Zakkaya Weekly No.403
Ryo Onishi                                      2/1/2004

雑貨屋のひとり言 さくらの独り言 川 柳 & コント バックナンバー
成岡流お酒の楽しみ方  河合さんの・・・ 森田さんの・・・ 健康のお話 雑貨屋ホーム

都会にいる平和の象徴?の鳩は、飽食日本人の残飯や餌で丸々太っています。果たしてこの鳩、本当に平和の象徴なんでしょうか?最近、鳩が高層マンションのベランダに飛んできてベランダの手すりに糞を落としたり、巣を作ったりして、ずいぶん問題になっています。もともと鳩は断崖絶壁に暮らしていた鳥なので、高層のアパートやマンションのベランダは彼らの恰好の留まり場となっているようです。我が家もその可能性がありそうなので、そうなる前に対策を講じることにしました。
100円ショップで買った釣り糸と、木工細工を利用して作成しましたが効果ありで、鳩は近づかなくなりました。
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ロサンゼルスとその周辺に滞在する日本人、日系人が組織する都道府県人会は104年の歴史を誇る鹿児島県人会を筆頭に未結成の数県を除き、殆どの県がこの時期に新年会や総会を開催しています。

私の属している「L.A.東京会」も先日、年次総会を兼ねて新年会を開催しました。場所はロサンゼルス・ダウンタウンの「ホテル・ニューオータニ」内の「千羽鶴レストラン」でした。

「L.A.東京会」の歴史はまだ浅く、1998年設立ですので、ようやく満5歳を越えたところです。
90年、100年の歴史を誇る県人会の中で、“たった5年”では恥ずかしい限りであり、また会員数もわずか93名(配偶者、家族を除く)ですが、もともと郷土意識の薄い東京人の集まりです。5年も続いたことは、もしかしたら大健闘ものなのかも知れないと私は発起人・幹事の一人として内心思ったりしています。

以前にも、ここロサンゼルスには「江戸っ子会」とか、「武蔵野会」などと言ったグループがあったそうですが、いつのまにか消滅してしまったそうです。

さて、その「L.A.東京会」の新年会ですが、毎年アトラクションは人気が高く、日本舞踊、江戸芸(かっぽれ)、講談、越前琵琶など、多彩な出し物が登場してきました。

今年はアメリカ人落語家(ビル・クローリーさん)の一席と指笛演奏(松島めみさん)という異色の舞台でした。

落語家、ビル・クローリーさんは日本に9年間滞在し、その間に上方落語の 桂 枝雀師匠のもとで落語の修業をしたと言うアメリカ人(白人)落語家で、今回の出し物は“まんじゅうこわい”ならぬ『ピザこわい』で、和服に羽織姿で演じる上方弁日本語と英語のちゃんぽん落語の語り口には大いに笑わせられました。
(彼のホームページは http://www.bill-crowley.com/ )

また、指笛奏者の松島めみさん( http://www.memi-yubibue.com )は日本の指笛演奏の始祖といわれた田村大三氏の令嬢で、ニューヨークのカーネギー・リサイタルホールでも演奏したことのある高名な指笛奏者・声楽家です。今はロサンゼルスの西、オクスナードに在住しています。

私自身はめみさんの指笛ははじめて聞きましたが、その迫力、素晴らしさに圧倒されると同時に感激しました。出席者の皆さんたいへん喜んでいました。

ロサンゼルスの日本人の間に「ロサンゼルス着物の会」という趣味のグループがあります。「L.A.東京会」の会長はじめ多くの会員がこのグループのメンバーですし、また着物の着付けの先生も主要メンバーの一人です。「L.A.東京会」の新年会は男性・女性ともに和服姿が目立つのもその特色の一つ言えるでしょう。

祖国を離れていても、否、祖国を離れているからこそ、日本の良さやありがたさ、懐かしさが実感でき、そして日本式の集い、日本の装いにこだわるのが“お正月”と言うものなのかも知れません。                                                  
河合将介(skawai@earthlink.netbut_up.gif (232 バイト)

 

