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No.447          Ryo Onishi               12/5/2004   

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雑貨屋のひとり言

 昨日は、「MKチャリティシニアオープン」をワイフと観戦しに行きました。会場は三木市にあり、よくプレーするゴルフ場の近くだったのでクルマで行こうかと思いましたが、三宮からの送迎バスを利用しました。後半は雨が降ってきましたが、風もなく絶好のコンディションの中、さすがプロというプレーを愉しませてもらいました。私たちは中嶋と真弓(元タイガース選手)について観戦しました。テレビでは観れないシニアプロの素顔を見ながらの観戦で、愉しい一日でした。こんどは、ホットな女子プロゴルフを観戦したいと思いました。(R.O.)

大 腸 カ メ ラ 検 査 体 験 記

 高血糖、高血圧、高コレステロールなど、典型的な生活習慣病の原因と仲良しの私は、ここ数年、定期的(約三ヶ月毎)にホームドクター・チェックを受けており、ドクターの処方薬を毎日服用しています。

 おかげで血糖値は正常値です。ただ最近、血液検査の結果、肝臓と腎臓の値が少し高いと言われ、ホームドクターは私に専門医のチェックを勧めアレンジしてくれています。 

 先日、超音波による内臓検査を受けましたが、これでは特に異常はないとのことでした。そして次が大腸内カメラ検査ということになり、三週間前、専門病院で検査を受けることになりました。

 大腸カメラ検査とは、日本の医療関係会社の知人の説明によると、お尻から直径1センチくらいの管を入れ直腸から大腸内をカメラを通じ見るもので、このファイバースコープによる内視鏡検査方法を世界に先駆け開発したのは日本の医師であり、これをサポートし、関連医療機器で世界一のシェアーを持っているのが日本のO光学会社なのだそうです。

 「多分、麻酔を使い検査しますので心配は要りません。但しポリープは癌化し易いので発見するとその場でレーザーにより焼くかもしれません。しかし痛くなんかありません」と教えてくれました。

 日本人男性の場合、多い癌としては、大腸癌、肺癌、前立腺癌で、(胃がんも多いが最近は減少傾向)誰でも2、3年に一回は大腸カメラ検査を受けたほうが良いものなのだそうです。 

 「麻酔を使うので痛くない、心配ない・・」といわれても、カメラで長い大腸内を掻き回されては良い筈がないし、私のホームドクターからも「これは uncomfortable(不快)な検査だよ」と脅かされていたので、実は少々不安でした。

 事前に渡されていた指示書に従い、検査の前夜(午後7時)と当日朝(午前4時)の二度、指定の下剤を飲み大腸内のものをすべて排出し、午前7時に指定の病院へ行きました。 

 衣服を全部脱ぎ、病院備え付けのものをまとい、ベッドに寝かされ、血圧、心電図などのチェック、各種事前問診、右手首からの点滴などされ、私はベッドごと処置室(Procedure Room)へ運ばれました。処置室には案の定、O光学ブランドの各種機器が並んでいるのが見えました。 

 「いよいよ“不快な”思いのスタートだ・・」と覚悟をしようとしている私の口・鼻にマスク(睡眠ガス?)があてられ、不覚(?)にも私はぐっすり眠ってしまい、カメラ映像を通じて自分の大腸内との会話も出来ず、次に目覚めた時(20分後?、それとも30分後?)はすべてが終了した後でした。 

 眠っている間は夢さえみず、実に快適な眠りだったのです。おなかの中をカメラや機器で掻き回された筈なのに何の違和感も、痛みもありません。“ uncomfortable(不快)” どころか、ご機嫌よく眠れて私には “comfortable(快適)” そのものでした。

 処置後はすぐ帰宅 O.K.。但し、自分で車を運転してはいけないとのことなので、帰りは妻にハンドルを任せての帰宅でした。

 処置後病院から渡された紙には「ポリープを3個切除」と書いてありました。検査結果はホームドクターへ報告されるので、二週間後にホームドクターから聞けということでした。 

 帰宅後しばらくの時間は、なんとなく下腹に違和感を持ちましたが気になるほどではない程度でした。

 検査後病院の対応、処置、サービスにいたる全般に関するアンケート、翌日には「その後どうですか?何か質問・問題はありますか?」とのフォローの電話までしてくる検査病院のきめ細やかな対応に感銘しました。

