Zakkaya Weekly No.54

Ryo Onishi 5/26/97 バックナンバー Homepage

先日出張で、エアーポートの近くのパーキングに車を三日間パークしてロスに帰ってきたときのことです。パーキングのチケットを車の中に置いておくのもいやなので、持って出張に行ったんです。帰りの飛行機に乗る前まではそのチケットがジャケットの内ポケットにあるのを確認していたんですが、何かの拍子に落としてしまったらしくどこを探してもありません。持ってくるんじゃなかった思ったのですが後の祭り。もちろんこんなことは初めてですので、どうしようかと思って帰りの飛行機の中で考えていました。ずいぶん料金を取られるんじゃないかと思いながら、パーキングの出口のところで事情を説明したんです。エアーチケットの半券を見せて、パーキングに来た時刻を言ったら、いとも簡単に了解してくれました。どうやらチケットを失う人がときどきいるみたいで、係員は慣れたものでした。今度から、車の中のどこかに隠しておこうと思います。でもそのことを忘れたらどうしよう!(R.O)

言 葉 の 年 齢 (1)

私達は常日頃、何らかの意味で 「社会」 という共同体の中で、又は共同体と関わりを持って生きています。この点では日本人もアメリカ人も(多分、地球上のすべての人が)同じ筈です。
ところが 私達日本人の場合、この「社会」 という概念が、アメリカ人が意味する「社会」 とかなり違っているのではないかと私は実感しています。
「 Society/Community(社会)」 という単語は 英語では ごく普通に出てくるし、アメリカ人の日常会話で何の抵抗もなく発せられます。ところが 日本語で「社会」 というと 私が先ず 思い浮かべるのは 学校で習った「社会科」 とか 「社会主義」 のような固苦しいもので、自分達の身近の集団という発想は、どうしてもその後になってしまい、何となく違和感があります。 違和感の理由の一つはもともと日本には アメリカなどでいう「社会(Society/Community)」という発想がなかったか 、又は あっても 希薄だったからではないでしょうか。アメリカでは まず始めに 一人一人の個人がいて、その個人が集まって「社会」 が出来ています。従って 「社会」 は それを構成するメンバーの意思次第で如何ようにでもその性格・方向が決められることになります。ところが日本の場合、封建制度の名残りをいまだに払拭出来ない為か、個人を前提とする考え方が 定着していないのが現状です。だから本来、「個人」 からスタートすべき「社会」 という言葉及び概念にはどうしても違和感を持ってしまうようです。「社会」という言葉に我々が充分なじめないもう一つの理由として考えられるのは日本語としての「社会」 という単語が 比較的 新しい言葉であるという事によるようです。私の手許にある国語辞典(広辞苑)でこの単語を引いてみると その解説の中に「“Society”の福地源一郎による訳語」 という説明がありました。そこで次にこの辞典で「福地源一郎」 を調べてみると、この人は別名を「福地桜痴」といい、明治初期の 小説家・ジャーナリストであることが判りました。要するに 「社会」という言葉が “Society”という英語の日本語訳として登場したのは 明治になってからであり、(それまでは この 「社会」という言葉は 使われていなかったか、使われていても 別の意味だったのでしょう)せいぜい120〜130年位のもので、だから言葉として充分 成人し、認知されるまでに至っていないからだと思われます。日本人が以前からこれに代わる言葉として頻繁に用いたのが多分「世間」 という表現だったのではないでしょうか。この「世間」 という言葉には 構成員であるべき 一人一人の個人という発想は 殆どなく、非常に 抽象的で漠然とした共同体といった感じでがします。前記国語辞典(広辞苑)で 今度は「世間」 とひいてみると「@−(略)− A天地の間 B人の世 C世の中の人々・・」 などとあり、やはり 個人をベースとする「社会」 とは違った意味となっています。今でも「世間に顔向けできない」、「世間様に笑われる」、「世間をお騒がせした」 等々 一定以上の年代の人々はよく使っていますし、時には若い人も無意識に使っているのを聞く事がありますが この場合、では一体 「世間」とは 誰と誰の事なのか、といった個人の顔は殆ど浮かんできません。

新しい言葉であるが故の違和感とは、とりもなおさずその言葉の持つ意味をまだ充分自分達のものとしきれていないという事であり、我々日本人全体が「世間の発想」 から「社会の発想」 へ転換するには、まだ少々時間がかかりそうです。尤も 「世間の発想」 から「社会の発想」 へ転換する事自体が良いか悪いかという議論は 全く別であり、皆で真剣に 考えねばならないテーマだと思います。 −−−次号へ続く−−−

河合 将介

こぼれ話「幸福の手紙」より

今週も先週の続きをお送りしますのでお楽しみ下さい。

●私の家はクリーニング屋です。

ある日お客さんが、「いま、セール中ですか?」と聞いたのを母は、「いま、生理中ですか?」と聞き間違え、「もう、3年前に終わりました」と言ってしまった。

●母は、まだ40代前半の若き頃、私の受験用航空券を買いに行き、旅行代理店のお姉さんに、「スカイメイトでお願いします」と言うところを、「スクールメイツでお願いします」と言って、店内の時を止めてしまった。

●夕食後、テーブルの横でうたた寝をしていた父がうなされていたので、私は母と、「悪い夢でも見ているのかな?」と話していると、突然、「ライダー、助けてっ!」と父が叫んだ。

ちなみに父は56歳です。

●うちの母がテレビを見ていると、美人のアナウンサーが出てきた。母は、「こんな人が嫁に来てくれるといいわ」と言ってニコニコしていたが、ウチの家族で男はお父さんしかいない。

母は、いったい誰の嫁がほしいのだろうか・・・・・。

●お風呂に入っていた父が、突然、大声でわめきだしました。

「大変、大変! どっかから鼻血が出てる!」

いったい、父のどこから「鼻血」が出たのでしょうか・・・・?

●私の母方のおばあちゃんの話しです。

お医者さんに行き、「お尻に入れなさい」と渡された座薬を、おばあちゃんは、お汁に入れて飲んでしまいました。

●うちの父は、強風が吹いたり雨が降ったりすると、空に向かって、「バカヤロー! ろくなもんじゃねえな〜」と必ず叫びます。台風がきたときなど、

そりゃあもう

ずいぶんたくさん話がありましたね。もっとおもしろいのがあったら教えてください。

編集後記

河合さんは日本にしばらく行くということで原稿を3週間分預かっています。西尾さんはどうやらホリデーを利用してどこかに行かれているんだと思います。記事が来ないので、このまま発行することにします。

先日、ラジオパシフィックジャパンの番組を車の中で聞いていたら、偶然、西尾さんの番組が始まりました。そうしたらとつぜん私の名前を言ったのでびっくりしました。西尾さんが放送予定の原稿を直前になくしてしまい、急遽、雑貨屋53号に掲載の「健康の方程式」の記事に変更したので、ついでに雑貨屋のことを紹介してくれたのでした。(実はタイトルを間違えていまして本当は「O157が教えてくれたこと」でした。それからもう一つ訂正個所があります。「今から20数年前、私は強く希望して3年中学生のクラス担任をしました。」とありますが3年の間違いです。失礼しました。訂正をお願いします。)

最近は読者の皆さんからのお便りがあまり来なくなりました。みんな本当に読んでくれているんだろうか?と心配になることもありますが、どこかで会ったりすると、雑貨屋のことを言ってくれるので安心したりします。記事は多い方がおもしろいですから、読者の皆さんも、何か記事を書いて送ってみませんか。よろしくお願いします。

雑貨屋店主 大西良衛 ronishi@earthlink.net