さくらの独り言「・・・恵まれて・・・」

突然の出来事に、通常できていて当たり前だと思っていたことができなくなったり、できるレベルが著しく低下したりする。そんな時は、できない事を指折り数え、その要因分析を始めたりする。しかし、大切なことは、「当たり前」だと思い込んでいた自分の誤りに気づくことである。怪我をして歩けなくなった時に数えたことと、両松葉杖が片松葉杖になった今数えることの大きな違いは、できないことだけを数えた自分からできる(できるようになった)ことを数えている自分自身の変化である。このような自己軸の方向転換を可能にしてくれたのは、「〜に恵まれて」という、ごくありきたりの一句、それのもつシークレットパワーであった。

「〜に恵まれて・・・」といえば、ゴルフの優勝挨拶でよく聞く耳にする一節だ。私も大〜きなハンディを頂戴したおかげで、一度だけこの言葉を使ったことがある。大ハンディがもたらしたこの挨拶に、パーティは爆笑の渦だった。事実、ライバルでありチームでもある同伴競技者同志の緊張関係とその織り成すウエーブが、初心者プレイヤー(私)のスコア-に大きく影響した。各ホールでできなかったことより、できたことが脳裏に鮮明に焼きつき、あれこれと数えてみたものだ。懐かしいスピーチだ。この忘れていたスピーチを想起させるメールが、帰宅した自宅PCに飛び込んだ。つい昨日、金曜日夜、もうすぐ日付が変わろうとしている時刻だった。まだオフィスで仕事をしている直上司、S氏からのもので、「素晴らしいビジネスパートナーに恵まれて幸せです」だった。彼のこの言葉は、怪我による休職から復帰した私のこのひと月間に対し「できない」ことより、「できる(できている)」ことに視点を置き、それを未来軸においた姿勢から発せられた貴重なコメントだった。上司に恵まれた私は幸せだと感謝した。

私の勤める会社では、7月にスタートした新年度の上半期(2nd Quarter)が過ぎ、会社及び従業員個々の中間業績評価(査定)が終了した。年度始めに設定したゴールに対するアチーブメント度合いと再確認、同時にそのゴール上下方修正・追加削除をする。この査定を「パフォーマンス・レビュー」と呼び、従業員はグローバルレベルで統一されたフォーマットへの記入を、直上司(パフォーマンス・マネジャー)とのディスカッションを重ねながら進め、完了させる。「数字は嘘をつかない」という弊社会長の明言どおり、数字が全ての世界であり、できたこととできなかったことも、その度合いも明確に測られる。しかし、もうひとつ、「ひと」が全ての弊社の様なコンサルティング・ファームでは、ライバルでありチームであるメンバーの緊張関係が織り成す成果物も、数字同様に測られる。言い換えれば、自分の部下と上司とのシナジー効果度、つまり人材育成に対する成果・最適化も大きく問われ、評価対象になる。高いモチベーションをキープしつつ、成果を出し、個々と社全体の業績に繋げるためには、色々な要因や定義が絡み合う。しかし、ベストプラクティス(課題の克服や問題解決のためのすぐれた実践チーム)を注視してみると、個々のメンバーが「〜に恵まれて」という相互作用をコア業務のパワーへ転換し、できないことをできるように成している事実だ。

そういえば、私が高校生時代に流行した歌に「Sachiko」(作詞:小泉長一郎、作曲:馬場章幸、歌:ばんばひろふみ)があった。『幸せを数えたら、片手にさえ余る、不幸せ数えたら、両手でも足りない』という歌い出しだった。恩師が昔、「運・不運は選べないが、幸・不幸は選べる」と説いてくれたことを思い出す。何にせよ「〜に恵まれて・・・」と言えるのは、何を数えるかという自分自身の選択によるのだと再認識させられた。さてさて、ナイスプレーを数えつつ「パートナーに恵まれて・・・」とグリーン上で発する日が楽しみだ・・・っと呟く、さくらの独り言。
kukimi@ff.iij4u.or.jpbut_up.gif (232 バイト)