 二週間後、検査結果を聞きにホームドクターへ出かけました。ドクターの説明によると、「基本的には問題ないが、あなたの大腸にはまだ取り残した大き目のポリープがあるので6ヶ月後にまた検査をしましょう」とのことでした。

 今回の検査を通じ、現代の医学と検査システムの進歩には改めて驚かされました。

【追伸】私の大腸カメラ検査を知った悪友の一人から、「折角、大腸内の撮影をするのなら、あとで写真の個展を開いたら?」とのご提案があったのですが、撮影時に本人の私がご機嫌良く眠ってしまったのでは個展は開けないですよね。

                                                               河合将介( skawai@earthlink.net )

さくらの独り言「同窓会」

 山々の衣替えもピークを迎えたの先週、ニューヨークオフィスの日本人パートナー(経営者)数人が来日した。私が米国中西部オフィス勤務時代にお世話になった、憧れの大先輩達である。その彼らに日本在住の気の置けない数人が加わり、一泊二日のゴルフ旅行が実現した。既にリタイアしている先輩、近々もしくは数年中にリタイアする先輩、すでに違った会社に転職している先輩や後輩、そして現役の私たち、まるで学校の同胞が集う「同窓会」そのものだった。そして、こんなに素晴らしい「同窓会」に参加できる自分が、とてもとても幸せに感じた、晩秋の候。

 この「同窓会」小旅行には、2回のゴルフプレーが組みこまれ、皆一様に、野に放たれたこどもの様に「あそび」を愉しんだ。それは、異国の地における過酷なまでのビジネスの世界を極限まで闘い抜いた戦士達のもうひとつの世界であり、また同時に真実の横顔でもあった。クライアントや友人とのプレーとは違う、緊張とヒューモラスに包まれた、なんとも清々しい秋空の様なゴルフだった。宵の宴は、懐かしい想い出話に加え、現在の課題と明日への期待話に華が咲いた。そこに限りないロマンを感じた。どんな境遇の中でも、過ぎさりし業績や手腕を誇らず留まらず、そして、変わり行く時代を見極め、自己開拓を潔ぎよく決断するこの先輩たちの明日が、私たちの未来へ向けても開かれている大きな大きな窓のように感じた。今までの会社をある意味で卒業し、次のスタートを切る先輩達の存在は、私にとってとても大きい。こうして彼らの背中に触れる時、いつまでもプロフェッショナルで有り続けるという意味とその実行・実現の証に魅せられる思いでもあり、いつまでも、どこにいても、先輩は先輩、後輩は後輩なのだと悟った。さて、「同窓会」旅行で大先輩達と久しぶりにゴルフをすると、自分の成長・上達ぶりを見せたくて、ウズウズし、その前夜は興奮して寝着けない。そして当日は、先輩達の熱い視線の中で緊張しながらも、その大先輩から「おっ、スゴイね」と言ってもらいたいと、つい力んでしまう。そうなると、普段のプレーが出来ない。すると焦る。焦るとますます肩に力が入ったり余計なことを考えたりして、ボロボロ坂をコロコロと下り始め、結果は悲惨になる。そして「すごいね」ではなく「まだまだだな」と、言われなくても思っているだろう先輩の声が見える気がする。そして、次の再会までの自己鍛錬とその成果を見えぬ声で約束するのである。これはゴルフに限ったことではなく、先輩達の成した偉業や生き様と、自分の到達度の低さと同様だと痛感するのである。

 ところで日本語では、同じ学校出身者によって組織される団体や会合を、同じ窓の会と書いて「同窓会」という。これをアメリカでは、ラテン語のalere 養育する・育成する、家畜を飼育する、助成、進める、上げる、増す、そして成長させるという意味の”Alumni”か、ひとつになるという意味のunionと再びという意味のreが組み合わさった”reunion”が使われる。大別すると、前者は“卒業”のある学校などの組織集団、後者は感謝祭やクリスマスなどの祝祭日に家族・親戚が集いや一般的に卒業のない会社・団体などの組織集団の場合に使用される。私は「同窓会」という日本語の美しさが好きだ。さらにそこに、英語のAlumniとReunionの意味を混合させた関係論を連想できる「同窓会」の実存が好きだ。

