No.435          Ryo Onishi               9/12/2004   

 

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雑貨屋のひとり言

先週の地震には驚かされました。16階にある我が家ではかなり揺れました。震度4くらいであれほどの気持ち悪い揺れ方ですから、阪神大震災並みの揺れが来たらどうなるのかと、不安に思っています。
今回の地震が東南海地震とは直接関連ないとニュースで解説されていましたが、遅かれ早かれ、大きな地震がくることは間違いないように思います。心の準備と、地震対策を始めたいと思います。(R.O.) 

あまり 知られていないL.A. 観光スポット(176)

San Bernardino Rancho “Asistencia”
18世紀後半から19世紀初頭にかけてカリフォルニアには21ヶ所のスパニッシュ・ミッション(キリスト教伝道所)が作られたことは良く知られています。

今回ご紹介するSan Bernardino Rancho “Asistencia”(正確には“Estancia”)はサンベルナーディノ郡(San Bernardino County)の Redlands市にあり、上記21ヶ所のスパニッシュ・ミッションのうち、4番目に作られたMission San Gabriel Archangel の付属施設として 1819年に造られました。

当時は現在の位置から1マイルほど離れた広大に地域にあり、家畜(牛)の放牧場であったようです。

その後、幾多の変遷があり、1850年代にはモルモン教の施設となったり、個人の所有の時期もありましたが、1925年にサンベルナーディノ郡が歴史的に価値ある品々を当時の個人所有者から譲り受け、サンベルナーディノ郡歴史協会の支援のもと、州と連邦との共同プロジェクトとして現在の位置に新たな施設の建設を始め、1937年に完成しました。

現在、この施設はカリフォルニア州の歴史的ランドマーク(California Historical Landmark #42)として登録されています。

現在保存されている施設は決して大きいものではなく、建物はミュージアム、小さなチャペル、ゲート・ハウスのみですが、カリフォルニアの歴史を語ってくれる施設です。チャペルや中庭は今も結婚式などに使われています。

ミュージアム建物もそれほど大きなものではなく、展示品もこじんまりしたものですが、この地の先住民や人々の生活の一端を知る展示品があり、一見の価値は充分あると思います。

レッドランドを訪れる機会があったら、ここも必見のスポットと言えるでしょう。

●住 所 : 26930 Barton Road, Redlands, CA 92373
●オープン日 : 水曜日 – 日曜日(月、火曜日、主要祝日はClose)
●時 間 : 10:00amから4:00pm(水曜 – 土曜日) 
         1:00pmから4:00pm(日曜日)
●入場料 : 入場自体は無料。ただし、ドネ―ション(一人$2)
●電 話 : (909) 793- 5402

行き方は次の通り(Torrance方面よりの場合)
(1)FWY#110(またはFWY#710、 FWY#605)を北上してFWY#10(東)へ。
(2)FWY#10を東へ進み、San Bernardino Countyへ入って、FWY#15、FWY#215を通過し、さらにFWY#10を東へ。
(3)FWY#215を通過してから約5マイル進み、Alabama St.出口でFWYを降りる。
(4)FWY を降りたらAlabama St.を右折(南へ)。
(5)Alabama St. を約1.5マイル南下し、Barton Road を右折(西へ)、0.5マイル進むと道路右側にスパニッシュ・ミッション“Asistencia”がある。
(6)全行程 ;(Torrance方面からの場合)約85マイル、ドライブ約1時間30分。
                                                                   河合将介( skawai@earthlink.net )

さくらの独り言「9月の暦」

 暦は9月、この頃になると私は胸が痛くなる。自分の心臓が何処にあるか、確かに分かる程、痛い。それはふたつの出来事。ひとつは大先輩三本松さんの急死、5年前の9月2日だった。そしてもうひとつ、米国同時多発テロ、3年前の9月11日。今回の「さくらの独り言」は、米国はワシントン州からの呟きだ。エバーグリーンのニックネームのごとく、変わることのない深い緑の山と海、その穏やかな地が、どこか緊張感と切なさが漂い、さらに、深い悲しみと途方にくれるような絶望感さえ感じる。普段、東京にいる時は、外国で起きるテロに怒りを覚え、犠牲者及び遺族への心情に涙することもある。しかしどこか、対岸の火事的安楽さが私にはあった。でも今、ここアメリカに居るという現実、そして毎日のマスメディアが伝える「忘れまじ9・11」の報道によって、この緊張感がもたらされているのかもしれない。そんな中で今回は、ドキュメンタリー風さくら「9.11」を求めてみたい。

