Zakkaya Weekly    No.429

  Ryo Onishi                                8/1/2004   

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雑貨屋のひとり言

 新潟や福井で大雨による洪水の被害がありましたが、これは世界的な現象のようです。アジア、ヨーロッパ、北アメリカでも今まで降ったことのないような大量の雨によって大きな被害が出ているとニュースで報じています。またアフリカではバッタの異常繁殖で食糧不足が発生しています。今年の日本の猛暑が何かの前ぶれでなければいいのですが・・・。(R.O)

米 国 の 宝 く じ 

 日本の新潟県、福井県他日本海側で発生した豪雨災害のニュースに自然災害の恐ろしさを痛感します。被害者の皆さんには心からお見舞い申し上げます。

 先ほど日本のインターネットニュースを見ていたら、『豪雨の被災者に二億円当たりくじ、福井県に届く』という記事をみつけました。

 報道された記事によると、この当たりくじ(ドリームジャンボ宝くじ、1等二億円の当選券)は福井県知事宛に匿名で郵送されてきたものだそうで、添えられた手紙には、手書きで「不幸にも被害を受けられた方々に少しでも援助になれば幸いと思い幸運に恵まれた宝くじ当選券一枚を同封して送ります」とあったそうです。

 福井県の発表によると、この宝くじ当たり券(全国自治宝くじ、第474回 06組、198955)は、23日午前、災害対策本部長の西川知事あてに速達の封書で届き、6月15日に抽選があった当選くじと確認されたそうです。

 封書には住所と名前が書かれていたようですが、いずれも実在しなかったとのこと、西川福井県知事は「お礼の言葉を述べたいが、直接伝えられないのが残念だ」と感謝の意を表し、換金して被災者の生活支援に充て有効活用することになるそうです。不幸な災害に対し、奇特な話題で心温まる思いです。 

 宝くじに当選した場合、このような活用の仕方があることを思い知らされました。しかしながら、もし私がその高額当選者だったとしたら、果たしてこのような奇特な行為が出来たでしょうか。

 正直な本音ベースで考えてみるに、いざとなったら欲に負けて出来なかったと思います。

 もしも前後賞を含めて三億円当たったとして、そのうちの二億円ならどうだろう? ―― やっぱり欲に負けるだろうな --―― そんな自分に自己嫌悪しながら、自己正当化の言い訳を探す自分を、もう一人の自分が冷たく見下す?

 米国にも州によって違うようですが、各種の宝くじがあり、スーパー・マーケット、コンビニ・ストア、ガソリン・スタンドなどで販売しており、人気を博しています。数ドルに夢を託す人々はどこの国でも同じす。
 
 米国の場合、くじによっては賞金額が日本とは桁違いのものがあります。先日(7月11日付の当地新聞)のニュースによると、「メガミリオンズ」という宝くじで、マサチューセッツ州で清掃業を営む67歳の女性が、米国史上2番目となる2億9400万ドル(約318億円)の賞金を当て、小切手の贈呈式があった、とありました。

【注】;尤も賞金の受け取りは、全額を26年間の分割とするか、これより少ない1億6800万ドル(総額の約57%)を一括とするかの選択式で、彼女は一括方式を選択したそうです。(それでも約180億円です!!)

 因みに、これまでの最高額は、2002年12月にウェストバージニア州の男性が獲得した3億1490万ドル(約350億円)だったそうです。

 米国の場合も高額当選者が当たり額の全額、または一部を災害や慈善事業のために寄付することはよくあることです。911テロ事件(2001年9月11日の米国同時テロ)の時も、多くの宝くじ当選者が競って寄付をしたそうです。

 しかし他方、高額当選者たちのその後の生活は、決して全員が幸せで豊とは限らないようです。

 先日、こちらのテレビ特番で過去に百万ドル(1億円強)以上を獲得した宝くじ当選者のフォローをしたのを観ましたが、思わぬ大金に生活を乱してしまっている人も多く、中にはホームレスにまで落ちた人もいました。

 『お金』とは、苦労して(額と脳味噌に汗して)稼ぐもので、棚ボタ式の“あぶく銭”は決して身につかないことがよくわかります。

 福井災害のために二億円当選券を送った奇特な方こそ『人の鑑』です。 ―――そこまでわかっていながら、まだ欲に絡んで当選券の寄付を躊躇している私は・・ ――― まあ、当選してから改めて考えることにしよう。                  河合 将介 ( skawai@EarthLink.net

