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No.432            Ryo Onishi                   8/22/2004   

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雑貨屋のひとり言

アテネオリンピック、柔道に続いて、水泳、体操と日本のメダルラッシュで、毎日、テレビを見るのが楽しみです。テレビ観戦で寝不足の人も多いのではないかと思います。聞くところによると、インドネシアではオリンピックの放送権料が高くて、支払えず、国内では放送できないらしいですね。またアメリカではNBCの独占なので日本ほど、盛り上がっていないようですが実際はどうなんでしょう?(R.O.) 

SBCラジオ出演記

  日本の信越放送(SBC)ラジオから月一度の出演依頼がきました。日本時間の金曜日の朝8時36分からの数分間ですが、「ワールド・トゥデイ」というコーナーでロサンゼルスに関する情報をしゃべって欲しいとのことで、こちらの木曜日、午後4時36分から電話でインタービューを受ける形式で生出演することになりました。
第1回の放送が日本時間の8月13日、金曜日(ロサンゼルス時間では8月12日、木曜日、午後4時36分)にありました。たった数分間ですので内容のある話は出来ませんが、これからしばらく続ける予定です。以下、その第一回分の内容の概要を録音テープから再現してみました。
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(SBC):今日はアメリカ・ロサンゼルスからの話題なんですが、実はこのコーナーは何人かの方に世界各地からお話をいただいているのですが、今日が初出演となる方でロサンゼルスからの話題です。
 河合将介さんにお電話がつながっています。河合さーん。
(河合):はい、河合です。
(SBC):どうぞよろしくお願いいたします。小林と申します。エー、今日は初登場ですので自己紹介からうかがってゆきたいのですが・・、河合さんはアメリカにお住まいになってもう何年になるんですか?
(河合):私はですね、1985年ですから、いまから19年前に企業の駐在員ということで、米国のロサンゼルス、今ここにいるんですが、こちらへまいりました。
(SBC):それで定年されたあとも、そのまま残られているわけですよね。
(河合):そうです。19年前にアメリカへ来まして、1997年ですから今から7年前に企業定年ということで、通常は定年になりますと、皆さん駐在員は日本に戻りますよね。私の場合はそのままここへ居残ってしまったということなんです。
(SBC):それは、やはり日本に帰るより、そちらが水が合うというか、どうだったんですか?
(河合):もちろん、私も日本人ですから、日本へはぜひ帰りたかったんですけれども、折角アメリカにも、それまで12年間いたわけで(今では19年になりましたけれども)、こちらでやりたいことも沢山ありましたし、確かに “水が合う” と言われればその通りなんでしょうけれど、・・ 私は実は子どもがありませんで、妻と二人だけなんですが、二人ともこちらの方がよいということで、それでは “残るか” とこういうことだったのです。
(SBC):今、いろいろとボランティアとか、いろんな活動をされているみたいですね。
(河合):はい、結局ね、今なぜアメリカなのかという一つの理由は、―― 日本も決して悪い所じゃないんですが、やはりアメリカにいた方が定年後にボランティア活動や社会活動ですね、そう言ったことが非常にやりやすいんです。定年という一つの区切りは「終り」ではなく、第二の人生の「始まり」だと思うんです。日本にいても決してすべて「終わり」ということはありませんが、日本ではなんとなく、「定年=終り」という感じなんですね。「終り」がよいか、「始まり」がよいか、ということになれば、「始まり」がよいに決まってますよね。そんな私の勝手なへ理屈かもしれませんけれど、そういうこともあって、私の場合はこちらにいるのです。おかげさまで、こちらでは地域のコミュニティとか、日本からの駐在員の皆さん、日系人の方が沢山おりますし、そういった皆さんと忙しくやらさせていただいています。
(SBC):じゃあ、会社勤めの頃と較べても変わらないくらいお忙しいんじゃあないですか?
(河合):そうですね。会社勤めの頃は、月曜日から金曜日、それから土曜日、日曜日と区切りがありましたけれど、今はどちらかというと、そういった区切りがなくなってしまったという感じです。
(SBC):それくらいいろいろな活動をなさっているのですね。 ―― 日本での第二の人生以上にアメリカ人の皆さんは定年後をどうするかと、自分の道を模索して行くものですかね。
(河合):そうですね。もちろん日本も最近は変わってきているでしょうが、でもアメリカの場合は、よく英語で“引退すること” を “リタイヤメント” と言いますが、こちらではただ “リタイヤメント” とだけ言うのではなく、“ハッピー・リタイヤメント” というのですよね。リタイヤメントというのは「終り」ではなくって、いよいよこれから今までの企業という拘束から離れて自分自身の好きな道に進める、まさに“ハッピー・リタイヤメント” なんだと、こういう感じなんです。
(SBC):なるほど、リタイヤメントという言葉もひとこと加わると印象が変わるもんなんですね。なるほどネー。そんな河合さんにはこれから何度もこのコーナーには登場していただこうと思うんですけれど、―
  ―― ところで今、お暮らしのロサンゼルスなんですけれど、ロサンゼルスは今の夏の季節は気候的にはどうですか?
(河合):こちらも日本同様、夏は暑いし、特に今年は猛暑の夏で暑かったですね。今こちらはまだ、8月12日(木)の夕方の4時半を過ぎたところですが、まだまだ暑いです。こちらの日中の最高気温は連日、華氏(こちらは華氏で言いますけれど)90度から95度、摂氏に換算しますと32℃から35℃くらいですから、暑いですよね。ただね、こちらは日本の東京などとは違い、朝夕は気温が下がり摂氏で言うと16℃とか18℃とかね・・
(SBC):ぐっと下がるんですね。
(河合):それから、もう一つ、湿度もたいへん低いんです。したがってさわやかですね。
(SBC):そうですか。体感的には違うでしょうね。
(河合):ただ、湿度が低いのはしのぎやすくて結構なのですけれど、問題もありまして、ここロサンゼルスを含むアメリカの南カリフォルニア地方は雨が少ないので、毎年山火事が多発します。今年は幸い去年に較べれば発生件数も焼失面積も少なかったのですが、それでもこの夏だけで、ロサンゼルス周辺だけで何万ヘクタールという、ちょっと考えられないような広い山林が燃えてしまうんですね。
(SBC):へえ、そうですか。
(河合):ですから、山沿いの住宅などはいつも避難騒ぎで大騒ぎをしています。なんとか対策を考えなければいけない問題です。
(SBC):それじゃあ、夏といえば山火事になってしまうんですね。
(河合):そうなんです。昨年なんか、例えば、日本でいうと神奈川県とか静岡県とか、それに匹敵するくらいの面積が南カリフォルニアだけで燃えてしまうんです。日本の皆さんはびっくりなさるでしょうね。
(SBC):へえ、そうなんですか!
(河合):まあ、それだけに、今申し上げたように、こちらは非常にさらっとした爽やかな良いところです。ぜひ皆さんもロサンゼルスへおいでいただけたらと思います。
(SBC):わかりました。また随時このコーナーにご出演いただきますので、いろんなお話をお聞かせいただきたいと思います。
(河合):そうですね。これからはなるべく日本の皆さんに興味をもっていただけるような話題を取り上げてお伝えできたらと良いのではないかと思っています。
(SBC):はい、今後ともよろしくお願いいたします。どうもありがとうございました。――― 放送終了。
                                                 河合将介( skawai@earthlink.net )

