Zakkaya Weekly No.165

Ryo Onishi       7/11/99  バックナンバー ホームページ

雑貨屋のひとり言

  7月に入ってからここロスも暑くなって夏らしくなってきましたね。前のプールでは一日中、子供達のにぎやかな声が聞こえてきます。

 夏になると思い出すのが、夏山登山です。初めてあこがれの剣岳に行ったときのことです。超満員の夜行列車に乗って、通路に寝たこと(でもほとんど眠れなかった)、思いリュックを担ぎあえぎながら歩いたこと、すごい雨が降ってきてテントが流されそうになったこと、カミナリが鳴って、テントに落ちないかとひやひやしながら寝たこと、夏なのに雪が残っていてその雪に粉末ジュースをかけて食べたこと、などなどたくさんの思い出があります。なんでこんなしんどい思いをして登るのかといつも考えていましたが、頂上についてすばらしい景色を観ると「うーん、やっぱり来て良かった」と思ったものでした。重い荷物はもう担ぎたくありませんが、また山に登ってみたいなあと思います。(R.O.)

こ と わ ざ の 逃 げ 道

 世の中には諺(ことわざ)、格言の類が大好きな人がいます。何かと言うとすぐ諺や格言を持ち出し、さも自分は知識と教養の高い文化人だと言わんばかりに自慢し、一人で悦に入っていたりします。

「女なんてね、移り気ですぐ考えが変るもんさ。『女心と秋の空』と言うじゃあないか」

ところがもう一つ『男心と秋の空』というのもちゃんと用意されているんですよね。

また、「君ね、何かする時はひとつの事に集中しなければ駄目なんだよ。『 虻(あぶ)蜂とらず』 とか『二兎を追うものは一兎をも得ず』という諺を君は知らないのかね」 なんておっしゃいますが、他方、『下手な鉄砲も数撃ちゃああたる』というのもある訳です。

私達の暮らす社会はそれ程単純ではないので、ひとつの事も見方を変えれば反対になる事が多く、諺・格言も正反対のものがちゃんと用意されていて逃げ道を作っているのでしょう。

森羅万象あらゆる事は一方的な側面だけのものはありません。

それこそ『泥棒にも三分の理あり』ではないでしょうか。(他方、『真理は一つ』なんて格言はなかったっけ?)やはりどんな物事でも柔軟な対処をすべきで、狭い自分の枠にだけ固執すると視野までが狭くなり本来の姿を見失う事にもなりかねません。

実は私も諺・格言は好きで何かと言うとすぐ格好付けて使いたがるほうです。と言うことは、私も本当はありもしない「知識と教養の高さ」を自慢したがる所謂 「固執型自称文化人」だと言う事になり、あらためて我と我が身の至らなさに気付いている次第です。

諺・格言とは“一側面の真理”を述べているだけで、別の側面も意識しないと本当の真理を見落とす事があるのだと理解しながら今後は使おうと反省しているところです。

いま思い付くまま、相対する諺・格言を列挙してみるとこんなのがあります。(多少無理なこじつけもありますが・・)

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★立つ鳥、後を濁さず ⇔ 旅の恥はかき捨て。

★渡る世間に鬼はいない ⇔ 他人を見たら泥棒と思え。

★君子危うきに近寄らず ⇔ 虎穴に入らずんば虎児を得ず。

★終わり良ければすべて良し ⇔ はじめが肝心。

★嘘(うそ)も方便 ⇔ 嘘つきは泥棒の始まり。

★出る杭は打たれる ⇔ 出ない杭は腐る。

★思い立ったが吉日 ⇔ 急(せ)いては事を仕損じる/ 待てば海路の日和あり / 慌てる乞食は貰いが少ない。

★早起きは三文の得 ⇔ 果報は寝て待て。

★貧乏暇なし ⇔ 稼ぐに追いつく貧乏なし。

★下手の横好き ⇔ 好きこそものの上手。

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「諺・格言には裏あり」 ―― これは私が今、思い付きで作ったものです。―― 尤も、この諺・格言自体にも またその“裏の逃げ道”があることになるのでしょう。