「9.11」といえば、3年前のテロ事件直後と昨年5月に世界貿易センタービル群跡地(グラウンド・ゼロ)を取材した友人N氏(ビデオ・ジャーナリスト)の話を思い出す。「事件当時の悲惨な状況は消えた。しかし、事件の被災者、目撃者の脳裡から、あの地獄絵図は永久に消え去るものではない。1年半経った今(昨年5月)も、グラウンドを囲った金網の根本には犠牲者を悼む供花の列、金網に顔をくっつけ、犠牲者の名を呼び続ける老夫婦に涙を誘われた。 
カメラを向けることも憚られた。忘れまじ9.11、許すまじテロリズム」悲しげに、また怒りを込めてそう語ったN氏の顔が、なぜか今、新鮮に蘇る。この地アメリカに、今、自分が居るというというこの事実が、N氏の思いのみならず被害者の叫びを実感させるのだろう。

先週ロシア・北オセチヤでの学校襲撃テロは、300人を超える犠牲者の多くが児童生徒だった。何と痛ましいことか。その事件の前にはモスクワ地下鉄の自爆テロ、航空機同時爆破テロの記憶も生々しい。そして現地時間9日、ジャカルタでオーストラリア大使館を狙った爆弾テロが起きた。いずれのテロも犠牲者は、何の罪もない一般市民及びこどもたち。世界秩序の破壊を狙うテロ集団の行為には何の道義も正義もない。彼らがこれ以上の大量破壊兵器を入手すれば、世界は更に重大な脅威に直面する。アメリカは、そうした危機感からアフガンとイラクを攻撃した。両国の政権は倒したが、安定化にはほど遠く、両国の復興と民主的政権樹立に失敗すれば、世界はテロとの戦いに敗北することになる。イラク戦争以来、世界的に反米感情が高まっている。だが、唯一の超大国アメリカを抜きにしては世界の安定も繁栄もあり得ない、というのが専門家筋の見方だそうだ。はたして、その真実と事実は、いかなるものだろうかとつぶやきたくなるのは、私だけだろうか。

いつものことながら成田離陸直前に、九州の母にアメリカ行きの報告を電話した。「こんな時期(9・11)にアメリカへ行くなんてどうかしている、止めなさい。」と叱られた。でも、急用が出来たので仕方がない。「なら、ニューヨークには近づかないように・・・」と母。親なればこその心配だと感謝しつつも、ニューヨーク行きも、これまた変えられないスケジュール。さて、母に告げるべきか、帰国後、無事の声を聞かせる時、白状すべきか、多少の後ろめたさを感じながら、ニューヨーク行きの航空券を手配すべく、旅行代理店に電話した。「11日前後はガラガラです。13日以降は、混んでいます。」との返事。 
やはり、9・11を意識しているのだと知る。私も13日以降に飛ぶことになった。ニューヨークで「グラウンド・ゼロ」を訪ねようと思っている。そしてN氏と同じように、「テロへの怒りと憎しみを実感し、9・11の犠牲者のご冥福を祈りたい」。9月の暦は苦しいなっと呟く、さくらの独り言。
kukimi@ff.iij4u.or.jp

川柳 & コント(東京・成近)

( 川 柳 )

木道の風情も尾瀬の霧の中

縦走を終え温泉の人心地

藁屋根と昔話を昼の月

押し花に遠い昔の花言葉

雲悠々明日の運命に逆らわず

( ニュースやぶにらみ )

「郵政民営化」
文句のある人は手紙でどうぞ −小泉首相

「スト回避に安堵」
ストライキアウト −球場のフアン

「優勝目標日」
お彼岸の中日=@ードラゴンス

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp
http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

姑を看とる( 4 )

 義母のリハビリがはじまった。
 手摺りを両手でつかみ、そろそろと歩く。毎日半時間ほどの練習だったが、一週間過ぎると片手に杖をつき片手で手摺りにつかまって二十メートルほど歩けるようになった。ゆっくりだが、車椅子の車輪を自分でまわせるようにもなった。病院の屋上から行き交う車をみながら、義母は自分の育った子供のころの話しやガキ大将でいつも親を困らせていた夫のことなどを私に話してくれた。
 ある朝、病院へ行くと婦長に小言をもらった。なんでも義母は、夜中に大きな声で唄を歌ったそうで、他の患者から苦情がでたというのである。
「淋しいからな、唄でも歌わんと夜が明けへんのや」
「どんな唄ですか」
 と尋ねると、義母は子供のころ覚えた手まり唄だといって聴かせてくれた。