 

川 柳 & コント(東京・成近)

( 川 柳 )

現実の壁にやっぱり机上論

キャスチングボート白紙をちらつかせ

裏切ったやつの悔しい二段跳び

完敗をバネに弾んだ毬となる

トカゲの尾幾つ切ったか今日の椅子

( ニュースやぶにらみ )

「飽食」
いつかパニックがきっと来る −40%の食料自給率

「失業率下がる」
私も協力しています ー古賀議員

「発明の報酬200億円」
ダイオードの輝きが増した −中村教授
色のつけすぎだ  −日亜科学

(東京・成近) E-mail nakawai@adachi.ne.jpbut_up.gif (232 バイト)
http://www.adachi.ne.jp./users/itsukabz/index.htm

母の押絵

 手紙を整理していると、母の手紙が出てきた。
 リューウマチで曲がった指先に鉛筆をにぎり、一字一字、考えながら書いたであろう九十四歳ごろの母の手紙である。宛先のスペルも間違ってはいない。ミミズが這ったような字だけれども、私には、老書家がふるえる手で書いたような味わいがあった。
 数年前のことである。
 姑の介護で日本へ帰っていた私に「母倒れる」の報せがきた。胃ガンだった。胃を三分の一切った。歳が歳だ。もしもの場合を考え、一人住まいの母の家を整理しようと実家へ行ったが、何から手をつけていいのか分からないほど散らかっていた。
「娘が来て掃除をしてくれるのはうれしいが、その度に色々な物を捨てる。あちこち仕舞い込む。使いなれたものが所定の位置にない。年寄りは、便利なように眼の前に置いているということが、分かってもらえない」
 きれい好きな長女のことである。
 隣のおばさんにそう聞かされた私は、余計な手だしはすまいと思った。
 だが、改めて見渡すと、好き勝手に暮らしてきた母の生活の匂いがたちこめていた。写経や観光地のパンフレット、作りかけの手芸品が雑然とひろげられている。鴨居の上にずらりと掛かっている押絵は、老人クラブで習ったものであろう。   
 押絵とは、羽子板についている立体感のある絵で、江戸中期までは身分の高い女性の手工芸品だった。宮尾登美子の小説『東福門院和子の涙』のなかに、主人公の和子姫(徳川ニ代将軍秀忠の娘)が押絵を趣味としていたというくだりがある。遺作も何点かあるそうだ。
 昔から、高貴な女性は侍女にかしずかれ自分では何もせず、運動不足のため短命であった。それにひきかえ和子姫は、乱世を生きぬいてきた母お江与の気質を受けつぎ、働き者で小鳥や鯉の世話、指先を使う押絵などをして日を送っていた。そのせいか、当時としてはめずらしい七十二歳という長寿を全うしたと書かれていた。
 友だちの間で、習い事がはやっている。トールペイント、キルティング、デコパージュ、ステンドグラス、ピアノなど。私も何か、と思いついたのが「母の押絵」である。
 手芸品店へ行くとセットで売っていた。まず型紙を切り離す。片面に糊をつけ薄く綿をのせて切り、布を合わせて裏に糊で張りつける。細かい部分は指ではできずピンセットを使う。押絵を作りながら母の人生を思った。
 明治に生まれ、大正、昭和を生きぬいた時代の人は、何でもかんでも自分の手でやらねば生きていけなかった。朝起きれば、井戸で水を汲み薪割りをし火で煮炊きをし、着る物は自分で縫い、洗濯をし子を育て、その上農作業が待っている。春秋はまだいい。夏のうだるような暑さ、身体の芯まで凍えそうな冬に耐えた。
 それにひきかえ、いま身辺を見渡せば何もかも便利になって、自分の手など使わなくても快適に暮らせる。食べ物は多様化し、めんどうなときは出来合いを買ってもいい。衣類も既製品。針を持つのはボタン付け程度である。暑さ寒さに耐える必要もない。
 母の手術は成功した。一人暮らしに戻る自信がなくなった母は、住みなれた地を離れ岐阜の息子夫婦と暮らすようになった。今年、九十八歳、耳は遠いが元気である。
 東福門院和子の手仕事といい、働き者だった母の意欲的な生き方を見聞きすると、私も手先を使うことへの効能を信じたいと思う。
 押絵は肩がこり、性に合わない。これから先、指先の感覚が衰えないようにしたいが、はて、何をしたらよいものか。
 森田のりえ(moritacn@earthlink.net)