 この「同窓会」小旅行をした先輩後輩の私達の育った弊社のロゴマークには、4つの窓がある。その窓の意味は忘れたが、先輩後輩の私達がそれぞれの窓から世界を見、様々な社会へ旅立って、どんな世界でどのようにあっても切磋琢磨を繰り返し生き抜きながら、また再会することによって互いが育成し合い続けることを良しとする楽しみ、これは大きな財産だと思う。そして社会の変化に伴って会社も変わり、サービスや役割の体系も変わるだろうが、会社の良き時代によき者を生んだ会社には、開かれた窓とそこに集う人財があると確信するのである。先を行く先輩たちの背中は大きく、その道のりは遠い。しかし「いつかきっと」と謙虚に大胆に自分を励ますのである。そして今日も、一人黙々とゴルフの打ちっぱなしに通い、「開らけ窓〜」っと呟くさくらの独り言。

kukimi@ff.iij4u.or.jp

川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

逃げ水を追って今年も早や師走

今更に駆けることない12月


まだここにあった場末の喫茶店

父さんのラッパ 吐息がフッと洩れ

八掛けの歳で見果てぬ夢を追う

( ニュースやぶにらみ )

「師走」
12月はゆっくり休ませて −地震学の老教授

「ご当地ナンバー解禁へ」
ボーソーはだめです −千葉県

「靖国参拝」
中国には三拝九拝 −小泉首相

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp
http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

丘のヘッセ館
                
 その人のことを知ったのはロサンゼルスの日系書店でのことだった。ぶらりと入った本屋で、いつもの旅行コーナーでふと目にとまった本がある。『ヘルマン・ヘッセ街道』である。その巻末を読んで驚いた。
――へッセが八十五歳でなくなるまでの十四年間、ヘッセと四反田五郎氏は交友があった。その間に取り交わされた数々の書簡やヘッセ自身の描いた水彩画などを集めて陳列し当の四反田氏が「ヘッセ館」として一般公開している。個人所有につき予約が必要。所在地は広島市井口町、と書かれていた。
 驚いたの所在地である。私の故郷だ。ヘッセの作品は若い頃読んだ「車輪の下」だけである。しかも暗い印象があり好きになれなかった。しかし、故郷に文豪と文通したすごい人がいる。日本へ行くチャンスがあれば訪ねてみたいと思い、こっそりと所在地を書き写しておいたのである。
 秋たけなわの十一月、母の見舞い方々訪日旅行をした私は、さっそくヘッセ館を訪ねた。
 広島駅から西へ向う瀬戸内海沿線の三つ目の駅で下車。プラタナスの黄葉が散り敷かれた坂道を登りきった住宅街の一角にヘッセ館はあった。玄関の呼び鈴を押す。
「今朝、電話した者ですが、見学させて頂けませんか」
「そこの階段を上がってください」
 内側からぶっきらぼうな女性の声がした。玄関脇の鉄骨の階段を上がると、八十近い体格のいい男性に迎えられた。
 館長の四反田五郎氏、その人であった。
 ロサンゼルスの書店で「ヘッセ館」があることを知ったと話すと、「ほう、まぁ、外国でねぇ」と目を細めながら「そりゃ、まあまあ、どうぞ」と、ふっくらした顔に笑みがこぼれた。
 二階が陳列室で一階は居住区らしい。広い部屋の壁面にはヘッセの生まれたドイツの田舎町カルフの写真、ヘッセの自筆の水彩画、スケッチや手紙などを入れた額がぎっしりと掛けてあった。ガラス・ケースには、ヘッセが亡くなってからご子息から贈られたという庭仕事に使った鎌やスコップなどの細々した道具類、それに帽子が陳列してあった。それらを見学している間中、カセット・テープに吹き込まれた晩年のヘッセの話声が流れていた。残念ながら私には小鳥のさえずりのようにしか聞こえなかったが――。
 私は、ヘッセと文通をするようになった動機を尋ねた。
「二十四歳の時『クヌルプ』を読むと、非常に東洋的な思想が感じられるので不思議に思い、手紙を書いたんですわい。すると思いかけず本人から返事がきましてのう。
驚くとかうれしいというより夢をみているような、しばらくぼーっとしてました。手紙に『大きなことは前もって決めてはいけないと』と書いてある意味が長いあいだ理解できんで、なんのことじゃろうかと長い間考えました」
 その言葉の意味を教えてもらったが、聞くはしから忘れてしまった。
 ヘッセの作風はある時期から求道的な性格を帯びてきたそうである。それは信仰篤いプロテスタントの宣教師の娘で、しかもインド生まれの母親からの影響で、ヘッセは中国の思想や仏教などの東洋思想へ傾倒していったという。
「わたしゃ、もともとロシヤ語が専門なんですがの、おかげでドイツ語を一生懸命勉強ましたよ」
 といいながら、突然、分厚いカーテンをさぁーと引いた。
 眼下に、午後の照り返しに光る海と瀬戸内に点在する小島が見えた。
「ヘッセが晩年過ごしたスイスのルガノ湖畔に似たところにわたしも住みたいと思って探したのが、ここです」
 ヘッセとの交流が人生の一要素というより、四反田氏の人生に深く入り込み血肉になってしまっていることに、私は、光る海と同じようにまぶしいような感動を覚えたのである。
                                 おわり 
  森田のりえ  noriem@JoiMail.com

