酉(鳥)年にちなんで、そっと囁いた・・・「鷲の様に空を衝くように」、「ツバメの様に軽やかに舞うように」、そして「啄木鳥の様に円を目指すように」・・・真っ白いゴルフボールに向かって。新年打ち始めのおまじないだった。飛ばすことだけに快感を覚えるのではなく、その願い「〜の様に」に秘められた調和への憧れだ。美しい弾道とそれを創るフォームへの飛躍は、白いボールに同化させた私自身への祈りでもある。今年の私のテーマは「翔」・・・幾つになってもいい言葉だぁと思いたい。
“翔”という字の“羊”は、「いい形で立派である」ことを意味する。昔、神に祈願や感謝を捧げたとき、形がよく立派な羊を選んで生贄にしたことに由来する。それに羽がついた“翔”は、「いい形に翼を広げて雄大に大空へ飛び舞う」ことだ。羽を持つ鳥は、ハミングバードや特殊状況を除き、後ろに飛ぶことはない。進歩した科学の作品、同じ翼をもつあの巨大な鉄塊の飛行機でさえ、前にしか飛べない。飛ぶということは、常に「前」を意味すると言ってしまうと大げさだろうか。「翔ぶ」ということは、明日を創る力になるに違いない。
ところで、今年1月4日(火)の日本経済新聞夕刊「あすをつくる力」シリーズ@に、女子ゴルファー宮里 藍の記事が載っていた。そこには今年私のテーマとする「翔ぶ」ことへのkey wordが散りばめられていた。それは、@上を目指すには些細なことに拘らず、純粋に自分を信じることが大切、A世界を身近に感じ、様々な人の考えを吸収することで自分が鍛えられる、Bミスに落ち込んだ姿を見せない、その元気や爽やかさが魅力となる、Cくよくよせず前向きな課題に挑戦すること、またそのように常に次を考えた指導をする師匠の存在とその力量の偉大さ、D何を目指すかという目標をクリアにする強い意志の重要性、などである。現在19歳の宮里 藍は『自分らしさを求められて育った世代』であり、だからこそ『歩む道を選ぶ作業に悩む人が多』く、私達の理解できないフリーター等も当たり前の世代社会だ。しかし、日本や世界の明日を担う彼らの時は既に始まっており、その証拠に、この若き彼らの言葉に何かが創り出されていく力を感じる。それはまた過去から未来への架け橋の予感、何かを創出する知恵と力が響き合う瞬間、時代共存の時、つまり共に成長・成熟がその時にかなって影響を与えあう良き時代の到来だと思う。
さて、ゴルフの楽しみとは裏腹に、スランプの極地で年を越した。果たして今年、ゴルフクラブを握れるだろうかとさえ心配した。ゴルフなんてきっと嫌になってしまうだろうとも思った。しかし、新年の朝風呂で、ふとひらめいた。テイクバック(ボールを打つためにクラブを後ろに振り上げること)にのみ注意と不安が集中し、フォローとフィニッシュ(ボールを打った後にクラブを前方へスイングし、そのまま振り上げること)までも意識する余裕がなかったことだ。自分のイメージするテイクバックができないこと、その時点に身心が留まってしまい、続くダウンスイングもフォローやフィニッシュが考えられなくなっていた。その結果、前方ではなく後方というその一点に拘り続けることとなり、それはスイングの全体的な調和とリズムを弧の線ではなく点在する固の断絶的なものになってしまっていた。たとえどんなにいいテイクバックができた時も、身体はボールを打った形で硬直し静止状態となり、ボールは方向音痴の車の如く暴走するもので、フォームも弾道も美しさに欠け、名実ともに“翔”には程遠かった。でも、新年の初夢ならぬ初風呂でのひらめきが、今年のテーマ“翔”を授けてくれた。そのおかげで、今年の打ち始めではスランプ脱出の一歩を実感することが出来た。まさに、これ、人生もしかり。後ろあっての前、しかし過去へのこだわりも一新に、現在・過去・未来の調和、大切なことは常に前へ美しく羽を広げることだと改めて悟った。“翔”・・・小さく真っ白なボールに囁いたことを自分自身にも・・・「鷲の様に・・・ツバメの様に・・・啄木鳥の様に・・・」と呟く、さくらの独り言。
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