  ♪ うちの裏のちちゃの木に、雀が三匹止まって、
    一番はじめの雀のいうことにゃ、夕べもろうた花嫁さん
    金襴緞子を縫わしたら、縫わしたら―――

 身体はどこも悪くない。老衰である。
 義母は「帰りたい」という。 私たちも病院通いはくたびれた。在宅介護をしようと夫が言い出した。だが私は、痩せているから軽いと思って抱きかかえた義母が意外に重くて腰をやられてしまった。家で看るとなれば私に負担がかかる。自信がない。すると夫は「オレがやる」と、殊勝なことをいった。そうだ、私ひとりが気張らなくても、夫にやってもらえばいい。そう思うと、気が楽になった。
 義父が亡くなって十四年、義母だけの一人暮しの家はわびしいかぎりであった。
 茶華道の師範をしていた義母は几帳面な人だった。元気なころは板の間や廊下は黒光りするほど磨き上げ、庭には四季折々の草花を咲かせていた。しかし、老いて身体が不自由になってくると、六畳間にプロパンを持ちこんで煮炊きをしていたらしく、壁はすすけて黒ずみ、じゅうたんは焦げ跡やシミだらけ。痒いと思ったらダニに食いつかれ、天井から三十センチもあるムカデがぼたっと落ちてくる。押し入れのカビ臭い客用蒲団の間にはヤモリの死骸。脱衣室は雨漏りでうっとうしく、座敷は倉庫代わりになっている。義兄が不用になったピアノや子供たちの机や木箱を積み重ねていた。五十坪ほどの前庭はジャングルと化し、蛇、ムカデ、トカゲなどのすみかになり、なにげなく覗き込んだ私はぞっとさせられた。
 義母を家につれて帰ろうと決めたとき、
「この家はオマエたちが好きなようにしたらエエさかいな」
 大阪の義兄がいった。
 いわれなくても、片付けないと住めたものではなかった。ガラクタは燃やし、壁にペンキを塗り、障子を張り替え、カーテンやじゅうたんを新しくして雨漏りも直した。義母用のベッドやポータプル・トイレなども用意した。これでいちおう在宅介護ができるように準備が整ったのである。
 よい香りを漂わせていた庭の金木犀の花があっという間に散ってしまった。いつしか私たちの日本滞在も一ヶ月半になろうとしていた。

 森田のりえ  noriem@JoiMail.com

成岡流お酒の楽しみ方

SOM様!日本文化にカルチャー・ショック? 
       来日に一苦労・異文化に戸惑いも!? 

                                 吟醸酒蔵みゅーじあむ 館長 成岡 卓翁 
 昨年6月SARSでアジア向け海外旅行者が激減し、主にアジア系航空各社が破格のディスカウントチケットを売り出した。向こう見ずな私他2名が買ったのは名門「シンガポール航空」の一万九千円のチケット。もちろん往復で。そして、シンガポール経由でバンコク入りした時に知り合ったのがSOMさん。 
 1年越しのお付き合いの末、今年6月訪タイした時、日本に招待することにした。しかし、我々日本人は観光で30日以内だったらビザはいらないのに、タイ人が日本に行くには、ビザを取らなくてはならない。本来「相互互恵」なのに、実に片手落ちな話である。 
 やむを得ず、バンコクにある日本大使館領事部にビザ申請書類を貰いに行った。「何日位で発給されるのですか?」と聞くと「中二日で発給されます」と、いとも簡単なんだと思わしたが、軽率だったことが後で分かるのだが、今号は、そのSOMさんの来日記。 
  
外務省に問い合わせ? 
  
 来日日程の話で、彼女と私の意見に開きがあり、最終的に8月3日(火)から23日(月)までの三週間と決定した。 
 私が帰国した6月25日以降、早々にインターネットで飛行機の手配などを済ませて、すんなり来日かと思いきや、現地からの連絡で「招待状」を送れ、「二人の関係を説明する書類」を提出せよと、なんだか雲行きが怪しくなってきた。 遂に7月19日には「ビザは発給できない」の「内示」が出て真っ青。思案に暮れたが、多くの人に「期待」を持っていただいたのに腹立たしい。そこで浮かんだのが、高槻方面選出の国会議員の秘書で、旧知の間柄のWさん。 
 すぐさまファクスで、ことの次第と領事部に言われて作った書類を送った。翌日問い合わせると、外務省の関係窓口に問い質してもらったようで、2通目の書類が届いてないという話。 慌ててバンコクに電話を掛けると悠長なもの。明日にでも届けると言うのを説得して、今すぐ持って行ってもらった。そしたら領事部は今度、私のパスポートのコピーを送れという。私との関係説明の裏を取る目的か、それとも「嫌がらせ」か?日が迫っているため、コピーをデータ化して添付ファイルにしてインターネットで送ったのだが、どういう訳か開かれないという。結局国際電話のFAXで送ったものを領事部に届けてもらう。 
  
帯状疱疹でガタガタ? 
  