さくらの独り言「オリーブの実・・その2」

 最初に行った大学時代、私がラグビー部のマネジャーだったと、以前書いたことがある(2001年7月22日発行「雑貨屋」271号)。当時、体重37Kgの小柄でちょこまか走り回っていた私のニックネームはオリーブ、部員ラガーマンたちはポパイだった。1964年の東京オリンピック開催時が幼少期だった私達の年代において、「ポパイ」はアニメのヒーローだった。アテネオリンピック真っ盛りの今、声援に熱くなる自分の目の前には、それぞれのほうれん草物語をもった多くの日本人ポパイが画面いっぱいに登場している。私は、オリーブの実をかじりながらポパイの戦いを満喫している、今は亡き父を偲びながら。

アテネオリンピックにおける柔道、競泳、そして体操等のお家芸復活には、日本人として魂を揺さぶられるほどの感動を覚えたのは私だけではあるまい。柔道選手たちの活躍は、まさに「柔よく剛を制す」を具現化した。礼に始まり礼に終わる武士道のひとつとして、その発生の国に相応しい技と魂の姿そのものだった。また、男子体操や競泳においては、体操や水泳本来の基本と美しさへの探求・追及が調和と融合の形となって、栄光の冠へと開花した。柔道も競泳も体操も、オリンピックの標語「より速く、より高く、より強く」を、肉体の技のみならず精神の戦いとして貫き通した日本人ポパイの勝利だ。

今は亡き私の父は市の体育協会長を40年以上勤め、青年のスポーツ育成に対し熱心に力を注いだ男だった。自らも柔道、陸上、水泳などに挑み親しみ、私達こどもたちはその恩恵に与った。特に、柔道における礼や技やルールについては、ラフカティオ・ハーンの『柔術』に出てくるような言葉やエピソードを交えて、スポーツ領域を超えた哲学や経済学にまでおよぶことを教えてくれた。中でも西洋人の柔道に比べ日本人のそれには、真っ直ぐな武士魂が貫かれていること、動の道が美しい曲線や円を描いていること、そして自分の腕力に頼らない技の極めがあると訓示を垂れていた。絶対君主のような父に幼い頃から反発し続けた私は、その当時、そんな父の話に一度も心を傾けたことはなかった。あれから長い年月が経ち、父も逝ってしまって久しくなった今、アテネオリンピックを機に柔らの道に心を奪われている。そんな時、かつてオリーブとニックネームを持っていた私にとってのポパイは父だったのかもしれないと、アテネよりも遠いところを見つめている。これが私のオリーブの実、アテネオリンピックが私個人にもたらしてくれた結実かもしれない。