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成岡流お酒の楽しみ方

広島市内の夫婦で造る酒蔵を訪ねて 
大寒の中の福岡遠征は寒波に翻弄される? 
吟醸酒蔵みゅーじあむ 館 長 成岡卓翁 
 3年ほど前、地元高槻の宮脇酒本店に、変わった酒蔵があるから一度アプローチして取引したらどうかと勧めた「蓬莱鶴」のことが書かれた「ニッポン酔(よ)い酒・飲(や)れる酒」という本が、小学館で2002年4月に発行された。女性のライターが書いているということと、「私の専門分野」でもあるので買ってみて、ぜひこれは一度蔵を訪ねて見なくてはならないと思っていた。 
 冬は酒造りのシーズン、毎年時間を見つけては、あちこちの蔵にお邪魔していることはシイームにも何度となく書かせてもらっている。今年も少ない休みにどこに行こうか思案していた。そんな折、「みゅーじあむ」のカウンターでは常連さんが、あそこに行こう、ここに行きたいと、蔵訪問の話題が起こる。 
 一つは常連の清水さんらが、「常きげん」の新入社員の藤田晶子さんが「勉強のために」昨年5月来館された時に「2月に蔵にお邪魔する」約束をされていたようで、2月7日行くことが早々と決定。 
  
  広島経由福岡行きの旅 
  
 しかし、みゅーじあむの休館日で、私が自由になる1月21日の水曜日は予定がない。たまたまウイークデーに時間の取れそうな山田房江さんと松本明夫さんがカウンターで同席された時、松本さんが「新車のカローラで遠出したいな?」とおっしゃり、山田さんが「その日でしたら私も行けます」と同行を表明。すると松本さんは「行き先は福岡の稚加榮へ、泳いでるイカを食べに行こうや、あとは館長に任すわ」となった。 
 丁度道中になる広島市の蓬莱鶴の褐エ本店に立ち寄れるので、蔵見学のアポを取った。だが、直前に山田さんは仕事が入ってキャンセル。やむなく二人で行くことを覚悟したが、正月に「蓬莱鶴純米大吟醸」を飲んでえらく気に入られてた、嶋井さんが「広島までやったら乗せてって」と手を挙げられた。そこで11月から当館のスタッフとなり「お酒の勉強」をしている石井由希子さんにも声を掛けて、同じく広島まで同行することになったので、今回はそのレポートです。 

1・2階はホームセンター 
  
 今年21日は大寒に当たっている。天気予報も今年一番の寒波が襲来して、九州でもその日は雪が降ると報じている。それでも「晴れ男」の松本さんと一緒なんだから気にも止めていなかった。 
 当日朝8時に高槻を出発、順調に名神から中国道そして山陽道を快調に走行。カーナビ装備、ライトの点灯やワイパーの動作もオートと便利。そして私のために?高級レーダー探知機を付けてもらい、安心して運転、気がつくと1○○qで走っている。 
 お陰で、カーナビ予測より早く広島に着いて、広島名物「広島焼き」を食べに駅ビルに車を入れ、2階の名店街へ。通路まで出張の行き帰りのサラリーマン風の客が並んでいる「麗ちゃん」に我々も並び、一番デラックスなのを注文。まもなくテーブルに案内され、しばらくして注文した広島焼きが出てきた。一口二くち口に運んだ私は「これやったら原価は2〜300円やで、ぼろいな〜!」と羨ましいやら腹立たしいやら、唖然とさせられたが満腹満腹。 
 目的の「原本店」は市内のど真ん中ということだが、カーナビに誘導されると、何か同じ所をグルグル回ったように思われた。それでも、結果午後1時前には到着した。 
 マンションの塔屋には「ホウライツル」と書かれてある。そして1・2階にはホームセンターが入っている(実はここが我々の運命を左右するのです)。酒蔵レポート部分は、「日本一の?き酒師」を目指す石井さんにお願いした。 
  