(注)@、諺(ことわざ):生活の中から生まれ、むかしからつたわっている、なるほどと思わせるみじかいことば。【国語辞典、第二版、三省堂】

A、格言(かくげん):深い経験を踏まえ、簡潔に表現したいましめの言葉。金言。【広辞苑、第二版、岩波書店】

  河合 将介 ( skawai@wakao.com

さくらの独り言     「こっちだよ」

 ある人はまだまだ大丈夫と余裕をもって、ある人はシャルウィ・ダンスと言わんばかりに足踏みをならし、そしてまたある人はガマ油顔負けの油汗を苦笑いでごまかしながら、次のドアが空くのを待っている。空いたドアから出てくる人は、なんともすがすがしい顔で通り過ぎていく。某空港女性トイレの一風景、どこにでもある光景である。

 「こっちだよ。」「こっちに空いているよ。」長い列に向かって誰かが言った。列からの死角には空いたドアが並んでいた。列の後方に近い位置だった。「こっちだよ。」「こっちだよ。」と後方から前方へ、それは伝言ゲームの様に伝えられ、最前列から順に数名が移動した。「こっちだよ。」の声は、タイル張りの女性トイレの中でエコーがかかり乱れたが、列は乱れず順番は正しく守られた。当然の事なのに何だか嬉しい思いで心が満たされた。

 「私、並んでいるのですが。」日本へ帰国する度に何度口にするだろう。駅のホームで、ラーメン屋の入口で、ホテルのフロントデスクで、空港のカウンターで、売店のレジで、そしてトイレで。日本では「こっちだよ。」がエコーする前に決まって列が乱れてしまう。こんな時、怒りよりも悲しくなってしまうのは私だけだろうか。

 日本行きの飛行機を待つ空港でこれを書いている。日本へ行く度に心のどこかに悲しみに似た不安を感じる自分がいる。日本を離れて生活する自分の習慣と、しかし心は益々日本人になる自分とのギャップに悩まされる。そして今、搭乗を前に思う。「私並んでいるんですけど。」という代わりに「お先にどうぞ(こっちだよ。)」と言える自分になれるかなと、、、、、さくらの独り言

マキちゃんの健康のお話 

 「国語のお勉強、のお話し」  

今回は皆さんも普段何気なく使っている言葉の原点のお話しをしたいと思います。

突然ですが、『楽しい』っという言葉、良く使いますよねぇ。この『タノシイ』という言葉は、子供が母の胎内で手をかがめていて、生まれてくるとその手を伸ばす、すなわち、『手押し』→『てのし』→『たのし』となったのだそう。

縮まっているものを伸ばす、つまり生命の伸長、これが『楽しい』の語源なんだそうです。

それでは、『取るに足らない。』等に使う、『たる』は何故、『手る』じゃなくて『足る』と書くんでしょう?『手』のほうが実感ありますよねぇ。 それはどうしてなのかー?

人間は寝ても覚めても大気の圧力、地球の引力、重力の圧力なんかを受けていますねぇ。

しかしこんなのいつもの事で、余り感じていないのが普通です。

っが、立ったまま寝ると倒れてしまうのが、何よりもその証拠ですよね。そぅ、すなわち、横になれば体が楽になる。 っという事はー、四つん這いの動物が、地上での一番合理的な体勢。

しかし、私達人間は立ち上がって前足を手にしたことから発達した動物。 そうすることによって頭脳が発達したので、四つん這いで歩くとその間は頭が空っぽになります。

神経衰弱や胃下垂になっている人などは、これをすると治っちゃうそうです。

お医者の中には、患者の体力に適応した時間這わせる運動をさせるところもあるんですってー。

四つん這いになって動いていると、確かに物を考えようとしなくなります。 非常にお腹もすく。 実に良い運動です。

っで、禅寺なんかでは、盛んに雲水や小僧に床の拭き掃除をさせているんですってー。

これをしていると、どんなに悩んでいる時でも物を考えずにすみます。

頭を空っぽにして四つん這いになって働くので、胃腸も重圧がかかることがなく、健康にも良いっ、ウン。

ところがー、立っている時は、脊椎という、骨のブロックが積み重なったひょろ長い頼りない柱を、平べったい骨盤で受けて、その下に2本の棒を立てて倒れないようにしているという状態なので、どう考えても非常に不安定だし、だいいち不自然です。

