいだった。この数週間、眠れぬ夜が続いたほどだった。当日、いよいよ壇上に上がり、マイクを持った時、緊張のあまり頭は真っ白、声はパニックで詰まりかけた。私はどうしようもなくなって、とっさに手元にあった自分の資料をスピーチテーブルに置き、遠く最後列の席に目をやった。そこには、社内で一番親しい友人M.Iさんの顔があった。彼女とは部署も任務も違うが、同性同年輩ということもあり、仕事における夢や挑戦を語り合う戦友の一人だ。私はその瞬間、「これだ!」と悟った。不安が消えた。ほんの数秒間の出来事だったに違いないが長い時間に思えた。そしてこの一瞬に学んだことは、大げさな表現かもしれないが、仕事や人生におけるひとつの自然原理の“法則”だった気もする。それは自分の目前にある手元足元から線上にある遠方(将来)へと視点を変えることにより、不安や恐怖が安心や信頼へと変化させられていくのである。そして、歳をとるということも、それに伴った仕事に応えていくことも、遠近両用のめがねを使用する時を迎えると同じように、人生の次のステージへの季節なのかもしれない。
ところで、以前中国の諺「月を指差した時、愚か者は月を観ないで指先を見る」をこの面で紹介したことがあるが、これに似た話でちょっと違う示唆をかもし出す逸話を先日みつけた。メキシコ先住民関連の書『老アントニオのお話』(マルコス副司令官著書・小林到広編訳・現代企画室刊行)である。以下に一部抜粋する。
『老アントニオ: |
太陽を指差した時、間抜けな者は指を見る。しかし、もし太陽を見る
奴がいるなら、それ以上に間抜けだ。目が見えなくなるからだ。仮に目が見えなくならなかったとしても、上ばかり見ていると、やたらに転んでしまう。一方、指ばかり見ていると、自分の進む道がわからなくなる。つまり立ち止まったままになり、指の後ろしか歩けなくなる・・・ |
マルコス: |
どうすれば、遠くと近くを同時に見られるのですか? |
老アントニ: |
話し合いながら、耳を傾けるのだ。近くにいる者と話し合い、耳を傾けるのだ。遠くにいる者と話し合い、耳を傾けるのだ。夢を見る時、はるか彼方の天上にある星を見なければならない。しかし、戦うときには、星を指差している手を見つめねばならない。それが生きることである。継続して視線を上げ下げするのだ』。 |
仕事の世界では、役が人を育てる場合がある。逆に、役が人を駄目にしてしまう場合もある。同様に、人生や個々の生活では、困難や逆境が、人を育てたり殺したりする。いずれも戦とするならば、そこに勝利の法則としてひとつ、「遠近両用めがねの法則」なんてものがあるように思うのだ。そう考えると、遠近両用めがねをかけられる年齢というものは、違った意味ですばらしい人生のステージだと言えないだろうか。今はまだ遠近両用をはめてはいなが、今年さくら45歳は、色々な意味でそのステージへの階段へ足を一歩のっけたのかもしれないなあ・・・っと呟くさくらの独り言。
(kukimi@ff.iij4u.or.jp) |