さて、もともと「より速く、より高く、より強く」というオリンピックの標語は、高校ラグビーチームに与えられた言葉だったという。皮肉にもラグビーがオリンピック競技種目から姿を消したことは残念だが、この標語は、肉体と精神と魂の限界ギリギリの戦いで勝利をもぎとった今回の日本人ポパイたちにとって、ほうれん草だったかもしれない。「『人事を尽くして天命を待つ』という言葉がある。ただし、スポーツジャーナリストの二宮清純さんは、『天命をもぎ取る』人間が勝ち、『天命を待っている』人間は負ける、と言っている(「潮」九月号)」(8月16日付熊本日日新聞新生面の一部)。ギリシャはエーゲ海の神が、わずかな空間、時間、技、そして精神の隙間に、日本に風を吹かせてくれたのだろう。しかし、私達にできなかったことを成し遂げてくれている若者たちがいる。次代日本の明日を担う人たちだ。彼らの勝利は、才能や努力もさることながら、やはり日本魂がもたらしたものだと信じたい。これこそ、歴史を受け継ぐオリンピックの掛け橋、オリーブの実だよな、っと呟くさくらの独り言。
kukimi@ff.iij4u.or.jp

川柳 & コント(東京・成近)

( 川 柳 )

ここまでと言う善人の守備範囲

根性も限界やはり痩せ蛙

出世レースからリタイヤの心電図

ワンテンポ遅れ女神と擦れ違う

あの時の両手の花が枯れて冬


( ニュースやぶにらみ )

「寝不足」
ーサマータイム?
ーいえオリンピックタイム

「山本選手、銀メダル」
41才バンザーイ −巨人、工藤投手

「金、金、金」
あやかりたい −日本経済

河合成近
nakawai@adachi.ne.jp
http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

森田さんから

姑を看とる( 1 )

 シニアは六十五歳以上らしいから、私はまだである。が、どうしたわけか一センチもない段差に爪先がひっかかり前につんのめる。本を読んでいると長続きせず、眼が疲れる。まさか、白内障ではあるまい。血圧も正常、身体の調子もいい。毎日、一時間の散歩もできるかぎりしている。しかし、いつか人の介助がなければ生きていけなくなる。
「だからこそ、感動できるうちに、足腰が丈夫なあいだに旅行したい」
 これは、夫の口癖だった。
 そんな訳で、夫は暇さえあればヨーロッパの地図をひろげ行きたい街に赤い丸印をつけていた。ところが、ガレージのペンキを塗っていて梯子から落ちた。アキレス健を切りギブスで固められてしまった。夏までには治るとふんでいたが、無理をしたせいか八月半ばになっても松葉杖なしでは歩けない。海外がだめならアメリカ国内旅行をしようと話し合っていた矢先の、ある夏のことである。
 大阪の義兄から電話がきた。
「おふくろが四日間も昏睡状態やねん。いよいよあかんやろう。瞳孔が開いてしもうとるし、『ロサンゼルスから息子さんが帰られるのでしたら延命装置をつけましょうか』と医者にいわれたが、自然に逝かせてやってくださいと頼んだ。それでええやろう?」
 八十四歳になる一人暮しの姑は病弱なタイプで、何度も生死があやぶまれドキッとさせられた。今回こそはと思い、夫と私は黒い服をスーツケースに詰めて日本へすっ飛んで行ったのである。
 夫の郷里、兵庫の龍野駅に出迎えにきた義兄は、顔を合わすやいなや、こういった。
「眼がクルクルッと動いて、昏睡から醒めたんや」
 妻に先立たれやもめ暮らしの義兄は後一年半で定年退職を迎える。母親介護のために見通しのたたない休暇をとることも、大阪から通うこともできず困っていた。
 医療制度が変わり、病院での付き添い人制度が廃止され表向きは完全看護になった。だが、自分で食事ができない患者は身内の者が介助して欲しいという病院側の暗黙の了解があるというのである。
「私立病院やさかいな、しゃぁないねん。入院させてもろうとるのやさかい苦情いうたらあかんのや」
 そういって義兄は、文句をいいたそうな私の口を封じた。
 親の財産相続も放棄し、母親の世話すべてを義兄に任せたつもりだったが、結局、フリーの立場にいる私たちしか母親を看る者はいない。これまで考えたことすらない母親介護をするはめになってしまった。かといって、ロサンゼルスの我が家をいつまでも放っておくわけにはいかない。何度も往復するとなれば経済的負担もバカにならない。が、ほかに良策はない。私と夫は二人三脚でできるかぎり母親の世話をしようと覚悟したのである。
「オレの親だから、オレが看る」
 足首にギブスがまだ残っている夫は大きな口を叩いた。
 ――嘘ばっかり。いい格好をして、気持ちの底では私にさせるつもりなのに、言行不一致にならないで――
 口にこそ出さなかったが、私は内心そう思っていた。
 ジャングルのようになった庭で夏虫が大合唱をしている。明日からいよいよ母親介護がはじまる、八月下旬の夏の夜のことであった。
                                つづく
 森田のりえ  noriem@JoiMail.com

編集後記

激しい雨と風の台風が通過し、ちょっと涼しくなったようですが、今年の暑さには閉口します。
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http://www.ne.jp/asahi/zakkaya/weekly/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.432

雑貨屋 店主 大西良衛   zakkaya@news.email.ne.jp