 石井由希子さんの感想 
  
 私は酒蔵見学者としては超初心者。酒蔵といえば木造で古い建物というイメージを持っていた。今回の酒蔵は全然違うということだが想像できないまま、ただ興味津々で蔵に到着。「え!?本当に普通のマンションやん!」と心で第一声。裏に回って地下に入る所に、唯一酒蔵を思わせる看板が掛かってある。ワクワクしながら地下へ階段を下りていくと正しく酒蔵らしい「お酒の香り」が漂って来る。 
 そこは『酒蔵』というより『実験室』ぽい。奥の部屋に社長さんらしい方がおられ、どうぞそちらからと展示室に誘導していただいた。ここでお酒を造っているとは信じがたいが、色々お話を聞くと、要領よく工夫して造っておられるんだと納得。また、「妻とふたりでやってます」と聞いた時には、本当にとても驚きました。 
 各部屋を案内していただき、次に館長を除く私たち三人が?き酒をさせていただいた。「次回純米大吟醸になる新酒」と「酵母の違うお酒」「昨年の全国金賞受賞酒」そして「きっともう造らないでしょうと言われた山田錦の大吟醸」をいただきました。私は、受賞酒が飲みやすく、香りも良く一番いいと言うと、嶋井さんは「山田錦の方でしょ」と……、松本さんは「新酒が良い」と意見は分かれましたが、何杯もいただいていい気分になり、嶋井さんと吟醸酒粕とそれぞれ好みのお酒を土産に、館長に広島駅まで送ってもらって帰りました。 
  
酒蔵の生き残り作戦は成功 
  
 原本店では、麹室が組み立 
て式のテントだったり、酒母タンクがステンレス製寸胴で、仕込みタンクはよその蔵では酒母タンクくらいの大きさで、実にミニチュアみたいな酒蔵。 
 それでいて、いやそれだからこそ、年間通して無くなりかけたら造るという方法で20回におよぶ仕込みをやり、昨年は全国金賞のほか、賀茂鶴が音頭をとった「全国酒造技術研究会?」で見事第一位に選ばれている。 
 時間の関係でゆっくり話を聞けなかったが、仕込み米も今年から全量「千本錦」という広島県産の山田錦を父とする酒造好適米を使い、「お百姓さんに申し訳ない」と精米歩合は40%で止めるという、こだわり蔵。蔵の生き残りを掛けた挑戦は、今のところ順調に推移しているように見られた。 
 さて、皆が土産ものの代金を精算している間に、私は階上のホームセンターに「タイヤチェーン」を探しに行った。広島の上空を見る限りは雪の心配はないようだが、実は、道中「小谷サービスエリア」での最新情報として「下関以降通行止」と聞いていたので、万が一のことを考えてのことである。 
 商品の棚にはそれらしい物はない。ダメもとでレジーで聞くと、タイヤ寸法によっては在庫があるということなので、サイズを当たってもらってしばらく待った。松本さんも上がって来られた時に、倉庫から2つの商品を持って来てくれた。値段は高いが装着の楽な方を選んで、「お守り」のつもりでトランクに積み込んだ。 
  
