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No.461          Ryo Onishi               3/13/2005   

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雑貨屋のひとり言

神戸、大阪にも雪が舞う寒〜い週末になりました。これが最後の寒さであってほしいですね。ボチボチ、目が痒くなり、鼻がムズムズ、気温の変化でくしゃみも出だしました。でも春がとても待ち遠しいです。(R.O.)

平和のオブジェ−−あれから60年

  東京の下町(現在の墨田区)で生まれ育った私にとって1945(昭和20)年3月9日夜〈日本時間〉は生涯忘れることのないであろう“東京大空襲”の日であり、あれから満60年の歳月が過ぎました。
先日の日本のニュース(Asahi.com)によると、このほど東京大空襲から60年にあたり、「平和のオブジェ」が完成し、東京都墨田区役所内に展示されたとありました。このオブジェは、東京大空襲で大勢の犠牲者を出した同区が、二度と戦争を繰り返さないようにとのメッセージを込め、区民らが折った折り鶴約15万羽を使って完成させたものなのだそうです。

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 夜空を覆う不気味なB-29の編隊と、それらから撒き散らされる無数の焼夷弾の束、母とまだ女学生の姉の手に必死にしがみつき、燃えさかる炎と舞い散る火の粉の中を夢中で逃げまどった防空頭巾(ぼうくうずきん)の幼さない私、―― いまだに夢の中で何度もうなされる、60年前の恐怖の体験です。

 東京の下町、向島区吾嬬町(現在は墨田区押上)に生まれた私が国民学校(現在の小学校)1年生終了間際だった昭和20年(1945年)3月9日の夜から翌10日にかけてのことでした。

 九死どころか九百死に一生を得て我が家に戻る途中、川や掘割りには炎を避けて溺死している無数の死体を目撃し、また路上に横たわる黒こげの人々をひたすら跨ぎながら我が家の焼け跡に私達3人が戻った時、そこに防空消防団の父も待っていてくれ、一家の無事を確認し合い、不幸中の幸いを喜び合いました。(長男である兄は戦地、すぐ上の兄は学童疎開中でした)

 数日後、学校の焼け跡に集合した私は、つい数日前まで一緒に勉強し、遊んだ同級生の半数以上がこの空襲で死んでしまったことを知らされました。

でもその時の自分の感情がどうであったか今となっては思い出せません。もしかしたら当時の私には「悲しい」などという感傷は麻痺してしまっていたのかも知れません。覚えているのは、この戦災の数日後、焼け野原の東京・下町から富士山が見えたことです。これが生まれてはじめて見た富士山でした。

 住むところも学ぶところもなくした下町の一家は両親の故郷である滋賀県に一時身を寄せ、
10ヶ月後の12月、再たび東京に戻り、焼け残った家を借りて東京生活を再開させました。

食べるものなどあるはずがなく、親の苦労は大変だったと思います。乾燥した笹の葉や団栗(どんぐり)まで食べた記憶があります。

当時、私達の救いは「ララ物資」と呼ばれるアメリカからの救援物資で、この時ばかりはバケツ程もある大きなコンビーフの缶詰やチョコレート塊が配給され、飢えをしのぎました。また時々ジープに乗った G I(米兵)がばら撒いてくれるチュウインガムやチョコレートに私達ガキ共(まさに飢えた餓鬼でした)が群がったものでした。

戦後の小学校時代は、焼け残った他所の学校の教室を借りて学び、子供心にも肩身の狭い思いで、2部授業(一日を午前組、午後組に分けた授業)3部授業を受けたのが思い出の大半を占めています。

もちろん、あたり一面が広大な焼け野原なので遊ぶ場所には困らず、それはそれで楽しいこともありました。

時代は変り、あれから60年後の今、私は当時焼夷弾を浴びせられた、そして生き残った後は救援物資で助けてもらった相手国アメリカに滞在し、生活をしいています。

改めて想うとき、何とも表現しがたい感慨と運命の不思議を感じざるを得ません。

東京大空襲から60年という、人間で言えば『還暦』の時を迎えた今、過去の体験・想いをもう一度整理し、次世代の人たちへの教訓として残す義務が私たちにはあるのかもしれないと思ったりしています。
                                                               河合将介( skawai@earthlink.net