成岡流お酒の楽しみ方

関西クラブ ロサンゼルス研修レポート

 先週に引きつづき、亀谷 枝里子さんの「関西クラブ研修レポート」をご紹介します。
 私もボランティアの関係でトーランスの市議会について、少し学んだことがあります。ほとんどが”政治屋”になっている日本の政治家は自分の任期の間に、名を残すことを考え、本当の意味で市民のことを考えて行動しているように思えないのは私だけではないと思います。

― 日米の市議会比較 ―
                                                              神戸大学経営学部一回生
                                  亀谷 枝里子

 今回の研修では、私の初めての海外旅行だったこともあり、様々な面においてカルチャーショックを受けた。自分に最良の仕事を見つけるまでは職場を転々とするアメリカ人。野球場の土産物売り場で国歌斉唱中に店員に話しかけた時、彼が人差し指を唇の前で立てた事に見られるように、国旗と国歌をとても大事にする国民だった。トーレンス市議会を訪問したときには、市民が主体的に働いて、自分たちの住む地域をよりよいものにしていこうとしている点が日本との大きな違いだと感じた。以上が、今回の旅行で私が感じたアメリカに対する感想の総括だ。

 これらの中でも特に印象深かったのは、アメリカの市民が積極的に地方自治に参加していたことだ。そこで、日本の市議会とアメリカの市議会とに焦点を絞り、この二つを比較してみた。その結果、次の2点が日本の市議会制度の問題点ではないかと考えるに至った。
 @市民が積極的に市政に関わらないこと。
 A市民が市政についての情報を得にくいこと。

 日本と米国では市議会の制度の違いや、価値観の違いもある。加えて市町村の規模が圧倒的に日本の方が大きい。そのため、先に述べたトーレンス市議会という組織の制度をそのまま取り入れることは不可能だろう。以下では日本の市議会の制度を踏まえ、日本なりのよい議会の実現のための施策について考察してみた。
 
◆問題@について

<米国の場合>
 トーレンス市議会を訪問したときには市民が市議・市長に対し、意見・批判・請願を直接に訴える場が設けられており、90分ほどの間に十余人の人達が立て続けに壇上に上った。そこでは全員が意見を述べる前に自分の名前・住所を記入したフォームを読み上げて所在を明らかにし発言者箱に入れる。傍聴に訪れた人達の人数の多さや、その立て続けに質問をする様子からも、トーレンス市民の市政への関心の高さが窺えた。
 アメリカでは住民投票で自治体をつくると決議してはじめて自治体ができる。つまり市民がそう決議しなければ、自治体のない地域に住むことになる。「領域をもった全員加盟制のNPO」それが自治体であるというイメージだという。
 先に述べたトーレンス市議会で、私が最も感銘を受けたことは、市民が責任を持って発言をするための制度が有効に機能していることだ。顔と名前を見せて意見を述べるからには、批判を受けることもあり得る。これが、皆真剣に考え抜いた上で意見を表明することの一因となっているのだろう。自分がそこまで自信と責任をもてない意見であれば、政策にも反映されにくいのでは、とも思えた。また、トーレンスの人口は約13万5000人、それに対して市会議員は市長を含めて7人。日本の松江市の場合には、約14万8600人の人口に対して議員定数は34人だ。トーレンス市では、市民が積極的に議論に関わるから、比較的少ない議員数でも議会が成立するのだろうか。