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さくらの独り言「自然劇場・・・(その2)」

「信州の山奥は奥が深い。どこまで行っても律義な信州人の跡が存在し、それがまた、大自然と調和して人の心に懐かしく映る」・・・第100回芥川賞受賞作家・南木佳士が、彼の小説『阿弥陀堂だより』の中でそう述べている。その原作同名の映画『阿弥陀堂だより』が2002年に発表された。東京暮らしに疲れ、心の病に陥った妻(樋口可南子)を連れて夫(寺尾 聡)は彼の故郷・奥信州へ戻る。村人たちとの心の交流を通して人間とは何かを問う名作だ。1年間かけて四季の彩りと人々の暮らしを丹念に記録した映像は、まさに芸術そのものである。「自然劇場・癒しと感動の旅」その2は、ここ「阿弥陀堂」から、始まりはじまりぃ〜。

樹齢数百年を数える古杉の山を背に、撮影のために建てられた「阿弥陀堂」はそのまま保存され、新たな聖域として周辺の村人たちの信仰を集めている。そういえば、木島平の人々は信心深い。人口5,700人の村になんと16ものお寺がある。その中のひとつ、「稲泉寺」を訪ねた。この寺は別名「蓮寺」と呼ばれる。約1,800坪の蓮池が寺の四方を取り囲み、見事な大賀蓮を咲かせていた。大賀蓮とは古代蓮だという。『昭和26年、千葉県・東大検見川農場内にある弥生時代の遺跡発掘の際、発見された穂を発芽、育成させたもの』、と解説書に記されている。それにしてもここの蓮、“神秘の美”そのものである。阿弥陀堂の余韻を受けてか、蓮の花一輪に浄土(仏の住む清らかな世界)を見る思いだった。

初日、高社山の下りリフトから見下ろした時も、翌日、阿弥陀堂から眺めた時も気になっていたのが村の中央部にあるこんもりとした小さな森。私は「あれは古墳じゃないかしら」と傍にいた友人たちに呟いたが、はたしてその森は、正真正銘の“根塚古墳”であった。平成8年、56cmと74cmの弥生時代末期の鉄剣2振りが出土した。この時代のものとしては日本最大長という。これだけの長剣を持ち得る人物は相当に高位の人物であり、この地に一大政治集団が存在したことが覗える。また、「これらの鉄剣は朝鮮半島南部・伽那地方のそれと酷似しており、だとすれば、その昔、木島平と朝鮮・伽那は、日本海ルートを通じて交流があったのでは、と推測できる」とは、案内をして頂いた『ホテル・パノラマランド木島平』滝沢社長の弁。ともあれ、古代ロマンを彷彿させるひと時であった。

さてこの旅の締めくくりは、小学校唱歌『朧月夜』(作詩・高野辰之、作曲・岡野貞一)が生まれた地としても有名な「菜の花公園」である。この時期(7月)、菜の花は咲き終えていたが、歌碑のある丘に立ち、眼下の千曲川を挟んで広がる田園風景、霞みがかった奥信州の山々を眺めていると、自然と高野辰之の世界へ引き込まれる。
♪ 菜の花畠に入り日薄れ 見渡す山の端 霞深し・・・
      ・・・蛙の鳴く音も 鐘の音も さながら霞める 朧月夜 ♪

期せずして始まった私たち3人のコーラスが静かな丘に響き渡った。それは流れる川の如く、そよ吹く風の如く、移り変わる時を超えて澄み渡る空に融合する様に。大自然あり、歴史的ロマンあり、人情あり・・・派手ではない、むしろ素朴で落ち着いた風土が、かえって私たち旅人の心を捉えた。絶えることのない湧き水・龍興寺の清水、徳川家ゆかりの天然寺、鬼島太鼓発祥の地・照明寺、内山和紙、馬曲温泉、ケヤキの森公園など、紹介したい訪問先は沢山あるが、紙面の都合上、割愛しなければならないことが惜しい。それほどに私を魅了して止まない『自然劇場・癒しと感動の旅』だった。「心の豊かさを乗せた爽やかな風がそっと吹き抜ける村・木島平、きっとまたいつか・・・」っと、呟くさくらの独り言。

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川柳 & コント(東京・成近)


( 川 柳 )