さくらの独り言デコポン」

アメリカ滞在時代に凝ったコンピューターゲームに、「マック・ポン」というのがあった。プログラムに組み込まれた家族メンバー3人とのゲームも面白かったが、そこに織り込まれたほのぼの演出が日本を懐かしませた。時折、対戦者3人中のお父さんが「お〜いかあさん、お茶!」とか、飼い猫の「ミャァ〜ン」と鳴いたりする声が飛び出し、PCと自分しかいない外国の狭い一室がすっぽりと、家庭マージャン雰囲気に包まれたものだ。今は亡き父は、友人を家へ呼んで自宅で徹夜マージャンをすることも少なくなく、その影響で、正月のお遊び(百人一首や駒)に加え、お正月だけはということで家族マージャンが許された。炬燵に集って楽しんだゲームにはいつも、「ポン」がつき物だったが、なによりもかんきつ類の「ポン」は、今でも私の生活に欠かせない。

私の柑橘好きは有名で、指先が黄色くなるほどポンポン食べても、止まるところを知らない。そんな私をよく知る九州の旧友・美紀ちゃんから、「デコポン」が届いた。「昨年は度重なる影響で九州地方の農産物も大きな被害を受けました。ミカン栽培も例外ではなく倒木、落果が相次ぎ大変厳しい状況におかれましたが、何とか、平年並みの糖度の乗った美味しい商品を、自信をもってお届けすることができました」と、発送元(果樹園)の添え状が箱の中に収められていた。「デコポン」は、九州一円はもちろん、近年は関東をはじめ、ほぼ全国的にその名が知られるようになった。頭に出臍のような凸がついているミカン、それが「デコポン」である。

「デコポン」は、「ポンカン」と「清美オレンジ」をかけ合わせて作られた雑種のミカンで、30年前の昭和47年に(当初)「不知火」という名で市場に出た。果汁もたっぷり、甘さもあって薄皮ごと食べられるので、皮むきを嫌がる男性や子供たちにも人気があった。しかし、栽培の難しさ、それに伴うコスト高などで普通のミカンより値段が高めで、いま一つ市場が伸び悩み、しばらくは熊本県内販売にとどまっていた。しかし熊本県では平成2年ごろから新しい技法を採り入れ、本格的な栽培に着手、県外に販売チャンネルを広めるようになり、“美味しいミカンの横綱格“にまで成長した。「デコポン」の美味しさは、徹底した品質管理にあるという。糖度や酸度を計る光センサーが導入され、糖度は125度以上、酸度は1.05度以下と厳しい基準が定められており、一つひとつがその基準をクリアしなければならない。現在では「紀州デコポン」、「愛媛デコポン」、「鹿児島デコポン」など、比較的温暖な地方で栽培されるようになったが、やはり本場は「熊本デコポン」だ。熊本県内のデコポン栽培農家はたくさんあるが、中でも、私は「天草デコポン」を贔屓(ひいき)にしている。『天草の内海(南向きの山)がデコポン生産の最適地』とは、デコポン生産者の共通した評価だと聞く。海のミネラルがたっぷり含まれた潮風がデコポン山(丘)の斜面に吹き上げ、土地にもデコポンにも豊富なミネラルを運ぶ。それに、ワックスでの艶出しやエチレンガスでの着色などは一切さけ、無農薬(有機栽培)で育てる。形や見栄えよりも“ミカン本来の味を追求した栽培”にこだわっているから、美味しくて安全なのだ、と私なりの評価をしている。

私のこどもの頃は、「デコポン」はなかった。当時、“柑橘類の花形”といえば「ポンカン」だった。これがまた高級品で、元旦のおせちと一緒に「初物」として少しだけ食べさせてもらえ、それから春の忘れ雪の頃まで、貴重なものとして有難く食べたものだ。日本における「ポンカン」の歴史は、さほど古いものではない。物の本によると「原産地はインドのスンタラ地方で、中国南部や台湾に多く栽培されており、日本には、明治29年、当時の台湾総督だった樺山資紀が「ポンカン」の苗を郷里・鹿児島に送り移植した」とある。「ポンカン」は、果皮は少し厚く、果肉は柔らかで多汁、酸味も強く香り・風味ともにさわやかな味であることは、各位ご存知の通り。柑橘類に目のない私は、子供の頃の懐かしさも含めて、今でも「ポンカン」を愛してやまない。それでも新種の「デコポン」と並べると、迷わず「デコポン」に、ポンと手が出る。それは、主産地・熊本への郷土愛も加味されてのことではあるが・・・ともあれ、親友から贈られた「熊本デコポン」を今日も味わう。美紀ちゃんの友情と故郷の懐かしさを噛み締め、胸もおなかもいっぱい。そこでたたいたおなかが“ポン”。「デコポンも人間も同じ。見かけより中身、真(芯)のみずみずしさとその人らしさ(味)が肝心だよな・・・」っと呟く・・・・さくらの独り言。

kukimi@ff.iij4u.or.jp

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

あの時に飛んでいればと風見鶏

気負いこむ王手まさかの落とし穴

若い日の馬鹿 履歴書が嘘をつく

鬼の目に涙あいつも歳をとり

不器用に生きたね膝が笑ってる

( ニュースやぶにらみ )