カーナビが雪深い山中に誘導 
  
 二人を駅に送った我々は、一路福岡・博多に行くべく山陽道を目指すが、道路案内とナビの案内がどうもすっきりと一致しない。それでもどうにか大野ICから山陽道に入り、高速道をひた走る。 
 山口JCで中国道に合流する当たりから雲行きは怪しくなってきた。途中福岡の山田静子さんから念押しの電話が入って来たが「そちらに向かってます」と答えてある。トンネルをくぐる度に雪模様になってくるが、まだチェーンを履かせるほどではない。 
 しかし、関門橋を通過して九州に入ると、景色がガラッと変わって、周囲の山々は雪をいただき、次第に雪の降る量も多くなってきている。ナビは「八幡ICから一般道に入らなくてはならない情報」を伝える。関門橋から一時間で高速道を降りる福岡ICがあるのに、ここで降りたら何時目的地に着けるのやら、不安がよぎる。 
 カーナビも進化したといっても「積雪時の誘導」まではデーターが入っていなかったようで、200号線に車を誘導する。こちらも知らぬが仏で、その指示通り車を走らすが、次第の人家が少なくなり、山の中に向かって行く。山田さんと約束の6時30分を過ぎてもまだ博多どころではない。電話で「取り敢えずもう1時間待ってください」とええかげんなことを言って登っていく。 
  
 遂にタイヤチェーン装着 
  
 しかし、車がスリップしだし、下ってくる対向車はチェーンを装着している車が多い。道路案内で「○○は通行止」となっている。そこがどこなのか、そこが後何qなのかも分からない。取り敢えず車が数台止まっている空き地に車を入れて、二人で相談するが、引っ返すにしてもどこへ引っ返してよいのか分からない。ついに決断をして、チェーンの装着することにしたが、多くの関門があった。 
 ケースはインシュロックがかかってあり、手では開かない。いつも海外には持って行くソムリエナイフもない、そこで松本さんが「髭剃りセットの中になんかあったな」とトランクの中からバックを取り出し「郵便封筒を開封する時に使うカッター」を見つけて第一関門突破。今度はマニュアルを読んで見るが、それだけでは合点がいかない。やむなく松本さんがマニュアルを読み、私が装着することにしたところで、一週間ほど前にプレゼントした懐中電灯が役に立ち、何かのおりに使うかも知れないと持ってこられた軍手が役に立って第二関門突破。しかし、雪の降る中で初めての装着、ワケが分からないでモタモタ。そこへ、下ってきた四駆のドライバーが、「どうされました?」とわざわざ車を止めて見に来てくれ「私がやってあげましょう」とチェーンを手にされる。ここでまた松本さんが、もう一つ軍手を持ってきて「これ使ってください」と差し出す。ご自分の物とはタイプが違うが、経験豊富なようで、あっという間に装着完了。何とお礼を言って良いのか、正しく地獄で仏とはこのことか。彼はひょいと車に乗って行きかけるが、そこでこのまま帰すのも気がとがめ、とっさに山田さんにお土産のつもりでクーラーボックスに入れてあった「清鶴純米吟醸百四十七年目乃お酒」を取り出して、「これ大阪の地酒です、飲みはるかどうか知りませんがお礼の気持ちです」と手渡ししてホッと。 
  
 対洲鍋に満足の松本さん 
  
 しかし、それからが大変。こちらはチェーンを巻いたので車体は安定したが、前方を走っている車でチェーンを着けてない車が沢山。道のあちこちに動けなくなった車が目に付く。土地勘もなくただナビの指示に従っているが、後で山田さんにお聞きすると、福岡で一番の難所の冷水峠を越えたらしい。カーナビは閉鎖情報を察知出来ず、高速道のICに誘導しよう誘導しようと、それにそった200号線を走らせたようである。 
 またまた山田さんから電話があり、もう稚加榮で待つのはあきらめホテルの方に向かうとのこと。申し訳ないがどうしようもない。200号線から国道3号線に入り、少しは走りやすくなったが、依然のろのろ運転が続き、ようやく箱崎の福岡リーセントホテルに着いたのは9時。 
 タッチの差で山田さんがこられ、お互いに労をねぎらい、さあこの時間から食事の出来るところはどこかと思案。結果山田さんのお知り合いの紹介で、箱崎駅前の鮮魚料理・対洲(たいしゅう)へ電話して11時過ぎまでOKを確認し、タクシーを呼んでもらって向かう。 
 さすがにこの天気では、先客は二人しかいない。お陰でこちらはゆっくり出来たが、お酒は繁桝・本醸造だけと寂しいはなし。それでも三人で燗酒を含めて約一升は空けたことになる。料理は鯵の姿造りをはじめリーズナブルで、二人前を注文した「対洲鍋」は三人で食べきれなかった。松本さん曰く「稚加榮の値段は半分で、倍の量やったな」。 
タイヤチェーンが切れる 
  
