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No.460          Ryo Onishi               3/7/2005   

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雑貨屋のひとり言

3月になったというのに寒い一週間でした。でも夕方6時を過ぎても明るくなってきたので、春が近づいてきたという感じがします。
会社のグローバル研修で、e-mailライティングクラス(アドバンスクラス)を受講させていただきました。日本人の講師だと思っていたら、アメリカ人。すべて英語、しかも金曜、土曜日の二日間。大変面白いクラスでしたが、ちょっと疲れました。面白い講師で、変なことを言うと、バンッ、バンッと撃つまねをするんです。そのときのリアクションで、関西人か関東人かわかるそうで、もちろん関西人はリアクションが大きい・・・。私の場合は・・・・。(R.O.)

ア カ デ ミ ー 賞  

「映画の都」と言われるハリウッドは、ここロサンゼルス市内の一地域ですが、毎年恒例である「映画界の祭典 ― アカデミー賞授賞式」が先日の日曜日(2月27日)、ここで開催されました。

会場はハリウッドのド真ん中にある「コダック・シアター」と言うところですが、私は授賞式の四日前、会場の下見に行って来ました。 ――― と言っても、私ごときが会場内へ入れるわけはありません。ただ、会場の周辺をうろついてきただけですが・・。

まだ四日前だというのに、もう会場のコダック・シアターは勿論、お隣のチャイニーズ・シアター(ここはスターの手形・足型がたくさん保存されていることで有名な観光スポットです。最近では日本のゴジラもその仲間入りしました)も含め、ハリウッド大通りは完全に交通止めとなり、式典の準備・設営のためたいへんな騒ぎで活気に溢れていました。

日本では衰退気味の映画産業ですが、こちら米国では、映画は国民の間に根付いた文化であることを実感させられます。

 数年前、私は授賞式前日の夕方に式場の様子を見に行ったことがありましたが(この時の会場はまだ現在のコダック・シアターではなく、ロサンゼルス・ダウンタウンのドロシー・チャンドラ・パビリオンでした)会場の外は報道陣の取材用の車両がずらりと並んでいるだけでなく、スターが歩く赤じゅうたんを取り囲んで設置された屋外観覧席には既に徹夜組の観客たちが席を陣取り、前日から異様な雰囲気で盛り上がりを見せていたのには、びっくりしました。

 アカデミー賞とは、アメリカ映画芸術科学アカデミーが毎年、最優秀映画作品・俳優・監督などを選んで与える賞のことであり、オスカー賞ともいわれています。1927に始まり今年は第77回でした。

今回の開催日当日、私は夕方5時過ぎから3時間以上にわたってABCテレビが実況中継した授賞式の様子をすべて観ました。

各賞の発表のたびにプレゼンテーターが「Oscar goes to ・・」と言いながら受賞者(又は受賞作品)の名前の入った封筒を開き読み上げます。 ――― すると受賞者が派手なパフォーマンスで喜びを表現する ――― 受賞者に「黄金の人体像(Oscar)」が渡され、受賞者が感謝の言葉を述べる ――― 途中、音楽の演奏などもあるとは言え、ただ、これだけの授賞式風景なのですが、さすがハリウッドの演出だけあり、観ていて決して飽きることのない画面の連続でさすがでした。

 今回の受賞結果は既にニュースとして大きく報じられているので、ここに書き記すことは省きますが、今回の授賞式では黒人パワーの台頭を大きく印象付けた点がこれまでのアカデミー賞授賞式と異なっていたといえるのではないでしょうか。

アメリカという国の姿が映画の世界でも強く反映しているといえるのかもしれません。
                                                               河合将介( skawai@earthlink.net

さくらの独り言「と・も・だ・ち

小さい頃読んだ偉人伝の多くは、幼少時期における家庭や家族、師や友、健康や生活の境遇がその路を決定した主要素だったと記憶する。偉業を成し遂げたその人たちは、初代であろうと何代であろうと、徹頭徹尾守り通した何かがあった。それに似た人生や生活の指針となる哲学や教えは、偉人とは到底言いえない平平凡凡な私も与えられており、その多くは、両親や恩師、そして友人からのもの、財産だと思っている。中でも今は亡き父が常々諭してくれて言葉、「父さんの今があるのは全て友人のおかげ、お前も友人が財産と言える生き方をしろ」は、財産目録に代わる我が家の家訓となっている。