<日本の場合>
 先日、松江市議会の定例議会を傍聴した。アメリカの地方自治制度以前に、日本の地方自治制度について殆ど知らないと自覚したからだ。議会の前に議事の内容を調べておいた方がいいだろうと思い、インターネットで調べてみたが、そのような資料を得ることはできなかった。(これは私の検索方法がまずかったため。実際には松江市役所のホームページ内に、九月定例議会の議案は掲載されていた。)直接市役所に出向いて聞いてみても、一般向けの資料は当日にならないと配布できないという事だったので、職員用の資料をいただいた。議会当日には、市議が市長に対し、その市政についての反対意見や賛成意見の表明や、提案をする一般質問が行なわれていた。その内容は多岐に渡っていたので、専門の職員をおかない限り、その内容を市民に十分に理解させる事は出来ないだろうと思った。
 これらのことから考えると、松江市議会の問題点は、市民にとって市議会が身近なものではなく、不満や要望があってもそれを実際に訴えることが少ないということにあると思う。以下に身近な例を挙げる。

 松江市民の多くは市内での移動手段として自転車を利用する。だが、市の中心部には駐輪スペースがなく、やむを得ず駐輪禁止区域に駐輪することになってしまう。何か対策を講じて欲しいと思っても、その訴える方法が分からない。それを調べてまで訴えようとはしない。日本の市議会でも請求権を行使すれば、自分の考えを表すことは可能だ。しかし、私も含め一般市民の殆どが、それを行使したこともなければその手順も知らないのが現状だ。地域への帰属意識を高め、その地域をより住みやすいものにするために、市民は積極的に市政に関わろうと、市は市民にとって市政がより身近なものになるように努力すべきではないだろうか。
 その解決策のひとつとして、町内会単位でミニ議会のようなものを開くことを提案する。より身近な町内会での意見交換や、意思表明はし易いだろう。そして各町内会の代表者が年に1、2回ずつ市議会に出席し、そのミニ議会で出された意見をまとめて、市議会で訴える。その際、町内の過半数が賛成する意見についてはその町内会の意見とするが、個人の意見もその個人名を明らかにして紹介する。こうすることで、意見を表明するものに責任をもって発言するよう促すことが出来る。そして市長や市議は市民がなにを本当に求めているかを知ることが出来るし、市民も市政への関心が深まる。
 
◆問題Aについて

<米国の場合>
 人口31万9千人の、東京品川区の議員の月給は616,000円で、これに加えて毎月政務調査費等として、190,000円が支払われる(2002年)。一方、トーレンスの市会議員はそれだけで生活できるような報酬は得ていない。トーレンス市長の月給は100ドルだという。そのため各自が自分の職業を持っていて、市議会は毎週火曜日の夜に開かれる。この時間帯であれば、市民も仕事を終わってから参加できる。また市議会を訪問した際に伺ったお話では、市議会の様子はケーブルテレビで生中継されており、議会終了後も繰り返し24時間放映される。この二つのことにより、市政がより市民に身近なものになっている。自分たちの街は自分たちで作り上げてゆく、そのためにみんなが参加できる仕組みを考える。市長を中心に傍聴席の市民に向かって扇型に配置された市会議員の議席の配置が、市民に開かれた市議会を象徴していた。そのような地方自治のシステムがアメリカの民主主義を支えているように思えた。

<日本の場合>
 先に述べた松江市の定例議会は午前10時に開会した。この時間帯には仕事を持つ人は殆ど行くことができないだろう。現に私が傍聴に行った日は7人ほどしか人がいず、しかも彼らの殆どが市役所の職員のようだった。いつ、どのような議題が審議されるかをインターネット上に掲示し、傍聴を希望する人数が多い日は夜に会議をするなどの工夫が出来ないだろうか。
 幾つかの職場で経験を積んだ後に一生働く場所を決定し、母国に対する誇りを持ち、それでも権力に対する疑いから市民は自分自身の意見を持つ。これが今回の研修を通して感じたアメリカの印象だ。こういった仕組みや精神があれば、日本も私自身ももっと前向きに元気になれるのではないかと思う。これらのことを実現させるためには、経験を積むこと、何か一つの分野で人より秀でること、及び自分の頭で物事を考えることが必要だと、この研修を通して改めて痛感した。
最後に、今回私にいろんなことを勉強するチャンスを与えて下さった関西クラブの皆様、訪問を受け入れて下さった企業等の皆様に心からの感謝を申し上げます。
どうもありがとうございました。

参考文献
URL www.systemken.org/geturei/07.html

編集後記

だいぶ寒くなってきましたが、風邪など引かないように気をつけましょう。
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.zakkayanews.com/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.447

雑貨屋 店主 大西良衛   http://www.zakkayanews.com/
              tenshu@zakkayanews.com