酸性雨 河童ますます人嫌い

胡瓜よりメロン 河童が沼を出る

満身創痍 沼に戻ってきた河童

ここもダム 河童の沼の消えた地図

朝顔市 河童ふらりと出てきそう


( ニュースやぶにらみ )

「“憮然”の意味7割の人が誤解」
憮然としいます −日本語

「新風」
扇の風ほどの −参議院

「鉄の結束」
金の結束でした −橋本派


河合成近
nakawai@adachi.ne.jp
http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm
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森田さんから

心像風景

 思っていたより、あの「柿の木」は大きくなっていなかった。
 私が渡米する三十四年前まであった実家の竹やぶは、根こそぎ掘り起こされサラ地になっていた。しかし、竹やぶの入り口にあった柿の木は、青葉を繁らせ残っていた。
 五月末、広島の実家へ里帰りした私は、柿の木の下に佇み、初夏の風にさやさやと鳴る葉音を聞きながら、古い記憶をたぐりよせていた。
「なぜ柿の木に縛られたのだろう」
 縛ったのは母だったような、父のような、兄のような気もするが定かではない。とにかく、私は後ろ手に縛られ、木に繋がれた犬が咆えるように泣きわめいていた。
 小学校に通いはじめたころだった。登校途中に神社があり、なぜかその神社の前までくると私は泣きはじめる。四つ上の姉が私の手をひっぱり、なだめすかし、また道順を変えて学校へ連れていってくれた。時には、道のど真ん中に座り込んで泣きじゃくる。そんな私を見捨てて、姉は進む。すると、姉の後を追っかけ、姿が見えると「ワァーン」と泣きはじめるのだ。神社を通りすぎると、不思議に泣き止んだ。
 思い返してみると、それはカバンが原因ではなかったろうか。
 戦後、物資の不自由な時代だ。母は兵隊サンが持っていたカーキ色の小ぶりな縦型のカバンを作りなおして私に持たせた。それがイヤでイヤでたまらない。私は、じれた。ある日、いつものように泣きと座り込みをしている私をほって、姉はさっさと学校へ行ってしまった。私はしょんぼり道端の石ころを蹴りながら引き返したのである。
 家には戻れない。そこで思いついたのが、村祭りの演芸会で私に踊りを教えてくれた近所のお姉さんだ。真っ赤なひらひらのついたドレスに赤い大きなリボンを頭につけて『アメリカ娘』というのを踊った。
「そうだ、あのお姉さんの家に行こう」
 だが、玄関脇の部屋でミシンを使っていたお姉さんは、私を家には上げてくれず、式台に腰掛けておしゃべりをして時間をつぶした。昼前になり、何食わぬ顔をして家に帰った。不登校がばれるはずはないとタカをくくっていた。それなのに、母はちゃんと知っていた。
 柿の木に縛られたのは、それが原因だったのかもしれない。
 私は聞き分けのない子だといって、よく叱られた。
 うちは祖母のいる大家族で、多いときは一五人もいたから食事のときは大変だった。大きな丸テーブルに陣取った兄たちの後ろに幼い私はいつもはみ出ていた。おかわりの声も、われ関せずを決め込んでいる兄たちの話し声に消されて、母には届かない。二、三回叫んで無視されると、大声で泣き出す。兄たちは「うるさい!」の一言。
こうなったら小さくても意地がある。悪いのはそっちだと、張り裂けんばかりに泣く。
「蔵に入れてしまえ!」
 ねずみ、蛇、ムカデ、得体の知れない生き物がいそうな蔵の中。理由もきかず、理不尽な、なんという非情。私は喉が壊れるほど泣きわめいた。扉をメチャクチャに叩きながら。母のやさしい言葉が欲しかった。「どうしたの?」と。
 当時のことを知る姉はすでに鬼籍に入っている。私は兄に訊いてみた。
「もしかして、柿の木に縛ったのは、お兄ちゃん?」
 すると、四番目の兄は、遠くを探すような視線で、にやっと笑った。
                                             おわり
 森田のりえ  noriem@JoiMail.com

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編集後記

 台風の影響で、昨日は最高気温が35度から30度くらいに下がり、すこし涼しくなりました。30度を超していても少し温度が下がるだけで涼しく感じるものです。
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http://www.ne.jp/asahi/zakkaya/weekly/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.429

雑貨屋 店主 大西良衛   zakkaya@news.email.ne.jp

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