これだから、曲がっちゃったり、脱臼したり、痛くなったり、いろいろな障害を起こす訳なのです。

しかも腰、脊椎は非常に重要です。

ここから神経、血管、リンパ腺などが全身にのびているのですから、いつも正常でいなければいけません。

昔から良く言うところの『肝腎(心)要』(かんじんかなめ)は、単に肝臓と腎臓(心臓)で例えて、一番大切なものという表現をしただけではなく、『要』に月(にくつ゛き)を付けると『腰』となり、人間の健康にとって肝臓も腎臓(心臓)も重要だが、その締めくくりとなるもの、カギとなるものこそが『腰』である。っという秘めたメッセージがあるのだそう。

昔の人が『腰抜け』といったのは名言で、イザっていう時に頭が痛くなったりとか、胃腸の調子が悪いとかは腰に異常があるのが大体の原因。

実際にビックリして『腰』が抜けちゃうって事、耳にしますよね。

そしてさらに可哀相なのは『足』で、『足』は心臓から出た血液が先まで降りてくる事は出来るけど、今度はそれを順調に上に上げていく為にあらゆる努力を払っているんですねぇ。

足の機能が完全であれば、まず健康なんですってー。

病気なんかすると、まず『足』が駄目になります。フラフラになっちゃう。

足腰が定まらないという事が、精神的にも、肉体的にも一番良くないですよね。

「冷え性」の方は、スネに内臓された、血液を引っ張り上げているベンの動きが悪い為、一旦足元まで降りた血液を肝臓や心臓になかなか引っ張り上げる事が出来なく、循環が悪くなって『足』が冷えるのですねぇ。

こういった方は何かに捕まって屈伸運動を何回もしてあげたり、以前掲載した『歩く』ことを積極的に行えば少しは循環が良くなり、冷えも一応治まります。

以上でお分かりのとおり、『足』をできるだけ丈夫にしてあげる事が健康の必須条件のひとつです。

だから『たる』は『足る』なんですね。

あとは『腰』(骨盤)の歪みを正さないとそこから伸びる背骨が狂い、神経器官が圧迫されて、内臓や頭の具合まで悪くしちゃいます。

これも、健康には『肝腎要』な事です。

俗にいう『手当て』という語源は、人間が本来持っている潜在能力のひとつとして、『手のひら』から出されるエネルギーで患部を治癒させていく事が出来るところから来ているそうで、その証拠に皆さんも怪我をした時、本能的にまず手を当てるでしょう、それです。

こうやって考えると普段何気なく子供の頃から使っている言葉でも、大人になってもその言葉の本当の意味を知らずにいるものが、まだまだ沢山あるんですね

今回の事で思い出しましたが、僕は子供の頃から“四文字熟語”が大の苦手で、聞かれても“焼肉定食”くらいしか答えられません。(..これは四文字熟語ではない?)

子供の頃は、当時起きた“ロッキード汚職事件”なんかも“ロッキードのお食事券”だと思っていたし..。

以上、未だ頭の中があの頃から成長しない蒔田からでした..トホホ..。

一口コラム:「逆転発想もまた楽し」 (その30)

前例がない、だからやる

 何事によらず、今までと同じ事、または既に誰かが実行してうまくいっている事を繰り返すのは比較的楽ですが、それでは大きな発展は不可能です。

 それまでの常識とか殻とかを打ち破って何か新しい独創性を発揮して始めて飛躍があるのですが、言うは易けれど行うは難しが私達の現実です。

 先日、新聞を眺めていたら、日本の新宿のあるレストランで寿司のネタに“ミニてんぷら”を乗せた“にぎり天”を考え出し、若い層に大受けだとでていました。

 寿司のネタは魚や卵焼きなどという慣例・常識にみごと逆らっています。

 そう言えば“カリフォルニア・ロール”なんて寿司はアメリカで流行って今では日本でも定着しつつあるとか、こう言うのも一種の逆転発想と言えるのではないでしょうか。

 “スーパー・ドライ”で大ヒットを飛ばし、日本のビール業界の地図を塗り替えたアサヒビール会長(現相談役)樋口廣太郎氏の著書に「前例がない、だからやる」と言うのがありますが、大きな事を成し遂げる人は発想自体が普通とは違うものなのですね。

――― 羅府の庄助さん ―――

編集後記

雑貨屋の編集(編集といっても記事を張りつけているだけですので簡単ですが)をするたびに、みなさんよくこれだけ記事が書けるなあと感心しています。読者のみなさんも遠慮せずに投稿してみてください。

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Zakkaya Weekly No.165

雑貨屋 店主 大西良衛 ronishi@earthlink.net