昨今、西武鉄道による大株主保有株比率の虚偽記載問題で逮捕された堤義明コクド前会長は、西武グループ創立者の父・康次郎氏から何度も諭された事、それは「友達はつくるな」だったという。生まれた時からオーナー大企業の社長になる者として学んだ帝王学に貫かれたもの、それは「王国の主に対等の関係は必要ない」だったという。ある経済誌に掲載されたで堤氏の対談記事で、今でも忘れられない発言がある。「頭を使うのは自分一人でいい。頭脳のいる仕事は外部に求めればいい。頭のいい連中は、忠誠心とは関係なく、金さえ払えばいくらでもいい知恵を出す」だ。こうなったら、社長であるだけでもモノを申せない周りが、今や死語となったイエスマンだらけとなるのも当然だ。膨大な財産目録を増やし守るための諭し「友達はつくるな」は、今やその目録さえも失わせてしまいかけている。誰もできない経験を、好きなことを好きなだけやれた堤氏の人生70年の間に、“友達”の意味を示唆させる財産は本当になかったものだろうか。

今までに親しんだ、友人、友情に関する格言を調べると・・・
  • 「友情のための最大の努力は、友人に我々の欠点を見せることではない。彼に彼の欠点を悟らせることだ。」(ラ・ロシュフーコー)
  • 「友人同士は完全な平等のうちに生きる。この平等は、まず第一に、彼らが会ったときに社会上のあらゆる相違を忘れるという事実から生まれる。」(ボナール)
  • 「真の友をもてないのはまったく惨めな孤独である。友人が無ければ世界は荒野に過ぎない。」(フランシス=ベーコン)
  • 「友人の果たすべき役割は、間違っているときにも味方すること。正しいときにはだれだって味方になってくれる。」(マーク・トウェーン)
  • 「自分にとって大切なことは、他人が自分のことをどう考えているかということではなく、自分が彼らのことをどう考えているかということだ。」(ブリヤン)
  • 「困難な情勢になってはじめて誰が敵か、誰が味方顔をしていたか、そして誰が本当の味方だったかわかるものだ。」(小林多喜二)
  • 「友人の失敗には目をつぶれ、だが悪口には目をつぶるな。」(フランスの諺)
  • 「友人に不信をいだくことは、友人にあざむかれるよりもっと恥ずべきことだ。」(ラ・ロシュフーコー)
  • 「友情は瞬間が咲かせる花であり、そして時間が実らせる果実である。」(コッツェブー)
  • 「人生から友情を除かば、世界から太陽を除くにひとし。」(キケロ)
  • 「友とぶどう酒は古いほど良し」(イギリスの諺)
  • 「友情とは二つの肉体に宿れる一つの魂である。「(アリストテレス)
  • 「友人とは、あなたについてすべてのことを知っていて、それにもかかわらずあなたを好んでいる人のことである。」(エルバード・ハーバード)

“友”という字は、手と手を重ねて出来た字で、手を取り合うこと、助け合うことの意味がある(光村教育図書)。この真髄を求めなかった王国の主が活躍した半世紀とは違い、その半世紀の半分の年齢でありながら、女子ゴルフツワー開幕戦で活躍する女子プロゴルファーが眩しい。「ゴルフを教えてくれたのは、父だった。負ける悔しさを教えてくれたのは、二人の兄だった」とは、日本いや今や世界の宮里藍出演のチョコレートコマーシャルでのメッセージだ。彼女は今、家族に教えられたことを真髄に、ライバルでもある友人・横溝さくらとともに、有形無形の財産を創出しているように思える。友達に関する格言をかみ締めながら、私もゴルフ、がんばろっと・・・呟くさくらの独り言。
kukimi@ff.iij4u.or.jp

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

整形の鼻に自慢のサングラス

世についていけぬと古い眼鏡越し

社の危機というのにドンの古眼鏡

遠近両用掛けて明日を模索する

ラストチャンスに老眼の度を合わす


( ニュースやぶにらみ )