新株差し止め仮処分認める」
東京地裁とは時間外取り引き一切なしです −ライブドア

「中西議員セクハラで辞職」
二人で漫才をやろか −横山ノック

「オープン戦たけなわ」
とらぬ狸が12匹 −プロ野球

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

連載  こんな身体で温泉旅行(14)
 
 「オマエ、聞いとるのか!」
 車のシートで陽に当てられているとつい眠気に誘われた。うつらうつらしていると、突然、夫の声に驚いて正気に戻った。
「聞いてるわよ」
 とはいったが、話は断片的にしか耳に入っていない。
「何を話していたが言うてみい」
 いつもこういうテで、私を試すのは夫の悪い癖である。
「日本の銀行が乗っ取られた話をしてたでしょ」
 夫の好きな話題は経済か政治に決まっている。何度も聞かされているので、私は聞き飽きいてる。適当に相槌をうっている間に睡魔に襲われてしまったのである。
 私たちはワシントンとオレゴンの州境を流れるコロンビア川沿いをポートランドに向けて走っている。午後二時の陽光がフロント・ガラスから降り注ぐ。鉛色の川面がゆったりと流れる。上流にパルプ工場があり、材木の積み出し港があるので商船が行き交うほどの広い川幅だ。右手は針葉樹林の山である。重そうな材木を満載したトラックが疲れたエンジン音を立てながら泥土を散らして追い越していく。
 娘のいるリード・カレッジへ早く着いてしまった。
 この大学は1810年ごろジョン・リードによって創設されたこぢんまりとした私立大学である。冬枯れの木立に囲まれたレンガ造りの校舎はどことなくイギリスを連想させる。娘は四時半まで授業があるというので、私たちは広いキャンパスを歩き回った。南カリフォルニアのスモッグで薄汚れた樹木をみて育った娘には、澄みきった空気、黄葉越しに夕焼けが望まれる秋の景色、新緑に染まる初夏など、移ろいゆく四季は心やすらぐ風景にちがいない。日陰に溶けかけの雪ダルマが一つあった。
 寄宿舎へ行く途中、ただならぬ気配に頭上を見上げた。葉をすっかり落としたポプラの大木に、小鳥が鈴なりにとまっていた。抗議をしているようにすさまじい囀りだ。
 娘の部屋をノックすると、ドアが開いた。
 私は思いっきり、娘を抱きしめてやった。ニキビが吹き出ている。医者に通ったり、薬を飲んだがどれひとつとして効用がなかった。わかいそうだがしかたがない。
 その時、私の背の二倍はありそうな学生が部屋に入ってきた。娘のボーイフレンドのオーエンである。あっ、ラッキョウだ。顔形がラッキョウとそっくりだった。
 オーエンはこの時から「ラッキョウ君」となった。
 夕食にもラッキョウ君は当然というような顔してついてきた。お鮨が好きらしい。ポートランド市内の鮨屋へ入った。彼は、海底を這う海老や蟹もダメだが、イクラやウニ、貝類もアレルギーで食べられない。もちろんワサビ抜き。誠実そうで物静かな青年である。娘の専攻は英文学。将来、どのような道へすすんでいくのだろう。子供のころはジャーナリストになりたいといっていたのだが。
 ポートランドは私たちにとっても思い出のある街であった。
 日本船員相手のお土産店の第二号店をつくったのはこの街である。十七、八年前のことだ。三年ほど続けたが、結局、ロサンゼルスからの遠隔操作には限度があるとわかり、働いていた若者に店を譲り渡した。経営のセンスがあったその若者は、日本との貿易などの仕事を始めそれなりに成功を収めたと聞いている。
 若者に連絡をして明日会う約束をしたその夜だった。
 夫は温泉旅行に出る前と同じように、下腹に激痛がはしり血便で便器が真っ赤になった。あの時はステーキを食べた後の血便だったから、さては、ワラワラで食べたシチューの牛肉がよくなかったのか……。                                           つづく
  森田のりえ  noriem@JoiMail.com

 

 


編集後記

雑貨屋ホームページのカウンターの数字は順調に増え続けています。うれしいですね。前のサーバーは完全に契約が切れて、掲載していた前のアドレスの雑貨屋ホームページは消滅しました。これによりYAHOOやGOOGLEで雑貨屋で検索しても、すぐに見つからないかもしれません。でも地道に続けていきますので、そのうち登録されると思います。
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

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Zakkaya Weekly No.461

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              tenshu@zakkayanews.com