アメリカ滞在時代に凝ったコンピューターゲームに、「マック・ポン」というのがあった。プログラムに組み込まれた家族メンバー3人とのゲームも面白かったが、そこに織り込まれたほのぼの演出が日本を懐かしませた。時折、対戦者3人中のお父さんが「お〜いかあさん、お茶!」とか、飼い猫の「ミャァ〜ン」と鳴いたりする声が飛び出し、PCと自分しかいない外国の狭い一室がすっぽりと、家庭マージャン雰囲気に包まれたものだ。今は亡き父は、友人を家へ呼んで自宅で徹夜マージャンをすることも少なくなく、その影響で、正月のお遊び(百人一首や駒)に加え、お正月だけはということで家族マージャンが許された。炬燵に集って楽しんだゲームにはいつも、「ポン」がつき物だったが、なによりもかんきつ類の「ポン」は、今でも私の生活に欠かせない。
私の柑橘好きは有名で、指先が黄色くなるほどポンポン食べても、止まるところを知らない。そんな私をよく知る九州の旧友・美紀ちゃんから、「デコポン」が届いた。「昨年は度重なる影響で九州地方の農産物も大きな被害を受けました。ミカン栽培も例外ではなく倒木、落果が相次ぎ大変厳しい状況におかれましたが、何とか、平年並みの糖度の乗った美味しい商品を、自信をもってお届けすることができました」と、発送元(果樹園)の添え状が箱の中に収められていた。「デコポン」は、九州一円はもちろん、近年は関東をはじめ、ほぼ全国的にその名が知られるようになった。頭に出臍のような凸がついているミカン、それが「デコポン」である。
「デコポン」は、「ポンカン」と「清美オレンジ」をかけ合わせて作られた雑種のミカンで、30年前の昭和47年に(当初)「不知火」という名で市場に出た。果汁もたっぷり、甘さもあって薄皮ごと食べられるので、皮むきを嫌がる男性や子供たちにも人気があった。しかし、栽培の難しさ、それに伴うコスト高などで普通のミカンより値段が高めで、いま一つ市場が伸び悩み、しばらくは熊本県内販売にとどまっていた。しかし熊本県では平成2年ごろから新しい技法を採り入れ、本格的な栽培に着手、県外に販売チャンネルを広めるようになり、“美味しいミカンの横綱格“にまで成長した。「デコポン」の美味しさは、徹底した品質管理にあるという。糖度や酸度を計る光センサーが導入され、糖度は125度以上、酸度は1.05度以下と厳しい基準が定められており、一つひとつがその基準をクリアしなければならない。現在では「紀州デコポン」、「愛媛デコポン」、「鹿児島デコポン」など、比較的温暖な地方で栽培されるようになったが、やはり本場は「熊本デコポン」だ。熊本県内のデコポン栽培農家はたくさんあるが、中でも、私は「天草デコポン」を贔屓(ひいき)にしている。『天草の内海(南向きの山)がデコポン生産の最適地』とは、デコポン生産者の共通した評価だと聞く。海のミネラルがたっぷり含まれた潮風がデコポン山(丘)の斜面に吹き上げ、土地にもデコポンにも豊富なミネラルを運ぶ。それに、ワックスでの艶出しやエチレンガスでの着色などは一切さけ、無農薬(有機栽培)で育てる。形や見栄えよりも“ミカン本来の味を追求した栽培”にこだわっているから、美味しくて安全なのだ、と私なりの評価をしている。
私のこどもの頃は、「デコポン」はなかった。当時、“柑橘類の花形”といえば「ポンカン」だった。これがまた高級品で、元旦のおせちと一緒に「初物」として少しだけ食べさせてもらえ、それから春の忘れ雪の頃まで、貴重なものとして有難く食べたものだ。日本における「ポンカン」の歴史は、さほど古いものではない。物の本によると「原産地はインドのスンタラ地方で、中国南部や台湾に多く栽培されており、日本には、明治29年、当時の台湾総督だった樺山資紀が「ポンカン」の苗を郷里・鹿児島に送り移植した」とある。「ポンカン」は、果皮は少し厚く、果肉は柔らかで多汁、酸味も強く香り・風味ともにさわやかな味であることは、各位ご存知の通り。柑橘類に目のない私は、子供の頃の懐かしさも含めて、今でも「ポンカン」を愛してやまない。それでも新種の「デコポン」と並べると、迷わず「デコポン」に、ポンと手が出る。それは、主産地・熊本への郷土愛も加味されてのことではあるが・・・ともあれ、親友から贈られた「熊本デコポン」を今日も味わう。美紀ちゃんの友情と故郷の懐かしさを噛み締め、胸もおなかもいっぱい。そこでたたいたおなかが“ポン”。「デコポンも人間も同じ。見かけより中身、真(芯)のみずみずしさとその人らしさ(味)が肝心だよな・・・」っと呟く・・・・さくらの独り言。
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