 しかし、その後領事部から私あてに直接国際電話が入り、20分間程の事情聴取があり、一般論として「騙されてるのではないですか?」と言い、後日彼女の方の面接でも納得してもらえない様子に、もう一度外務省に8月3日には来日できるように、働きかけて欲しいとWさんに電話。 
 それでもハッキリしたOKが取れない状況の中、航空券をお願いしているタイのエイジェントには、ダメ元で発券の準備をお願いした。そして、最終タイ航空のディスカウントチケット発券〆切は30日だと連絡が入る。 
 私も領事部へ直接国際電話を入れ、SOMさんにも問い合わせに行ってもらった。結論は「30日(金)午後領事部に来い」ということだった。しかし、それではOKが出ても送金が間に合わない。そこで無理やり午前中に行って、OKかNOかを聞いてもらったが、あくまでも「午後からだ」という。 
 そこで午後一番に再度行ってもらってビザ発給の確認が取れたのは、残念ながら2時間の時差のために、日本の銀行業務が終わっている時刻。インターネットで送金手続きをしているので、そのデータを出力してエイジェントにFAXするが届かない。結果私の持っていた封筒にあるアドレスから移転していて、番号も変わっていたので届かない訳だ。ヒヤヒヤの連続。 
 ようやく送金手続きに入っていることは確認してもらったが、今度は航空券の受け渡しが問題になった。エイジェントはタイ北部のチェンマイに事務所があり、郵送では間に合わない。やむなく追加料金を払って、バンコクにある知り合いのエイジェントに取りに行く話になった。彼女の勤め先に近いので良いなと思いきや、調べてもらった結果、8月1・2日両日とも休みと憑いてない。 
 第2候補のエイジェントの場所は私は確認できなかったが、電話番号と住所が分かれば行けるであろうと、半分あきらめ気味にOKをだして、取りに行ってもらうように指示。そうして出発前日の2日の夕方になって「手に入れた」と電話で確認してホッとした。 
実は、この間、私は心労からか帯状疱疹(たいじょうほうしん)に罹っていたのである。 
  
歓迎会に感激?! 
  
 これだけゴタゴタしての来日だったが、後で知ったことだが、酒肴料理たま絵では、SOMさんの日本での小遣いを工面するため「来日する・できる」派と「来日しない・できない」派に別れて積み立てが実施されていたようで、実際前者は二人ほどしかなかったようで、「よくも来れた」と多くの人が思っていたようだ。 
 そういう私も、二〜三割は「無理かも知れない」と思い、綿密な滞在スケジュールは立てなかったし、立てても本人の体調や興味の方向が判断出来ないので、全ては顔を見てからであった。 
 9月3日は、常連さんの松本さんの好意で、彼の車で関空に迎えに行った。余裕をもって高槻を出た我々は、到着2時間前に空港に着いていた。時間潰しに、今まで足を向けたことのない、ホテル日航関西空港の入っているエアロプラザビルに行ってみた。 
 旅客ターミナルビルから連絡橋を渡ってたどり着くと、今年の春に閉店した高島屋のスペースはクローズになったまま。そこを迂回してレストランのあるスペースに進むと、外周道路が見えるガラス張りの喫茶スペースがあり、そこでひと休み。 
 窓の向こうには二〇〇七年供用を目指す第二滑走路の工事現場が見える。観光バスや観光船が「見学・宣伝」のために向かっているのをうつろに眺めていた。 
 それでも到着時刻にはまだまだ時間はある。そこでターミナルビルをもう少し詳しく見て回ることにして二階から三階に上がり、売店やレストランを気の向くまま見て、二階一階と下りて行き、国際線到着南出口にたどり着いた。 
 案内板がようやく、タイ航空の到着を表示し、しばらくすると身軽な人が出てき始めた。今か今かとドアーが開く度に目をこらすが、一向に出てこない。まさか搭乗してないことはないだろうが、不安になってくる。 
 もう別の便の乗客が出てき始めている。そうした中SOMさんは小さなショルダーを肩に掛けて出てきた。二ヶ月ぶりに合う彼女の顔は、疲れているようにも見える。挨拶もそこそこに、歓迎会が開かれる高槻に向かって車を走らせた。 
 道中話を聞いてみると、関空の入国審査でも執拗に、来日の目的などを聞かれたようで、参ってしまったと言う。 
 湾岸線を通って大阪を見せてあげようとしたのがあだで、環状線付近はいつもの渋滞が起こっている。もちろんバンコクほどではないにしても、二時間あまりかかって高槻に戻り、初めて見る吟醸酒蔵みゅーじあむでしばし休憩の後、英語を話すU教授と、中峯さんに迎えに来てもらって「たま絵」にSOMさんは向かった。 
 後で写真や話を聞くと、大歓迎会だったようで、さぞかし本人も驚いたことだろう。また二日後の五日にも、私の行き付けの居酒屋「あっぷっぷ」でも歓迎会は催された。 
  