 明くる日、目が覚めたのが8時。飲み過ぎたこともあるが、やはり疲れていたのだろう。部屋のカーテンを開けてビックリ。外は金沢かと見間違う雪景色で、雪は降り続いている。開館までに帰れる可能性がないことを悟る。 
 朝食後、昨日からタイヤチェーンを着けたままのカローラで9時に出発するが、3号線をノロノロ。正午になっても宗像市から抜け出せず、あきらめてガソリンスタンドに車を預けて斜め向かいのロイヤルホストで昼食。我々が初めての客みたい。ガラーンとした店内から国道を見るが、いっこうに道路事情は改善されない。 
 ランチを食べ終わり車に戻り走り出すが、歩いた方が早いと思えるスピードでしか走れない。小倉で山田さんを降ろしたのが午後3時、北九州市をトロトロ走り、門司が見えたきたのが5時と、8時間かかっても九州から脱出出来ず。みゅーじあむに電話を入れ、今日中に高槻に帰れそうにない旨を石井さんに伝える傍ら、常連さんに救援依頼のメールを松本さんに送ってもらう。 
 どうにか関門橋に乗って本州に入り、中国道を走るが時速は50q規制。美弥ICでは全車料金所の方に誘導され、冬用タイヤ着装かのチェックを受け、パスした車だけが本線に復帰。しかし、萬の悪いことに左のチェーンがガタガタと音を立てだした。 
 雪の積もった路肩に止めて見るとチェーンをつなぐチェーンが一カ所切れている。色々工夫をしてみるがうまくいかない。やむなくそのまま次の小郡ICまで行って料金所でぶらぶらしているチェーンを切るための道具がないか聞きに行くが当てがはずれた。そこでの情報では山陽道の徳山あたりから、冬タイヤ規制は解除されているらしかった。 
 本線に戻ったがスピードは2~30qしか出せないで走ったが、山口JCから山陽道に入って、思い切って左のチェーンを外すことにする。外すのはいとも簡単。右側のチェーンが切れないことを祈る思いで走行。5~60qは出せるが、解除される徳山まではまだまだ。ナビは高槻着を午前3時半と予測する。 
  
延々17時間の復路の旅 
  
 ようやく50q規制から80qに代わったので、ついに右も外した。ついにとは、もし途中で冬用タイヤ着装規制になったら装着出来る自信がなかったからである。外気温マイナス8度をさしている。BGM用に沢山のジャズCDを持ち込んでいたが、おとなしすぎるので、今流行の「女子十二楽坊」にチェンジしてもらう。 
 岩国を過ぎ広島に近づくとまたも「ユキ注意」「冬用タイヤ着装」の表示。もうあかんか?と半分あきらめなかがら小雪がちらつきだした山陽道を走り続けるが、スピードは80qにダウン。 
 ようやく岡山に入り、もうここからは大丈夫だろうと勝手に判断して、スピードを上げる。ナビの到着予測が次第に戻り始める。中国道と合流する三木JCあたりにくると2時すぎまで戻っていた。 
 高速を維持して名神・茨木ICを降りた時刻は午前1時半前。松本さんの自宅にたどり着いたのは午前1時40分。このままでは眠れそうにないので、この時間でも開いている「いざかや・たまも」に徒歩で行くと、臨時休業。なんだ!と思ったが、ラーメン屋に入るわけには行かず、一度行ったことのある「サマサマ」というバリ・テーストの居酒屋にいった。ところがカウンターが揺れている。長の車中になれた体はガタガタ。それでも大阪の秋鹿三昧としゃれ込んで、堪能した我々が別れたのは、なんと午前4時になろうとしていた。 

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Zakkaya Weekly No.403

雑貨屋 店主 大西良衛  but_up.gif (232 バイト) zakkaya@news.email.ne.jp