「民営化反対」
サービス手当てがサービス残業になるなんて −役所

「予算案 衆議院通過」
野党相手だと楽でいいなあ −郵政民営化法案

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp

http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

連載  こんな身体で温泉旅行(13)
 
 夜中に喉が痛くて目が覚めた。寝つけないらしいく、起きたり横になったりしていた夫が喉飴をひとつ口に入れてくれた。
「やはりラバ温泉からまっすぐ帰るべきだったかな」
 だからいったでしょ、あのときに帰ろうってとは、私はいわなかった。
「ポートランドまで行って、ぶっ飛ばして帰れば二日後にはロサンゼルスに着くわ。ここまできたからには、我慢するしかないわよ」
 夫は朝方近くなって軽いイビキをかきはじめた。
 翌朝、カーテンを開けると、窓いっぱいに裸木の枝が繊細なレース編みのようにひろがっていた。枝越しに青空が見える。今日も快晴だ。
 朝食にポテトの薄切り焼きがでた。
「これだ、これだよ。アイダホ・ポテトを食べるためにオレはきたんだぞ!」
 夫のうれしそうな顔をみると、私はほっとした。
 近くのガス・ステーションでオイル・チェンジをしたあと八十四号線にのった。しばらく走っていると、ポリスカーが赤いランプを点滅させながら追ってきた。
「しまった! ……しかし、スピート違反はしていないし、何だろう?」
 路肩に車を止めると、ポリスは夫にライセンスを見せろという。そして、外に出るようにいった。助手席の私のところへ来て「夫の名前は?」とポリスが尋ねた。チャールス・森田と答えるとポリスは頷くだけで何もいわない。OKになったが、止められた理由がわからない。他州のナンバープレートだからか、暇だったのか、どっちだろう。
 やがて山道にさしかかった。雪をかぶった森林風景が車窓をながれる。雪道になった。恐怖のアイシー・ロードである。肩に力がはいる。
 ブルー・マウンテンの峠にきた。冬枯れの茶褐色の耕地と真っ白い雪の平原が幾何学模様を描いて眼下に広がっている。点在する農家。何一つさえぎる物がない平原に、一本の道がはてしなく続く。幌馬車をつらねて東部からやってきた西部開拓者もこれと同じような風景を眼にして喜び躍り上がったに違いない。なんといっても、二十一歳以上の公民は五年間その土地を耕作すれば百六十エーカーの土地を無償でもらえるのだ。しかし、土地所有の概念がなく、季節によって住居地を移動しながら豊かな自然の恵みを享受しつつ暮してきたアメリカ先住民にとって、はた迷惑な闖入者だったのではないだろうか。
「昔は、でこぼこ道で、幌馬車が一台通れるくらいの道幅だったんだろうなぁ」
 ビュー・ポイントで一休みしていた夫が呟いた。
 峠を下る。なだらかな禿山だと思っていたが、近寄ってみると意外に草が生えている。遠くから見ると山肌と同じ色合いなので、禿山にしか見えない。昼になり田舎町の食堂に入った。人参の輪切り、ポテトの大切り、セロリのぶつ切り、ビーフ三切れのビーフ・シチュウを食べたが、美味しかった。壁を見ると、西部開拓時代に使ったであろう農機具や馬具などが飾ってあった。
 西部開拓時代とは、一般的にはアメリカ中部にあるセントルイスから開拓者たちがカリフォルニアやオレゴンに向いはじめた1825年に始まり、フロンティアの消滅した1890年までの65年間をさしているそうだ。
 州境のワラワラに着いた。この場所は、1831年に伝道師ナーシサ・ホイットマン夫妻と西部開拓者ドクター・マーカスが先住民族と交流を試みながら開拓していった場所である。当時の先住民には伝染病を隔離するという医学的な知識がなかったので、ホイットマンとの間に対立が芽生えた。結果的には先住民の半数が亡くなり、非難されたホイットマン夫妻は殺されてしまったのである。
 現在は、それを記念して「ホイットマン・ミッション・ヒストリック・サイト」という歴史博物館になっている。                                           つづく
  森田のりえ  noriem@JoiMail.com

 

 


編集後記

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Zakkaya Weekly No.460

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              tenshu@zakkayanews.com