文楽に高槻まつりにお寺 
  
 五日目の7日には、日本橋の国立文楽劇場に文楽を見に行くことにした。岡さんを中心に、常連さん達が過去何度か行っておられた催しで、丁度日程的に合うので連れて行ってもらうことにした。 
 しかしSOMさんの一番の目的は、その後の食事会で、近くのタイ料理レストランに行けるのが楽しみだったのである。言葉が分からないので、物語の展開も理解出来なかったようだが、何人もの大人が共同して一つの人形(マリオネット)を操っているのを見て、感心していたようだった。 
 しかしそれよりも、久しぶりに食べるタイ料理に満足の様子だった。 
 明くる日は、前日から始まった「高槻まつり」に繰り出すことになった。商店街で三千円のゆかたセットを買ってプレゼントしたものを、着付けしてもらって、何人かの人に連れられて闊歩したようだが、履き慣れない下駄には参ったようだ。 
 9日の夜食は、彼女にはぜひトライして欲しいと思っていた激辛ラーメン屋に連れて行った。地獄ラーメンと称して入門・1丁目・2丁目・3丁目・4丁目と5段階の辛さの違いがあり香辛料の量が倍加するので入門と4丁目を比べると16倍ということになる。 私などは3丁目に挑戦したことがあるが、麺を食べるのにも苦労した。そこで、小手調べに3丁目を食べてもらったが、スープを残してしまった。3丁目を完食すると名前とコメントが、4丁目を完食すればポラロイド写真に撮られてコメントが掲示される。この調子だったらもう挑戦しないだろうと思っていた。 
 八日目の10日には、来日早々お参りをしたかった上桂にある竹の寺で有名な地蔵院に案内した。タイは国民の過半数が仏教徒で、男子は一度は出家するそうで、そういった意味でお寺に参拝するのは嫌いではないようだ。しかし、金ピカの装飾を施したタイの寺院とは違い、竹で囲まれ苔むしたお寺は、寂しそうに見えただろうし、私が惚れて何十年通った奥様の点てられた抹茶の味には、感動できなかったと思われたが、感想を聞くと「アロイ(美味しい)!」と答えてくれた。 
 その後、いつも地蔵院の帰りに立ち寄る「苔の茶屋」で苔寺をイメージしたとろろそばを食べたが、郷に入っては郷に従えということなのか、七味の使用量は半端ではないが、美味しそうに食べていたのが印象的だった。(実はその後あちこちで日本そばを食べることになる) 
  
ラジオ大阪CSを聴講? 
  
 九日目の11日は第二水曜日で、私はラジオ大阪カルチャーサロンの講師をしている。同行するように勧めたが、どうも気が乗らない感じだった。 
 当日の講義のテーマは「酒造りの工程」だったが、時間の関係で早口でどんどん喋っていくものだから、居ても面白くなかっただろう。しかし、講座の後に行った谷町六丁目の「からや」では、生徒さん達と?き酒しながら、えらく盛り上がっていた。さすがネアカのタイ人の本領発揮といったところ。 
 実は、10日の夜もリベンジを賭けて激辛ラーメンの4丁目をトライしようと、密かに考えていたようだったが、早じまいされていてかなわず、次のチャンスを窺っていたが、ついにその日がやってきたのが十日目の12日。 
 私は2丁目を頼み、彼女は4丁目を頼む。麺や具をどんどん食べていく。それやったらスープ食べられへんでと心配したが、食べ終わった後、おもむろにレンゲでスープを口に運ぶ。大丈夫か心配して見ていたが、体温が下がって手などは冷たくなってきていたが、冷静を装っているのか、正しく涼しい顔で完食してしまった。 
       (つづく)

編集後記

アップル社のiPODミニはデザイン面で大変人気の高い商品ですが、残念ながら品薄でなかなか入手できないようです。その間、各社、いい製品を出してきてデジタルオーディオ製品が豊富になってきました。
雑貨屋ニュースレターのバックナンバーは下記のURLでご覧いただけます。

http://www.ne.jp/asahi/zakkaya/weekly/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.435

雑貨屋 店主 大西良衛   zakkaya@news.email.ne.jp